
vol.22
音の梯子
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あ
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あ
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あ
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あ
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あ
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街道沿いの敷地に平屋建ての古びた校舎があ
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って、ときどき笑い声とともに、グリークラ
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ブ風の合唱歌やゴスペルが聞こえるのだが、
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その夕方は明かりの見える教室から、
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あ
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あ
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あ
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あ
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あ
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一人だけの男声が、ピアノの音とともに一定
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の間をおいて聞こえてくる。ドミソミド。三
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音だけで上がっていかない単調な音階練習。
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しかしよく鍛えられて正確な深深とした足取
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りで、
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あ
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あ
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あ
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あ
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あ
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見ると、がらんとした教室の窓際でピアノの
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キーを押さえて、発声している人がいる。か
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らだ全体が影になって顔は見えないが、背中
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を伸ばしていかにも熱心だ。
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ああ
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ああ
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窓辺に近づくと、だれもいないと思った教室
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の真ん中にもう一人、別の男が立っている。
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ひょろ長く少し傾いている。白いジャージの
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上下を着て短い髪は黄色く、右手を胸にあて
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ている。口が開いているが表情は見えない。
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ああ
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ああ
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ああ
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神妙に誓いを立てるようなしぐさだが、左手
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は腹の辺りを押さえて、痛みをこらえている
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のかもしれない。耳を澄ますと、今まで聞こ
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えていた声とはちがう、奇妙なうめきが漏れ
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ている。
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ああ
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ああ
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ああ
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ピアノの音にすがりながら、ドからミへ、ミ
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からソへ、音階をよじのぼるが、ほとんど声
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が出ず苦しげに途切れてしまう。声帯はちぢ
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んで胸郭は膨らまない。腹は固くしこって真
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っ直ぐ立つこともできない。
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あ
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あ
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あ
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あ
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あ
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入れ替わりにピアノの人の朗々とした声が続
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く。根気強く一音も揺るがず、飽くことのな
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い非情な導き手のように。言葉も旋律もない
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ふたりの声が、いつまでも交互に繰り返され
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る。
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ああ
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ああ
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ああ
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彼はなぜここで音階練習をするはめになった
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のだろう。まるでさっきまで沈黙の幸福にい
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た者が、無理に連れてこられたかのようだ。
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その声は、真っ暗な空間を足先で探って、お
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ぼつかなく降りてくる。ソからミへ。ミから
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ドへ。
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ああ
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ああ
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日が落ちて、窓いっぱいのブラインドが、教
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室の光景を何本ものくっきりした細い横縞に
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分けている。立っている人のからだが、シュ
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レッダーにかけられた紙人形のようだ。ちり
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ぢりになる寸前で止まったまま、薄くなって
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ゆがんでいるのに、
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ああ
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ああ
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ああ
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彼はただ当惑している。声だけが、悲嘆を湛
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えてかすかにわたしへと伝わる。震えながら、
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再びよろよろと音の梯子を昇っていく。降り
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ることもならず、中空にぶらさがって揺れて
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いる。
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ああ
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ああ |
紙版"rain tree"no.22 2002.2.2より
<詩>「植物地誌」フユイチゴ・ユズ・ダイズ(関富士子)へ

vol.22