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                知られざる「ファウスト博士」(第3章)

 第3章 エーテル体の改造

「四つの身体」の秘密
 これから兄は、ファウスト博士なる人物に連れられ、いくつかの修行場を点々とするらしいのだが、そこがどこなのか、おそらくその地名や様子などが詳しく書かれてあったと思われる部分が、ことごとく黒く塗りつぶされているので、残念ながら、具体的な場所や、その場所の詳細な様子を伝えることはできない。おそらくサンフランシスコから東の方角に移動しながら、北へ向かったように推測できるが、しかし、兄はファウスト博士の秘密を守ろうとしたわけであるから、その意志を尊重して、これ以上の詮索はするのはやめたい。
 さて、あくる朝、着いたところは、広大な農場であった。バスは農家の中庭に止まり、温厚そうな老夫婦が出迎えてくれた。ここに滞在中、われわれはこの二人から献身的な世話を受けたのであった。
 母屋の二階にある部屋(高齢者と女性用)と、物置小屋の屋根裏(若い男性用)が、寝泊まりする場所として与えられた。
 一息ついたところで、ジョージがやってきて、われわれは講義の招集を受けた。場所は屋外の中庭で、そこに立っている巨木の下が教室だった。おそらくセコイアではないかと思われるが、われわれ四十人ほどの人間が、その大木の陰におさまってしまうのである。
 まだ、それほど日差しが強くない午前中の早い時間に、博士の講義が行われた。周囲は見渡す限り広野と森に囲まれ、かなり遠くに、隣家とも思われるような家屋が見えただけで、あとは何もないところだった。それこそ陸の孤島であった。
 博士はトレーナー姿でやってきた。痩せてはいたが、身のこなしは柔軟で、筋肉質の強靭な肉体を連想させた。そして、樹の下に用意された木製の質素な椅子に腰かけて軽く背をもたられると、生徒たちを見つめ、しばらくの沈黙の後に話が始まった。
 博士は、人間の本質は、純粋な意識であるとした。純粋な意識ことが「真実の自己」であると、しかし、その真実の自己をとりまいている四つの身体によって、人間は構成されている。いわば、「四つの身体」とは、真実の自己(純粋意識)が着ている「服」のようなものである。
 さて、その「四つの身体」とは、肉体・エーテル体・アストラル体・メンタル体であるという。肉体はわかるとして、残りの三つの「身体」とは、いったい何だろうか?
 それらは、目には見えない霊的なエネルギー・フィールドのようだ。
 最初のエーテル体は、もっとも肉体に近い霊体で、肉体の神経システムを司どっているという。すなわち、運動神経、反射機能だとか、自律神経、脳神経などの働きは、肉体レベルでは神経組織を流れる電流として観測されるが、エーテル体のレベルでは、プラーナあるいは“気”と呼ばれる、ある種の生気の流れとして連動しているのだという。ハリや磁気などの療法が効果的なのは、エーテル体のエネルギーの流れを円滑にするからだ。
 次のアストラル体は、エーテル体よりもさらに精妙な霊体で、こちらは感情機能を司どっているという。霊的な視力で見ると、さまざまな色彩で輝いており、感情の変化によってその色も変わる。たとえば情熱的であれば赤、知性的であれば黄色、悲しみは青、崇高な感情は紫、陰鬱は灰色といったようにである。
 そして、このアストラル体よりもさらに精妙なエネルギーで構成されているのがメンタル体で、こちらは知性を司どっている霊体である。つまり、思考を働かせているとき、われわれはメンタル体を働かせているのである。霊的な視力で見ると、さまざまな色彩に加えて、知的レベルに応じた模様や形に変化するのが把握できる。
 要するに、エーテル体・アストラル体・メンタル体とは、人間に備わっている神経・感情・知性という三つの機能のことを意味していると考えていいだろう。われわれの真の自己である本質的な意識は、この地上生活をしている間は、これらの身体を通して自己を表現しているわけである。
 ところが、たとえば体操するときに厚手のコートを着ていては自由に身体が動かせないように、これらの身体は、実際のところ、なかなか本当の自分の意識を表現する媒体となっていない。たとえば、肉体が病気になれば、思うように身体を動かせないように、他の三つの霊体も、ある意味で肉体の病気に相当するような状態にある。そのため本来の自分の意識がうまく発揮されないでいる。言い換えれば、われわれの大半は、本当の自分自身で生きていない。つまり、本当の自分は眠っているのである。そのために、われわれにはさまざまな問題が生じ、不幸や苦しみに見舞われているのである。
 そこで、この本当の自分を目覚めさせなければならない。それがファウスト博士の目標であり、この修行ツアーの目的である。
「では、どうしたら、われわれは真の自己を覚醒させることができるのだろうか?」
 博士は鋭い眼光を光らせてそういうと、生徒たちに考える時間をもうけたのか、しばらく沈黙していた。
「覚醒とは、この四つの身体を支配すること、換言すれば、これら四つの身体を真の自己の意識の表現媒体にする、ということなのだ。ところが実際は、われわれは、これら四つの身体を支配するどころか、支配された状態になっているのだ」
 すでに講義を受けたように、これらの身体は、ある種の機械であって、その機械性に影響され、パターン的な衝動に振り回され、自由を奪われているのである。
「たとえば、メンタル体という“機械”は、ある種の“映像投影機”であって、あなたの頭の中を映画館にするのだ」
 博士によれば、われわれは「映画館」の中に生きているという。外界から入力された情報と、自らの思考や想念によって作り出した虚像の世界、つまり映画を見ている状態だというのである。ある者は、そこにコメディを見る。ある者は悲劇を、ある者は冒険活劇を、またある者は退屈なB級映画を。どうであれ、スクリーンの上に投影された幻影を「現実」と錯覚しているというのだ。ちょうど、われわれが実際の映画を見ていると、「自分は映画を見ているのだ」ということを忘れ、その映画の世界に入り込んでしまうように。
「たとえば、愛についての知識や理屈を頭の中にインプットされると、メンタル体という装置は、見事な“ラブストーリー”を作り上げ、あなたの頭の中で上映を始める。すると自分は、だれかを愛していると本当に思う。自分は愛に満ちた人間であると感じる。だが、それは幻想である。真実の愛は、頭の中にあるのではない。頭の外に、つまり現実の世界にあるのだ。愛とは、愛するという行為、そのものだからだ」
 ファウスト博士は、スクリーンに投影された自己満足的な愛の幻想に浸るのではなく、自分自身が、この現実世界という舞台の主人公になって、愛を表現し実践していくこと、それこそが覚醒することなのだと語った。
「そのために、四つの身体を支配するのだ。四つの身体が、真実のあなたから出た愛を、可能な限り完全に表現できるようにするために、改造し、鍛えなければならないのだ」
 四つの身体は、いわば本質的な意識と物質世界とを結ぶインターフェイスであると考えられているようだ。つまり、覚醒した人というのは、霊的な世界に生きて、霊的な事柄を見たり、その種のことをあれこれ言及するのではなく、むしろ、物質的な現実生活を徹底して生きる人のことである。
 兄はこのことを面白く思った。というのも、ここ最近、既存の伝統宗教とは別の、ニューエイジの精神世界では、生まれ変わりがどうだとか、死後の世界がどうなっているかといった、雲をつかむような彼岸の世界ばかりに関心が向けられているように感じていたからだ。そんな中にあって、ファウスト博士は、精神的な教えを説いていながらも、非常に現実的で、物質的な基盤を重要視しているのである。彼の関心は、霊的な事物だとか、観念的な事柄にはない。
 もちろん、彼は唯物論者ではないし、霊的な世界の存在も認めている。ファウスト博士によれば、人間が死ぬと、これらの身体を脱ぎ捨てて、確かに霊的な世界へ移行する。そのときには、その世界が現実になる。霊的世界に住む者にとっては、霊的なものが、そこでの「物質」なわけだから、“物質的に”生きるのが真実の生である。なのに、霊的世界で生きている者が「地上的な事柄」で頭がいっぱいだったら、その者は幻想に浸っていることになり、真実の生を生きていない。
 つまり、覚醒するとは、いま現在、生きている世界の次元で生きるということなのだ。霊的世界における覚醒とは、霊的に生きることであり、物質世界における覚醒とは、物質的に生きるということなのである。
「しかし、人間の本来の意識の源は、霊的な世界からきているのではありませんか」
 こう質問した人がいた。博士はうなずいて答えた。
「そうだ。物質的に生きるといっても、物質に支配されて生きるという意味ではない。逆に、この物質世界に、霊的世界の理念を反映させて生きること、この物質世界を、本来の意識レベルである霊的次元に近づけるべく生きるということなのだ。だから、四つの身体に支配されるのではなく、四つの身体を支配して、本来の意識の表現媒体としなければならないと説いているのである。人間は、これら四つの身体を通して物質世界に働きかけていくからだ」
「私は、このツアーを誤解していたようです。考えてもみてください。だれだって物質世界に生きているではありませんか。しかし、物質では満たされないから、霊的な世界に関心をもち、霊的な世界を知ることによって、心を豊かにしたいと思うのではありませんか? 私はあなたから、霊的世界のこと、霊的な法則、霊的世界から見た人間の生きる意味、このようなことを学べると思っていました。しかし、そうではないようですね。人間の本質が霊的なものであるなら、なるべく物質世界に執着しないように、物質世界と距離をおいて、霊的な世界にこそ関心を向けて、本来の人間性を取り戻していくべきではないのですか? 仏陀なども出家を勧めましたし、大部分の聖者が物質的な世俗と距離をおくようにいっています。なのに、あなたは物質的な生を重要視する。そんなこと、ほとんどの人がやっていることではありませんか。そんなことをして、何か心満たされることがあるのですか。何の得があるのですか。何の意味があるのですか」
 責めたてるような口調でまくしたてる、このおしゃべりな中年女性は、実際にはもっと長い論説をぶったのであるが、まとめるなら、このようなことをいったのである。
「あなたは、芸術家が、何の得があって絵を描いたり、音楽を作曲すると思っているのだろうか? 彼らの創造行為は、何のためでもない。損得ではないのだ。なぜなら、この世界に美しいものを創造すること、そのこと自体が大いなる喜びだからである。よろしいだろうか。人間とは芸術家なのだ。われわれは、すべて芸術家なのだ。つまり、美なるものを創造することに無上の喜びを感じる存在だということだ。これが人間の本性なのだ。しかも、単に頭の中ではなく、この物質世界に、物質的なものとして造るところに喜びがあるのだ。有形・無形を問わず、あらゆる美しいもの、美しい行為は、それ自体が芸術なのだ。こうした芸術を創造していく存在、それが人間なのだ」

 荒れ地の開墾という霊的修行
 博士はわれわれを引き連れて散歩にでかけ、見渡す限りの荒野に行き、そしていった。
「さあ、ここの土地を二週間で開墾するのだ」
 まさに完全な荒野だった。勝手気ままに生える木、大きな岩石がごろごろし、それがどこまでも続いている。見ると四本の杭によって区画されていた。だいたい大きな球場が二つくらいは埋まるのではないかと思われる広さだった。この土地を二週間で開墾しろというのだ。しかも、鍬やスコップといった原始的な農機具だけを用いてである。
 食事や風呂の支度、鶏や牛などの世話をする人を、毎日五人ほどくじ引きで選んだ。当然、この仕事は荒野の開墾に比べればずっと楽だった。そこで、くじ引きでは、同じ人が何回もこの楽な仕事に当たるかもしれず、公平ではなくなる可能性があるので、順番交替にしたいと博士に申し出た。だが、博士は首を横に振った。なぜダメなのか理由を尋ねると次のような返事が戻ってきた。
「もしも明日、楽な仕事につけるとわかっていたら、諸君は気を抜いてしまうだろう。あるいは、自分の順番がまだまだ先だと思ったら、嫌になってしまうかもしれない」
 このような仕事は、だれもしたことがなかったので、みんな不器用であった。のこぎりで小さな木を切るのでさえ、三十分もかかった。腕は疲労で痙攣し、手のひらが擦りむけた。切り株を取り除くのはさらにきつかった。小さい木でも意外に根は広く深く浸透している。まわりをやっとの思いで掘った後に、ロープをかけて満身の力をこめて引っ張るのだ。
 鍬で地面を耕そうとしても、コンクリートのように堅い土で、しかも石がごろごろしている。それを集めて一カ所に運ばなければならない。ときには自分の体重より重い石もあって、テコをうまく使って掘り起こし、何人かで引きずっていくのだ。
 夕方、太陽が地平線に隠れようとしているときに、作業の終わる合図が出た。からだじゅうが痛み、くたくたになって、はうようにして宿泊所である農家の母屋に戻った。そして入浴し、食事をする。後片付けが終わって講義が始まる頃には、九時を過ぎており、疲労のためみんな眠そうであった。
「諸君は、今まで荒れ地の開墾などということを、おそらくやったことはないはずだ。何か新しい体験をする場合、ほとんどそれは、すでに人工的に設定されたものだ。たとえばスキーを始めるにしろ、車の運転を習うにしろ、それらはすでに一定の手順操作が敷かれている。諸君は、インストラクターや教官の指導を受けながら、すでに設置されているレールを歩んでいけばいいのだ。これが文明生活というものである。それは「パターン」に還元できるものである。だが、人の手が触れたことのない荒野にはパターンは存在しない。岩石は思わぬところに転がっており、樹木一本を切り倒すにも一筋縄ではいかない。つまり、単なる過去の機械的なパターンは通用しないのだ。ケース・バイ・ケースで対処法を考え、全身全霊で工夫し、臨機応変に取り組んでいかなければならない。前例のない未知なる難問を解決する創造性を、いやでも発揮させなければできないのだ。おわかりだろうか。諸君は今まで使わなかった頭を使い、使わなかった筋肉を使ったのだ」
 博士は、もし覚醒したければ、積極的に不慣れなこと、未知なる経験をすることが大切であるといった。慣れた生活は眠った生活であるというのだ。

「中心」でからだを動かす
 荒れ地の開墾の前には、柔軟体操を中心とした準備運動を、かなり徹底的に練習させられた。トレーニング・ウエアに着替えたファウスト博士が、年齢を考えると信じられないような柔軟で優雅な身のこなし方によって、われわれにコツを教示してくれた。
「柔軟でなければ怪我をしたり、失敗をしたり、効率もよくない」
 いつも喧嘩ばかりしていたプロテスタントとカトリックのクリスチャンが、もっとも身体が堅かった。ところが、不思議なことに、彼らの身体が少しずつ柔らかくなるのと反比例して、彼らが争うことが少なくなっていったように思われた。
「われわれは、頭や精神で考えていると思っている。だが、思考の流れを方向づけているのは、実は微妙な感情なのだ。本人は自覚しないかもしれないが、よほど明確な理由で裏打ちされていない限り、快感をもたらす選択肢を真理と結論してしまう。そして、感情というのは、脳だけで感じるのではなく、むしろ身体で感じているのだ。感情とは、エーテル体およびアストラル体の振動のことなのだ。だが、身体が柔軟ではないと、この感情がうまく表出できずに滞留し、それがしこりとなってしまう」
 だが、ただ身体が柔らかければいいというのでもなく、「中心」をもたなければいけないというのだ。いわば、サーフィンをするように、揺れ動く波の上に乗って柔軟に身体を動かす必要があるが、重心をしっかりと保持し続けなければ、激動する波の上にとどまってはいられないだろう。
 また、神経システムは、換言すれば、エーテル体は、両極性を可能な限り広げながら、両者のバランスを取ることによって、その強化されていくのだと説明した。
 博士は、また、「中心」をしっかりと押さえた上で肉体を動かすように指導した。博士は兄に、鍬で地面を耕すようにいった。兄がいわれた通り、何回か行うと、博士は次のように説明した。
「彼は、腕と肩しか使っていない。だが、大切なのは、身体のすべてを使って行うことなのだ。腕も肩も、腰も足も、すべてを使って耕すのだ」
 そこで兄は、意識的に腕と肩と腰と足を動かすようにして鍬を地面に振り下ろした。だが、自分でも感じたが、よほどこっけいな動作をしてしまったらしい。くねくねと、まるで糸のからまった操り人形のようであったに違いない。兄は周囲の失笑を買って少し恥ずかしかった。
「確かに、身体のすべては動かしているが、まったくバラバラだ。それは中心が定まっていないからだ。中心は、腰にある。腰を中心にして身体を動かすようにしてみなさい」
 こうした「中心」から身体のすべてを動かすのを習熟することは、なかなか容易ではなかったが、しだいにそのコツが飲み込めるようになった。そして、「中心」から身体を動かしている人の動作は、実になめらかで安定感があり、また何よりも優雅であった。ある種、音楽のようなリズムがあるのを感じた。美の感性がそこにあることが、「中心」から身体を動かすようになるための、有益な基準になるように思われた。
 身体がもっとも効率的に働いている状態のとき、そこには優雅なリズムが感じられる。ちょうど、ダンスをしているかのように。そうだ。ダンスなのだ。ダンスをするように身体を動かすのが、どうやら最上の身体の使い方らしい。
 そして、ダンスをするには、身体は柔軟でなければならず、また中心軸を定めなければならない。
そのような動かし方をしたら、確かにうまく能率的になったし、それに疲労の度合いも減ったように兄は思った。自ら苦しい実体験を通して、われわれは肉体とエーテル体を制御するコツを体得していったのである。
 そして、こうして全身で身体を動かすと、本当に物事に「取り組んでいる」ような、実に現実的な生々しい感覚を覚えたのだ。今までは、何となく心がそこにない、地に足がついていないような感じで作業をしていたが、こうしてやると、本当に「生きている」という実感が湧いてくるのである。これは、ある種の覚醒状態なのだろう。

 病気を克服する修行
 ここで、アンナという名の少女のことを話さなくてはならない。兄の体験したこのツアーにおいて、彼女は特に印象に残っている一人なのだ。
 彼女はまだ十二歳だった。しかし、小さいときから病弱で、そのためこの年頃の少女には似合わない暗さがあった。痩せており、顔色が悪く、肌は荒れて髪は色あせていた。スタミナがなく、ちょっとしたことで息をきらしてしまう。彼女は母親に連れられ、健康になるためにこのツアーに参加したらしい。母親は、かなり威圧的な感じのする人であった。 こんな調子だったので、生徒たちはみなアンナ母子には非常に気を使わざるを得なかった。バスに乗って少しでも冷たい風が入るならば、母親から怒鳴られる前に、あわてて窓を閉めなくてはならなかった。母親の気遣いといった尋常ではなかった。腫れ物を扱うように世話を焼き、ちょっとでも疲れそうだとすぐにおんぶしたり、ビタミンだ何だと飲ませるのである。そして、二言目には「おまえは身体が弱いんだから」というのだ。われわれのだれもが、アンナは二十歳まで生きられないだろうと思っていた。
 だが、博士は、彼女は必ず健康に生まれ変わると断言した。そして、母親をにらみながら、次のようにいった。
「だが、条件がある。このツアーの期間中、あなたは彼女の母親であることをやめなければならない。あなたはアンナに触れてはならず、また口をきいてもいけない。そして、わたくしの指導に口をはさんではならない。わたくしが彼女にどんなことをしてもだ。この約束があなたには守れるかね?」
 母親は不安そうな顔つきをしていたが、愛する娘のためだと思ったのであろう。何か大きなものを飲み込んだかのようにうなづいた。次に博士は、膝を曲げて背を低くし、アンナに向かいあって次のようにいった。
「アンナ、君は必ず健康になれる。ほかのみんなみたいに思う存分飛んだり跳ねたり、走ったりすることができる。でも、いいかね。それには君ががんばらなくてはならない。わたくしが健康をあげることはできない。わかるだろう? 健康は自分の力でつかむものだ。辛いこともあるけど、わたくしのいうことを我慢してやれるかね。どんなことがあっても、やり抜くと約束できるかね」
 アンナは、できる限りがんばるといった。意外にも強い気持ちをもっているように思われた。博士は軽く微笑み、それではさっそく今からみんなで荒れ地の開墾をしようといった。今までは母屋でおとなしくしていた彼女を、われわれと一緒にあの暑い中、きつい労働をさせるというのだ。母親がかわしたばかりの約束を忘れて叫んだ。
「とんでもない! やめてください! そんなことをしたら、アンナは死んでしまいます!」
 博士が声をあげていった。
「約束を忘れたのかね? はっきりいうが、アンナをこんなふうにしてしまったのは、あなたなのだ!」
 この言葉は相当ショックだったようで、母親は口をあけたまま、まるい目をして博士を呆然と見つめるばかりだった。
「よいだろうか。病人扱いしている限り、決して病気は治らない。あなたがアンナを病人扱いしているから治らないのだ。だからわたくしはあなたにいったのだ。あなたはアンナの母親であることをやめなさいと。彼女に触れず、彼女と口をきかないようにと。これからわたくしは、アンナを普通の健康な女の子として扱うことにする。諸君もそうしなさい」 博士はまるで常識とは逆なのだった。もし病気を治したかったら、病人のまねをやめろという。死ぬのが嫌なら、ベッドに寝て「死ぬ練習」をするなというのだ。面白い表現だと思った。病気に限らず、たとえは人を早く一人前にさせたければ、一人前として扱い、責任ある仕事をさせろという。幸福になりたければ、幸福のように振る舞えというのだ。自己限定する限り、決して変わることなどできない。
 そんなわけで、アンナはわれわれと一緒に作業をした。穴を掘ったり、石を運んだりした。もちろん、急にハードな運動をしたので能率はよくないし、ときどき休んでいたが、それでも彼女なりに精一杯努力していた。その姿は見ていていじらしいくらいだった。エミリーがまるでお姉さんのようにやさしく励ましていた。アンナの母親は博士の命令で、母屋の作業をすることになった。アンナはだから、ひとりで自分を支えなければならなかった。
 博士は彼女をみかけては、もっとがんばるように何回もいっていた。
「もっとがんばりなさい。全力を尽くしなさい。力の限りやりなさい。力を出し惜しみしてはならない。さあ、もっと! もっと!」
 アンナは死にそうな顔をしながら、鍬で地面を耕し続けた。われわれはいくら何でもやりすぎではないかと心配した。そして、医者であるという中年の男性が博士に抗議した。
「あなたは、アンナを殺す気ですか。体力のない病人にこんなことをさせるなんて!」
 だが、博士は、病気をするのは体力があるからだという、またしても常識に反したことをいった。
「体力がなければ病気はできない。病気とはあまった有害なエネルギーが、病状という形で消費されることなのだ。エネルギーはいつまでも使わないで滞留させておくと有害なものになるのだ。生命は循環しているのだ。生まれ変わるには、循環させなければならないのだ。これはどのような面にもいえることだ。もちろん、ときには安静が必要な場合もあるだろう。だが、いまアンナに必要なのは、腐敗したエネルギーを消費させ、新鮮なエネルギーと交換させることなのだ」
 病人は安静にしていなければならないという常識は、ここでもくつがえされることになった。病人ばかりではない。老人もおおいに心身を動かさなければダメだという。本当の意味で老人を大切にするとは、老人を“こき使う”ことだというのだ。家族や社会のために、できる限り身体も頭も働いてもらい、家族や社会から必要とされる存在であり続けないといけないという。そのため、このツアーには、七十歳を越えた人が二人いたが、二人とも容赦なく、若い人と同じような重労働をさせていた。
 アンナは滝のような汗を流していた。この汗とともに、おそらくさまざまな毒素も排出されていったのだろう。彼女は今まで薬づけだったので、毒素が体内に蓄積されていたに違いない。薬は多用しすぎると、しだいに生体本来の自然治癒力を減退させてしまう。アンナは運動と発汗により、エネルギーを循環させていったのだ。
 アンナは、自分が想像するよりも作業ができたので、自信がついたようだ。生徒たちは彼女のことを褒めたたえ、凱旋するかのように、歌を歌いながら母屋に戻った。母親は心配そうに遠くの方で見ていたが、アンナの元気な姿に、ほっとしたような、困惑したような、複雑な顔色を見せていた。
 夜、アンナは疲れのために、本当に熟睡して眠っていた。もっとも、これは生徒のみんなが同じだった。何人か、不眠症で悩んでいたという人がこのツアーに参加していたが、みんな治ってしまったといった。博士によると、もっとも自然治癒力が働くときというのは、眠っているとき、熟睡しているときであるという。そして熟睡するには、心身ともに思いっきり全力を出し切らなければダメだという。余計なエネルギーを残存させていると熟睡できないというのだ。

 ファウスト博士の過去
 博士はときどき、農場のおじいさんに荒れ地の作業の監督をまかせることがあった。このおじいさんが非常に面白い人なのだ。たとえば博士がいなくなると、
「おーい、鬼がいなくなったぞ!」
 などといい、みんなを集めて腰をおろしながら、愉快な話をするのだった。それはおじいさんとおばあさんとの出会いから始まる数々の失敗談なのだが、実に死ぬほど面白いのだ。われわれはおなかをかかえて笑いころげた。アンナも大笑いしていた。そして、博士が遠くからやってくるのを見つけると、われわれは急いで作業に戻るのだった。
 だが、博士がこのことに気が付かないわけはない。おそらく、これも仕組まれた行法だったに違いない。笑うことは体内の腐敗したエネルギーを発散させ、なおかつ呼吸を深くさせる効果をもつ。呼吸と生命力とは大きな関係があるとされ、深く、そして吐く息に力をこめられた呼吸は気分を明るくしてくれる。だから、笑いの呼吸で生きるとき、心身ともに健康になり、幸福になるということがいえる。
 また、兄は、自分の失敗や欠点や弱点を遠慮なくさらけ出し、それを笑うことのできるおじいさんの姿勢に、何か心癒されるものを感じた。人生なんて、たいていのことは笑い飛ばせることができるのかもしれない。それほど深刻に悩むことなんか、そう多くはないような気になった。このことは、やや悲観的な傾向のある兄にとって、いくぶん解毒剤的な効果をもたらしたように思われた。
 このような行法のおかげで、アンナは見違えるようになっていったし、われわれの多くもたくましく変わっていった。
 あるとき、だれかがおじいさんに、ファウスト博士とはどのような人物なのか教えてほしいと頼んだことがあった。
「博士とわしとの出会いは古いのじゃ。それは第二次世界大戦のことじゃった。わしは陸軍部隊に所属し、ある戦線の最前列で戦っておった。そして非常な窮地に陥り、ほとんど全滅寸前だったのじゃ」
 それからの話は悲惨だった。片足を飛ばされた者、全身に爆弾の破片が突き刺さっている者、内臓が飛び出た者、精神がおかしくなった者、そして、死体というよりは肉の断片が戦場に散乱していたという。
 そして重症を負ったおじいさんを助けてくれたのが、ファウスト博士だったという。
「救護テントに運ばれ、もうろうとしたわしの意識がはっきりしたとき、そこにいたのが若くて有能な軍医のファウスト博士だった。だが、驚いたことに、隣を見ると、何と敵国の民間人が横たわっていたのじゃよ。傷ついた女性や子供たちが手当を受けていたのじゃ。考えられないことじゃった。わしは博士に抗議をした。何で敵を助けるんじゃと」
 すると博士は、澄んだ青い目でおじいさんをのぞきながら、こういったという。
「わたくしたちは、みんな犠牲者なのですよ。戦争こそが、わたくしたちの敵なのです」
 おじいさんは、博士のこの言葉に深い衝撃を受け、ベッドに横たわりながら、シンプルなこの言葉を何回も頭の中で繰り返しながら、ここに込められた深い意味について考え続けたという。そしてベッドから起き上がれるようになったとき、おじいさんは生まれ変わったという。そして、戦後、博士に再会したときに、博士の趣旨に賛同して、こうして博士の協力をしているのだという。
 だれかが、軍医という経歴から、なぜこのような秘教的な教えを説くようになったのかと尋ねた。おじいさんは、博士はあまり自分のことを語りたがらないのでわからないといった。
「ただ、戦争が終了して博士と別れるとき、こういっておった。もう二度とこんな悲惨なことが起こらないように、自分は平和の運動家になるのだと。この世界を平和をもたらす方法を追求するのだと、こういっておった」

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