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                知られざる「ファウスト博士」(第1章)

 第1章

 自殺の計画
 賭博犯罪で刑務所に入れられてから、兄は刑務所の中で、自分自身を見つめる貴重な時間を多くもったことが、日記を読むとよくわかる。刑務所内での生活や出来事といった具体的な記述は少なく、それよりも、どんなことを考えたのか、その思考過程が延々と綴られていた。それはまるで、ノートを相手に自分の思いをぶちまけるかのようだった。ときおり、獄中で読んだ本の感想などが挿入されていた。最初の方の文章は、ほとんど自らの境遇に対する嘆きや呪いの言葉で占められていた。自らの生い立ちから、親への批判が綴られていた。それは単なる悪口や愚痴といったものではなく、心理学的あるいは社会学的な論文とでもいいたくなるような、親の人格構造を切り込む分析的な批判だった。親の虚栄的自尊心が、いかに周囲との差別的コミュニケーションを生み出し、子供の健全な成長をスポイルするかといったことが書かれていた。私が四十歳後半くらいになってようやく気づいた自分の親のそうした傾向を、兄はすでに二十代後半において気づいていたことに驚かされた。改めて兄の感性の鋭さに感心させられた。ほとんど親に反抗的な言動をしたことがなく、私はそんな兄を少し鈍いのだとさえ思っていたのだが、とんでもない誤解だった。兄はなにもかもわかっていたのだ。鈍かったのは、そのことに気づかなかった私だった。
 だが、そうした分析評価も、最後はひどい憎悪と呪いの言葉で締めくくられていた。自分の親は、仮にも仏教者を名乗る境遇にありながら、吐き気を催すほど破廉恥な偽善者で、人間として下の下だと書かれてあった。特に母親、また彼を捨てた実の母親のことを、露骨に嫌悪していた。当時、兄がこれほどの憎悪を抱いていた人間であると知り、今になって背筋が寒くなる思いがした。
 私自身に関する記述も、ときどきあった。私の親はひどいが、弟(私)とは関係がないのだと、何回も繰り返し語られていた。だが、それは自分にそう言い聞かせているのだと思われた。兄は、私にも憎しみを感じていたに違いない。だが、頭のいい兄は、親が憎いからといってその子供を憎く思うことは非合理であるとわかっていたのだと思う。だから、兄は自分の心に起こる私への憎しみと常に戦いながら、私に優しくしてくれていたのだ。
 実際、兄ほど私に対して優しくしてくれた人は、現在、妻になっている女性を除けば、他にいなかった。親は確かに、私の経済的な生活を世話してくれたり、それなりに優しくしてくれたけれども、どこかお役所的な冷たさが感じられた。愛情からというより、義務として、私は育てられたような気がする。しかし、兄の親切な行為には、常にあたたかさがあった。私が学校の悪童たちからいじめられたときなど、兄はいっときたりとも私から離れることなく守ってくれて、私をいじめた悪童を見つけると拳骨をおみまいした。おかげで私は、いじめを受けることなく学校生活を送ることができた。また、兄が働くようになると、私によく小遣いをくれた。読みたい本があると言えば図書券をくれた。ガールフレンドができると、デートの費用と一緒に、いわゆる「デート・スポット案内」といった本もつけてくれた。それほど細かい心遣いをしてくれる兄であった。もっとも、私が女性と付き合うことについては、兄は「女なんか、どいつもしたたかで、腹の中では何を考えているかわかんないからな」とけなすのが常であったけれども。
 そして、親と共に私も兄と絶縁することになったときにも、兄は弟のこの冷たい仕打ちを理解してくれていた。「弟は悪くない。親に従わざるを得ない状況にいるのだから」と書かれてあった。その記述を見たとき、私はおおいなる安堵を覚えたと同時に、そんな兄がますます可哀想に思えてきた。そして、こう書かれてあった。「これで私も天涯孤独になった。もっとも、最初から孤独だったのだが」と。
 しかし、何よりも私の胸をつきさしたのは、日記の至るところに書かれてある、「自分には何の価値もない」「生きていても仕方がない」「生まれてきたのが間違いだった」という言葉であった。
 兄はしかし、自分が不幸だからといって、決して幸福な人々を妬むような記述は見られなかった。「あの人たちは神から愛されているのだ。しかし私は、愛されていないのだ。ただ、それだけのことだ」と、そのような言葉が書かれてあった。
 兄の日記のテーマともいうべきものは、この世に神や仏は存在するのか、であった。もしも神が愛であれば、なぜ自分はこんなにも苦しむのだろうと書かれてあった。そうして兄の考えは、しだいに無神論の方へと傾いていった。そして、刑務所から出所する頃には、兄はおそらくほとんど、無神論者になっていたようだ。
 しかしながら、兄の記述には、奇妙な矛盾があることに気がついた。日記の全編を通して、兄は神に問いかけるように書いているのだ。「生きる意味もない不条理な世界を創造した神よ、あなたは人間にばかり罪をおしつけて、自ら罪を感じることはないのか?」といった鋭い視点の言葉もあった。そして「神よ。あなたは、この世には存在しないのです」と書き、「神よ。私は無神論者となりました」と書いているのだ。果たして神の存在を信じない無神論者が、神に向かって語りかけ、神に向かって自分は無神論者だと宣言したりするだろうか?
 兄は結局のところ、神仏の存在を前提に語っていたのであり、心の奥では神仏の存在を信じていたのだと思う。だが、いると思えばいるのだし、いないと思えばいないとも思えるような、あいまいな神の存在への確信ではなく、人間を苦しみと絶望から救ってくれる愛である神が、疑いもなく本当に存在しているのだという、確固たる証明が欲しかったようである。
 そうして日記を読み進めていくと、とんでもない計画が書かれてあった。
 アメリカのナイヤガラの滝か、ゴールデンゲート・ブリッジから飛び降りて自殺するという計画である。もしも神が存在するのであれば、必ず自分を助けてくれるだろうと考えたのだ。それが、兄が納得する神の存在証明であった。この考えに至ったのは、ある聖者が同じように、この世に神がいるなら助かるだろうといって断崖絶壁から飛び降りて助かったという話がもとにあったようである。
 アメリカを選んだのは、特に理由があるわけではなかったようだ。おそらく、日本で自殺して死体が見つかり、私に迷惑をかけないためだったのか、あるいは、みじめな姿を、兄の憎悪する生みの母親や育ての母親に知られたくなかったのかもしれない。ナイヤガラの滝やゴールデンゲート・ブリッジから飛び降りれば、まあ助からないし、場合によっては死体もあがってこないだろうから、自分自身をきれいに抹消できるかもしれないと書かれていた。

 占い師の不吉な予言
 その後、兄は刑務所を出所すると、日記の内容は、いきなりサンフランシスコの七月に飛んでいる。つまり、死に場所をゴールデンゲート・ブリッジにしたようだ。
 兄は、サンフランシスコに着くと、いちおうの観光コースをまわってみたようである。私もむかし、訪れたことがあるが、ここはほかの都市に比べていくらか穏やかな印象を受ける。チャイナタウンが街の中央にあり、けっこう異国情緒に満ちたところだ。巨大なゴールデンゲート・ブリッジのもとには、人工公園としては世界最大のゴールデンゲート・パークがある。広さもそうだが、博物館や水族館、プラネタリウム、ゴルフ場や湖などがあり、そこで老いも若きも、男も女も、ジョギングやらローラースケートなどを楽しんでいる。服装もTシャツにジーンズといったラフな格好で、アメリカ人のざっくばらんな気質が伺える。
 サンフランシスコの街で、兄は占い師に自分の運命を見てもらったと書いてあった。
 兄の日記では珍しく、そのときの様子がけっこう詳細に書かれてあった。喫茶店の地下に、数人の占い師が、小さなブースに囲まれて待機していたという。兄は、受付で、一番優秀な占い師を頼んだそうである。そして、一時間も待った上で、ようやくその占い師のブースに入っていった。
 初老の女性占い師は、巧みな手さばきでタロット・カードをシャッフルし、1枚1枚テーブルの上に配置しながら、驚くような正確さで兄の性格や過去のことを言い当てていったという。たとえば、幼少のときに実の親と離別して違う親に育てられたこと、その育ての親は、何らかの宗教的な関係の仕事をしているが、その親との関係はあまりうまくいかないということ、また、ギャンブルの才能があるということ、しかし、そのために刑罰を受けてしまったことなど、カードをめくりながら、その占い師が述べたことは、すべて的中していたという。兄は、そのたびに心臓がぎくりとなり、その波動が全身に広がっていくのを感じたという。
 そして、最後の一枚を配置したときに、占い師の顔が険しくなったのを見た。その後、彼女は何もいわずに、ホロスコープを作成して運命を診断し、さらに「カバラ数秘術」と呼ばれる、その人にまつわる数を媒体とした三つの占いの手法を試みた。
 やがて、ややためらいがちに、しかし断固たる信念をこめながら、こう語ったそうである。
「あなたは、生きてこの国から帰ることはできないでしょう」
 兄はそのとき、文字通り目の前が真っ暗になったと書いている。この国に、死ぬためにきたことはいわなかったし、占い師も、兄が自殺するとまでは告げていなかったようだ。ただ占い師は、この国で死ぬと告げたのである。
 兄が絶望したのは、他でもない。この占い師の予言が本当であれば、兄は自殺を決行するということ、つまり、神は兄を見捨てたということ、いや、神は存在しないのだということが、証明されたことになるからである。
「やはり、そうなのか・・・」
 兄はこう思ったが、いくばくかの希望を求めて尋ねてみたという。
「運命は変えられないのですか?」
 すると、占い師は哀れむような表情で見つめながらいった。
「わかりません。もしかしたら可能性はあるかもしれませんが・・・。けれど、三つの占いすべてが同じ結果になったケースで、その運命から逃れられた人は、私の知る限り、ひとりもいません」
 つまり、ほとんど絶望的であると、遠回しにいっているのであった。
 結果的には、しかし、この占い師の予言は的中しなかったことが、こうして日記を読んでいる私にはわかっている。
 私は占いなどは信じないが、とはいえ、実際にこの占い師は、知るはずもない兄の過去を見事に的中させたのだから、その死の予言も、あるいはまったくのでたらめではなかったのかもしれない。あの時点では、兄は確かに死ぬ運命にあったのかもしれない。
 だが、何かが、兄の運命を変えたということなのだろう。つまり、何かが、兄の自殺を思いとどめたということなのだろう。けれども、兄は自分が決めたことは断固としてやり抜くタイプである。そう簡単に、自殺の決意を変えるとは思えないのだ。兄が生きていくためには、神が存在するという確証が、何としても必要だったに違いないのだ。なぜなら、天涯孤独で何の支えもなかった兄にしてみれば、この世界で生きる意味があると確信させてくれるものは、ただ神の存在よりなかったからである。
 しかし、そんな希望が、自殺を決行する以前に、すでに打ち破られてしまったのである。「私はこれから金門橋に向かう。そしてそこから飛び降りる。だれにも邪魔されずに。だれにも知られずに。そして死ぬ。これが、今から私に起こる運命のすべてなのだ」
 そんなことを考えながら兄は街頭を歩いた。そして突然、声をあげて大笑いしたという。
「最初から、神なんていなかったのだ。いもしない相手と、私はただ、ひとり芝居をしていただけなのだ」
 すれ違う人々が驚いて兄を振り返った。兄は平気だった。死を受け入れた者にとって、何がどうだろうと心を煩わせるものは何もなかった。ただ、大粒の涙だけが頬を伝わって流れていた・・・
 ・・・いや、そんなことは日記に書いていない。涙を流したなどとはどこにも。けれども私には、兄がそうしたに違いないことが、なぜかわかるのだ。私はこの歳になって、当時の兄の気持ちが痛いくらいわかる。兄の日記を読んでいると、まるで兄の魂と直接に交流しているかのような感覚になる。兄の体験したことは、時空を越えて、そのまま私が体験したことのように感じられるのだ。私は、当時、兄が目にしたものを見た。観光客らで賑わう活気づいた光景を見た。兄の目を通したそれは、まるで白黒の無声映画のようだったことが、私にはわかる。重い足を引きずりながら金門橋に向かう兄、それは私自身であるかのように思われてくる。
 ああ、兄さん! 何という孤独と絶望なのだろう。何という空虚な気持ちなのだろう。ギラギラと照りつける暑い太陽の下で、何という冷たさに震えているのだろう!

 兄の気持ちに共感する
私は思わず日記帳から目をそらした。函館の夜景に視線を向け、自分が今いる場所を確認しないではいられなくなった。そう、私は今、函館のホテルにいるのだ。時計を見ると、午後十一時十五分だ。これが、私の存在している空間と時間の座標である。
だが、再び兄の日記帳に目を通しはじめるや否や、深い共感の渦に巻き込まれ、日記の兄と私は一心同体になってしまうのである。私は、当時、兄の体験した一九六七年のサンフランシスコに行ってしまうのだ。
 私には、これから先、この日記に書かれてあることを、第三者として客観的に伝えることはできない。これからは、兄の視点で展開させていただこうと思う。ただ、日記という性格上、つまり、本来、人に読んでもらうために書かれた文章ではないという理由から、兄の遭遇した状況や人物などについての具体的な情報は、どうしてもつかみきれない点がたくさんある。ある程度、私自身の想像によって補わざるを得ないのだが、それでも肝心な点について知りたいことが抜けてしまうことは避けられない。
 たとえば、兄は占い師のもとを去ってすぐに、ひとりの女の子と喫茶店で出会うようなのだが、サンフランシスコのどの当たりの喫茶店なのか、また、どんな感じの喫茶店なのかは描写されておらず、女の子の外見的特徴にしても、部分的な描写しか残されていない。
 しかし、なぜか私には、彼が体験した光景が、その女の子の姿が脳裏に浮かんで見えてくるのである。そこで、これからは、そのように私が見たビジョンにしたがって、兄が経験したことを伝えていきたいと思う。

 エミリーとの出会い
 兄は金門橋を目と鼻の先にした公園のベンチに腰をおろした。その場におよんで躊躇することのないよう、しっかりと覚悟を決めるためである。覚悟を決めてベンチから腰をあげたら、後は何も考えず一気に死ぬのだと自分に言い聞かせた。
 目の前に、兄と同じくらいの年齢の女性が、小さな子供を芝生の上で遊ばせている光景が見えた。手を伸ばして待っている母親のもとへ、子供は一歩一歩、ふらつきながら近づいていった。今にもころびそうな足取りだった。母親は「がんばれ! もうちょっとよ!」と盛んに励ましている。兄は、自分の運命がこんなふうにできていなかったら、今頃は結婚をして、あれくらいの子供がおり、平和で幸せな生活をしていたのだろうなと思った。ほとんどだれもが苦労なくつかみとれるであろう、そんな平凡な幸せが、兄にはとてつもなく難しいことのように思われた。
 もちろん、そうした状況を作り出すだけであれば、できないことはないだろう。だれかと結婚して子供を作り、家庭を作ることは、できたはずだ。問題は、たとえそのような状況を作り出せたとしても、幸福であるはずのそんな状況に幸福が感じられないという、精神的な感覚麻痺なのである。
 兄は、子供のときから、胸の奥に空虚な気持ち、癒されない気持ちを抱えながら生きてきた。それは寂しさであり、不安であり、疼きであり、せつなさであり、そして孤独であった。それは、満たされない愛を求める気持ちであった。そんな愛の渇望感を、ずっと背負ってきたのだ。青春時代になっても、みんなが楽しいと思うことにも心から楽しめない。表面的には楽しさを装っても、心の中はいつも空しく孤独なのであった。
 何をしても満たされるということがない。どこにも安住の地がない。大人になり、酒を飲んでも、異性を抱いても、金をつかんでも、空しい気持ちから解放されない。せいぜい、刹那的な快楽でごまかしながら、空しさから逃げ続ける人生を送るだけなのだ。どんな手段を講じても、空虚な胸が満たされることがない。どんなに苦悩し、葛藤し、戦い続けても、すべてが空しく終わってしまう。
 兄は、母親というものを憎悪し、それが拡大されて、女性というものを憎悪していた。もちろん、露骨にではない。兄はだれに対しても穏やかに接した。だが、女性を真に愛することはなかった。決して女性を信じることができなかった。だから、決して深くつき合うことができなかった。しかし、その気持ちは、母親に対する愛情、女性への愛情の裏返しでもあった。すなわち、兄ほど母親の愛を、女性の愛を求めていた人間はいないと思うのだ。
ヨチヨチ歩きの子供は、危ない足取りで、しだいに母親の胸に近づいていった。兄は心の中で「がんばれ、がんばれ」と応援した。だが、あと二、三歩というところで、幼児はステンとお尻をついて倒れてしまい、大声で泣きはじめた。兄はそれを見て、再び絶望的な我が身の状況を思い出した。あらめて、この世に神など存在しないのだという思いが、落雷のように降り注いで、兄に死ぬ覚悟を決意させた。よし、今こそ行こうと思い、立ち上がろうとした。
 そのときである。
 フーッ!
 突然、兄の耳元に熱い空気が吹きかかってきた。驚いて見ると、大きなビーグル犬だった。ベンチに乗り上げ、兄の顔に息を吹きかけながら、その顔をなめ回した。
「やめなさい! サルヴァトーレ!」
 ひとりの若い女性があわてて駆け寄り、犬の首を押さえ込んだ。犬はなおも興奮しながら、兄の膝に鼻を近づけてクンクン嗅いでいた。
 女性はしゃがんで犬を押さえながら、兄を見上げながらいった。
「ごめんなさいね。よその人にこんなことなんて、決してしたことがなかったのに」
 青緑色の大きな目、“天使の輪”が光るショート・ヘアー、白いワイシャツにキュロット・スカートをはいた、どちらかというと小柄な女の子だった。
「ああ、どうしましょう。こんなに汚してしまって・・・」
 見ると、兄の着ていたシャツに、犬の足跡が点々とついていた。兄の表現をそのまま引用すれば、その女の子は遠慮もなく自分に近づき、兄の胸や背中を(汚れを落とすために)パタパタと叩いたという。兄は当惑し、身のふりかたに迷い、かたまってしまった。
「い、いいんですよ。どうぞかまわないでください」
 そういうと、下を向いて金門橋の方に向かい、逃げるように速足で歩きだした。
フーッ!
 女の子の手から力づくで犬が離れ、今度は兄のズボンのすそに噛みついた。怒っているような感じだった。女の子はあわてて犬を押さえつけた。
「いったいどうしたっていうの? 今日は少しヘンよ。サルヴァトーレ!」」
 兄はあわてて立ち上がり、大声で怒鳴った。
「ヘンなのは君のほうだ! 私に何か恨みでもあるのか!」
「本当にごめんなさい!」
 女の子の、いくぶん怯えた顔を見た兄は、一瞬のうちに怒りが凍りついた。そして、これくらいのことで腹を立て、怒鳴り声をあげてしまう自分を情けなく思った。大きなため息をつくと、兄は女の子にあやまった。
「私こそ、大きな声をあげて申しわけありませんでした」
 兄のシャツは泥だらけになっていた。
「ごめんなさい。弁償させてください」と女の子がいった。
 兄は薄笑いを浮かべながら首を振ると、シャツについた泥を払うこともなく、そのまま力なく歩きだした。どうせ死ぬのだから、そんなことはどうでもいいことだと、兄は思ったに違いない。日記にはこう書いてある。
「それにしても、人生の最後の最後まで、私は犬にさえも馬鹿にされてしまう存在だったのか・・・」
 犬はまたしても兄の方に向かって吠え、走ろうとしたが、今度は女の子もしっかりとロープを握っていたので、吠える声だけが兄の背中に響いてくるだけであった。
「待って!」
 女の子が追いかけてきて、兄の目の前に立った。
「きっと、私はあなたの役に立つことができると思うわ!」
 そういって、真剣な顔つきで兄の目をのぞきこんだ。
 兄は、女の子の言葉の意味がわからなかった。まさか、自分がこれから死ぬのだということがわかるはずもないと。
 しかし女の子は、兄が大きな問題を抱えているに違いないと、直感的に把握したのだった。兄は、こんな二十前後の女の子に、自分の抱えている大きな問題が解決できるはずがないと思った。
「あなたには関係のないことです」
 そういって、兄は女の子を避けるようにして歩きだした。
「死ぬつもりですね!」
 まるで背後をドスンと押されたように、女の子の言葉にギクリとした。兄は驚いて振り返った。
「どうしてわかったんだ?」
 どうしてわかったのか、女の子にもわからなかった。というより、自分でもその言葉がいきなり口をついて出てきたといった様子だった。女の子はどう理由を説明していいか迷った。そして苦しまぎれに、次のようなことを話し出した。
「実は、私、ある人から教えを受けているんです。そのおかげで、勘が鋭くなったんだと思います。だから、わかったんです」
 そして、夕方から、その人の講義があるので、ぜひ一緒に行きませんかと兄を誘った。
「その人なら、あなたの問題を解決してくれるかもしれません」
 兄は当惑した。せっかく死ぬ覚悟が固まっているのに、それが揺らいでしまうのが不安だった。だが、すでにもう、かなり揺らいでいたのが本音だった。ただ、兄の心には、あの占い師の言葉が引っ掛かっていた。どのみち、自分は自殺することになる運命なのだ。もっとも、あるいは自殺ではなくて、事故か何かで死ぬのかもしれないが、どのみち、生きてこの国から出ることはできないのだ。だから、いま死んでも、後で死んでも同じことである。どのみち、助からないのだ。それならば、潔く初心を貫徹した方がいい。そう思った。しかし反面で、女の子の言葉も気になった。万が一にも、女の子が指導を受けている人物が、自分を救ってくれる可能性が、まったくないともいえない。とはいえ、まず間違いなく、この女の子は何かの宗教だとか、カルトにはまった信者で、自分をそこに招き入れようとしているのだとも考えた。女の子はそんな兄の心を読むかのようにいった。
「心配はいりません。怪しいものではありませんから。私の名前はエミリーといいます」
 そういって、彼女は自分のことを話しはじめた。自分は心理学を専攻する大学生で、歳は十九歳だという。しかし、ありきたりの心理学に満足せず、人間の意識がしばしば発揮する不思議な現象、いわゆる超心理学に関心をもって、いろいろ研究しているのだと。そんなことをしているうち、秘教的な教えを説いている会合を知ることができた。それは秘密の集まりで、おおやけには知られていないし、また、いかなる布教活動もしていないという。そして、その集まりの指導者について、いろいろと教えてくれた。
 しかし、兄の日記を見ると、その指導者がどこのだれであるかについて、記述されていたと思われる部分が、徹底的に黒で塗りつぶされているのである。おそらく、かなり後になってから、その指導者と集まりの秘密を完全に守るために、黒く塗りつぶしたのだと思われる。したがって、残念ながら、この指導者についての、具体的な情報を伝えることはできない。本名さえもわからない。ただ、あの女の子、エミリーによれば、その指導者は「ファウスト博士」と呼ばれているとのことである。
 兄は最初、その名前を聞いて、「やはりな」と思ったらしい。
 ご存じのように、ファウスト博士といえば、悪魔メフィストフェレスから魔力を授かったとされる伝説的な人物であり、ゲーテなどが自らの作品で取り上げている。おそらく、そのようなキャラクターで売り出している子供だましのカルト教祖か何かであろうと、兄は思った。

 ニューエイジ運動が盛んな1960年代のアメリカ
 ここで、1960年代の後半当時の、アメリカの文化事情について、簡単に触れておいた方がいいかもしれない。
 当時、国内ではベトナム戦争に対する反対抗議運動が沸き上がり、自然破壊や機械文明における非人間的な傾向に対する反発が吹き出してきた。反戦・反核運動が各地で行われ、自然や精神的なものへの回帰が謳われていたのである。そして、行き過ぎた合理主義に対して、人間本来の姿を回復するための、いわゆる「カウンター・カルチャー」が、西海岸を中心に起こった。その象徴的な存在が「ヒッピー」であった。ここでは、西洋医学によらないさまざまな民間医療(オルターナティブ・メディスン)や心理療法などが、壮大な実験として百花繚乱のごとく展開された。東洋的な教えがもてはやされ、日本から禅の大家である鈴木大拙が訪れたのもこの頃である。禅のほかにもチベット仏教や老荘(タオ)などが着目され、インド密教や、アメリカ・インディアンの教えなども注目されだした。
 そうして、さまざまな宗教的なカルト集団が誕生し、たくさんの「グル」が誕生した。奇妙な格好をし、髭だらけで沈黙を尊重するインド人なら、だれでも「グル」になれるような時代であった。アメリカ人はインドにわたってグルを求め、またインド人の中には、西洋の豊かな物質文化に憧れて「グル」を自称し、インドを訪れてきたアメリカ人に近寄っていったのである。
 兄は、その当時、相当な人間不信だったので、宗教的な指導者といった輩は、どれもうさん臭く思えていたし、ヒッピーという、何か自らの怠惰をもっともらしい理屈で正当化しているような連中も、好きではなかったのだと思う。今日、こうした教えはニュー・エイジと呼ばれる独特な精神世界を形成しているが、日記によれば、そのようなものはエセ宗教であり、単なる娯楽であって、インスタントな麻薬と同じレベルのものと兄は見なしていたようだ。
 女の子の話を聞けば聞くほど、兄はすっかりしらけてしまい、彼女の誘いを受ける気がしなくなったという。しかも、「ファウスト博士」などという、ふざけた名前の「グル」のもとになど、行くだけ時間の無駄であると。
「お嬢さん、せっかくだけど、私は行くことができません」
「そんなこといわずに、きてください。ぜひ、あなたにきて欲しいのです!」
 女の子は、やや強引とも思えるように懇願した。兄は無視するように、冷たい感じで歩き去っていった。女の子の犬、サルヴァトーレが、その後ろ姿に向かって盛んに吠え続けた。
「夕方五時に、イーストサイド・ホテルのロビーで待っています!」
 女の子は叫んだ。
「くだらない、くだらない、何もかも、くだらない・・・」
 兄は心の中で繰り返した。先ほどのヨチヨチ歩きの子供を抱いた母親が前を歩いていた。子供は母親の肩越しから兄を見つめると、にこりと微笑み、安心した様子で眠りはじめた。 兄はそうして金門橋に着いたものの、観光客が多く、これでは大きな騒ぎになってしまうと思った。そこで、自殺の決行は深夜に行うことにした。そして、それまで近くのカフェに入って時間をつぶすことにした。時計を見ると、三時半だった。なぜ時計なんか見る必要があるのか、自分の行動が不可解だった。自分はもう時間とは無縁の人生を歩んでいるというのに。
 泥だらけのシャツで放心して座っている兄を見て、店員や周囲の客たちは露骨に嫌悪の表情を浮かべていた。だが、兄はまったく内面の世界に浸っていたので、そのことに気づかなかった。もっとも、気づいたとしても、別に平気だったであろうけれども。
「生きて、この国から出ることはできないでしょう」
 あの占い師の顔と言葉が兄の脳裏に再現されていた。この言葉は、神に見捨てられたということ、神の裏切りであり、あるいは神の不在を証明するものであった。
「そう、私はもうすぐ死ぬのだ。別に、それがどうしたというのか? 私など、この世にいてもいなくても同じなのだ。いや、むしろいない方がいいのだ。私は無用の存在なのだ。だから神は、私が死のうとしても無視しているのだ。私はだれからも必要とされていないのだ。そう、私はだれにも必要とされていない・・・」
 そのとき、あの女の子の声が胸に響いてきた。
「ぜひ、あなたにきて欲しいのです・・・」
 兄は鼻でクスリと笑った。あの女の子だけが、たぶん、この世で唯一、私を必要とする人なのだと。しかも、彼女の所属する団体の信者にさせて、その頭数をそろえるだけの。自分は、そんな「数」のひとつでしかないのだと思った。
「それにしても、女というものは、どうして人を自分の欲求をかなえる道具のように見なすのだろう。なんでこうもずる賢いのだろう」
 時計を見ると、四時四十分になっていた。
 兄の脳裏に、あの女の子の顔が見えてきた。兄はしかし、ちょっと待てよと思った。
「あの顔が、果たして自分を信者に誘いもうとするような、打算的な意図をもった顔だろうか?」と。これはもちろん、兄の女性に対する不信感が緩んだわけではない。ギャンブラーとして培われた、人間観察による理知的な見解であった。
 すでに述べたように、兄はやたらにギャンブルが強かったが、それは勘のよさと運の強さの他に、いわゆる「ポーカー・フェイス」を見破る冷静な人間観察の眼、ある種の読心術ともいうべき才能があったからだ。兄はこう結論した。
「いや、あの女の子には、不純な動機はない。本当に、心から私に来て欲しいと願っているのだ」
 兄は思った。たとえ、結果的にくだらないカルト教団の信者にさせられるとしても、人生の最期に、自分を必要としてくれている人間に応えてあげるのも悪くないと。どうせ無意味な人生を送ってきた身である。最期にまた、女に利用され、道化役のコメディを演じてやろうじゃないか。世界よ、私をあざ笑うがいい。神よ、私をあざ笑うがいい」
 こうして兄は立ち上がり、会計で金を払うと係の者に尋ねた。
「イーストサイド・ホテルはどこですか?」
 時間は、四時五十五分になっていた。兄はサンフランシスコの街を走った。
「えーと、あの女の子の名前は何だっけ? 確かエミリーといっていたな・・・」

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