HOME書庫知られざる「ファウスト博士」

                知られざる「ファウスト博士」(序章)

 1988年に『ファウスト博士の超人覚醒法』(学研)を書いてから、そのリメイク版を書きたいと思い続けていました。そうして形になったのが、2010年に発行した『真実への旅−ファウスト博士の教え−』(サンマーク出版)だったわけですが、実はそれよりも前に、リメイク版の執筆を途中までしていたのです。結局、この原稿は採用されずボツになりましたが、ボツにして永久に日の目を見ないというのは少しもったいないと思い、ここに公開することにいたしました。
 前作やリメイク版の『真実への旅』と大きく異なっている点は、主人公が「私」ではなく、「私の兄」という設定になっていることです。その兄はかつてやくざな生活を送っていたのですが、消息をたって長い間たってから炭鉱事故で死んだという知らせが「私」のもとに入ってきます。兄はいつのまにか聖職者になっており、自分を身代わりにして炭坑労働者を救ったことがわかりました。「私」は、あのやくざの兄がなぜ聖職者となり、しかも自分を犠牲にしてまで人を助けるという立派な人間になったのか興味を覚えます。そして、遺品として出てきた兄の日記に、その秘密が書いてあったのです。それによると、彼を変えたのは、「ファウスト博士」と呼ばれる謎の人物との出会いでした。そうして物語は、「私」が兄の日記を自分が体験しているかのように読むという形で展開していきます。
 第6章までの途中で終わっていますが、「かつてこんな原稿も書いていたんだな」という、ちょっとした興味を持って読んでいただければ幸いです。



  序 章

 聖職者になった兄の謎
「炭鉱事故発生 死者一名・・・」
 函館のホテルに戻ると、痛々しい見出しの新聞をバッグから取り出した。銀河の夜景をのぞかせる窓を少し開け、初夏の潮風を部屋に入れながら、私は背もたれのある椅子に腰かけ、新聞を膝の上に乗せて、今日一日のことを思い出した。
「死者一名」とは、私の兄であった。
 炭鉱の閉鎖に反対し、炭坑に籠もってハンガーストライキをしていた労働者を説得するために、兄が中に入っていったのだが、そのときに坑内が崩れ、梁を支えて労働者を避難させた直後、力つきて生き埋めになって死んだのである。兄は私より十歳上で六一歳になっていたはずだ。
 兄とは離縁した状態で、消息が失われてから三五年たった。
 私は関係者から兄のことを尋ねた。だが、そこで知られたのは、最後に刑務所で面会したときの兄とはまったく違う別の人間であった。いったいこの三五年の間に、何が起こったというのだろう。
 断片的に聞いた関係者の話をまとめると、まったく信じられない兄の姿が浮かんできたのである。
 兄は、函館市街から車で一時間ほどの、小さな町のカトリック教会の神父をしていたという(あの兄が!という感じだ)。今から二十年ほど前だというから、兄が四十歳を過ぎた頃から、この地で活動をしていたことになる。
 今日、兄の教会に尋ねてみたが、そこは三十人も入れば満員になってしまうような小さな建物で、壁はあちこち崩れかけているほどであった。教会の隣に建てられた小さな平屋に寝泊まりし、テレビもなければ洗濯機もないような質素な生活をしていたようだ。独身であった。
 ここに、信者から譲り受けた何枚かの兄の写真がある。遠方から見ると、ヒゲにおおわれた顔はイエスを思わせたが、よく見ると目は垂れ、眉は“八時二十分”をさし、鼻はぼってりとして、頭はほとんどツル禿げで、背はどちらかといえば低く、少し猫背であり、とても聖者の風格などを感じさせるものではなかった。
 毎日曜、お決まりのミサと説教が行われた。ミサはそれなりにこなしたが、説教はお世辞にも上手とはいえなかったようだ。大根役者が台本を棒読みしているような感じで、五分もしないうちに信者たちは退屈した。だが、兄も情熱がないのか、説教が十分以上続くことはなく、おかげで信者たちは睡魔から救われたのであった。
 にもかかわらず、兄のもとには、大勢の人達が訪れた。カトリック信者ではない人たち、プロテスタントや、仏教の僧侶までもやってきた。日曜のミサには百人を越える人たちが詰めかけるので、教会からはみだした信者は、狭い庭にシートを敷いて座らねばならず、ときには道路にまではみだしてしまうほどだった。
 兄は、毎日毎日、自転車に乗って家々を訪問した。信者の家ばかりでなく、地域の住民、すべての家々をまわった。説教や布教のためではなく、あらゆる面において奉仕するために。身体の不自由な人や、一人暮らしの老人の家に行っては買い物を代行し、親身になって話を聞いた。自分から説教をすることはほとんどなかった。布教のために、このようなことをするのでもなかった。兄は、奉仕そのもののために奉仕していたようであった。
 また、彼は傾聴の達人だった。兄の前に座ると、どんなことも遠慮なく打ち明けてしまいたくなるらしい。身内の亡くなった家を訪れては、仏壇に手を合わせ、その家の宗派にあわせて、ときには念仏を、ときには題目を唱えることもあった。そして優しい言葉を投げかけた。その話し方は木訥とし、ときに吃ったりもしたが、ひとつひとつの言葉が、まるで詩のように胸に響くもので、人々はおおいに慰めを与えられるのであった。
 ふだんは酒も肉も口にしなかったが、招かれたときは、底が抜けていると思われるほど酒を飲み、肉を食った。ときには家の掃除をしたり、壊れた屋根だとか、電気製品の修理といった便利屋のようなこともした。そのようなことは、たいてい人並み以上にうまくできた。
 もちろん、自分から報酬を求めることはしなかったが、ある程度、裕福であると思われる家庭からは、多少の金銭をもらうこともあった。だが、その金といえども、大部分は貧しい家庭に施したり、教会の修繕費に当てられたのである。
 このように話すと、兄は生まれながらの聖人のように思われるかもしれない。
 しかし、少なくとも三十五年前の兄のことを知る私には、これが同じ人間であるとは、とうてい思われないのである。
当時の兄は、容姿も違っていた。目つきの鋭い、オールバックの精悍な顔つきをしていた。いかにも「その道」の人間のオーラを発しており、性格はかなり攻撃的であった。
兄は大学を中退すると、家を出て、東京の板橋や池袋、新宿などの繁華街を舞台にギャンブルにあけくれた。最初はパチンコ屋の宿舎に寝泊まりしながら、ひとつひとつギャンブルを覚えていったらしい。若い頃、空手で鍛えた体格のよさを買われて、用心棒のようなことをしていたこともあった。おそらく、やくざやチンピラとやり合ったことも一度や二度ではなかったはずである。というのも、兄と会うたびに、どこかした包帯を巻いていたり、顔にアザを作ったりしていたからだ。
 当時、高校生だった私は、反対する親の目を盗んで兄に会いにいった。当時、私は埼玉と東京の境にある和光市に住んでいたので、兄の住むアパートのある板橋までは近かったのだ。
 兄は、異常なほどギャンブルが強かった。勘が鋭いというか、運がいいというか、超能力があるのではないかと思われるほどだ。どのようなギャンブルをやっても、最後には大金をつかむのである。パチンコ、マージャン、競馬、競輪、日中はそんなことをやって金を稼ぎ、夕方になると、稼いだ金で、酒を飲み、飯を食い、その後は性風俗というのがお決まりのパターンだった。兄は、強制はしなかったが、その種の店に私を連れていった。当時、高校生だった私は、ご多分にもれずこうしたことには興味津々だったから、たいていは兄と同行した。実際、私の初めての性体験の相手は、この兄のおかげで、職業の女性になってしまったのであった。
 こんな荒れた生活をしていた兄だったが、私は彼のことが好きだった。兄も私をよく可愛がってくれた。だが、兄は何よりも女好きであった。複数の恋人がいた。非常にマメで、女性の誕生日はもちろん、出会った日付などもちゃんと覚えていて、いつも電話をかけたりプレゼントしたりするのを怠らなかった。
 しかし兄は、こうした「恋人」とは、一度も性関係をもっていないといっていた。私は冗談だと思って笑ったが、何でもあけすけに語る兄のことだから、おそらく嘘ではないのだと思う。また、兄と付き合っている女性から、当時は理解できなかったが、性的な不満を意味する言葉を耳にした。彼の性生活の相手はすべて職業の女性だけであったのだ。兄のいう「恋人」とは、せいぜい抱擁したり接吻をするだけで、それ以上のことはせず、また同棲もしなかった。決して自分の部屋に女性をあげることはなく、また女性の家で一夜を明かすこともなかった。私にはそんな兄の一面が不可解で仕方がなかった。
 今から思えば、兄はいつも悲しく、寂しそうな顔つきをしていた。ときどき物思いに沈みこむことがあり、そのときは妙にカリカリと怒りっぽく、気難しくなった。風俗の店から出てきても、晴れ晴れとした顔つきをしたことは一度もなく、より一層の寂しい表情を見せた。そして、そんなときには必ず、「おまえ、先に帰っていろ!」といって、またどこか別のところに行くのであった。終電も間近だというのに、いったいこれからどこへいくのか、酒でも飲みにいくのかと最初は思っていたが、あるとき私は、好奇心にかられて、兄のあとをこっそりつけていったことがあった。すると彼は、上野や新宿の公園に足を伸ばし、そこにいるホームレスの人たちひとりひとりのポケットに、千円札を突っ込んで回っていたのである。
 これには驚いた。兄はやくざなのか聖人なのか、私は混乱した。兄ほど不可解な性格の持ち主はいないように思われた。実際、こうした行動は、単純な慈善の気持ちから出たわけでもなく、もっと複雑な要素が絡んでいたように思われた。

 兄の生い立ち
 彼のこの奇妙な行動を理解するには、兄の生い立ちから説明しなければならない。
 実は、父と兄とは、血のつながりがないのである。
 私の家は、代々、真言宗の寺の住職をしてきた。ところが、両親には、なかなか子供が授からなかった。医師の診断を受けると、(どちらに原因があるのかは親もいわなかったし私も尋ねなかったが)子供は授からないといわれたという。そこで仕方なく、養子をもらうことにした。それが兄であった。父の知り合いの関係から、経済的な理由のために育てることができなくなった家族から三歳の男の子を紹介され、養子に迎えたのである。
 こうして、兄は十歳になるまで大切に育てられたのだが、予想もしないことが起こった。母が妊娠したのである。医師の誤診だったのか、何か体質的に変わったのか、ともかく、そうして産まれたのが、私である。
 そして、この日以来、両親の愛情の流れは、兄からいっきに私に向けられるようになった。だれの子供かわからない継子よりは、自分の腹から産まれた、それもあきらめていたにもかかわらず授かった実子の方が、当然のことながら可愛らしく思うだろう。
もちろん、だからといって、露骨な継子いじめが行われたわけではない。父が私に話した限りにおいて、暴力や虐待が行われたことはなかった。とはいえ、子供だった私にも、あきらかな変化が読み取れるようになった。それは、親の視線が兄に向けられなくなったということだ。つまり、まともに顔を見なくなった。せいぜいチラリと目をやる程度で、兄のことを見ないのである。おそらくそれは、無意識的なものだと思う。一方、私は常に親の視線を痛いくらい感じてすごした。
 祖父母には、奇妙なエリート意識のような気持ちがあった。小さな寺の住職にすぎないのだが、自分たちは「高貴」であり、上流階級の人間なのだという、まるで根拠のない意識があった。要するに、そんな「希望」があった。そこで祖父母の家庭では、下世話な話や言葉使いはタブーであった。家庭のなかでは、感情を抑えた丁寧で上品なものの言い方が交わされていた。しかしそれは、自分たちの本来の上品さが自然に現れた結果ではなく、むしろ逆に、自分たちの凡俗さから目を背け、それを意識しないための、いわば自己催眠的な演出にすぎないものだった。いずれにしろ、そうして祖父母たちは、自分たちは特別な存在であるように思い込み、檀家の人々を見下していた。だが、露骨に行われていたわけではない。まるで隠し絵のように、注意しないとわからない微妙で巧妙な差別意識がそこにあったのだ。
 愛情が弟に向けられたことを知った兄は、両親の愛情を自分に向けるために、懸命に勉強した。勉強して立派な住職となれば、親の愛情を得ることができると考えたのだと思う。中学校、高校と、兄はその年頃の少年が熱中するような遊びのほとんどを放棄し、禁欲的なまでに勉強したので、たいていはトップ・クラスであった。それに比べて、私は勉強にかけてはあまりパッとしなかった。両親は、言葉の上では兄の成績の優秀さを評価した。だが、それは感情のこもらない、きわめて冷たい感じのする褒め言葉だった。兄は勉強のできない私に対して、優越感を抱くようなことはなく、私も勉強のできる兄に引け目を感じることはなかった。兄の勉強は、他者との競争心から行われたものではなく、ただ親の愛を勝ち得るための、孤独な戦いであった。しかし両親は、兄と私を競争者どうしとみなそうとした。私は親から、もっと勉強するように常に怒られた。最初は「兄のように勉強できる子になりなさい」といったが、後には「兄よりも勉強のできる子になりなさい」という言葉に変わった。自分の腹から生まれた子供が、「他人」の子供よりも劣ることに、親は我慢ならなかったのではないかと思う。
 そうして兄は、両親が勧める仏教系の中堅の私大に合格した。合格発表の日、あまり自分の気持ちを表現しない兄だったが、このときばかりは、息を切らして家に帰ってくると、台所仕事をしていた母のもとにいって「お母さん、やったよ。合格したよ」と叫んだ。
 私は「よかったね、兄さん!」と喜んで兄を称えた。すると母は、私たちの方を振り返りもせず、苛立たしい声で私の名前を呼び、「喜んでいる場合じゃないだろう!」と怒鳴ったのである。つまり、おまえはもっと勉強して兄を追い抜かなければダメだろうということなのだ。そしてついに、兄に対して、たったひとことも暖かい言葉を投げかることはしなかった。一方、父は、その日は会食があって外出していたのだが、兄の合否について出先から電話をかけるといったこともなく、結局、酔っ払って帰宅したのが深夜だった。
 だが、自宅の玄関に到着したときに、父の酔いはいっきに冷めてしまったに違いない。玄関前には救急車が止まっていた。
 夜、兄が風呂場で手首を切り、自殺をはかったのである。普段より出るのが遅いのでおかしいと思った私が風呂場を開けてみると、真っ赤に染まった浴槽の中に兄が沈んでいた。今でもあの恐ろしい光景は目に焼きついている。私は意味不明の怒鳴り声をあげながら兄を浴槽から洗い場に引きずりだした。そして、血の吹き出す手首を思いきり握りしめていたことしか覚えていない。
 幸いにして、兄は危ないところで助けられた。
 親は、いくぶん反省をしたのか、毎日、病院に通っては、兄に優しい言葉をかけた。兄はしかし、あの日から、精神的には死んでしまったように思われた。まだ少しは少年らしい快活な感情を表現することがあった兄が、そうしたものがまったく無くなってしまったのである。兄は、もうだれにも、心を開くことがなくなってしまったように感じた。父母にも私にも、必要最低限のこと以外は口をきくことがなくなった。
 両親は、そんな兄に対して、最初は根気よく接していたが、ついには「親がこんなに尽くしてやっているのに、まるで感謝の気持ちがない」といって怒り出した。そして、寺から自殺未遂者を出した世間体の悪さで兄を責め、ひどく罵倒した。兄はただうつむいてだまって聞いていた。それはまったく魂の抜けた人間のようであった。
 兄は、退院するまでの約一カ月の間、くる日もくる日も仏教書や宗教書、文学の本などを読んでいた。勉強ばかりしていたネクラな兄は、これといった友達もいないで孤独だった。それでも以前は、私には心を開いてくれたのだが、それもまったく途絶えてしまった。 やがて兄は大学へ通うようになったが、親はあの事件以来、かなり露骨に兄を嫌悪するようになった。親は学費の半分は自分で稼ぐように兄にいった。そこで兄は、金を稼ぐためにあらゆることをした。工事現場や工場などの肉体労働をしながら勉強したのである。兄は家から通学したが、もはや兄にとって、家は単なる「下宿」にすぎず、親も兄を下宿人のようにしか見ていなかった。
 だが、そんな家庭がいつまでも続くわけはない。この家庭が崩壊する決定的な事件が起きた。
 あるとき、東北地方から三十歳前半くらいの女性が寺を尋ねてきた。話によると、七年前に彼女の父親が東京に出稼ぎにいったきり消息がつかめず、行方不明になったという。まもなく警察から連絡が入り、父が死んだとの知らせを受けた。父はホームレスとなって上野公園で凍死したというのだ。そして、生前、父が書き留めていた娘への手紙を手渡された。父は東京の工事現場で働いていたとき、事故に遇って腰を痛め、その後、何をやっても腰痛のために続かなくなった。何とか身体を直して頑張ろうと借金をして治療などをするが効果がなく、やがて借金のためにホームレスになってしまったらしい。もしも自分がホームレスだと知られたら、娘の結婚に支障が出るに違いない。そこで消息を断ったのであった。手紙には「父さんを許してくれ」と書かれてあった。
 娘は、親孝行をしてやれなかったことを悔い、せめてよい戒名をつけてあげたいといった。だが、戒名といっても、ただではない。「よい戒名」となると、かなりの金額になる。父の背後で、兄と私は二人の会話をさりげなく聞いていた。
 父は、「よい戒名」の値段をいった。女性はその金額を聞いて目を丸くした。「えっ、そんなに高いんですか?」。父は、世間知らずな女だといわんばかりの、侮蔑的とも思えるような粗野な言葉使いでいった。「あなたは、本当にお父さんのことを思っておられるんですか? もしそうであれば、このくらいの値段なんて問題じゃないでしょう」
 女性は、いろいろと事情があって、どうしてもそんな大金を払うことはできないといった。何とか金額をもっと安くしてくれないかと頭を下げて頼んだ。すると父は首を振りながらこういったのである。「あなただけ特別扱いすることはできませんな。誤解しないでくださいよ。何もお金が欲しいわけじゃない。大切なのは真心ですよ。あなたに真心がないから、かけがえのない大切なお父様の戒名をケチったりなさるのです。慈悲がないのですよ。あなたには・・・」
 女性は泣きながら帰っていった。
 私はそのとき、異様な殺気を感じて、ふと、兄の顔を見た。驚いた。魂が抜けたような無表情な人間になっていたと思っていた兄が、すさまじい形相で父をにらみつけていたのだ。きつく握られた拳は怒りに震えていた。
 そのときの私には兄の怒りが、いまひとつ理解できなかった。確かに、父の言動は冷たいと思ったが、そんなに激怒するほどのこともないのではないかと。何が兄を、そこまで怒らせたのだろうか。私はたぶん、親の偽善性だと思う。いや、世の中の偽善といった方が正しいかもしれない。仏の名をかりて金儲けをする、金がなければいい戒名もつけないといったことに対する憤りなのだと思う。いったい無慈悲なのはどちらなのだろう。父なのか、娘なのか?
 兄は、人一倍純粋だったのかもしれない。だから、本来は純粋な信仰の道であるはずの仏教の世界に、そうした偽善が絡むことに、とうてい耐えられなかったのではないだろうか。
 いずれにしろ、このことがあってから、事態は大きく変わっていった。
 兄は無断で大学をやめた。このとき兄は家を捨てたのである。住職なんかクソ食らえといった感じだった。そして、家の金を盗んで繁華街に出入りするようになった。両親は激怒したが、世間体のために、あまり騒ぎ立てないようにした。以来、私は毎日、親から兄の悪口を聞かされるようになった。あんな子供を養子に迎えたのが間違いだったといい、あげくの果てに、なぜもっと早く産まれてこなかったのだと私が責められた。
 兄は、幸か不幸か、このとき自分の「才能」に目覚めた。それは、すでに述べたことだが、異様にギャンブルが強いという才能である。だから、兄は金には困らず、まもなく家を出て、パチンコ屋の下宿に一人暮らしを始めた。
 実の父と母について、兄は、父は許せるが、母は許せないと語ったことがあった。母は父と自分を見捨てて去っていってしまったらしいのだ。父は結局、自分を施設に預けて姿を消してしまったけれど、とにかくそこまで責任を果たしてくれた。だが、母は無責任に捨てていったのだと。そして、私の母が兄の受験合格に対してとったあの冷たい態度を思うにつれ、おそらく兄は、母親というもの、あるいは女性というものに、深い不信感をもってしまったように思う。兄は安心して自分のすべてを女性に投げ出すことができなくなってしまったのだと思う。だから、兄は単なる性欲のはけ口として商売の女性とだけ行為ができるが、普通の女性との性的な関係はもてなくなったのではないかと思う。
 また、兄がホームレスにお金を施す行為についても、私は、彼は父を探していたのではないかと思うのだ。あの、戒名を断られた女性の父親が、やむない事情でホームレスとなり、娘の幸せのために、娘を捨てたように消息を断ってしまったように、あのとき、その女性の父親と自分の実の父親とを重ねていたのかもしれない。あの父が、ホームレスでつらい思いをしていなければいいと心配だったのかもしれない。

 孤独な兄
 やがて兄は、新宿で外国人相手のバカラ賭博の店を始めた。英語が堪能だったので、店は繁盛した。毎夜、客に金を賭けさせ、半年でひと財産を築いてしまうくらいもうけた。もちろん、これは違法であって、まもなく警察の手入れが行われてつかまり、刑務所に入れられてしまった。
 親は、ついに堪忍袋の尾がきれて、兄と絶縁したのである。私が確か十七歳くらい、兄は二十七歳くらいだったと思う。私は兄と会うことを親から厳しく禁じられ、兄もまた、おそらく私に迷惑がかかると思ったのだろう。兄から連絡はなかったし、その後、消息はいっさいわからなくなった。
 私は、その後、親の指示で仏教系の大学を受けたが落第、一浪の末合格して入学したものの、住職という仕事に興味をもてず、結局、退学してしまった。
 そして、三十五年がすぎ、一週間前の朝刊を見て、そこに見覚えのある名前が書かれており、兄であるとわかったのだ。
 私の家は、もはや寺を他の人にゆずって、私自身は現在、中堅の製薬会社の営業部長をしている。すぐにも函館にかけつけたかったのだが、重要な取引を控えていたため、結局、ここにこれたのは、葬式もすべて終わった後のことだった。そして、唯一の身内として、兄の所持品を引き取ることになったのだ。
 私の妻と、今年、大学生になる娘には、この兄のことは、何もいっていない。やはり、前科者が身内にいるということは、何かと社会的に、私自身はともかく、娘にとって、いい結果はもたらさないと思ったからだ。
 しかし、今、この新聞記事と、兄の関係者から話を聞くと、こんな考えは間違っていると思った。兄はとても私を可愛がってくれた。なのに、私は親のいうがままに、親と一緒に、兄を捨てたのである。ああ、何ということをしたのだろう! 何としても兄を捜し出して、兄の力になってあげるべきだったと、胸が痛むほどの後悔と自責の念を感じる。
 思えば、兄の人生は、苦しみと悲しみだけではなかったか。
 親から捨てられ、家業を継がせるために養子に出され、私が生まれてからは、親の愛を得るために、楽しみも捨てて勉強し、自殺未遂するほど悩み、働きながら苦学し、そして、そのような努力のすべてが無駄となり、刑務所に入れられて、天涯孤独になってほうり出されたのだ。そして最後は、神父として奉仕に身を捧げ、炭坑労働者の身代わりの犠牲になって、六十一歳の若さで生命を落としたのである。
 いったい兄の人生は何だったのだろう。兄の人生に、生まれてきてよかったと思える瞬間など、あったのだろうか。私が思い出せる兄の顔は、いつも寂しそうであった。ただ苦しかっただけの人生、何も楽しいことなく、不幸なまま死んでいった兄、私は、そんな兄が気の毒でならない。可哀想な兄さん、ああ、許してください!・・・

 炭鉱事故
 関係者によれば、函館からそう遠くない小さな炭坑町があったが、もはや石炭の採掘は時代遅れであり、採算にあわない事業部門であった。親会社は、ほとんど福利厚生の一環として経営を続けてきたが、不況のため親会社の経営も厳しくなったので、廃坑せざるを得なくなった。だが、労働組合の反発のため、決行の時期が定められないでいた。
 ところが、ひと月ほど前に、震度四のやや大きい地震が起こった。そこで会社側は、地質調査会社に炭坑の安全性を調査させたところ、大きな亀裂が入っていて、今にも崩れそうな危険な状態にあると結論、それで廃坑を断行した。ところが、労働組合の調査で、この調査は実際には行われていない嘘であることが判明した。採算の合わない事業から撤退するために、会社側が地質調査会社に偽りの報告書を作成させたのである。
 そこで、怒った三十人ほどの労働者が、炭坑の中でハンガーストライキを始めた。この対立を解決させるために、兄の人柄を敬慕していた会社役員のひとりが、労働者を説得してほしいと兄に頼んだのである。
 兄は、最初、労働者の言い分にも正しいものがあり、嘘の報告をした会社にも責任があるとして、この求めに応じなかった。ところが、兄は何か閃いたのか、とにかく炭坑の安全のため、ちゃんとした地質調査をするようにと役員にいったのである。すると、不思議なことに、虚偽として作成された地質調査の報告が、実際に調査された結果と、ほとんど一致したのである。つまり、この炭坑はいまにも崩壊しそうな危険な状態にあったのだ。炭坑の中でハンガーストライキをしている場合ではなかったのである。
 そこで、兄は労働者を救うために炭坑に出かけていった。しかし、労働者は会社の回し者だと思い、兄が中に入っていこうとすると、怒号が響き渡った。
「出ていけ! 失せろ」
「神父の格好をした悪魔の手先め! くたばりやがれ!」
 狂気に満ちた激しい怒号に、このまま神父を中に入れては、神父の身の危険があると心配になり、会社役員たちは炭坑の前で考えこんでしまった。すると兄は、にっこり笑ってこういったという。
「大丈夫ですよ。私はもっと危険なことも乗り越えてきたのですから。それに、あの人たちは野蛮人なんかではないわけですし・・・」
 そういうと、単身、トロッコのレールの上を歩きながら、なかへ入っていった。
 そして、トンネルの一番奥深いかたすみで横たわっている労働者たちに向かって、今にも崩れそうだから早く避難するようにと説得を始めた。労働者たちは怒鳴り声を上げたが、断食して二日ほどたっていたので、空腹で神父に手を出そうとする者はいなかった。
「私たちは、理解しあわなければなりません。憎しみに対し憎しみで返しても、何も解決しないのです。私たちは平和を愛さなければなりません。お互いを愛さなければなりません」
「へたくそな説教はやめろ!」
「神様は引っ込んでろ!」
 だれも兄の言葉に耳を傾ける人はいなかった。兄はそのときじっと、目を閉じて祈るように立っていたという。
 だが、そのときだった。突然、地震が発生したかと思うと、炭坑出口の斜面が雪崩のようにスライドし、大音響と共に落下したのである。炭坑の入り口は土砂で覆われ、逃げ遅れた数人の役員や会社関係者が重傷を負った。幸い生命に問題はなかったが、救急車で運ばれていった。
一方、炭坑のなかはひどい土煙が立ち込め、しばらくは息もできないほどであった。
「助けてくれ!」「死にたくない!」
 労働者たちは恐怖に震え、神秘のいったことが本当だったのだとわかった。労働者たちは懐中電灯を振り回しながら悲鳴をあげ、パニックになってあちこち駆け回った。すると、そのとき炭坑中に響くほどの大きな声がした。
「落ち着きなさい! 落ち着くのです!」
 兄そのその声で、パニックはおさまり、兄の落ち着いた姿を見て、労働者たちも落ち着きを取り戻していった。
「神父さん、あんたは死ぬのが恐ろしくないのか?」
 すると兄は、静かにこう答えたという。
「私はずっとむかしに、すでに死んでいるのです・・・」
 そうして兄と労働者たちは、炭坑内にある緊急時の脱出のための出口に向かった。そこまでの道は、大人ひとりが身をかがんでようやく通れる狭いものだった。労働者たちを先に行かせて兄は列の後尾を歩いていた。およそ二十メートルほどもあるトンネルのうち、およそ半分ほどきたとき、再び余震と思われる地震が起きて、トンネルが崩れ出した。木製の梁がめきめきと折れ曲がり、頭上から垂直に押し潰される感じになった。兄はとっさにそれを肩で受け止めた。満身の力をこめ、全身がわなわなと震えていた。前を歩いていた三、四人の労働者たちは、六十を越えた人間の業とは思えない怪力に目を丸くした。そして、すぐに彼らも兄の傍らにいき、自分たちを押し潰そうとする梁を支えようとしたが、ハンガーストライキのため力が入らず、ほとんど何の支えにもなっていなかった。
 兄は叫んだ。「今のうちに早く逃げてください!」。
 梁と梁の間から土砂が雨のように降り落ちてくる。もう一刻の猶予もない状態だった。労働者は兄の言葉に従って出口に向かった。そのとき、兄の前にいたグループのリーダーが振り返っていった。
「神父さん、許してくれ。俺たちのせいで・・・」。
 今日、このリーダーと会った私は、彼がひどく懴悔の念に耐えなかった思いにかられているのがよく伝わってきた。自分たちの身代わりとして犠牲になった兄の遺影の前で、この男は嗚咽をあげて泣いていた。
 だが、この男の話によれば、そのとき兄の顔は幸せそうに見えたという。兄は微笑んだそうだ。そしてその笑顔は、輝くようであったと。
 この間、時間にして、二秒か、三秒くらいだったらしい。リーダーは急いで出口に出ると応援を求めて叫び声をあげた。だが、それと同時にトンネルの穴から粉塵が吹き出してきた。トンネルは完全に埋まってしまったのである。二次災害の危険があるとして救助活動ははかどらず、結局、兄の遺体が発見されたのは三日後のことであった。

 何か兄を変えたのか?
 私は、兄が最期に幸せそうな顔をしていたというリーダーの話を聞いて、いくぶん救われるような思いがした。
私は、ホテルの窓から見える銀河の夜景にカーテンを引いた。そして、兄の質素な部屋を整理していたときに見つけた、数冊のノートをカバンから取り出した。まだ詳しく中身を読んだわけではないが、兄の宗教に対する考察や、印象に残った本の感想が書かれたものであった。そして、そのうち何冊かは、兄が刑務所に収監されているときからつけられた日記帳であった。
 兄は、四十歳でこの函館の地に神父としてくるまでの、つまり刑務所に入って私たち一家と絶縁して別れた二十六歳のときから四十歳になるまでの十四年間、兄は何をしていたのかということが、ここに書かれているようだった。この十四年間が、いったい何が、あれほどすさんでヤクザのようだった兄を、聖人にしたのか?
 その秘密が、この古ぼけて色あせしたノートの中に書かれているのだ。
 私は、夜の更けるのも忘れてノートに書かれた文字をおった。
 読み進めるうちに、驚くべき謎の人物との出会いと、その人物のもとで行われた修行体験が克明に記述されていることがわかった。どうやら、この人物との出会いによって、兄はまったく新しい人間に生まれ変わったようなのである。
 その謎の人物の名前は「ファウスト博士」といった。

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