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                知られざる「ファウスト博士」(第2章)

 第2章

 ファウスト博士との出会い
 イーストサイド・ホテルは、サンフランシスコの港に近い北欧調の中堅ホテルで、高さは四階だが、横に長く広がっているので、客室数は百近くあり、会議用の広い部屋が二つあった。
 五時を少し過ぎた頃、ロビーにかけこむと、中央にある小さな噴水の脇に、エミリーが腰かけているのがすぐにわかった。エミリーも兄の姿を見ると満面の笑みを浮かべて手を振った。
「きてくれてありがとう。必ずきてくれると思っていました」
 兄はその言葉を聞いて、少し気分を害したという。「きてくれるとは思わなかった」といわれると思っていたのだ。「くるのが当然」というような意味のことをいわれ、「この女、まさか私が好きできたと思っているんではないだろうな。私は、わざわざきてやったんだぞ」と思ったのかもしれない。
「あの・・・、シャツを汚してごめんなさいね。はい、これ!」
 エミリーが差し出したのは、ビニル袋に入った新品のシャツだった。兄はあらためて自分が泥だらけのシャツをおおやけにさらしているのに気づき、不愉快な気分も吹き飛んで、恥ずかしさを覚えた。急いでトイレにかけこんで着替えをした。見ると、やや緑がかった品質のいいシャツだった。そんなところに彼女の誠意を感じた。顔を洗い、髪をとかして身支度を整えた。
 ロビーへ戻ると、待っていたエミリーがいった。「私、まだあなたの名前を聞いていないわ」。
 兄が名前と国籍をいうと、彼女は「よろしくね」といって手を差し出した。兄は彼女の手を握り、すぐに力を抜いて離そうとしたが、彼女の方は兄の手を長いあいだ握ったままで、その間、兄の顔をじっと見つめていた。その目はまるで、長い間会っていなかった友人との再会を喜んでいるかのような感じだったという。その間、時間にすればほんのわずかな間なのだろうが、兄は形容しがたい居心地の悪さを覚えた。
 エレベーターで最上階の会議室にいくと、すでに百人近くの人で埋まっており、エミリーと私は、最前列の椅子に腰かけた。
 集まった“生徒”たちは、若い人もいれば歳をとった人もいた。あらゆる人種の人がいたし、男もいれば女もいた。エミリーによれば、さまざまな動機の人がいるという。まじめに人生の問題を探求しようとする人ばかりでなく、超能力を身につけて女の子にモテたいという若者、病気を治したいという中年の婦人、いわゆる“東洋かぶれ”したヒッピーみたいな男、既存の宗教に失望した元聖職者、超心理学を研究している大学教授など、多彩な顔ぶれであった。
 受付には、初老の黒人男性がいて、対応をしていた。
 まもなく、前方の扉が開いた。そして、ひとりの男性が入ってきた。
 エミリーが隣からささやいた。「あれがファウスト博士よ」

 ファウスト博士の最初の教え
 “ファウスト博士”は、もの静かな足どりで檀上の前にくると、椅子に腰かけて黙ったまま、参加者のひとりひとりを見つめていた。
 彼は、兄が抱いていたイメージとは違う人物だった。話によるとずいぶん世俗的な超能力を使うように聞いていたので、どこか商売気たっぷりの、狡猾そうな人物であると思っていたのだ。
 しかし、目の前にいるこの人物からは非常に高潔な印象を受けた。
 背は高く痩せており、髪はほとんど白かったが、身のこなし方は青年のように若々しかった。ダークブルーのスーツに身をくるみ、歳は五十代か六十代か、そのへんは見当がつけにくい。顔立ちはいかにも立派だった。厳格な印象を与えたが、横顔はやさしさに溢れていた。なるほど、だれがつけたのかは知らないが、ファウスト博士という呼び名はまさに的を射ていると思った。
 彼の眼光の鋭さ、からだ全体からただよう風格などが、自称“導師”とはまるで違う。そういった人物にありがちな、目立つ服装をしたり周囲の弟子に拝ませて権威づけするという、奇をてらったような面がまったくない。
 この人物は、明らかにただものではない。兄はそう直感した。
 かなり長い沈黙のあとに、この人物はゆっくりと話を始めた。
「神秘学の古い格言にこのようなものがある。“神や宇宙を知ることは、自分を知ることである。自分を知ることは、神や宇宙を知ることである”と」
 澄んだバリトンの声がよく響く、流暢な英語だった。穏やかだが力強い言葉が、まるで音楽のように伝わってきた。
「しかしわれわれは、神や宇宙を直接に知ることはできない。それらについていろいろなことがいわれているが、どれも推測であり、単なる仮想にすぎないのだ」
 哲学的な内容であった。集まった生徒たちはうなずきながら聞いていたり、懸命にノートを取る者もいた。エミリーもときどきノートにペンを走らせていた。
「したがって、神や宇宙の本質を知ろうと思ったなら、われわれはまず、自分自身を知らなければならない」
“自分自身を知ること”、これが、兄の聞いた最初の講義のテーマであり、また、この人物の教えを貫くすべてのテーマでもあった。
「自分自身の探求から得た知識こそが、神秘学であり、密教と呼ばれる教えだ。それ以外にはない。たとえ神や宇宙について書かれた本をいくら読んだとしても、そういった知識をいくら学んだとしても、それだけでは神秘家、密教徒と呼ぶことはできない。また、そのような知識は、あなたがたの人生にあまり役には立たないだろう」
 背筋を伸ばして座り、ときおり手ぶりを交えて話す博士の姿、そしてその言葉は、まさにゲーテの『ファウスト』から飛び出してきたかのようであった。小説のファウスト博士は、この世のあらゆる学問を学び尽くしたが、それでも満足できずに魔力を手にいれたのであった。この人物には、言葉を越えた、魔力ともいうべきメッセージが感じられた。

 冷酷非情なファウスト博士
 そんな話をして一段落すると、ひとりの母親が小さな男の子を連れて博士の前にやってきた。聞くところによると、彼女はつい先日長男を失ったのだという。目の前で車にはねられたというのだ。そしてもう生きる気力を失い、生活することが苦痛で、これ以上耐えられないといった。会場はいきなり沈痛な雰囲気に染まった。
 博士は黙って聞いていた。その表情は、同情しているというよりは、冷徹な精神で何かを見ているといった感じだった。母親は涙をふき、そして叫ぶようにいった。
「いったいなぜ、こんな目にあわなくてはならないのでしょう? 私たちも、子供も、何も悪いことなどしていないのに、それなのになぜ、こんなひどい仕打ちを受けなくてはならないのでしょう。お願いです。あなたのお力で死んだわが子を蘇らせていただけませんか?」
 兄はこの母親の言葉を耳にして、まるで自分自身が訴えているような気がした。
「何も悪いことなどしていないのに、なぜこんな目にあわなければならないのでしょう?」 この言葉は、そのまま兄の言葉でもあった。涙が溢れてきた。大粒の涙が頬を伝わってきた。兄はなんでこんなめにあわなければならなかったのだ? なぜ親から捨てられなければならないのだ。なぜ養父母の期待に応えるためにひたすら努力したのに、ひどい仕打ちで返されなければならないのだ。なぜ刑務所に入らなければならないのだ。確かに法律を犯すようなことはしてしまったけれど、兄だけが罰を受けなければならないほど悪かったというのか? こうした、さまざまな思いが次から次へと浮かび上がってきた。
 だれかの手が兄の肩にそっと触れた。エミリーだった。心配そうな目で兄の顔をのぞきこんでいる。そしてハンカチを膝の上においてくれた。兄は泣き顔を彼女に見られたのを恥ずかしく思いながら、ハンカチで涙を拭いた。
 兄は、このファウスト博士とかいう人物が、どのように答えるのか、期待をこめて注目した。博士は淡々とした口調でこう語った。
「いくらあなたが悲しんでも、もう息子さんは助からない。もしあなたが悲しむことで、亡くなられた息子さんに何らかのことがしてあげられるならば、大いに泣くがよいだろう。それは愛の現れだろう。しかし、もうどうしようもないのだ。それなのに、あなたは泣くことをおやめにならない。それは息子さんのためではなく、あなた自身のために泣いているにすぎないのだ」
 思いがけない辛辣な言葉に、兄は、そしておそらくその場にいた全員が、唖然とするばかりだった。言葉は続けられた。
「生前、息子さんは愛らしさをふりまいた。あなたに微笑み、甘え、あやゆる仕方であなたを喜ばせた。しかし、彼はもういない。あなたを喜ばせてくれた対象はいない。あなたは急に自分が空虚になったことに気がついた。だからあなたは泣いているのだ。息子さんへの愛からではなく、単なる自己憐憫のために泣いているのだ」
 そのときだれかが、やや憤慨した様子で口をはさんだ。
「博士、今のこのご婦人にとっては、もっとやさしい言葉が必要なのではないでしょうか」 しかし、博士は無視して続けた。
「本当に愛しているのであれば、もう泣くのはおやめなさい。あなたは思ったでしょう。“もっとあの子のために何かしてやるんだった”と。それを、残された子供のためにしてあげなさい。自分のために泣いている暇はあなたにはないはずだ。あなたが連れているお子さんのために、できる限りのことをしてあげなさい。幸せに、立派に育てなさい。今、あなたの愛をもっとも必要としている人に対して、あなたの愛を向けなさい。それが今、あなたがしなければならないことなのだ」
 しばらくハンカチで顔を押さえていた母親は、何かに気が付いたように顔をあげた。そこには柔和さが輝いていた。
「あなたのおっしゃることがわかりました。私はもう泣くことはいたしません。おかげで生きる気力が湧いてきました」
 そういうと母親は、隣にいた次男を強く抱き締めた。
 母親は何とかこの悲しみから逃れようと、あらゆる宗教関係者に話を聞いてまわったといった。そして、息子さんは神様に愛されたのだから天に召されたのだとか、地上よりも天国で生きていた方が幸せなのだというように慰めてくれたという。しかし、話を聞いている間は楽になるのだが、またすぐに悲しくなってしまったといった。
「地に足のついていない慰めの言葉は、麻薬のようなものだ。いずれその効果もなくなってくる。そうしたら、また別の逃避を求め、いつまでもさまようことになるのだ。二度と再び悲嘆に戻らないためには、ありのままの苦しみと対面しなければならないのだ」
 ファウスト博士という人物の実像がしだいにつかめてきた。それは慈悲深い聖者のイメージではなかった。気休めや慰めなどはいったい口にすることがなく、あらゆる嘘、虚飾、幻想を厳しく排除し、冷徹に指摘したのである。そのため世間的な尺度で見るならば、冷酷非情な人間のように見られるかもしれない。
 結局、彼は人生の不条理に対して、どのような回答を与えたのだろうか。
 何も悪いことをしていない人間が、なぜ苦しみにあうのかという理由について、彼は直接に答えたわけではない。そうした問題に対して彼が臨む態度は、「ありのままの苦しみに対面し、今しなければならないことをせよ」であった。「今、あなたの愛をもっとも必要としている人に向けなさい」というのである。


 人は幻想の中に生きている
 博士は講義を続けた。
「さて、今の女性のように、われわれはだれかを愛していると思っている。だが、それは勝手な思い込みにすぎない。実際は、だれをも愛していないのだ。ただ自分の快楽を満たすために、愛という体裁のいい言葉を使って人を利用しているにすぎない。そして、人はそのことに気がつかない。他人も自分もだまし、幻想の中に生きているのだ」
 宗教者というのは、キリスト教の牧師にせよ、仏教の僧侶にしろ、愛や慈悲といった耳触りのいい言葉を並べるだけの、単なるきれいごとを口にするものだと思っていた。ところが、この人物はどうだ。人はだれをも愛してなどいないという。愛という体裁のいい言葉を使って人を利用しているだけだという。
 すべてを貫くような博士の否定に、感情的な反発を覚える人も多いに違いない。だが兄は、この言葉に大きな共感を覚えた。冷静に考えてみるならば、彼のいう通りではないだろうかと。子供を自分の野心のために利用している親は、愛という言葉で、自分の行為は子供のためを思えばこそだと錯覚している。単に自己の空虚さを埋めるだけの理由で恋人をもつ者もまた、愛という言葉で、本当に相手を愛しているのだと勘違いする。
 愛という言葉はロマンチックで、人を酔わせてしまうのだ。しかし真実は、だれをも愛してなどいない。その証拠に、相手が自分の都合に合わなくなると憎しみに変わったり、嫉妬したりする。憎しみや嫉妬に変わるようでは、それは愛とは呼べないだろう。
 こう考えると、愛という言葉ばかりが氾濫しているこの世の中で、いったいどれだけの人が、本当の意味での愛をもっているといえるのかと思う。これが現実であろう。
 ファウスト博士は、どこまでも現実のありのままを見つめようとする。その姿勢は、真実を探求する精神世界において、もっとも大切とされるべき姿勢ではないだろうか。
「われわれは本当の自分自身をまったく知らない。ただ勝手に“自分とはこうだ”と思い込んで生きている。すべてが自分の勝手な思い込みなのだ。人は自分で作りあげた自己幻想、夢の中で生きているだけである。われわれは夢遊病者のようなものだ」
 博士のクールにして明解な教説に、兄はぐんぐんと吸い込まれていった。彼のいいたいことが実によく理解できる気がする。博士はこういいたいのだろう。われわれはだれかを愛し、また愛されたいと思っている。有能で魅力的で善人であると勝手に思い込んでいる。自分の都合のいいように思ったことを、真実と思い込んでしまっている。レベルの低い場合、ブランドの服を着たり、高級車に乗っているというだけで、自分が偉くなったように思い込む。また、偉い人と知り合いだというだけで、自分まで偉くなったような「夢」を見る。高いレベルでは、知識を身につけることが、そのまま自己の偉大さであるという幻想に浸っている。知識もまた金銭と同様、その人の本質とは何の関係もないことに気がついていない。すべてが勝手な自己の幻想の中で生きているのがわれわれなのだ。われわれは「現実」の中で生きていないのであると。

 人間は機械的な反応をしている
「眠っている者は、刺激に対してパターン化された反応を示すだけの機械にすぎない」
 博士はこのようにいうと、例をあげて説明した。それによると、たとえば車の運転は最初は非常に難しい。だが、慣れてしまうと機械的に手や足が動き、機械的に状況を判断して運転できる。ほとんど無意識の行為となるわけだ。
 同様にわれわれの生活もまた、ほとんど習慣化されたパターンの反応にすぎなくなっている。目覚まし時計のベルに反応して起きる。歯磨きの手順や髪のとかし方は、およそ眠りながらでもできる無意識の行為となっている。だが、こういうことは別に害がないからどうでもよい。問題なのは、社会的に振る舞うときの機械的、無意識的反応なのだ。ある人に会うたびに、決まった考えを抱き、決まった行為をする。もうそれは型にはめられており、それ以外の考えをすることができない。しかもその考えには大した根拠はないのだ。 たとえば「結婚していない男は一人前ではない」という俗説がある。単にそういわれているだけで、人はその俗説を受け入れてしまう。それは自分で考えて得た結果ではなく、借り物の価値観なのだ。以来、人は結婚していない男を見るたびに「彼は一人前ではない」と思い込み、そのように彼を扱う。つまり、機械的な反応に縛られてしまうのだ。人種、国籍、土地、家柄、仕事、そのほかあらゆる偏見が芽生えるのも、政治や宗教などの主義、信念、排他的ドグマ(独善的教義)が生まれるのも、すべて眠っている人々が作り出す幻影にすぎない。
 さらに博士は、眠っている人間は操り人形でしかないといった。
「われわれは、幼いときからさまざまな価値観や概念を植え付けられてきた。いわばそれは催眠術だ。家庭のしつけ、学校の教育、マスコミの情報、これらはすべて催眠術なのだ」 たとえば、格好のいいアイドルが出てきて宣伝すれば、あまり必要のないものでもつい買ってしまうことがあるのは、日常的に経験していることである。あるいは「お国のために死ぬことは美しいことなのだ」と教育を受ければ、純真な若者は喜んで死んでいくかもしれない。眠っている人間は操られてしまうのである。それはプログラムされたままに動く機械のようなものだからだ。だれかが質問した。
「われわれが機械なら、われわれの運命もまた、プログラムされたように決められたものなのでしょうか?」
 博士は、いい質問であるといった表情を浮かべてうなづいた。
「多くの場合、運命は心の反映である。心が、正確にいえば潜在意識が運命を定めているのだ。しかし、その心が機械的な反応をしており、そこから抜け出すことができない。したがって、当然のことながら、運命も定められたものとなり、変えることができない。ある程度、予知や予言、占いなどが当たったりすることがあるのも、人が機械的な反応で生きているからなのだ」
 “占い”という言葉を耳にして、兄はあの不吉な予言を思い出した。博士のいうことから判断すれば、機械的な反応の生き方をする限り、自分はやがて死ななくてはならなくなると。
「それでは、占いは当たるのですか?」
 思わず、兄の口から質問が飛び出した。
「すぐれた占い師であれば。眠っている者の行動は、機械的な反応パターンの中でしか運命選択の余地がない。そのパターンを解読することができれば、その人の未来を読み取ることは難しくないだろう。繰り返すが、眠っている者は、真の意味で生きているのではないのだ。反応しているだけなのである」
 それにしても、博士の人間観は、どこまでも絶望的で虚無的であるように感じられた。そこには人間としての自由も尊厳もなく、希望もないかのように思われる。あるいはそんなものは、博士のいう幻想にすぎないのだろうか。とはいえ、だとすれば、博士がこうして教えを説いているのは、何のためのなのだろうか? 人間が機械的パターンに支配されるだけの存在であれば、何も努力や修行の意味もないであろうから。
 そんなことを考えていると、エミリーが質問した。
「恋愛も結婚も、反応の結果なのですか?」
 人間の根本的な生の問題を論じているというのに、色恋という俗っぽい質問をしたことについて、兄は少し呆れた。女というものは、こんな話題が頭から離れないのだろうかと。それに対して博士はあっさりといった。
「もちろんだ。どんな人を恋愛や配偶者の対象として選択するかは、その人にプログラムされているのだ。このプログラム通りに、人は特定の人間を選択し、恋し、またある者はプログラム通りに別れる。眠っている人間に自由はない。何回もいうようだが、ただ刺激に対してパターン化された機械的反応をしているにすぎないのだ」
 博士の教説を聞いているうちに、兄はあの不吉な予言を覆す希望が見えてきたような気がした。兄は興奮し、彼の言葉がとぎれるや否や、質問をぶつけた。
「それでは、機械的な反応をやめれば、運命は変えられるのですね」
 博士は、一息いれて全員に視線を向けてこう語り始めた。
「そういうことになる。夢から醒めた者だけが、自由な運命を生きることができる。これから諸君は、覚醒のための修行に案内されることになるだろう。もちろん、希望すればの話だが。正直に申し上げるが、それは容易な道ではない。人生に安楽を求める者は、この道を歩むことはできない。死ぬほどの覚悟がなければ、この道を越えることはできない」
 中年の男がいった。
「しかし、そんな苦労などしなくても、そんな神秘学など学ばなくても、たとえ博士がおっしゃる眠った状態であっても、一生を幸せに送る人だっていますよ」
 すると博士は、やや皮肉っぽい笑みを浮かべていった。
「そういう人はここに来る必要はない。ここは今までの生き方に絶望し、新しい生き方を求めている人のためにある。果てしない快楽と悲嘆との往復、葛藤、欲望の奴隷、競争的生き方、退廃、虚偽、自己幻想、こういった生き方にうんざりし、それに終止符を打とうとする者だけが、この道を歩むことができる。われわれはいかに不自由な存在であるかということに絶望しきったところから、この道は始まるのだ。人生の悲嘆を、酒で、セックスで、娯楽で、あらゆる刺激的快楽で忘れることができなくなった者が、この道に足を踏み入れるのだ。それ以外の人には、この道の何たるかは理解できないし、この道を歩む者も理解できないし、また、理解の必要もないであろう。これは覚醒への道であって、眠りを求める者の道ではないのだから」
 だれかが尋ねた。
「では、いったいどうしたら、目覚めることができるのですか?」

 覚醒するにはどうすればよいか
 博士は非常に重要なことであると前置きしてこう説明した。
「まず、常に自分の心の動きを観察していなさい。そしてその虚偽を見抜きなさい。よろしいか。心は非常にずる賢い。すぐに自分をだます。偽りの自己幻想へと誘い込み、機械的な無意識の行為へと引きずりこもうとする。だから、非常な注意深さと鋭敏な感受性をもって内面の動きを見つめていなくてはならない。ただし、あくまでも観察するだけだ。その動きを変えようとしてはならない。たとえどんなに好ましくない考えが浮かんでも、それと戦い、変えようと働きかけてはならない。なぜなら、そうするとありのままに内面を観察することができないからである」
 ここで、学生らしい感じの若者がいった。
「今まであなたの教説を聞いてきましたが、結局、あなたのやっていることに新しいものは何もありません。あなたの教えていることは、古代ではソクラテスの教え、またインドのラーマナ・マハーリシ、最近ではグルジェフやクリシュナムルティの教えと同じものなのです」
 それに対して、博士は次のように返答した。
「わたくしの教えをだれかほかの人と比較し、それはだれそれと同じであるとか、この教えはこういう名前で呼ばれているとか、そういったことをして何か意味があるだろうか。人は未知のものに名前をつけただけで、もうそれを理解したつもりになってしまう。これは大きな幻想のひとつだ。知識の獲得は、むしろ真理をねじ曲げ、そこから遠ざけてしまうことが多い。また知識は、多くは悪の温床ともなるのだ。私の教えを体得したければ、頭を空にしなければならない。いっぱい詰め込まれた容器には何も入れることはできないのだ」

 覚醒修行の旅の始まり
 博士の講義が終わった。
 兄は圧倒された。世の中にこんな考え方をする指導者が存在していたとは。
 そして明日からおよそ一カ月の間、バスで地方の修行場を巡る計画が発表された。兄は参加する気持ちでいた。また、ちょうど夏休みなので、エミリーやその他いろいろな人がこの修行ツアーに参加した。小型のバスに三十名ほど乗り込み、あくる日の夕方に出発だ。
 バスの運転は博士の助手であるジョージという名の黒人が担当した。落ちついた雰囲気の無口な初老の男である。出発する前、バスの中で博士がわれわれにいった。
「この世の中でわれわれ人間は、二つの道のうちいずれしか選ぶことができない。すなわち、安楽かもしれないが眠っている偽りの人生を送るか、苦しいかもしれないが覚醒した真実の人生を生きるかだ。はっきり断っておくが、覚醒を求めて生きる者に安楽はない。苦しみの連続であるといえるだろう。諸君は世間とは違った幸福を求めなければならない。それが嫌な人は、今ここで降りた方がいいだろう」
 だが、だれも降りる者はいなかった。そこでバスは動き出した。
 永遠に苦しみから解放されるためには、逆説的な表現だが、苦しみを避けて通ってはならないと博士はいう。彼の言葉はいつも謎めいており、たいてい常識とは逆なのである。
 まもなくして、バスの中で講義が始まった。
「よいだろうか。これは非常に大切なことだ。わたくしは諸君に覚醒を与えることはできない。だれもそれを与えることはできない。『覚醒した夢』なら与えることができる。だが、本当に覚醒するためには、諸君は自らの力でそれを行わなくてはならないのだ」
 そして博士は、自分はいわゆる「導師(グル)」ではないといった。
「人は宗教の導師や教祖を慕うあまりそれを神格化し、絶対視する。そのほかの可能性を頭から否定する。しかし、そのようなとらわれた意識をもってしては、真実を見い出すことはできない。したがって、諸君はわたくしを権威者として見たり、崇拝の対象として見たりしてはならない。諸君は自由でなくてはならない。どうかこれから、わたくしのいうことを信じないでほしい。しかし、疑わないでほしい。頭から信じたり疑ったりせずに、自分の頭でよく考え、実行し、体得して、確かめてほしいのだ。なぜなら、そうして得られた知恵こそが本物であるからだ。自分を救うのは自分以外にはいない。わたくしはただ、ヒントを与えることができるだけだ。自ら救おうとする者はそこから学ぶだろう。与えられるのを待つ者は何も得られないだろう」
 すると中年の婦人がいった。(この人が後に覚醒するというのはどうか?)
「私は愚かで、とうていほかの人の助けなくしては救われそうにありません」
「もし、あなたが本当に自分が愚かであると自覚しているなら、あなたは愚かではない。だから必ず自分の力でやれるだろう。本当に愚かな者は、自分が愚かであることに気がつかない。そういう人間は救われないだろうし、救われたいとも思わないだろう。だが、それ以前にまず、あなたは、本当に自分が愚かであると思っているのかね? 本当に自分が愚かであると思っているのなら、恥ずかしくてそんなことは口にできないはずだが・・」
 博士の鋭い眼光を浴びたその婦人は、気まずい顔をしてうつむいてしまった。兄はこの婦人を気の毒に思った。この人は、自分を本当には愚かだと思っていなかったのだろうけれども、だれだって「私は馬鹿だから・・・」といったようなことを口にすることがあるだろう。別に悪気があるわけではないのだ。自分でも気づかないうちに、そういってしまうのだ。しかしファウスト博士は、そのような無意識的ともいうような自己欺瞞でさえも見逃したりせず、厳しく指摘するのである。博士のあの目で睨まれるとき、なぜか知らないが非常に恐ろしく緊張が走るのだ。
「だれかが救ってくれるなどという乞食根性を捨てなさい。導師という松葉杖を捨て、自分の足でどこまでも歩みなさい」
「しかし、導師の導きによって神を見たり、至福の境地を体得した人がいます」
「激しい霊的訓練によって脳が刺激され、幻覚に陥ってエクスタシーを覚えることは珍しくないだろう。あるいは、自らの欲望を導師に投影して至福を得ることもあるだろう。ちょうど自分のひいきする野球チームが優勝したときに狂喜を感じるように。なるほど、そういう状態はある種の満足を与えてくれる。そのような満足を得ることが宗教や霊的探求の目的であると勘違いしている人もいる。だが、いかにそれが神々しい雰囲気に満たされているとしても、しょせんは自己催眠や自己満足による幻想にすぎないのだ」
 博士は、特定の人物を導師として帰依することは正しくないが、あらゆるものを導師として考えるようにすることはよいことであるといった。
「たとえば、蟻は導師だ。彼らは勤勉さを教えてくれる。川は導師だ。みずみずしさを教えてくれる。子供は導師だ。純粋な生き方を教えてくれる。われわれが求道者になったとき、すべては師となって教えを授けてくれるのだ。大切なのは、われわれ自身が、どれほど学ぶ能力をもっているか、ということなのだ」
 博士はまた、そういったあらゆる導師の中でも最高の導師がいるとし、それは何かとわれわれに問いかけた。しかしだれもわからなかった。
「わからないかね? まあいいだろう。いずれわかる。自分自身で考えてもらおう。とりあえず、これで今日の講義は終わりにしよう」
 そうしてバスは、生徒たちを乗せて、夜中じゅう走り続けた。

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