
vol.22
「植物地誌」
フユイチゴ
ユズ
ダイズ
植物地誌 続
フユイチゴ
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沢沿いの道の途中が昨夜の雨で崩れていて、
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小さな流れになっているのを飛び越えると、
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すぐに急な登り坂になる。沢の水があふれる
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と道も川になるから、表土は流されて岩肌が
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現れ、岩を覆うように松や杉の太い木の根が
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巡っている。下草はすっかり枯れていてフユ
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イチゴの緑の葉は見当たらない。
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暖地の樹下
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に生える。常緑のバラ科。夏から秋に葉腋ま
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たは茎頂に開花し、5〜10個の花が集まって
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つく。根元から地をはう長い茎を出して末端
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に苗をつくる。名は実が冬熟すのでいう。森
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の冬枯れの地面に濃い緑の葉を茂らせる。茎
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には短毛を密生し、ときにまばらに短刺が出
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る。
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円い4〜10cmの葉の下に、小さな粒々の
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集まった、10mmどの集合果が隠れているは
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ずだ。真っ赤に熟し、つまむと指のあいだで
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崩れるのを急いで口に入れるのだ。甘味があ
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る。根に足をとられないように、はいつくば
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って登っていくと、不意に背後からにぎやか
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な声が聞こえてくる。
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山道を登っているの
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に、息も切らさずさざめいている。ぺちゃく
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ちゃと人のおしゃべりのようだが、意味は聞
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き取れない。鳥の声のようでもある。立ち止
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まってようやく下を見ると、三人連れの娘た
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ちがすぐ後ろに迫っている。人ひとり立つの
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がやっとの道をどうやって譲ろうかと思案す
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る間もなく、娘たちはたちまち追いつき、い
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かにも身軽に、背後をふわりと通り過ぎてい
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く。
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二人めが通るあいだもすぐそばでおしゃ
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べりは続いているが、何を話しているのか言
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葉がわからない。木々がさざめくような気配
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がするばかりだ。木の根にすがって娘たちの
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軽そうな赤い布靴を見ている。三人めが通り
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過ぎてからようやく仰向いて、「どこへ?」
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と声をかけると、
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「フユイチゴを採りに」
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と一人が答える。その声に響くように、二人
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めが、
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「フユイチゴを採りに」
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「フユイチゴを採りに」
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と三人めが振り向きもせず答えると、きつい
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勾配を、ふわり、ふわりと浮きあがるように
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登っていって、姿は見えなくなる。
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gui no.65より(2002.4掲載)
<詩>「植物地誌」ユズ(関富士子)
<詩>音の梯子(関富士子)
ユ ズ
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革を粗く縫った灰色の手袋を渡される。は
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めるとごわついてぶかぶかである。「こうで
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すよ」と言いながら、2メートルほどの棒を
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掲げ、先端のオレンジ色の鳥の嘴のような部
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分を、パチパチと動かして見せている。金属
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の鋏が付いているのだ。棒の下の先には同じ
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色の取っ手が付いていて、握ったり緩めたり
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すると、鳥の嘴が上下に動く仕組みだ。だれ
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かが感心すると男は嬉しそうに幾度もやって
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見せる。
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男の大きな丸い顔が午後の光に照ら
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されている。つやのいい顔いちめんに古い吹
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き出物の痕があって、笑うと顔じゅうがでこ
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ぼこにふくれあがる。そばにいる妻の顔は、
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作業用の帽子に隠れて見えない。ユズの皮を
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煮詰めたマーマレードやゼリー、ジャム、大
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根に刻みこんだ漬物などを人に薦めながら、
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「十個だけね」と念を押す。
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高枝鋏を受け取
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り、ロープを巡らせた通路に沿って家の裏に
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回ると、南向きの斜面はユズの林で、明るい
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黄色の実が輝いている。葉は長さ3〜7cmで、
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葉柄に広翼がある。腺点が散在して香気があ
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る。常緑で実は熟しても裂果しない。叢にい
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くつも転がっている。採ったもののまだ小さ
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いので捨てていったらしい。木は高さ3メー
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トル。日当たりの良い実は大きく、内側のも
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のは小ぶりである。
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目指す実を決めて、高枝
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鋏を操り枝の中に挿し入れると、太い緑の棘
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が革手袋を刺す。長さ3cm。かまわずぐいと
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刃を押しこみ、取っ手を握るとどしんと落ち
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て斜面をごろごろと転がっていく。落ちた実
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は思ったより小さい。拾わずにさらに大きそ
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うな実を探す。地面に当たってまた転がる。
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どうもなんだか小さくて物足りない。仰向い
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たまま次々に落としていくうち、何個だった
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か分からなくなる。
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gui no.65 2002.Spring 掲載
<詩>「植物地誌」ダイズ(関富士子)
<詩>フユイチゴ
ダイズ
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畑に通じる土間の上がりかまちに、無造作
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に置かれた3本の枝。剥き出しの根が付いた
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まま緩く束ねてある。長さ50cm。引き抜い
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てすぐ水場で洗ったらしく、土をつかんでい
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た短いひげ根が、固くねじくれて乾き始めて
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いる。
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朝寝坊をして屋敷の中は静かだ。北向
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きの窓の明かりが、台所の隅々まで柔らかく
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広がっている。パジャマのままたたきに降り
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て、枝の束を持ち上げるとずっしり重い。先
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端に丸い葉が茂ってやや蔓状に揺れる。小葉
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は3枚。下のほうの葉は手でむしったらしい。
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実は莢状。葉柄の付け根ごとに5cmほどの莢
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が3〜5個ずつ下がり、ほどよく膨らんでい
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る。
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パジャマの袖をまくって束をほぐしてか
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ら、根っこを逆さに持つ。バケツに漬けてざ
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ぶざぶと濯ぐ。全体に褐色の長毛が密生する
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が、洗うと取れて水の表面に浮かんでくる。
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手の甲に触れるとちくちくする。腕までむず
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がゆいのを我慢して、冷たい水で洗い流す。
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テーブルに新聞紙を広げ、莢をつまんで鋏
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でパチンパチンと切り落とす。全部摘んで笊
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に山盛りになったら、粗塩を揉み込むように
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まぶしておく。莢に豆は2個か3個入ってい
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る。稀に4個。
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時間を見計らってたっぷりの
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塩水で茹で上げたころ、裏口の扉を開けて入
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ってくる者がいる。腕いっぱいに新しい枝束
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を抱えている。受け取ろうと両手を差し出す
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と、パジャマから出た腕が植物の毛に刺され
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て赤らんでいる。
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戸口に立つ者は、抱えてい
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た枝をばらばら床に落とす。両腕を広げてそ
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のままきつく腰を抱いてくる。蒸れた泥の甘
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い匂いをかぶる。毛にまみれた手で胸や腿を
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こするので、からだじゅうがちくちくと痛が
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ゆい。
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床に散らばった枝のうち、充分実った
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ものは茹でずに、枝ごと日陰で乾燥させてか
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ら叩いて莢を剥く。莢を摘んだ枝や莢殻は、
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屋敷の裏の乾いた軒下に集めておく。根こそ
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ぎ抜き取り、夏じゅう、豆を食べたり干した
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りするごとに新しい枝が積み上げられる。冬
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には枝も根も莢もすっかり乾いて軽い。火に
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くべると勢いよく燃えて、開けそこねた莢が
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竈のなかでぱちぱち爆ぜている。
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gui 64 2001.11
*語彙、文体の一部は、日本百科大辞典別冊原色植物図鑑から引用がある。
<詩>田村奈津子詩集『人体望遠鏡』へ
<詩>「植物地誌」ユズ(関富士子)
<詩>音の梯子(関富士子)