ことばの遊園地〜詩、MIDI、言葉遊び
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―――より弱く生きよ―――


     いいぞ、ハイドン
                    辻基夫

           1

静かに寝息をたてているのはハイドン
この老いた柴犬が語るのはいつも
短い生を生きた虫やけもの、樹木、草、花の
ことであった
ハイドンはぼくが勝手につけた名前で
今となってはなぜそうしたのか、ちょっと思
い出せない
なにしろ
ぼくの家に来てから十五年もたつのだ
小さいときから花の好きな犬で
散歩に連れていくと
道々の花の匂いを何分も――鎖を引くまで嗅
いでいた
よその住宅の垣根の間から花が咲きこぼれて
いると
満面を花群らの中に突っ込み             (注)花群ら: ハナムラ
――鎖を引くまで――愉しんでいた
ハイドンは今は散歩に行かない
もう歩けないのだ
お婆さんなのだ
ほんの時折り、狭い庭の中を二、三分
よたっよたっと連れて回るだけ
それももうあまり喜ばないみたい
さっきもハイドンはこう言った
「鎖が重い」
でももっと胸を衝かれたのは次の一言だった     (注)衝かれた:ツカレタ
「この石、安物だね」
ハイドンが足の先でつついたのは、たまたま
そこに転がっていた砂利石で、石屋さんで買
うような銘石ではない
そんな石はこの家にはないのだ
ハイドン
もうじき花の季節だよ


           2

――犬が人を噛んでもニュースにならない
  が人が犬を噛むとニュースになる――
『記事の書き方』『編集制作入門』なんてい
う本には、今でもこんなことが書いてあるん
だろうか
ハイドンは
この定説に異議を唱えた最初の犬である
「ワタシを犬だと思って、よく聞いてほしい」
うん、うん、じゅうぶんに犬だとも
勤めから帰ったところで、早く家の中に入り
たい気持ちもあったが、ぼくはハイドンの脇
に腰かけた
まだハイドンが元気な頃で
いろいろと吠えたいことがあったんだろう
さっきのニュース論を一気に切って捨てたの

犬が人を噛んだら――
「きみたちにはいつでも大ニュース、新聞二
段抜き、ときには社会面トップになる
人が犬を噛むと夕刊蜂々には載るけど、きみ     (注)蜂々:ブンブン
たちのニュースになったことないだろ?」
ハイドンは右の前足でぼくの心臓のあたりを
トン、とついた
一本おくれ
という合図なのだ
煙草ではない
(ぼくもハイドンも煙草は吸わない)
あの、妙な栄養棒――スーパーなんかにぶら
下がっている――
あんなものが好物だなんて、ちょっとがっか
りしたこともあるが、ハイドンは正直なんだ
「旨い、旨い」
一本だけじゃ気の毒だから、その日は三本あ
げた
尻尾の振り方が特大
家族の残り物に味噌汁かけて
魚の骨でもあればご馳走ご馳走、という毎日
だからな
あの栄養棒、
きっとほんとうにおいしいんだろう
ハイドン


           3

ある夏の日
地べたに伏せたハイドンの鼻先に
干からびたミミズがあった
「こいつはワタシの友人」
いつか
ハイドンが足先でちょっかいを出して
おもちゃみたいに転がしていたことがあった
けど
その頃から仲良しになっていたようだ
「ミミズはいつも爽快な話をしてくれたよ
地面の下の巨大な森、川の底の鏡の間、あと
少しで独立して一戸建てに住むと言っていた
矢先なんだ」
どうしてこんなことに――
「太陽に焼かれたさ」
地べたに伏せたハイドンは
そのとき初めて目を閉じた
ミミズの間で
異端のミミズ、向こうミミズと言えば
この干からびたミミズを指していたらしい
向こうミミズって何だい
「むかうむきになってる おっとせいって唄
があるんだよ」
そのいきの臭えこと
今はいない詩人の名作ではないか
「きみたちはその程度だかも知れないが
ミミズの間ではわらべ唄第六番だ」
真夏の日盛り午後三時
たしかに地面の下はにぎやかだ
「こいつは
ミミズのきらひなミミズだったから
たいていのミミズから
変ミミズ扱いされてたさ
それでも
わかってもらおう理解されようなんて
ミミズの先ほども考えなかったんだ」
ハイドンの湿った舌が
ミミズの先ってやつを舐めていた
自分の都合に合わせて相手を理解する自分
都合のいいところだけ理解されたがる自分
――ミミズ稼業に行き詰まるとね、
  こうして日に焼かれに来るのさ――
干からびたミミズはそう言って
その日は
「いくぶん焼き過ぎた」
ハイドンが昼寝をしている鼻先で
知らぬ間に
じうじうと逝ってしまったという
ハイドン
覚えとくよ
真夏の道路に打ち上げられた
たくさんの干からびたミミズ
おまえのさいしょの友だちなんだ


           4

ぼくの家の近くに
大きな分譲住宅がある
町並みが完成する前
――あちらにポツン、こちらにポツン
   ポツンポツンと家が建つようになった頃
そこはハイドンとぼくに恰好の散歩道であっ

切り開いた坂が多く
子犬のハイドンには
かなりの運動量であったが
ハイドンはよく歩いた
走った
いずれ公園になるかショッピングセンターが
建つか
鎖から放すと
区画の大きな造成地の中
堰を切ったように縦横斜め十文字
四辺及び対角線
怒涛のようにと言いたいが                 (注)怒涛:ドトウ
小さいからやはり毬が転がるように            (注)毬:マリ
あとからあとから駆け回る
始めは追いかけていたぼくも結局疲れて
ある一点で待つようにした
夢中になって走っていても
向きを変えるときなど
ハイドンはひょとこちらを向くことがあった
いちめんのシロツメクサ
かなたと言ってよい距離で
ハイドンはぼくを
一瞬つなぎ止めるのだった
「きみも動けよ」
そう言っているみたい
ぼくはここで待ってる――
「動け
たいていのことは
動くだけでケリがつくんだから」
ぼくが両手を鳴らすと
駆けてくる駆けてくる
でも真っ直ぐじゃない、ジグザグだ
ハイドン
おまえは遊び上手だよ


           5

カタカナ表記の通り
ワン
と吠える
ハイドンに限っては
ワン
は擬声語ではなく
吠えたそのままが
ワン
なのだ
「そんなに笑うなよ」
ハイドンは
少し不機嫌になって言った
カタカナをなぞるように吠えるのがおかしく

つい笑ってしまったら
「願いや欲望にそって解釈する
それがたいていの場合だ
ワタシの吠え方も
吠えたらそこに
カタカナに聞き取りたい耳があった」
おまえの言う通りだと思うけど
それ、誰かの受け売りだね
ハイドンの言ったことがあんまり立派で
つい反抗してしまった 根拠もなく
すると
「うん」
庭の中程にある柿の木
ハイドンはこの家に来てからずっと
この柿の木を仰いで育っている
「柿の木ってのは
解釈を止めたまんまの姿をしているんだよ
柿の木だっていろいろと欲望はあるさ
だから折れやすいんだね
でも
あるところで
世界の解釈をやめちまうんだ」
ひなびた山村であれ
喧騒の都会であれ
たった一本の柿の木が
そこを選りぬきの風景にしてしまう
ハイドン
柿の木は風景の王者だね


           6

庭の端、塀沿いに青大将がいた
というので
家の者が隅々を探しまわっている
家族が出入りするごとに
尻尾を振って挨拶していたハイドンだが
出入りのわけを知ると
唸り始めた
ほら、こんなに吠えてる
近くにいるのかも知れないぞ
そのときだ
子犬のハイドンが
ぼくの視線を咬み切ったように思えたのは
「ツアラツストゥラっていう
氷の中の火をつかむ遊び、やったことあるか
い?」
あの名高い牧人の章ならね
犬も登場するよ
「羽虫の間で伝承されてきた巻き蛇小唄のと
ころか
あれはきみたち、間違って受け継いでるよ」
ハイドン
耳の裏を掻きながら話すのだった
「蛇を虚無感だの無意味感だのに置き換えて

なかなか“あがり”にならなかったろ?
牧人の喉に喰い込んだ蛇は
果てしない意味の連鎖
あるいはその探索のことなんだ
そういうものを咬み切れ、喰いちぎって捨て

羽虫の伝承ではそうなってる」
ぼくは息を呑んだ
どうしてさかさまに伝えられたんだろう
「とくにさかさまではないはずだよ
きみたち、疲れてただけだと思う」
たしかに……
「あんな恐ろしい光景を見たことないって一節
あるだろ
連鎖する意味の果てしない探索
権威に依り従おうという誘惑に負けている姿

羽虫の間では
もっとも卑しまれていることだ」
………
「だから羽虫は
一匹一匹が、ちゃんとした羽虫だよ
意味の連鎖そのものを
咬み切ったんだからね」
そのあとを
ハイドンは何も続けなかった
犬も夢を見るだろうか
夏の終わり
ハイドン一歳半(推定)
ぼくは言葉なく
でも
この日を忘れないだろうと思った


           7

帰宅する靴音を聞きつけて
小屋から出てくるハイドンは
前のようには跳びはねない
このごろは
出迎えが義務みたいになったのか
小屋から半身を出しては
やれやれって感じで
思いっきりのびをする
そのあと
ゴシャガシャと鎖を鳴らしながら
出てくるのだ
でも尻尾だけは犬らしく正直で
ごまかしがきかないみたい
ハイドンの老化はもっと先のこと
そうは言っても
子犬の頃のよく跳ぶハイドンは
たしかにもういなかった
子犬の頃は
跳び犬って呼んだくらい
よく跳んで弾んだものだね
「動くのがおもしろかったんだ
動けば動くほど
モノを考えなくなるから
じゃなくて
動けば動くほど
モノを考えなくて済むから
じゃなくて」
ぼくは人差し指の先で
ハイドンのおでこを
コツンコツンと二度叩いた
最近の習わし
ハイドンは目を細めて受け容れるのだ
「動けば動くほど
動きが考えを呑み込んでいく
それがとっても愉快だった」
なるほど
いくら考えたって
考えだけでは屁もできねえ
「きみのわりには
いいこと言ったな」
ハイドンは顔を上向けてぼくの手のひらを舐
めてから、こうつけ足した
「アタマでの理解なんて
迷いと同じこと」
わかったよ、
ハイドン
明日晴れたら
必ず散歩に行く


           

ハイドンをつなぎ留めているのは
ただの棒杭
これにハイドンはよく絡まる
鎖がほとんど棒杭に絡まりついて
残った二十センチぐらいの鎖で
じたばたしていることがよくあるのだ
そういうときに限って
急の知らせに来るのが毛虫だったり蛾だった

ハイドンに聞いたことがある
ぐるぐると絡まっていく途中は
どんなふうなんだい
ひとしきり水を飲んでからハイドンは答えた
「なんか、まずいな困ったなって感じはある
きみたちなら逆回りに動き直すのが
せいぜいの関の山だろ
ワタシはまずいな困ったなで
あてがないぶん、もっと絡まるのだ」
ぼくにはわからなかったから
おて
と言って右手を出した
いつものようにハイドンは前足を交互に乗っ
けた
「あそこにツツジが咲いてるね
ツツジたちは初等大学校から中等小学校に進
むとき
解脱の試験があるんだよ                  (注)解脱:ゲダツ
おておすわりおて
ハイドンはしかたなくぼくの指をちょっと舐
めた
どうしていいかわからないとき、ハイドンは
よくそうする
「参考書なんかには
解脱――他に随って生きる なんてあって        (注)随って:シタガッテ
それが一応できればツツジとしては、まあ合
格だ」
ツツジの花が一輪だけあっても
あんまりツツジらしくはないしね
「ほかが咲けば自分も映える
ツツジ中等小学校にはそのくらいで受かるさ
でもその上の高等ツツジ幼稚園に進んだら
そんなもんでは済まない」
日が陰ってきた
塀向こうを子供たちが
バタバタと過ぎて遠くなる
「自分が自分がの一輪思いは、ツツジにもあ
るから
高等ツツジ幼稚園の三年間は
とっても寂しくつらいんだってさ
ところが季節が来て
その思いがそのまんま咲いてみると
ツツジの花みんなになってるんだ」
ぼくはハイドンの頭に手のひらを押し当てて
小さな頭蓋骨をゴシゴシしてやった
内側に向かって
外向きに絡まっていくハイドン


           9

塀の上が猫の通路になっている
ハイドンはときどき猫と顔を合わせるわけだ

どうも苦手らしい
「苦手、苦足、いっそ苦猫って言いたいよ」        (注)苦足:ニガアシ  苦猫:ニガネコ
子どもがおなかにいる猫が通ろうものなら
緊張のあまり
凍りついたように伏せている
小さい頃、子を孕んだ猫に襲われ
一緒に散歩していたぼくも
ともども合わせて深傷を負った               (注)深傷:フカデ
「そんなふうに特定の過去ばかりに目を向け
るのは
きみたちとこの悪い癖だぞ
過去の隣にも過去はあるのに」
塀の上の猫がニ、三歩こちらへ寄ってきた
ハイドン、いいから小屋に入れ
「ワタシは以前、つてを頼って
名医と評判のクモに診て貰ったんだ」
勝手口の廂や便所の裏なんかにいるやつかい?    (注)廂:ヒサシ
「あのクモはたしかに名医だった
!どれ、見せてごらん
 口を開けて、ハイ、アーン!
「ワーン」
クモの名医は
ピンセットみたいな指で
何かをつまみ出したよ
!ほら、これがオマエさんのココロの口だ
  時々は日に当てなくちゃいけないよ!
そう言いながら、クモの巣の上の方に、ココ
ロの口ってやつをぶら下げた
ひらひらと揺れて光ってたな
そのあとで
!ココがかんじんなとこ!
と前置きして
苦猫症に悩むワタシに言ったんだ
!オマエさんには苦猫症が必要なんじゃ
 現在を
 とにもかくにも首尾よくやり過ごすために
 ね
 そうしていつもいつも
 今ココにおける無事を確かめればいいんじ
 ゃよ!
おお、そのとき
塀の上の猫の背が山なりにふくらんだ
ハイドンは――
動かないけど、かすかに震えている
おまえ、治ってないみたいだよ
「クモは、治さないから名医なんだよ
欠点を取り去ると長所もなくなるってね」

行っちまったよ、あの猫
あとかたもなく
視界が急に開けていった


           10

小さな子供が好きで
というより小さな子供の匂いが好きなのだろ

ハイドンは
近づいて来る子供には嬉しそうになごむ
ハイドンの遠い記憶にある
ぼくの知らない生家
じゃれ合った仲間とその家の小さな子
頼り慈しんだひとときがあるのだと思う
小さな子を見上げ
尻尾をおだやかに振っているハイドンが
ぼくは好きだ
「ねえ、小さな子っていいねえ」
少し大きな子は?
「それもいいねえ」
いじわるな子は?
「お馬鹿さんだよ、きみは
子供がたったひとりでいじわるなんかする
もんか」
今も
よちよち歩きの小さな手が
ハイドンの頭をなでている
丘陵の中腹を四月の太陽が温め
あとからやって来た若い母親は
明るい挨拶を残して去っていった
ぼくはいつものように
花や草に首を突っ込んでは
じっと動かなくなるハイドンを引いて
引かれて
坂道を上っていく
どんなふうに子供がいいんだい?
道に面した見知らぬ庭に
鼻を入れようと苦心していたハイドンは
うらめしそうにぼくを見上げたもんだ
「ちょうど鼻先しか入んないように作って
あるぞ」
鼻先と顔だけをブルルッと振ってから言った
「小さな子は豊かなんだよ」
何が?
「わからない
ああ、豊か、たっぷりだって感じがする
それだけで、とっても気持ちがいいんだ」
おとなはそうじゃなくなるんだね
「ううむ
きみには悪いけど、まァそうだ
物事をわかろうとすると、人間が貧しくなる
のかなあ
いろんな言葉といろんなお辞儀といろんなモ
ノで垣根だけは広がっていくけど」
鼻先しか入んない、か
「大人より偉い子供はいっぱいいるよ
でも、子供より偉い大人は少ないみたい」
次の庭先にこぼれ出しているのはゆきやなぎ
ハイドンはもう
鼻を触れて立ち話


           11

しばらく雨が続いたあと
庭の片隅のアジサイがしっとりと咲いた
「長い物思いのメモだよ」
そのころぼくは
仕上がりのいい郵便切手をはがして
それだけを何十枚も持っていた
たんなる普通切手で
しかも使い古しのスタンプが押してある
図柄はアジサイ、色調は地味
なぜだか気に入ってね
「アジサイの花片は――実は萼片なんだけど
咲くまでがたいへんで大騒ぎなんだ」
アジサイの花片は――実は萼片なんだけど
よく見ると、ひとつひとつ
色合いが違ってるんだね
そこがいいじゃないか
「そう
隣り合った花片でも――実は萼片なんだけど
それぞれ染まり方が違う」
ねえ
アジサイの花片は――実は萼片なんだけどっ
て言うの
くどくて遠回りでめんどうでいやだね
「根がそうなんだからしかたないよ」
地面を引っ掻きながら
ハイドンは遠回りなことを言った
え?!
「この庭にある草や木で
アジサイの根っこくらい
くどくて遠回りでめんどうにからみついてる
のはないんだ
自分でもわからなくなってるって言ってたよ」
アジサイと話したの
「アジサイの花片の――実は萼片のなんだけ

複雑微妙は
しぶとい根っこのこんがらがった物思いさ
地面の下でひっそり
いやこっそり
いろんなこと考えてるんだって
少しのいいこととたくさんの悪いこと
みんなのこと少しと自分のことたくさん
考えに考えを重ねて、こねくりまわして、
ますます根が張って、伸びて、きりがなくな
って、
止まらなくなって、涙も流す」
涙って?
「この庭に振る雨だよ
ちゃんと調べるといい
ときどき成分のおかしい雨があるんだから」
そう
見えるものだけを見ていたら
だめだねえ
「聴覚を使わない人がいるし、視覚を使わな
い人がいる
でも音の世界も色や形の世界も実際にはある
だろ?
五感で感得できないからって
それ以外の何かがないなんて、言い切れるも
んか」
また小雨がぱらついてきた

ずっとあとになって
このときハイドンは神様のことを言ったんだ
と思うようになった


           12

ハイドンの身体にいつ虫が入ったのか
壮年期の盛りと思われる頃から
少しずつ蝕まれ弱ってきていた            (注)蝕まれ:ムシバマレ
フィラリアってやつだ
犬を飼うなら
飼い始めに半分は覚悟しておかなきゃならな
いやつ
「病み悩み闇悩みても去年今年            (注)去年今年:コゾコトシ
     つらぬくボーッとした気持ち」
盗作とパロディーぎっしりだな
「きみたちったら、いつもそれだ
きみたちが第一で
きみたちがはじまりで
ところがどっこいしょ」
ハイドンは立ち上がりのびをして
向こうの方で用足しをして戻ってきて続けた
「いまのは
奥山にもみじ踏みわけたもっと奥で
誰とは知られぬ一頭の鹿が詠んだ枝歌だ」      (注)枝歌:シイカ
そりゃ何だい?
「山や山里で詠んだのを枝歌っていうんだよ
森林海洋百首っていう古い歌集に伝わってる
んだ」
ぼくは少しのあいだ目をつむった
昔々の昔の枝歌
鹿から鳥へ、鳥から虫へ、虫から魚へ、
口伝てで伝わり                       (注)口伝て:クチヅテ
そのあいだのどこかで
人間にも少しの形で伝わった
「たしかにフィラリアは
ワタシたちにはとてもむずかしいやつだ
フィラリアって虫は血管の中に棲みついて
長く長く育ってくんだね
しまいには犬のかたちに生きるのもいる」
ぼくはきっと
気の毒そうな目をしたんだと思う
ハイドンは何度も何度もぼくの手のひらを舐
めて言った
「自分のいちばん苦手な困難が
自分にふさわしい大きさでやってくるんだよ」
そうして小屋の前に
いつものように端然とすわった
ハイドン
ぼくのハイドンは
がぶがぶ水を飲む
がぶがぶがぶがぶ水を飲む
夏にはぼくたち家の者が食べたあとの
西瓜の残り、薄赤いところを
しゃきしゃき音をさせて
喜んで食べる
水をよく飲むハイドンは、フィラリア持ちの
まま
けっきょく
壮年期を過ぎ老年期がもう長いのに
柴犬の常識を超えた長命を保つことになる


           13

毎朝、雨戸を開けると
敷居の上のぼくの足に跳びついたり
あごを乗せたりペロッと舐めたり
ハイドンの朝の挨拶である
ところが今朝はちがった
「ちょっと
これ、片付けてくれないか」
小屋の中に敷いておいたタオルケットが
小屋の前で鎖ぐるみ丸まっている
ハイドンの話では
引っ張り出してから
朝の早い雀数羽と一緒になって遊んでいたの
だが
雀は全然巻き込まれず
自分と鎖とタオルケットだけが
アメ玉の包み紙みたいに
ひねり込まれていったという
身軽な連中は得だね
いろいろラクだろうな
今日は日曜日なんだから
何にも考えないようにしようって思ってたの

って顔をしてハイドンは答えた
「きみたちったらいつもいつも
身軽のラクを
中身詰め合わせで欲しがるんだね
この世の中から得と都合だけを掬い採れる       (注)掬い:スクイ
とでも考えているのかい?」
たしかにそういう欲は尽きないな、毎日毎日
「およそ三万七千年前に
ボクラテスっていうわらじむしが言ってるん

∈∋生きることの意味だの真理だの そうい
 った類いの或るもの 生を生き易くする言
 葉 生を救われたものとする言葉 そうい
 うものは ない ∈∋
……
「さらに二万五千年前
アリスとテレスっていうかみきりむしが現れ

∂生の意味、真理なるものが よしんばある
 にしても それが生を生き易くするものだ
 ということは 別段決まったことではない
 のだ 欲しいもの、追いもとめるもの、手
 に入れたいものが 自分を救う、ラクにす
 るという前提は ヘンな奇妙が 混ざって
 る ∂
∬都合よく自分に合った、しかも手短かな言
 葉なんか、まったくムシのいい話である∬」
そう言ったあと
ハイドンは
タオルケットと遊び戯れている
で、また少し巻き込んでしまって
じっと見るのだ
これがこの先
三万七千年も巻きついてたら
たまんない
みたいな顔をして


           14

かげろうが来てはとどまり
ふっと去って
また同じのがやって来る
初秋の夕暮れ、ハイドンの庭
小川が近いせいか
ときに数匹まじゃこりながら
飛んでくる
♪強くなくても生きている
 澄んだ空みて真似をして
♪泣き虫だけれど生きている
 生きてる証拠に泣いてやれ
♪明るくなくても生きている
 明るいヤツにまかせましょ
♪割り切れないまま生きている
 あまりがないのはつまんない

ハイドンが言ってた
この水辺の民謡『かげろう一虫節』は         (注)一虫節:イッチュウブシ
その年に生まれた、いちばんはかなくて
いちばん透き通ってるやつ
日が当たれば溶けちゃいそうなやつ
全然元気の湧いてこないやつ
そういう
かげろうの中のかげろうとでもいうやつが
毎年一節ずつ作って
火を継ぐように歌い継いできたそうだ
今では五万節ほどつながってるらしい
「かげろうとして生まれたからには
よそ見をしてはいけないっていう
つよいおきてがかげろうにはある
だから
いちばんかげろうらしい挫弱ないのちをもら      (注)挫弱:ザジャク
った者が
かげろう一虫節を継ぐしかないんだ」
大きな夕焼けの下で
かげろうなんか
どこへ行ったかわからない
「かげろうは神様の伝言板だからね」
ハイドンは夕焼けのあたりに
見えないかげろうを追っているみたい
「神様は
静かで小さいものに言伝てをするんだよ」       (注)言伝て:コトヅテ
ぼくはね、神様とか
神様を信じるとかは、あまり上手ではないん

「まごころっていうのは小さいものだからね、
自分でもめったに気がつかないさ
小さいからまごころなんだよ
小さくたって
火は火として伝わるよ」
ハイドンの頭蓋骨を
夕焼けぐるりと囲んで染めた
ぼくはそこを手のひらですっぽり覆って
ゴシゴシやった


           15

豪雨をもたらして台風が去った
避難先である玄関の上がり口から降りて
ハイドンは再び
秋天へぐいと全身を曝した                (注)曝した:サラシタ
めざす門へぐいぐいと
その勢いの強いこと
小屋なんか目もくれず
地を這うかたちで真っ直ぐだ
門を一歩出ると
そこは果てなく続くアスファルト道
知らぬ間に爪が削られるいいところ
「轍の残る土の道をどこまでも              (注)轍:ワダチ
ど こ ま で も  ど  こ  ま  
で  も   ど   こ   ま   で
   も
歩きたいな」
ハイドンは
轍の残る土の道がどんなにいいものか
ほんとうには知らない
「土の道の記憶が
どうしてかあるんだよ
生まれるずっと前
遠い昔に生きたことが
きっとあると思うんだ
大切なことなんかひとつも知らなくても
こうして呑気なふうに平然と                (注)呑気:ノンキ
考えなしにずうずうしく
ただで生きていられるんだからね」
ぼくは全然呑気じゃないよ
考えなしは少し合ってるな
ぐいぐい前進するハイドンは
聞いてるんだかいないんだか
濡れた道に鼻押しつけて
フパィッと鼻を吹いた
まずい匂いがしたみたい
生まれるずっと前
遠い昔に学んだ大切なこと
今は少うし後ろから
遠慮がちについてくる
台風になぎ倒されたコスモス
きのうまでハイドンの口や鼻には届かなかっ
た花群らが
今日はハイドンの高さで横向きに咲いている
いちばんの大切って何だろうね
「それを見たり知ったり手に入れたりしても
とくべつ嬉しくもないし安心もできない
むしろ厄介なもんかも知れない
大切って、そうそう都合よくはできていない
と思うよ」
そのあとハイドンは黙ってぐいぐい進んだ
いまもまた
小さくてものも言えないのや
すぐ挫けちゃうのが                     (注)挫けちゃう:クジケチャウ
ハイドンの顔のところまで来てブンブンいっ

花のように笑っては去っていく
ハイドン
道の記憶がぼくにもあるといいんだけど
コスモスだって横っ倒しのじゃあない
立派なやつが
ハイドンの高さで咲いている
轍の残る土の道
ぼくたちの足跡



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

以上は『いいぞ、ハイドン』の全章です。
最後まで読んでくれてありがとう!
感想をお寄せ頂けたらたいへん嬉しいです。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


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