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vol.23

<雨の木の下で>


時事詩をどう書く?  2002.6.5 関富士子

毎日いろいろな詩誌を送っていただいている。市販されていない小部数の同人詩誌や個人詩誌がこうして手に入るのはありがたいことだ。生身の詩人たちの、リアルタイムのなま詩が読めて、商業詩誌を読むよりよほどおもしろい。

2001年9月11日以降、多かれ少なかれ、ニューヨークWTCビルのテロやアフガン攻撃について触れていない詩誌はほとんどない。この出来事がいかに多くの人々の心を揺さぶったかがわかる。たまたま表現手段として詩誌などを持っている詩人たちだから、このようにエッセイや詩作品として表に現れてきているのだが、関心のあり方は詩を書かない人々だとて同じことだろう。被害に心を痛め、テロに怒り、一般人に対して報復するアメリカに憤り、日本の政治に不信を募らせる人々の平均的な姿が現れているのかもしれない。

でも、エッセイはともかく、詩人は、なぜそれを詩作品として書くのだろう。詩人だからさ、詩人は詩で表現しなくちゃ、と言われればそうなのだろうが、ちょっとわたしにはためらいがある。社会的事件に関して自分の考えや意見を表明するには、普通のコラムやエッセイなどの文章で書いたほうがはるかに誤解が少なく、正確に読者に伝わりやすいはずだ。

わたし自身はめったに時事詩を書かないのだが、先日沖縄に旅行したことで触発されて、まったく勢いだけで、「沖縄観光旅行」という詩を書いてしまった。沖縄返還30周年には関係ないのだが、これもやはり時事詩の一種だろう。詩表現を行おうとする者として、社会で起きた事件をモチーフにして詩を書くとき、いったいどのような表現が可能なのか、わたしもたまにはまじめに考えなくちゃなるまい。

と言っても、それではどう書いたらいいのか、わたしも見当がつかない。むしろ時事はテーマにもモチーフにもなり得ないのかもしれないと投げ出したくなる。これは時事詩を扱うときによくいわれることだが、悲惨な出来事であればるほど、当事者でない者が、他人の苦しみを創作のモチーフにできるのか、傍観者の傲慢、欺瞞に陥ることなく、詩表現ができるのか、がやはり問われてくる。そんなおおげさなことでなくても、その出来事が自分にとってどれほど切実なものかを考えると、どうもわたし自身が疑わしいのだ。

また、たとえそれが自分にとって本当に切実な問題だとしても、言葉で何事かを広く訴えるという目的をもったときに、詩はほんとうに詩として成り立つのだろうか、ただのスローガンだったり、プロパガンダになってしまわないだろうか。それはただその詩がへたなだけさ、ともいえるかもしれない。いい詩は、どんなテーマでもきちんと言わんとするところを読者に訴えかけてくるのだろう。

読者としてのわたしが、ぎりぎり受け入れることのできる範囲はどのあたりだろう。詩は創作だが、表現手段としては作者の個人的立ち位置に近いところでなされる。事件と詩の作者の内実をじゅうぶん擦り合わせ、書き手がどんな位置にいるのかをを考えながら書かれた詩が読みたい。出来事に関して自分がほんとうに血を流した部分があるのなら、それを直視するべきだろう。そして、擦り合わせた部分がかすり傷程度ならそれなりに、自分のスタンスが明確に認識されていること。そんな詩が、わたしとしては受け入れやすいように思われる。

 
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