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                知られざる「ファウスト博士」(第4章)


 第4章 エーテル体からアストラル体の改造へ

 老人と若者の喧嘩
 数日たったとき、今まで開墾をともにしてきた七十歳前後の二人の老人がファウスト博士のもとに近づいていった。自分たちは老人であり、もはやこのような肉体的修行はできないし、肉体を強靭にする必要も感じない。この修行は勘弁させてくれないかと頼んだのである。それに対して博士はこういった。
「若者と同じように労働しなければならない、といっているのではない。これはあくまでも自己の限界を破るための修行だ。マイペースでやればいい。だが、ここでいうマイペースとは、最初からほどほどに力を抜いてやるという意味ではない。もうこれ以上は力を出しきれないという全身全霊の限界まできたときにはじめて、一歩でも二歩でも、自分の力の範囲内で、踏み出せるだけ踏み出してみるということだ。なぜなら、これこそが諸君の本当のペースだからである」
 要するに、われわれは、本来自分がもっている能力の限界よりも、一歩も二歩も、あるいはもっと前の段階で、勝手に限界をもうけてしまっているというのだ。
「しかし、仮に無理してできたとしても、後で肉体がまいってしまいます。私はリウマチをもっていますし、彼は腰痛もちです」
「もちろん、無理をしてはならない。だが、無理をするな、というのは、“理が無いことをするな”ということだ。力を出し惜しみするな、という意味ではない。肉体がまいってしまうのは、理のない肉体の使い方をするからである。理にかなった使い方をすれば、どんなに働いたって、肉体は決してまいったりしないのだ。だから、無理のない肉体の使い方、つまり、合理的な肉体の使い方を学ぶのだ。そのための修行なのだ」
 しかし、その二人の老人たちは、とりあえず開墾に出てくるのだが、やっているのか、いないのだからわからないような、だらだらとした態度で、特に博士の姿が見えないときは、地面に座ってタバコをふかしていた。
 生徒たちは、そんな姿を見ると、つい自分たちの心も緩みそうになった。ときには、暑い日差しの中、土にまみれて、このような作業をしている自分が馬鹿らしく思えてしまう。そのうち、ときおり笑い声さえ聞こえるこの二人の老人の存在をうとましく感じ、腹立たしく思うようになってきた。
 すると、おそらくまだ二十歳前半の、いかにも気性の荒そうな若者がキレてしまった。そして、座ってタバコをふかしていた老人の前にかけていくと、大変なけんまくで怒鳴り散らしたのである。
「やかましい! 黙れ! この老いぼれの役立たずが!」
 すると、片方の老人もムッとした顔をして立ち上がり、言い返した。
「何だと、この若造! やっとオムツが取れたような歳で、偉そうなこというな!」
「なんだと! このじじい!」
 若者は老人に飛びかかっていき、激しくもみあいになった。近くにいたエミリーがとめに入ったが、二人の勢いにはじかれて地面に倒れ、そのとき肘を痛めたらしく、顔を苦痛にゆがめて腕を押さえた。遠くで作業をしていた仲間が異変に気づいて駆け寄ってきた。
 老人も、最初のうちは若者に応戦して殴り返していたが、すぐにへなへなと地面に倒れ、頭を抱えてうずくまってしまった。最初、おどおどしていた、もう一方の老人が仲裁に入ったが、若者の頭突きをくらって地面に倒れた。駆けつけてきた仲間によって二人は引き離され、二人とも鼻血を出し、顔が赤くはれていた。兄はエミリーの隣にいって彼女を気づかった。
「ううう・・・」
 仲裁に入って地面に倒れた老人が、エビのようにからだをまるめて七転八倒していた。どうも腰を打ったらしい。その光景を近くで見ていた、二十歳中頃くらいの、青白い顔をした青年が、突然、頭を抱えて「うわー!」と叫び声をあげた。生徒たちはいったい何が起こったのかと思った。青年は激しい呼吸を繰り返しながら、苦しそうに身体をねじった。まもなく、青年は痙攣したようになった。額から汗がしたたり落ちた。その場にいた中年男性が「過呼吸症候群だ。だれかビニールの袋をもってないか」と叫んだ。だれかが昼食のサンドイッチを包んでいたビニールの袋をわたすと、その男性は青年の口にあてがった。まもなく青年は通常の呼吸となり、落ち着きを取り戻した。
 とりあえず、ジョージが老人を背負って母屋に連れていった。この青年ともうひとりの老人も母屋へ向かった。喧嘩をした若者はプイとして鼻血をハンカチでふき取ると、「手当をした方がいいぞ」という周囲の声に首を振りながら、そのまま赤い顔をしてツルハシを握り、こんちくしょうといわんばかりに、地面に振り下ろして作業を続行した。
 結果的に、この老人はたいしたことがなく、入浴して身体を温めた後、湿布薬を張って横になっていたら、夕食で全員と顔を合わせる頃にはかなりよくなったようである。喧嘩をしていた若者は、終始、不機嫌な顔つきで無言のまま夕食をとっていた。もっとも、この日は、他の人も、あまり会話をかわさなかった。ファウスト博士は自室でひとりで食事を取るのが通例だったので、この場にはいなかった。
 突然、おかしくなった青年は、実は神経症を患っていた。それを癒すためにこのツアーに参加したのだという。そして、そのパニック症状が出てしまったのである。というのは、この青年は、死ぬことに対して過敏な恐怖心を抱いており、とりわけ死を連想させる老いの恐怖につきまとわれているのであった。
「自分もいつか、あの人たちのように老人になり、弱々しくなってしまうと思うと、恐ろしくて恐ろしくて、仕方がないのです」
 そういうと、まるでゾンビのように生気なく部屋を出ていった。
 青年がそういった後で、その青年を助けた男性が口を開いた。彼は内科と小児科の開業医ということだった。
「精神科の専門医ではないので何ともいえませんが、彼は神経症に加えて鬱病の傾向があるようです。また自殺をほのめかすようなこともいっています。状況によっては、あり得ないことではないと思いますので、皆さん、ちょっと注意してもらえますか?」
 この日の出来事について、当然、ジョージはすべて博士に報告しているはずだが、博士の方から何かいってくる様子はなかった。
 その日の夜、兄はエミリーの様子を見るために、母屋の二階にある彼女の部屋を訪れた。ドアをノックすると、Tシャツに短パン姿の彼女が姿を見せた。右肘には包帯が巻かれていた。兄は、大根役者が台本を棒読みするような調子でいった。
「大丈夫かい、エミリー」
 彼女は少し驚いた顔をして兄を見つめたが、すぐに嬉しそうな声で答えた。
「平気よ。ちょっとぶつけただけ。さあ、入って。お茶でもどう?」
 兄は、女性の部屋に入ることにためらいを感じて直立していた。すると、バスケット選手かと思うほど背の高いナンシーという名の、三十歳前後の女性が奥からやってきて「遠慮すんなよ。さあ、早く入んな!」と、男のような言葉使いをしながら兄の後頭部に手を回し、まるでボールでも扱うように室内へ押しこんだ。下から顔をのぞくと、最近日本で人気のあるジャイアント馬場とかいうプロレスラーに何となく似ていた。彼女はエミリーと同部屋の相棒なのだった。
 八畳間ほどの広さの部屋に質素なベッドが二つ、斜めに傾いた机と椅子、一部をネズミにかじられたような傷のある漆黒の洋服ダンスがあった。カーテンのない観音開きの大きな窓から、さわやかなそよ風が吹いていた。柱の露出している斜めの天井からぶら下がっているブリキの傘のついた電球の薄暗い光が、周囲を琥珀色に染めていた。ギーという木のこすれる音がしてドアが閉められた。ときおり外から、鳥の声なのだろうか、ヒューッという音が聞こえてくる他は、古めかしい振り子時計の刻むカチコチという音だけが響いていた。静かな夜だった。針は十時を少しまわっていた。
 ナンシーが一階の台所にお茶を入れに出ていった。エミリーはベッドに腰かけ、兄は椅子に腰かけた。彼女と目が合った。兄の顔に視点を固定させたまま、にっこりとした。兄も義務的に少し微笑むと、すぐに視線を窓の外にそらした。三日月が見えた。わずかな沈黙の後、エミリーがいった。
「今日は、驚いたわね・・・。どう? この修行ツアーは?」
 確かに今日は驚いたが、このわずかばかりの間、兄は何年ぶんもの貴重なことを学んだような思いがした。毎日、非常にたくさんの発見や気づきがあったので、いったい何から感想をいえばいいのか迷った。本当に、信じられないような体験ばかりだった。
「とにかく・・・、すごいよ」
 そういって彼女のほうをちらりと見ると、相変わらず兄のことをじっと見つめていて、目が合うと、またにっこりと微笑んだ。そのとき、兄の視界に、一本の木が描かれた彼女のTシャツの、その枝葉の部分が豊かに膨らんでいるのが見て取れた。そして、その緑の奥に実った二つの白い果実に口づけし、その甘さに陶酔している自分自身が脳裏に浮かんだ。兄は彼女のまなざしと微笑みに耐えられなくなり、視線をそらした。
「私、毎日が楽しいわ。ずいぶんハードだけれど。でも、すごく充実してる」
 ファウスト博士という人物がただものではないこと、非常によく計算された修行をしていることなどを、兄は脈絡もなく思いつくままに話した。エミリーは、そんな兄の言葉のひとつひとつにうなずいてくれて、ときには「そうそう、そうよね」といって眼を輝かせてくれた。
 兄はそのとき、久しぶりに、心の底に暖かいものを感じた。彼女の他にこうした暖かさを感じたのは、弟しかいないと書かれていた。
「ああ、弟よ。おまえは今、何をしているのだ? 兄貴らしいことを何もしてやれなくて、すまなかった」
 ああ、兄さん。私をそこまで思っていてくれたのですね。私の方こそすまなかった・・・。
 私は日記帳から目を離し、こみあげてくる熱いものを指でぬぐった。

 老人の決意
 兄が自分の思いを吐き出して一段落つくと、エミリーはやや神妙な表情に変わり、ゆっくり立ち上がると、兄が座っている椅子の背もたれにからだを寄せ、左斜め上から、まるでささやくように語りかけてきた。
「まだ・・・、死のうと思ってる?」
 彼女に答えるために、この問を自分に向けてみなければならなかった。自分はまだ死ぬつもりでいるのか? すぐには死ぬつもりはなかった。このツアーの行く末を見届けたかったから。だが、その先はどうなるのか? 生きていくつもりもなかった。生きていく目的がなかったから。死ぬつもりも、生きていくつもりもないとは、どういうことなのか? 自分でもよくわからなかった。答えに困って沈黙が続いた。とりあえず、何かいわねばならない。だが、言葉が出てこなかった。
「やあー! 待たせたなー!」
 突然、ドアが開いてナンシーが戻ってきた。まるで空気が爆発したかと思った。片手にポット、もう片手に銅製のカップを三つもっていた。そうして、エミリーと兄の会話は途中で流れた。その後は一時間ほど、ナンシーのおしゃべりにつきあわされた。彼女は会社のバスケット・ボール・チームの選手で、心身の鍛練のためにこのツアーに参加したという。豪快な性格で、修行のこと、世の中のあらゆることについての多彩な話題を、ほとんどひとりでまくしたてた。だが、その大半はあまり内容のないものだった。
 ようやく、話の区切りを見つけてその場を立ち去るチャンスをつかんだ兄は、そそくさとドアの方に歩いていった。エミリーはドアを閉めながら、ナンシーのおしゃべりには参ったわねといった意味の苦笑いをこっそりと兄に見せて「おやすみなさい」といった。兄は無言でうなづいて、その場を離れた。そして、疲労のために熟睡している仲間たちの睡眠の邪魔をしないように、静かに歩いて階段を降りていった。
 すると、台所の奥の方から話し声が聞こえてきた。こっそり見ると、それはあの二人の老人だった。調理用のテーブルを囲んで椅子に腰かけながら、何やらまじめな調子で語り合っていた。兄は失礼であると思いながらも、あれほどの大騒ぎを起こしたこの老人が何を話しているのか関心があったので、階段に腰を下ろし、その会話に耳を傾けた。
「俺たちは、本当に老けてしまったな。ウィリアム」
 顔に青いあざを作った方がいうと、片方が腰をさすりながら答えた。
「まったくだ。俺たちは、あんなにもきつい兵器工場だって耐え抜いたっていうのにな。それが今じゃあ、こんな有り様だよ、ダグラス。老いぼれ呼ばわりされてな・・・」
 突然、柱時計がボーンと鳴り始めた。歯車のきしむ音と共に波紋の輪を静寂に刻み込みながら、調子のはずれた音は反響して不協和音となり、二人の男の神経を逆なでした。ひとつ音が鳴るたびに、重いものが心の中に堆積していき、ひとつ鳴るたびに、責められる思いがし、ひとつ鳴るたびに、不安が脳裏をよぎった。もうこれが最後だろうと思っても鳴った。ダグラス老人がぽつりといった。
「俺をぶん殴ったあの若者、あれは、俺の若い頃にそっくりだよ」
 白いあごヒゲを撫でていたウィリアム老人が笑った。
「まったくだ。俺もそう思ったよ。あの若者は、おまえさんの若い頃そっくりだ。むこうみずで、血気盛んで、頑固でな・・・」
「あの若さはどこにいっちまったんだろうな。あの熱い血は。からだは衰えても、あの熱い血だけは絶対に失われないと思っていたんだがな」
「それが今では、うまく立ち回って作業をさぼることだけに長けている老人に落ちぶれてしまったよ。情けないな。あの若者が怒るのも無理はないかもしれん。老人は醜いな。役立たずの老人はな・・・」
 ダグラスがタバコに火をつけた。静かに深く煙を吸うと、ため息をつくように吐き出した。薄暗い電球の下が霧でおおわれたようになった。小さなハエがくるくると飛びまわり、ときどき電球の傘の埃を落とした。
「それにしても、あのノイローゼの若者、どうなっちまうんだろうな」
 ダグラスがそういうと、ウィリアムはあごひげをこするのをやめていった。
「俺たちのぶざまな姿を見せちまったからな。老人の醜態をな。絶望して本当に死んじまうかもしれないぜ」
「そうかもな・・・」
 ダグラスは一度吸っただけのタバコを指でつまんだまま、上を向いて電球を見つめた。ウィリアムは再びあごひげをこすりながら、テーブルの上を見つめた。そのまま二人は、しばらく黙っていた。ダグラスの指から、耐えきれなくなったタバコの灰がぽとりと落ちた。
「なあ、ウィリアムよ。歳を取っても元気でがんばれるってことを示してやれれば、あの若者は助かるかな?」
 ウィリアムは眠そうな目をパチパチさせながら、ダグラスの思いがけない言葉に答えた。「わからんが、助けられるかもしれんな。あいつは、老いて弱くなることが怖いといっていたからな。老いたって、強いことを示してやれれば・・・」
「それができないかな? 老人っていうが、俺たちはまだ七十だぜ。世の中には九十になったって、元気でやってる奴もいるじゃないか」
「しかし、ダグラス。ここでの作業は、隠居の庭仕事とは訳が違うんだぜ」
「わかってるさ。だがな、俺たちが今、がんばって元気にやれることを示せれば、あの若者は立ち直れるかもしれん。死なずにすむかもしれんのだ。どうだ、ウィリアム。俺たちはもう先は長くない。いま死んだって、少し先に死んだって、たいした違いはないだろう。意味なく邪魔者扱いされて少しくらい長生きするよりも、ひとりの前途ある若者を救うために、死ぬ覚悟をしないか。明日から、必死に開墾作業に打ち込んでみないか?」
「だが、それで本当に死んだらどうなる? あの若者はもっとひどいショックを受けてしまうかもしれんぞ。それに、どこまでがんばれるか、わからんよ」
「確かにそうだが、しかし、これは賭けだよ。賭けてみないか。このままみすみす、醜態をさらして生きたいとは思わんだろう。たとえ死んじまったとしても、俺たちの勇敢さは認めてくれるはずだ。その勇気が、若者の心を支えてくれるかもしれん」
 ウィリアムの、ひげをさすっていた手が止まった。
「わかった。ひとつ、やってみるか!」
 二人は立ち上がり、両手で堅い握手をかわした。
「ダグラスよ。何だか、ワクワクしてきたよ。若い頃の血が目を覚ましたかのようだ!」
 兄はひっそりとその場を立ち去り、物置の屋根裏部屋に戻っていった。

 意味なきことに意味を見いだす
 あくる日、二人の老人は、だれよりも早く荒れ地に向かい、鍬やツルハシをもって地面を砕き出した。周囲の者は、いったいどうしたのかという顔つきでその姿を横目で見た。兄はその理由を知らないふりをした。ときどき、手を休めて息を切らしていたが、それでも決して、休憩時間がくるまで腰を下ろして休むことはなかった。かなり無理をしている様子が、痛いほど伝わってきた。そこまでしなくてもいいよ、という気持ちと、どうせ三日ともたないだろうと考えた。しかし、そのまま、とりあえず三日間は持ちこたえた。三日目の夕方、すでに開墾を始めてから十日がたった。開墾のスピードは日を追って加速していったので、当初は絶対に無理だと思っていたのだが、何とか、少なくても基礎的な耕作は、予定の日付までには終わる見通しであった。生徒たちは、自分たちにはこれほどの力があったのだという、おおいなる自信をもちつつあった。作業を終了して母屋に帰るとき、だれかがファウスト博士にいった。
「もうすぐ、開墾も終わります。いったいここに、どんな作物を育てるつもりですか」
 博士はさりげない調子で答えた。
「別に、何も」
 周囲にいた生徒たちは驚き、その人は自分の耳を疑って聞き返した。
「えっ? 何とおっしゃったのですか?」
「ここに何も育てる予定はない、といったのだよ」
 生徒たちは、唖然として立ち止まってしまった。ならば、いったい何のために、こんなに苦労して堅い地面を耕しているのだ? 兄がそう心の中で叫び声をあげると、それとまったく同じ言葉を、だれかが実際に叫んだ。博士はいった。
「ここに作物を植えるから耕してくれと頼んだ覚えはない。荒れ地の開墾は、君たちの覚醒のための修行の機会としてやらせたのではないか。忘れたのかね?」
 考えれば、その通りであった。とはいえ、せっかく耕したのだから、このまま放置してはもったいない。修行を別にすれば、今までの苦労に何の意味があったのかと思いたくなる。
 バン!
 突然、何かが激しく地面に落ちたような音がした。見ると、老人を殴ったあの青年だった。もっていた農具を地面に叩きつけたのだ。赤い顔をして、そうとう激怒している様子がわかる。
「やってられねえよ!」
 そう怒鳴ると、ファウスト博士の方をちらりとにらみ、走るように母屋へ駆け込んでいった。
 あくる日、あの青年の姿は見えず、また、数名の姿も見えなかった。兄もエミリーも、何だか今までの疲れがどっとでてきたような気がして、この意味のない荒れ地の作業を、しぶしぶと始めた。他の仲間たちも、作業に力が入っていないようだった。それはそうだろう。この努力は不毛なのだから。いくら修行が第一の目的であるとはいえ、この荒れ地が日に日に畑に変わっていき、やがてここに見事な耕作物が成長するビジョンを抱いていたのである。それが、この辛い作業を支える励みになってくれたことは否めない。もちろん、すべては修行のためであるのだが、だからといって、なぜここに何も植えないのだ。植えてくれてもいいじゃないか。そうすれば、この作業の苦しみも、それだけ報われるというものだ。他のみんなも、そう感じていたはずである。こうした思いが作業の態度に露骨に現れていて、もうほとんど投げやりな感じで作業をしていた。
 しかし、例外が二人だけいた。あの二人の老人だった。彼らだけは、少しもなおざりにすることなく、真剣に、全身全霊で作業に打ち込んでいたのだ。他の仲間たちは、その姿を見て不思議に思ったり、あるいは感心していた。
 しかし、兄にはわかっていた。彼らの支えは、ここに畑を作ることではないことを。彼らの支えは、自らの生きざまを若者に示すことであった。あの二人は、決して弱音を吐くことなく、全身全霊で作業に打ち込むこと、それ自体に「意味」があったのである。彼らは、自らの心を、あるいは青年の心を、耕していたのである。
 ファウスト博士は、昼食後の休憩時に、短い講義の時間を設けて次のように語った。
「君たちの大半は、この開墾作業に意味がないと感じているだろう。その証拠に、大幅に能率が落ち、疲労も大きくなったことを自覚しているだろう。しかし、いいかね。人生というものがいちいち、これは意味があるからやりなさいなどと、教えてくれると思っているのか? 人生の大部分など、それこそ意味がないと思えるようなことばかりだろう。それはなぜか? われわれ自身の、意味を見いだす能力そのものが、すたれているからである。実際は、いかなるものにも意味はあるのだ。問題は、その意味を発見できないわれわれの無能さにあるのだ。だから、いいかね。この、一見すると何の意味もないように思える荒れ地の開墾作業を通して、どんなことにも意味を発見できる力を、ここで養うようにしなさい。農作物が植えられることのない畑を苦しんで作ることの意味を、見つけるようにしなさい。そのためにも、全身全霊であたっていかなければならないのだ」
 理屈はわかった。生徒たちは、何の意味があるのかと、暑さと疲労でぼんやりした頭で考えながら、堅い地面にツルハシを打ち込み、鍬で土をほぐし、石をスコップでえぐり出し、それを抱えて歩いた。だが、このようなことをする意味といっても、せいぜい、忍耐力と体力を養う程度のことしか、思い浮かばなかった。いくらこんなことをしても、ここは依然として不毛なままであり続けるのである。兄はもう、適当にごまかして、何か意味を見つけたふりをして、早く次の段階の修行に移行したいと思った。
 休憩のとき、エミリーと兄は、木陰の下に座り、水筒の水をがぶがぶ飲みながら、この作業にはどんな意味があるのかと話し合った。彼女もわからないといっていた。
「でも、どんな意味かはわからないけど、意味があるということだけは、何となくわかる気がするの」
 エミリーはそういいながら、遠くに見える険しい山々に遠い視線を向けていた。涼しい風が吹いて、彼女の髪が竪琴のように揺れた。そのとき彼女の耳があらわとなり、耳の後ろから一滴の汗が首に伝わって、ゆっくりと尾を引いて喉のところで消えていくのが見えた。

 真夜中の嵐の修行
 あくる日、作業を終えて夕食を取っていると、雨が降り始めた。雨はしだいに激しくなり、風も出てきて、すきま風が入り込んできて、このおんぼろ屋敷のあちこちで、バタンとか、キーといった音が鳴りだした。そしてベッドに入る頃になると、ゴロゴロゴロと音が聞こえ、ついには激しい雷雨となった。この音がうるさくて、兄はなかなか眠りに落ちることができなかった。
 ようやく、うとうとしかけたときだった。突然、ジョージが梯子を昇ってきて、大きな声で、すぐに母屋へ集まるようにと叫んだ。寝ていた生徒たちは、目をこすりながら、何か重大なことでも起きたに違いないと思い、電球をつけて、急いで服を着た。時計を見ると、午前二時ちょうどであった。雷雨の中を、母屋まで走り抜けたが、たどりつくまでに、ほとんどびしょ濡れになっていた。
 母屋の食堂には、すでにほとんど全員が集合していた。まもなく二階から博士が降りてきて、耳を疑うような指示をしたのである。
「今から、荒れ地の開墾に向かうことにする」
 強い風にあおられた雨が、今にも窓ガラスを破るのではないかと思うくらい、強く叩きつけていた。ときおり強烈な光がわれわれの横顔を青白く照らし出すと、爆音が母屋を揺らした。
「何で、こんな真夜中に、しかもこんな悪天候の中、意味もない荒れ地の開墾など、しなければならないのですか?」
 博士はいった。
「君たちは、いつも人生がベストなコンディションのときだけ、チャンスを与えてくれると思っているのかね? 人生は、いつどんなことがあるのか、予測不能なのだ。それが人生なのだ。人生とは波なのだ。その波は、しばしば乱れて予測不能となる。だからこちらも、いついかなる不測の事態が起きようとも、柔軟に対処できる適応力を養わなければならないのだ」
 だが、さすがに、生徒の半分はベッドに帰っていった。帰りぎわ、小声で博士は気が狂っているという者さえいた。強制はされなかった。残ったのは、エミリーと兄、二人の老人、ノイローゼの青年もきた。そして、ナンシー、その他、数名、合計十五人が、この嵐の中を、そのまま外に出ていった。ついてきたのは、カッパを着たジョージだけで、博士はこなかった。
 生徒たちは、数人の照らす懐中電灯の光だけを頼りに、すさまじい風雨と雷鳴の中、ツルハシを地面に振り下ろしたのである。いくら夏といっても、さすがに十分も作業をしていると、骨の髄まで染みとおるほど寒く、冷たくなってきた。
 ただでさえ、意味のない、苦しい開墾作業なのに、それを、この真夜中の二時過ぎに、このすさまじい雨と風と雷の中をやっているのである。まさに狂気としかいいようがなかった。何の因果で自分はこんなことをしているのかと、情けなくなった。同時に、はるばるアメリカまできて、こんなことをしている自分が、こっけいでならなかった。自分は、どこまで不遇な運命を背負っているのだろうと思った。兄は笑いながら泣いたと書いている。
 普段は眠っている時間に起きて、しかも、まともではない天候のもとでの、普通はやらない荒れ地の開墾、それも目的のない、ただ開墾のための開墾をした。このような、非日常的な経験をすると、ふだんとは違う感情が心の中に顔を出した。
 ピカッ!
 空の端から端へ、雲の間をぬって雷光が流れた。まるで怒り狂った龍のように。その残像が消えぬうちに、地獄の太鼓が破れんばかりに打ち鳴らされた。
 強風のため、着ていたシャツやズボンのすそがブルブルとうなり、ほとんど横殴りの雨が頬に激しい痛みを加えた。ほとんど目もあけられないまま、兄は狂ったように鍬を地面に振り下ろし続けた。大声で叫びたい衝動にかられた。
 兄は、今までの自分が自分ではなかったような感覚になってきた。人生を本当に生きていなかったように感じられた。まるで夢を見ていたように生きていたのではないかと。そして、人生というものが、このような苛酷で悲惨な状況と紙一重の、もろい基盤の上に成り立っているのだと気づいた。
 ふと、エミリーの方を見ると、彼女は膝をついてしゃがみこみ、頭を抱えて風雨から身を守るだけで精一杯の様子だった。兄は彼女のもとへよろめきながら向かい、彼女の風上に腰を低めて立った。「エミリー、大丈夫か!」。そういって懐中電灯で照らすと、彼女は頭をあげ、目を細めて兄を見あげた。「私、恐ろしい!」。
 兄は、彼女の恐怖に震える顔を見て、こんな女の子にこのような思いをさせるほど、こんなことをする理由がどこにあるというのかと思い、怒りのようなものを感じた。
「エミリー、こんなことはもうよそう」
 兄はなかば衝動的にそういって、彼女を抱きかかえるように支えながら、母屋に歩いていき、体当たりするように玄関の扉を開けた。
 母屋の扉を開けて入ると、その食堂には数人の仲間がいた。タオルを頭からかぶって震えている。どうやら、私たちよりも先に降参して戻ってきたらしい。ファウスト博士が食堂の一番奥に座っていて、ニヤニヤしながらこちらを見ていた。私はその姿を見て、この人は頭がおかしいのだと思った。
 まだ野外で開墾を続けていたのは、あの二人の老人と、ナンシーの三人だけだった。エミリーと兄は、仲間たちからタオルと熱いコーヒーをもらった。エミリーはタオルを頭からすっぽりとかぶってみんなから背を向け、椅子に座ってじっと動かなかった。にわかに、外が静かになり始めた。風雨が弱まり、雷鳴が遠いていった。すると扉が開いて、ジョージに連れられて、二人の老人とナンシーが戻ってきた。
 兄は彼らが、さぞかし打ちひしがれているだろうと思った。全員の視線に注目された彼らは、最初、驚いたようにきょとんとして立っていたが、次の瞬間には、ナンシーがおどけた調子で腕を突き出し、Vサインを出してウィンクした。
「イェーイ!」
 二人の老人は、胸を張り、口をきりりと結んで、不動の姿勢で直立していた。顎からポタリポタリと滴が落ちている。
 兄は驚いた。いったいこれが、あの弱々しく情けない老人と同一人物なのだろうかと。老人などという面影は微塵もなかった。男の中の男ともいうべき勇者の姿がそこにあったのだ。いっせいに拍手が巻き起こった。ナンシーは調子に乗ってひょうきんなダンスを踊り、二人の勇者からは笑みがこぼれた。しばらく続いていた拍手が鳴り終わると、老人を殴ったあの青年が二人の勇者の前に近づいていった。
「あなたのことを、役立たずの老いぼれといったことを、謝ります・・・」
 ダグラスがたくましい腕をさしだした。ふたりは強い握手をかわした。風雨は完全におさまり、外は静寂が戻っていた。
 次に、ダグラスとウィリアムは、周囲を見渡して、だれかの姿を探しているようだった。兄には、それがだれだかわかった。ノイローゼの青年である。彼はすみの方にいた。全員の視線が彼に集まった。すると彼は赤面し、もじもじして、ついには扉を開けて、彼の寝所のある部屋へ姿を消してしまった。
 生徒のだれもが、彼の口から「感動的な言葉」が聞けるものと期待していたので、彼の態度にはいささかがっかりした。彼がどう思ったかはわからないが、少なくても他の生徒たちは、人間という存在は、いかに歳を取っても、決して老いぼれたり、役立たずになってしまうことはないのだ、ということを知ったのである。
 沈黙を破って、ジョージがいった。
「さあ、濡れてしまった人は、急いで着替えをしてくださいね。明日の朝の講義は・・・、いや、もう今朝の講義ということになるのかな。二時間遅らせましょう。博士も許してくれるでしょう。それまで、皆さん、ゆっくり眠っていてください」
 生徒たちは、ジョージの温厚な声を耳にすると、まるで春が訪れたかのようなあたたかい気持ちになった。ふとファウスト博士のいた場所に目を向けてみると、いつのまにか、彼の姿はそこになかった。
 ジョージの隣で、エミリーも、濡れて光ってペシャンとなっている髪を片手ですきながら、笑顔を浮かべていた。ジョージが春の風なら、まるでエミリーは風にゆれるタンポポのように感じられた。
 みんなが、それぞれの部屋に戻ろうと動き始めたときだった。突然、扉が開いたかと思うと、ノイローゼの青年がつんのめるように飛び込んできた。生徒の全員が何事かと思って彼の方を見た。青年は輝くような顔でダグラスとウィリアムの方に近づくと、叫ぶようにいった。
「ありがとう! ありがとう!」
 この青年が、殻を破ったこと、すなわち、ダグラスとウィリアムのおかげで、老いる恐怖を打ち破ったことを、その誇らしげな顔が何よりも証明していた。生徒たちもまた、自分自身が勝利者になったような、誇らしげなものを感じた。
 すると、ダグラスが真剣な顔つきをして青年を見つめ、静かにいった。
「お礼をいわなければならないのは、私たちの方だよ。君のおかげで、私たちは力を取り戻すことができたのだから。君の存在が、私たちに生命を吹き込んでくれたんだ。君がいてくれなければ、私たちは本当に、老いぼれの役立たずで人生を終えていたことだろう」
 その言葉を聞いて、青年は大きな目をあけて身体を震わせた。となりでウィリアムが、うんうんとうなずきながら、涙を流していた。ダグラスの目からも、青年の目からも、周囲でその光景を見ていた生徒たちの多くの人の目からも、熱いものがしたたり落ちた。

 確固たる基盤の上に幸福を築く
 兄たちは、このような行法を学び、その実践として荒れ地の開墾をしていたのだ。身体はどのように使うのがもっとも効率的で合理的であるのか、それを学び、実践で体得していったのである。最初、われわれの多くが腰を痛めたり、捻挫や小さな怪我などに見舞われたが、しだいにそのようなことがなくなってきた。
 以前より疲れなくなったし、疲れても回復するのが早くなった。また、器具の使い方が上達した。もちろん慣れてきたせいもあるだろうが、応用が利くようになったのだ。たとえば、今までスコップしか使っていなくても、鍬や鎌に切り替えても、すぐに上手に使いこなせるようになるのだ。まるで、道具が自分で勝手に動いているかのような錯覚を受けた。さらに、作業の手順が効率的になった。以前は無駄なことをして時間を浪費することがしばしばだったが、しだいに「こうしたら、次にこうしよう」「これをする前にあれをしたほうがいい」といったことが、直感的にすぐにわかるようになってきたのである。これは、エーテル体が、つまり神経システムが活性化したからであろう。
 やがて、いつのまにか二週間が過ぎようとしていた。荒れ地の開墾は後半になって驚くほど順調に進み、ついにはほとんど畑にしてしまったのである。また、アンナが見違えるように健康的になったのにも驚いた。顔色がよくなり、少し体重も増えたようだ。そして何よりも明るくなった。少しくらいの労働では疲れなくなった。もう病弱などといわれることはないだろう。母親の喜びは太陽のようだった。まだ若いということもあったのだろうが、しかし、わずか二週間でこうも人が変われるものとは、実際、信じられないことだった。人間の未知なる可能性に、私は不思議な畏敬の念を感じた。
 そして、われわれは自分たちのもっていたパワーに驚嘆した。夕陽を背に受け、視界一面、畑となった土地を見つめながら、感慨に浸っていた。博士がいった。
「どうだ。いかにわれわれは自分の能力を発揮していないか、これでわかっただろう。われわれは本気でやってもみないうちに、“自分にはできない”などと思う。これもまた、自己限定という偽りの自己イメージなのだ」
 われわれは小さい頃から、「そんなこと無理だ」とか「夢にすぎない」などといわれて育ってきた。それが暗示となっているのだ。小さいときから杭につながれて育った象は、成長してもその杭を抜いて歩きまわることができない。自分にはそんな力はないと、思いこまされているからだ。われわれもまた、「できない」という催眠術にかけられ、それに縛られている。
 ここでの最後の修行の日の夜、生徒たちは肉体的に力強くなったことに対して、博士にお礼を述べた。だが、博士の口から出た言葉は、ひどく困惑させるものだった。
「愚かなことをいってはならない。いくら健康になっても、そんなものが何だというのだ。どうせまた不自然な生活をすれば、もとに戻ってしまうのだ。それに歳をとれば健康などというものは失われていくだろう。いったい何がすばらしい恩恵なのか? 諸君らは今まで行った修行の本当の意味が何であったのか、わかっているのかね?」
 この言葉はショックだった。普通なら、病気が治ったアンナとか、強靭な体力や知力を身につけた生徒の成長を、微笑んで祝福してくれるものだ。なのに、なぜ怒られなければならないのだ。だれかがいった。
「でも、健康で頭が冴えていることはすばらしいことです。社会に出て大きな活躍ができるではありませんか」
「いい地位につくために役立つからかね。人よりも金や権力をもつことができるからかね。よいだろうか。そんなものははかない基盤だ。簡単に崩れ去るだろう。そんな幻影に諸君の幸福を築いてどうするのだ。わたくしはそんなことのためにこの訓練をさせたのではない」
 博士は確固とした基盤の上に幸福を築けといった。その基盤とは「真の自己」である。
「真の自己の上にだけ幸福を築きなさい。そのために、真の自己を覚醒させなさい」
 だが、何人かはこの効果だけで満足し、ツアーから離れて帰っていった。アンナとその母親も帰っていった。博士は別に止めはしなかったし、責めたりもしなかった。

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