緊縛の木
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| それが目のすみを一瞬通り過ぎたとき、
| 何かただならぬもの、
| 異様なものが、
| いる、
| と感じた。
| 何かが声を出さずに叫んでいる?
| 物ではなく生きているもの、
| 人間?
| なぜそう感じたのだろう。
| わたしはちらっと振り返り、ゆっくりと自転
| 車を停めた。全身をがんじがらめに縛られ、
| 春の強風にあおられて、のけぞるように揺れ
| ていた。それは一本の木だった。細く裂けた
| 白いビニルテープが、幹から枝の先まで、ク
| モの巣のようにみっしりと巻きついて、ちぎ
| れた端がいっせいに風の行くほうへなびき、
| 隣のブロック塀の上の有刺鉄線に絡まってい
| る。木は、工場らしい建物の、アクリルトタ
| ンの波打った壁に添うようにして立っていた。
| わたしはひどく嫌なものを見た気がした。だ
| からすぐに目をそむけて再び自転車を走らせ
| た。
| なぜあれはあんなヒドイメに、
| あっているのか?
| いったいいつから叫び続けているのか。
| 何かの罰か。
| この道を通るすべての人へのあてつけ、
| だろうか。
| わたしの行く手には市民農園があるはずで、
| 役所で借りる手続きをしたばかりだ。倉庫群
| に囲まれた路地を曲がると、良いにおいの黒
| 土が広がっていた。苗床に芽が密生している
| 畑もある。わたしは自分の名札のある区画を
| 見つけ、作業に取りかかった。消石灰を撒い
| て、スコップで土を掘り起こす。これから育
| てるだろう野菜のことを考える。その前に畦
| を作り肥料を施さねばならない。小一時間も
| 耕すと気持ちよく汗をかいた。その帰り道に、
| わたしは再びその異様なもののそばを通りか
| かった。その木を見まいとしたが、できなか
| った。
| 高さは三メートルほど。
| ほっそりとした幹。
| 若い女の裸のような。
| 近づいてよく見ると、裸と思った枝のあちこ
| ちに、柔らかく艶やかな木の芽がいっぱいに
| つき、ぎりぎり絡んだビニルテープのわずか
| な隙間から、はみ出すようにして新しい葉が
| 芽吹いている。葉の陰には淡いピンクの花を
| 何輪かつけているのだ。
| 淡紅色の五弁花。
| バラに似た細かいぎざぎざのある葉。
| 棘のある枝。
| 幹の緑がかった褐色の肌。
| この木をわたしは知っている。
| カリン、花梨だった。
| わたしはしかたなく自転車を降り、木に寄り
| 添わせて停めた。
| 足元には南天やつつじの植込があって、ビニ
| ルテープはそれらの枝にも巻きついている。
| 茂って道路にはみ出さないように囲んだもの
| らしい。それがほどけて風に舞い上がり、あ
| たりの枝に絡まっていったのだろう。廃工場
| になってこの植込は放置された。風がテープ
| を細く裂き、時間をかけて木を縛っていった
| のだ。
| 花梨は、
| うす緑のでこぼこした固い楕円の実をつける。
| その実はがんじがらめに縛られながら、
| 若い女の乳房のようにはみ出して、
| 薄い黄色に熟していく。
| この道をこれから何度となく通ることになる。
| そのたびにわたしはこの光景を見なければな
| らない。そんなことには耐えられない。農作
| 業用の軍手をはめ、鋏を持って、幹につかま
| りながら、ぐらぐらする自転車のサドルの上
| に立ち上がった。通りかかる人が見るがかま
| わない。テープはあんがい脆くてぷつぷつと
| ちぎれる。わたしは夢中でテープを切って緊
| 縛をほどいていく。手の届かないところは引
| っ張るより方法がない。咲いたばかりの花や
| 葉や芽が、テープとともにむしられ、仰向い
| たわたしの顔に落ちかかる。
| だれかの悲鳴を聞いた。
| 一瞬おびえた。
| さいなまれる女の、
| ひーというかぼそい声。
| わたしは一刻も早く木を自由にしてやりたか
| った。焦るほどのことはなく、十分ほどであ
| らかたのテープは取れた。隣の有刺鉄線に絡
| まったものも取り外す。花梨の木はたわんだ
| 枝をのびのびと空に伸ばした。こんな簡単な
| ことだったなんて。地面に落ちた花や葉も集
| めて全部自転車の籠に入れた。ほっとして立
| ち去ろうとすると、木の背後の廃工場の窓か
| ら、だれかがこちらを覗いている。そんな気
| がしてわたしはその窓の奥を透かすように見
| た。曇りガラスのような窓はただ汚れている
| だけで、その内側に緑色の葉が蔓をはわせて
| いる。
| そのハートの形。いくつものハート。
| 明かりを求めて、窓に蔓を伸ばしている。
| ポトスのようだ。
| 助けて、助けて。
| そのときポトスは窓から叫んだ。
| ポトスは工場が閉められたとき、鉢植えのま
| ま見捨てられたのだ。水もないまま閉じ込め
| られ、どうやって生き延びているのか。床を
| 這い、土を見つけて根を差したのか。一刻も
| 早く助けなければ。わたしはあたりを見回し
| て、向かいの空き地にコンクリート・ブロッ
| クが転がっているのを見つけた。抱え上げて、
| 両手を大きく頭上に振りかぶった。
| 窓をめがけて投げつけた。
| ガラスが割れる音。
| 脆く薄く甲高い叫び声。
| わたしはそのとき、
| ポトスを助けた喜びでいっぱいだった。
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(紙版「rain tree」30号 2006.9.29発行)「緊縛の木」 へ |