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vol.32
<詩を読む> 宮沢賢治「小岩井農場」の登場人物たち その1(関富士子)
パート一 パート二へ パート三へ パート四へ パート五・六・七へ 八がなくて、パート九へ

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小岩井農場。奥に岩手山

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ハギ

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ゲンノショウコとシジミチョウ

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赤とんぼを捕獲したコガネグモ

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イタドリ

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ツユクサ

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ヌスビトハギ

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カラスアゲハ

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小岩井農場

宮沢賢治   

『宮沢賢治全集T』ちくま文庫1992年版より

パート一

わたくしはずゐぶんすばやく汽車からおりた
そのために雲がぎらつとひかつたくらゐだ
けれどももつとはやいひとはある
化学の並川さんによくたひとだ
あのオリーブのせびろなどは
そつくりおとなしい農学士だ
さつき盛岡のていしゃばでも
たしかにわたくしはさうおもつてゐた
このひとが砂糖水のなかの
つめたくあかるい待合室から
ひとあしでるとき……わたくしもでる
馬車がいちだいたつてゐる
馭者ぎょしゃがひとことなにかいふ
黒塗りのすてきな馬車だ
光沢消つやけしだ
馬も上等のハックニー
このひとはかすかにうなづき
それからじぶんといふ小さな荷物を
載つけるといふ気軽きがるなふうで
馬車にのぼつてこしかける
 (わづかの光の交錯かうさくだ)
そののあたつたせなかが
すこし屈んでしんとしてゐる
わたくしはあるいて馬と並ぶ
これはあるひは客馬車だ
どうも農場のらしくない
わたくしにも乗れといへばいい
馭者がよこから呼べばいい
乗らなくたつていゝのだが
これから五里もあるくのだし
くらかけ山の下あたりで
ゆつくり時間もほしいのだ
あすこなら空気もひどく明瞭で
樹でも艸でもみんな幻燈だ
もちろんおきなぐさも咲いてゐるし
野はらは黒ぶだうしゅのコップもならべて
わたくしを款待するだらう
そこでゆつくりとどまるために
本部まででも乗つた方がいい
今日ならわたくしだつて
馬車に乗れないわけではない
 (あいまいな思惟の蛍光けいくわう
  きつといつでもかうなのだ)
もう馬車がうごいてゐる
 (これがじつにいゝことだ
  どうしようか考へてゐるひまに
  それが過ぎてくなるといふこと)
ひらつとわたくしを通り越す
みちはまつ黒の腐植土で
あまあがりだし弾力もある
馬はピンと耳を立て
そのはじは向ふの青い光に尖り
いかにもきさくに馳けて行く
うしろからはもうたれも来ないのか
つつましく肩をすぼめた停車
新開地風の飲食店いんしょくてん
ガラス障子はありふれてでこぼこ
わらじやsun-maidのから凾や
夏みかんのあかるいにほひ
汽車からおりたひとたちは
さつきたくさんあつたのだが
みんな丘かげの茶褐部落や
つなぎあたりへ往くらしい
西にまがつて見えなくなつた
いまわたくしは歩測のときのやう
しんかい地ふうのたてものは
みんなうしろに片けた
そしてこここそ畑になつてゐる
黒馬が二ひき汗でぬれ
プラウをひいて往つたりきたりする
ひはいろのやはらかな山のこつちがはだ
山ではふしぎに風がふいてゐる
嫩葉わかばがさまざまにひるがへる
ずうつと遠くのくらいところでは
鶯もごろごろ啼いてゐる
その透明な群青のうぐひすが
 (ほんたうの鶯の方はドイツ読本の
  ハンスがうぐひすでないよと云つた)
馬車はずんずん遠くなる
大きくゆれるしはねあがる
紳士もかろくはねあがる
このひとはもうよほど世間をわたり
いまは青ぐろいふちのやうなとこへ
すましてこしかけてゐるひとなのだ
そしてずんずん遠くなる
はたけの馬は二ひき
ひとはふたりで赤い
雲にされた日光のために
いよいよあかくけてゐる
冬にきたときとはまるでべつだ
みんなすつかり変つてゐる
変つたとはいへそれは雪が往き
雲がひらけてつちが呼吸し
幹や芽のなかに燐光や樹液じゅえきがながれ
あをじろい春になつただけだ
それよりもこんなせはしい心象の明滅をつらね
すみやかなすみやかな万法流転ばんほふるてんのなかに
小岩井のきれいな野はらや牧場の標本が
いかにも確かに継起けいきするといふことが
どんなに新鮮な奇蹟だらう
ほんたうにこのみちをこの前行くときは
空気がひどく稠密で
つめたくそしてあかる過ぎた
今日は七つ森はいちめんの枯草かれくさ
松木がをかしな緑褐に
丘のうしろとふもとに生えて
大へん陰鬱にふるびて見える



<詩を読む>関 富士子

宮沢賢治

「小岩井農場」

の登場人物たち(1)

 パート一

 9月の初めに、岩手県は盛岡市近郊の小岩井農場を訪ねた。季節は異なるが、宮沢賢治『春と修羅』に収められた長編詩「小岩井農場」の情景をたどりながら、賢治が歩いたという小岩井駅から農場までの6キロを散歩した。
 思いつきの行動で、事前の準備もろくにしないままだったが、詩集だけはちくま文庫を持参して、農場内の賢治の詩碑の前のベンチで詩を読み、昼寝までして至福のときをすごした。
 静かな小岩井農場の、牛舎や資料館や物置の奥、古い煉瓦サイロの後ろにあった詩碑には、パート一から、次の四行が刻まれていた。
 すみやかなすみやかな万法流転のなかに
 小岩井のきれいな野はらや牧場の標本が
 いかにも確かに継起するといふことが
 どんなに新鮮な奇蹟だらう
 わたしは、あの場所、あの時間の賢治の心象の継起が、言葉に詳細に綴られて今も残っていることを奇跡と思う。彼は詩集『春と修羅』の「序」で、これらの詩を「心象スケッチ」であると述べたが、これは別に謙遜でもなんでもないのだ。賢治がやろうとしたことは、彼だけができた実に新しい実験なのだ。それはシュルレアリズムの自動記述や、ビデオで景色を撮影するようなこととは本質的に異なる、驚くべき行為である。
 わたしたちはあらゆる感覚器官を使って外的世界を感受し、それに脳の神経細胞が反応して、質感(クオリア)を得る。例えば薔薇を感受すれば、脳内に薔薇の色や香りなどの質感が生まれる。そして、脳科学者の茂木健一郎によれば、それらの質感を統合し、「薔薇」として抽象化するはたらきが、心であるらしい。
 ところが人間は、得た質感のすべてを抽象化するのではないという。どの質感に向き合うかは主観的で、それぞれの個人の志向性による。そして、質感を抽象化する際に重要なのが「これは薔薇である」と名付ける行為、言葉によるラベリングであるということだ。(『クオリア入門』)
 賢治が行った心象スケッチとは、外的世界を感受する賢治の脳だけが見た光景を、言葉によってスケッチしたものといえないだろうか。それを読む行為とは、賢治の脳の中の光景を、読者の脳が仮想して見る行為なのではないか。外的世界が現実に存在しなくても、人は言葉によって脳内に物の質感を得ることができる。それはバーチャルだがリアリティのある体験である。
 詩「小岩井農場」では、賢治が小岩井駅から農場への道を歩きながら、見聞した物事を描いている。長回しのフィルムを見ているみたいに、景色が移り変わり、さまざまな人物と出会い、想念が生起する。「心象スケッチ」の考え方にもっとも添った作品といえる。他の詩や童話と同様に、創作の過程で何度となく書き換えられているのだが、基本的な考え方は変わっていない。
 それにしてもというか、だからこそというか、この長編詩は、謎の多い賢治の作品のなかでも、奇妙なところがいろいろある。だいいち、パート五、六は番号があるだけで詩行がまったくないし、パート八は存在せず、パート七からいきなり九に飛んでしまう。これについては、先駆形となる異稿があって、示唆に富み興味深い。
 わたしは歩くことが好きで、10キロぐらいは平気で歩くが、とても賢治にはかなわない。昔の人は多少の距離は徒歩で行くのが普通だったらしいが、賢治は当時の人のなかでもひときわよく歩いたようだ。夜通し歩き続けて明け方に岩手山に登頂したりも何度かしている。メモを取りながら歩き、時には興奮して奇声を発して跳び上がったりしたそうだ。
 さて、そんな賢治に、光景はどのように生起していくのだろう。ここでは特に人物に絞って改めて読んでみたい。

パート一
人物1 「化学の並川さんによく肖たひと」

 賢治の知己の「化学の並川さん」は「おとなしい農学士」だが、盛岡駅からたまたま汽車で乗り合わせた、並川さんによく似た別の見知らぬ人を、賢治が気にする様子はちょっと尋常じゃない。
 自分よりももっとすばやく汽車から降りた「オリーブのせびろ」のその人は、「砂糖水のなかの/つめたくあかるい待合室」から出る。化学の実験に使うフラスコかビーカーの中の液体を通っていくような光景である。
 賢治があとをついて出ると、その人は馬車にすばやく乗ってしまう。賢治もほんとうは乗りたい気持ちがあるのだが、乗れといってくれればいい、などと迷っているうちに馬車は出発してしまう。
(これがじつにいゝことだ/どうしようか考へてゐるひまに/それが過ぎて滅くなるといふこと)
なんていって、徒歩で行くことになる自分に納得しているが、その紳士の軽やかな身のこなしをややうらやんでもいる。同行者と思った相手に親密感をいだきながら、その向かう方法が異なったことで(馬車と徒歩)、その人と自分との距離をややさびしく感じてもいるようだ。馬車の後ろ姿を目で追いながら、「このひとはもうよほど世間をわたり/いまは青ぐろいふちのやうなとこへ/すましてこしかけてゐるひとなのだ」と思うのだ。
 一方の紳士は賢治のことを気にもかけていない様子で、馬車に乗った自分の選択には迷いがなさそうだ。
 それにしても「青ぐろいふちのやうなとこ」とはどういうことだろう。まるで馬車に揺られている紳士の足元に、不気味な青黒い淵が深々と口を空けているかのようではないか。そこは「よほど世間をわた」った人が腰かける場所であり、安泰に見えながらまっさかさまに転落しかねない危うい場所ででもあるのだろうか。
 馬車に乗らなかった賢治、あるいは「世間をわた」ることから身を引いている賢治にだけ、世間のそこここにある「青ぐろいふち」が見えるのかもしれない。しかし、それが見えてしまう賢治とはいったい何者だろう。賢治は、「青ぐろいふち」にいる人を決して否定しているのではない。むしろ強く執着しつつ、徒歩でいかざるを得ない。そんな賢治の農場への道は、迷いと喜びがないまぜに生起する途方もない道のりなのである。

(2006.9.29)




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