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vol.23
<詩を読む>
 

白石かずこ講演会「世界のことば・詩」をきく
〈大国主義〉という名の妖怪
――小国に生きるひとびと
構成 中上哲夫
『詩人会議』2002.5月号より転載  
 世紀も新しくなったというのに、依然として世界を妖怪が歩きまわっているようだ。〈大国主義〉という名の妖怪が。
   *    *
 小春日和の二月七日、鎌倉のあるビルの一室で白石さんの話に耳を傾けながら、そんなことを考えた。
 この日の白石さんの話は、エストニアの詩人ヤーン・カプリンスキーから始まった。
 エストニアはフィンランド湾とバルト海に面したいわゆるバルト三国のいちばん北の国で、面積は4万5千平方キロメートル、人口一五〇万人(一九九四年)。九州ほどの国土に大阪市ほどの人々が住んでいるわけだ。デンマーク、スウェーデン、ロシア、ドイツなどの侵略と支配を受け、一九九一年にソ連邦の崩壊によって独立したという苦難の歴史を持った国だ。
 ひじょうに物静かで無口な人で、ほとんどしゃべらなかった。――一九八八年一月、カナダのカルガリーのオリンピック作家週間で初めて詩人に会ったときの印象を白石さんはこう語った。同時に、その沈黙の中に深い理由があることを直感した、と。
 
    

東西の国境はいつもさまよっている


  東西の国境はいつもさまよっている
  東にいったり 西にいったり
  今はどこかはっきり分からない
  ガウガメラか ウラル山中か 自分のなかなのか
  だから耳、目、鼻孔、手、足、肺、睾丸
  あるいは卵巣の片方はこっち、もう一つはあっちだ
  心臓だけ、心臓だけはいつも片方にある
  西側にいて、北の方を眺めていると、
  東側にいて、南の方を眺めていると、
  口をひらくにも、肩入れするにも困惑するのだ
  どっちにするか、あるいは両方か
     (『カプリンスキー詩集』経田佑介訳レアリテの会発行2000円)

 大国に翻弄されてきた小国の歴史と同時に、ポーランドとエストニアの間をさまようカプリンスキーのアイデンティティのゆらぎを感じさせる詩だ。大学でポーランド語と文学を教えていた父親は、一九四一年、ソビィエトの秘密警察に捕らえられ、強制収容所へ消えたのだった(母親はエストニア人)。「もし今も父が生きていたなら、たぶんわたしはポーランドか西側の国へ移っていて、エストニア人にはならなかったと思います」(白石かずこ訳"記憶と反射゛)、と。また、「言語は祖先の遺産です。……柳を吹きぬける風、茂みの小鳥、丘を下るせせらぎ、私たちの血管を流れる血液はエストニアでも日本でも同じ言葉を話すのです」(経田佑介訳「親愛なる日本の読者へ」)、と。
 カプリンスキーの詩は物静かな人柄にふさわしく言葉少なで、単純な姿をしているが、国境を越えて同時代に生きる者たちに強く訴える力強さを持っている。小国に生きる人間ならではの。

    

洗濯はおわりやしない


  洗濯はおわりやしない
  だんろも熱くなりはしない
  書物はぜんぜん読まれない
  人生は けして完了しない
  人生は 地面に落ちぬよういつまでも
  打っては受けとめつづけるボールのようだ
  垣根のこっちのはしを直すと
  あっちのはしがこわれる
  台所のドアもしまらない
  屋根は雨もり
  土台はひび割れ
  こどものズボンのひざが鍵裂きだ
  なにもかも心にしまってはおけない
  こんなことを忘れて
  春を見られるのは不思議というほかない
  なにもかもあらゆる方向にひろがってゆく
  見わたすかぎり 夕暮れどきの
  夕べの雲に ワキアカツグミの羽に
  牧場のどの草にもやどるすべての露に
         (経田佑介訳)

 白石さんはカプリンスキーの「素朴さで始まり知恵に終わる」(サム・ハミル)詩をつぎつぎと読んだ。しかし、いまは先に進まねばならない。
 ユーゴの状況は、民族のみならず、宗教や文化・習慣も複雑にからみ合って、わたしたち日本人にはきわめてわかりにくい。
 「ユーゴスラビア社会主義連邦共和国」(旧ユーゴ)の六共和国のうちセルビアとモンテネグロは九二年に新ユーゴを結成、スロベニアとクロアチアは八九年と九一年にそれぞれ独立したけれども、残る二共和国の運命が平坦ではないのだ。
 マケドニア共和国は九一年に独立宣言を行ない、国連にも加盟した。ボスニア・ヘルツェゴビア共和国も独立宣言をし、ECも承認したけれども、セルビア、クロアチアの両共和国が自民族保護の名目で進攻し、内戦となった。そこへ米軍を主体とするNATO軍が割って入った。空爆は一度は中止されたのだが。
 日本の詩人山崎佳代子は、大使館からの度重なる退去勧告を無視して、NATO軍が空爆を再開したベオグラードに家族とともに住みつづけ、恐怖のなかで詩を書いた(現在もベオグラードに在住。)

    

階段、ふたりの天使――ステファンとダヤナへ


  生まれたその日から
  小さな手をひろげ
  愛のかけらをささげるために
  私たちはやってきた

  おもいきり泣いて
  そっとほほえんで
  命と命がささえあい
  階段をのぼりつづける
  
  水と空気を
  奪われ
  光を消されても
  手をつなぎ
 
  命は命に
  耳を澄まし
  声もたてず
  階段をのぼりつづける

  天使が空に
  かえった朝も
  小さな足あとが
  ただ闇にかがやき
 
  だから
  私たちは
  のぼりつづける
  天使が去った階段を
    (山崎佳代子詩集『薔薇、見知らぬ国』2001年書肆山田刊)
 詩人と同じ集合住宅の四階に住んでいたビリヤナさんの子どものステファンは小学生、ダヤナは幼稚園児。ベオグラードは空襲が激しいからと郊外の村に疎開して被爆したのだ。「こどもたちは即死。トマホークでやられると、遺体歯まったく黒焦げで形も残らないと聞く。病院に運ばれたご主人は、七日後に亡くなった。重傷をおったビリヤナさんだけが、生き残った」(山崎佳代子「ベオグラード日誌1――あどけない帰郷」(書肆山田「るしおる」45(エキスパンドブック版で読めます。関注)山崎佳代子の文章を読み上げる白石さんの声は、やり場のない怒りにふるえて、悲痛そのものだ。
 白石さんの話は、ユーゴからソマリアへ飛ぶ。イスラム原理派の基地があるというので俄然注目されているアフリカ東端の国ソマリアは、小国の例にもれず、古くからオマーンのスルタン、エチオピア、イギリスなどの侵略・支配を受けたのち、一九六〇年に独立した。しかし、その後も政情不安で、いっこうに安定しない。白石さんは、一九八〇年にカリフォルニアのリバーサイドで亡命ソマリア人に出会った。そのかれがある日、交通事故で大怪我を負った。「顔が割れる まっぷたつに/前面と後頭部の間を幾十貼りも縫う」(白石かずこ「顔が割れる」詩集『太陽をすするものたち』)。正面からくるトラックをなぜよけなかったのかと法廷で問われ、「太陽がまぶしかったのです」とかれは答えたという。故国では象の大群に襲われたときは逃げたりせずに祈るのだ、と。この話をだれも笑うことはできない、と白石さんはいう。昨年九月一一日のニューヨークの世界貿易センターに飛行機が衝突したとき、自信のない国に育ったひとたちは咄嗟に避難行動がとれなかったではないか。遺伝子の問題なのだ、と。
 白石さんの話の最後の国は、黒海に望むグルジア共和国。
 白石さんの出会ったグルジア人の祖父母はピアノを所有していることで、つまり人民の敵のブルジョアだというので、処刑されたという。ピアノは密告した隣人に与えられた。褒美として。その話をきいて、わたしはいつか見たクシシュトフ・ザヌーシの『育ちゆく日々』というポーランド映画を思い出した。全体主義的な社会では忠義顔して心あるひとびとを苦しめる人間が跋扈するものなのだ。
 数十本のシナリオを書きながら生涯わずか五本の映画しか撮ることができなかった、グルジア出身の映画作家セルゲイ・パラジャーノフ(本人はアルメニア人)。たびたび投獄され、最後は強制収容所で死亡した。「パラジャーノフは、グルジアにずっと住みついて、ここを出ようとしなかった。/グルジアにいながら、パラジャーノフは、現実では得られぬ祝祭を映画の中に夢み、それを、あたかもフェリーニやパゾリーニの、カーニバルの絢爛とした快楽の酩酊を追うごとく、つくっていった」(『白石かずこの映画手帖』)。
   *       *
 世界を見渡すと、いまだに大国が大手をふって闊歩している。さも当然という顔で。
 大国の横暴はむろん厳しく批判していかなければならないが、問題はそうした状況に対して当たり前のことのようにいつの間にか鈍感になっている事実だ。大国は強大な武力を持っているのだから多少目にあまる所があっても仕方ない、と。国際政治の面だけでなく、英米独仏西露の文化や文学をありがたがる、旧態依然とした権威主義がいまなおわたしたちのなかにありはしないか。大国にのみ焦点をあてる〈大国主義〉から小国にも気をあたたかく向ける新しいグローバリズムに転換する時期にきているのではないか。それにはまずわれわれの内なる〈大国主義〉を見つめることから始めるべきであろう。
 心のアンテナが重要だ、と白石さんはいった。それがあれば言葉や国境を越えてわたしたちは心を通じ合わすことができる、と。同じ時代に生きる者として喜びや悲しみを共有することができる、と。
〈付記〉
 たまたまソヴィエトの話が多くなったけれども、それは白石さんの意図する所ではなかったとう思う。したがって、ソヴィエトは固有名詞としてではなく大国のシンボルとして読み取るべきであろう。

中上哲夫のカプリンスキー紹介 ”rain tree"vol.24カプリンスキーとは何者か?


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