一九五四年のイタリア映画。足の踏み場もないほどに語り尽くされているであろう名作である。だからこれから記すような感想や疑問は、決して目新しいものでないとは思う。というよりも「何を今更」の類いかも知れない。しかし「道」は私にとって、《映画で考える機会を得た》唯一の場所なのだ。
一
現在、「道」について理解のタシになるような資料や文章は皆無である。せいぜい映画史関係のやたらに分厚い本の一ページ、市販ビデオ目録の半ページに、同じ人が書いたみたいな通り一遍の紹介記事が載っている程度である。当然といえば当然、何しろ半世紀前の白黒映画なんだから。
そういった単なる紹介記事を幾つも読んでいて、どうしても納得できない部分が共通してひとつだけあった。ヒロインのジェルソミーナが「白痴に近い」とか「頭が少し弱い」などと書かれている部分である。紹介記事など読む前に十回以上は「道」を見たが、ジェルソミーナがそのように設定された人物だとは思いも寄らなかった。普通ではない気はしたが、「白痴に近い」などとは少しも思えない。どう見てもジェルソミーナはなかなか鋭いのだよ。
例えば、主人公ザンパノの訛り(なまり)を聞き分けて指摘する場面がある。「あたしとは訛りが違う」ジェルソミーナはそう言って、ザンパノの生まれ故郷を聞き出そうとするのだ。これはかなり高度な能力であろう。またこれより前、ザンパノがジェルソミーナを連れて旅回りを始めた恐らく最初の夜のこと。ジェルソミーナは努めてザンパノから離れて夜を過ごそうと苦心惨憺、心を砕く場面がある。結局ザンパノの暴行凌辱を受けることになるのだが、少なくともザンパノの凶暴性・危険性を察知して離れて居ようとするんだから、ジェルソミーナは女として普通のセンスを持っている。さらにまた別の場面では、トマトを植えるのだ。すぐに移動する旅芸人、「何を考えているんだ」とザンパノに一蹴されて終わりになってしまう。それはそうだが、トマトを植えて増やそうという考えのどこに「白痴に近い」気配があるのか。こうした例はほかにも多々あり、総じてもてジェルソミーナが「白痴に近い」「頭が少し弱い」とはどうしても思えないのだ。
たぶん脚本にはそんなことが書いてあるのだろう。「ジェルソミーナ 少し頭が弱い」とかなんとか、性格設定なんてぇのが書いてあるんだろう。それがそのまま宣伝文に使われたのかも知れない。日本に輸入して翻訳つけた段階で、その後の基調となるような共通した「道」理解が完成した。しかし「道」を初めて見てから六年経った今でも、ジェルソミーナが普通のセンスの持ち主だとの私の考えは変わっていない。
ニ
先にも書いた旅芸人暮らしの最初の夜、ジェルソミーナは焚き火のそばで歌を歌う。全体のストーリー中ではさしたる意味を持たないようだが、とても印象に残る場面である。ザンパノから極力離れるように位置しつつ、火の周りでこう歌って、手足をばたばたさせるのだ。「火燃えろ、火の粉飛べ、夜ひびけ」これが即興だとしたら、素晴らしい出来ではないか。即興ではなくイタリアでは知られた古詩の一節を吟じているのならなお素晴らしい。あるいはジェルソミーナの故郷、海辺の寒村にまで知れ渡った当時の流行歌か。いずれにせよ、きわめて魅力に富んだ一節であり、こういうのを歌える者をつかまえて「白痴に近い」なんて誰が言い出したんだ。
この吟詠の直後に、いきなり言うのである。「あさっては雨」──これは一体何のことだろう。ザンパノも面喰って「え?何?」と聞き返すほど、唐突なのだ。原語ではちゃんとわけがわかるようになってるのだろうけど。そう考えて、私は図書館や大きな書店を調べて回ったのである。これこれこういう本はないでしょうか。私が目星をつけたのは、オペラ音楽の対訳本のようなものである。世界名画の脚本対訳集はないか。いえ、イタリア語そのまんまでもいい、むしろその方がいい。書店の若いあんちゃんに聞いたら、「ないでしょうねぇ」。明日のことすら頭にないヤツに、あさってのことを聞いたのが間違いだった。
だから、魅力を秘めた数々のセリフとそれにまつわる私の考えは、字幕スーパーだけを頼りにしたものであり、多くは誤解、うがち過ぎ、読み違いに過ぎないかも知れない。しかし正しい理解でつまらぬ解釈に終わるよりは、おもしろくて身になる誤読に徹しようと決めた。
さて「あさっては雨」である。実際、その後この二人は旅の途中で雨に降り込められ、その雨夜の出来事が映画「道」の分水嶺となるのだから、「あさっては雨」といういきなりなセリフは、やがて来る将来を暗示したセリフには違いない。
そうして、まだ見つけ出してはいないが、「火燃えろ、…」にしろ「あさっては雨」にしろ、もしかしたら聖書中のどこかの詩句かも知れないのだ。
「道」という映画が、キリスト教の聖書の詩句を引用したり、聖書の一場面をなぞらえたり、教義そのものを暗示してみせるなど、聖書世界と重層構造にあることは確かなのである。それも、密接不可分という程度のつくりではなく、重なり合う劇中劇として。この映画の類い稀れな魅力の秘密はここにあるような気がする。
三
二重性。これは初めから終わりまでジェルソミーナの奇妙な表情に付いて回る。しぼんでいるかと思えばパッと華やぐ。充実してると思えばうつろに目を走らせる。そういうふうに指図された演技なのか、ジュリエッタ・マシーナという女優の特徴なのか。
旅芸人になると決まったときの悲しくて不安げな表情のすぐあとで、「してやったり」とニンマリする。映画やビデオの紹介記事には十中十、ジェルソミーナを「純真な」「純心無垢の魂をもつ」などと書いてあるが、もっとちゃんと見てほしい。何の予備知識もなく初めてこの場面を見たとき、「コイツは相当な女だな」って思っちゃいました。この感想は正しいと、今でも考えている。
ジェルソミーナは純真でも純心無垢でもない。汚い心の動きも自分勝手なところもちゃんとある。ジェルソミーナの心性を一言で表すなら、「順直」というのが適切であろう。この言葉はたぶん辞書にはない。ジェルソミーナのために私が作った…つもりでいる。置かれた環境に付き従い、たちどころに愉しみを見出す。
そういうジェルソミーナの、これが順直ということだよという場面をひとつ。ザンパノを忌み嫌って逃亡を試みたジェルソミーナが、道端で一休みする場面である。実にきわどくまずい顔をしながら座ったその途端、座った所で虫穴を見つけ、ほじくり出して虫を手の甲に乗せては空に飛ばして愉しむ。その表情は解き放たれて明るい。十秒にも満たない場面だが、「自分が居るところにある」モノに順応して愉しみを見出すジェルソミーナの特徴が、よく出ていると思うのだ。
虫を空に飛ばした直後の、これまたまずい顔ったらない。瞬時に表情が変わるのは、感情が順々に移ろっていくのではなく、感情が並存しているからであろう。この世ではやむを得ず順々に変わるけど、そうしなくて済む世なら、ジェルソミーナはきっと幾つもの顔を平然と曝して生きるに違いない。十一面観音を見よ。菩薩面三、嗔怒面三、狗牙上出面三、大笑面一、本面一。こうやって一度に生きろ、これでいいのだと、観音さまは言うのだ。決して「心にはこんなに醜いバグがある、神妙にいたせ」とつまらぬ訓戒を垂れてるわけではない。
ジェルソミーナは家族と別れ旅芸人としての旅を始めるにあたって、土手の途上で振り向きざま「出発!」と宣言した。単純ではあるが名場面のひとつだ。このときのジェルソミーナは、まことに明るく充実した表情である。しかし直後に「ジェルソミーナ、ショールをお忘れだよ」と母親が気分ぶち壊しのひと言を言った途端、夢から醒めたようにまずい渋面に変わるのだ。瞬時に変わる。そしてショール(肩掛け)を取りにも帰らず、そのままザンパノの荷車にもぐり込んでしまう。それでいて荷車が動き出すと、家族や故郷に向かって泣きながら手を振る。いくら西洋式別れの儀式だからって、こんなに都合よくクルクル表情が変わろうか。私はついていけなかった。嬉しいんだな、悲しいんだな、感激なんだな、母親のひと言にがっかりしてるんだな、そういう時追い型の理解の仕方では、表情の唐突な変遷にはついていかれない。
ジェルソミーナは、幾つもの感情を同時並存させて生きたのだ。そうすることでのみ、十分に生き得たのだ。恐ろしい殺人事件の立会人になるまでは。このことは後の方で書くつもりである。
四
映画「道」のどこにもついに姿を現さない人物。それでいてこの映画の真の主役かも知れない人物。ジェルソミーナの姉ローザである。姿を現さないのは、ジェルソミーナのドラマが始まる以前に、既に旅の途上で死んでいるからである。大道芸人ザンパノに連れて行かれたのは、実はジェルソミーナではなくローザの方だった。どんな事情かはわからないが、そのローザが死んだ。ザンパノはローザの死を知らせるとともに、ジェルソミーナを買い取るために、再び海辺の寒村にやって来たのだ。スクリーンの「道」はここから始まるが、はるか以前のローザの存在と死こそが、これがどういう映画であるかを決定づけている。
ジェルソミーナは、ローザの身代わりとして芸人になるのだ。あとで泣きながら訴えることになるが、ジェルソミーナは歌と踊りは「少し」できるけど、そのほかは「料理も何にも」できない。母親はザンパノにこう言って売り込むしかなかった。「この子はローザとはだいぶ違う。でも気立てがいいから使いやすいよ」ローザの方が旅芸人としてはずっと素質があるというわけで、ローザが死ななければ、ジェルソミーナは生涯をこの海辺で過ごした筈なのだ。
「道」の骨組みは単純だ。ローザは死に、その身代わりとしてジェルソミーナが選ばれ、連れて行かれる。そうしてやがて見捨てられて結局ジェルソミーナも死ぬ。さらに時を経て最後にザンパノが畏怖と悔いに号泣する。映画「道」の基本構造はただこれだけである。これだけだが、これはキリスト教の最も重要な教義になぞらえた仕組みであることは明らかである。
キリスト教の聖書には、神が造った完全な人アダムが、まず存在する。アダムが罪を犯したために、神は完全な人を再度この世に送り込む。それがイエス・キリストである。イエスはアダムの身代わりとして、その一切の罪を背負って神への取り成しをする役割を担ったのである。アダムの身代わりとは、もちろん我々人間の身代わりということである。
イエスはまた、最後にすべての弟子から見捨てられる。知らんふりをされ、無関係を装われる。イエスを裏切ったのはユダばかりが有名だが、ほかの弟子だって、利敵行為こそしなかったろうけれど、イエスを見捨てたことに変わりはないのだ。見捨てたことで激しく悔い、その結果まことの意味での後継者になったと言うべきである。キリスト教で「復活」は多種多様な場合に用いられる重要な言葉だが、弟子たちもまたイエスの死後、性根を入れ替えて再びイエスの名のもとに復活するのである。
ローザの身代わりとして召し出されたジェルソミーナが、厄介者として見捨てられて死んだ後、ザンパノの悔い改めを呼び起こす。ザンパノの浄化の端緒には、ジェルソミーナの順直と狂気と死がどうしても必要だったのだ。ジェルソミーナは、あたかもイエスのアダムに対するがごとく、ローザの身代わりで召し出され、ザンパノの罪を背負って死んでいったわけである。 映画「道」を一枚の銅版画とすると、その裏面には聖書世界の最重要人物と筋書きが、このように打刻されているのである。
姉ローザが、脚本上そもそも何故必要だったのか。仮りにローザに触れなくとも、「道」は寸分違わぬストーリーで寸分違わぬ感銘をもたらすであろう。ストーリー上では無用なのだ。それを考えれば、姉ローザはこの映画の隠れた主役だとさえ言えるのである。
五 大道芸人ザンパノは、ほかの人の気持ちを考えない、むごく手荒い男のように描かれている。実際ジェルソミーナが逃げ出したのも、人の言うことに耳を傾けないザンパノに、心底嫌気がさしたからだ。
しかしザンパノはそんなに非道な人間なのだろうか。この疑問の根拠は、「ジェルソミーナのテーマ」として高名な、哀愁を帯びたメロディーにある。
ストーリーの中でこれが最初に現れるのは、賑やかなというよりも騒々しい婚礼の場面の後だ。押しかけたか招かれたかはわからないが、農家の婚礼の場で芸を披露したり食事をご馳走になるなど、まずまず順調な旅を続けているかに見えた。その晩はそこの農具小屋か飼料小屋のような所で過ごすのだが、そこでジェルソミーナが「ターリラリラー、リーリリリリー」と、ふいに口ずさみ始めるのである。ここもまた唐突で、直前までザンパノの女癖の悪さに壁の方を向いてしくしく泣いていたのだ。ふいに振り返って「ターリラリラー」とやり始めたときは、いい表情になって、歌の世界に浸り込んでいる。
問題はそのアトだ。
ジェルソミーナはこう言った。「ねえ、この曲覚えてる?雨の日に歌ってた」──この映画中、最もわからないセリフである。いったい誰が歌ってたんだ。ジェルソミーナでないことはたしかだ。死ぬまでラッパでそれを吹き続けることになるのだが、「雨の日に歌ってた」のはジェルソミーナではないはずである。ジェルソミーナは、たまたまそのメロディーを耳にして、そうしてそれが大好きになったに過ぎない。とすると、歌っていたのはザンパノか。まさかネ。氷のように冷たく凝り固まっているザンパノが、歌を口ずさむのだろうか。順当に考えれば、ラジオが歌ってたのだろう。仕事にならない雨の日、つれづれにラジオを聞いていたら、このメロディーが流れてきた。そう見なすのが自然だ。ジェルソミーナに温かい声を掛け続ける若い綱渡り道化師が、ヴァイオリンで弾いていたのもやはりこのメロディーだった。広く流布していたのかも知れない。 しかしラジオで流れていたにせよ、ザンパノもまたそれを歌ったのであると、私としては勝手にどうしても決めつけたい気がする。
その理由。ザンパノはジェルソミーナにせがまれて、ラッパを教えるハメになる。つまりザンパノはラッパを吹けるのである。ラッパを吹ける人間が歌を歌っても、不思議なことは何もない。いくら力まかせの鎖切り芸が売り物とはいえ、ザンパノだって辛酸を舐めたであろう大道芸人である。やれ歌を歌え、踊ってみせろ、などと不得意芸をもこなさなくては生きてこられなかったとみるのが自然ではないか。ザンパノは歌を歌えるのだ。ザンパノは歌を歌うのだ。ジェルソミーナの耳に届いた最初の「ジェルソミーナのテーマ」は、実はザンパノが歌ったものに違いない。
のちに修道尼の前でこのメロディーを吹いたとき、吹き終わった直後に何だかとても切ない表情に変わるところがある。修道尼はそのメロディーに感激するのだが、ジェルソミーナはどうしてか、つらそうな顔を見せるのだ。この美しいメロディーを教えてくれたザンパノが、普段はどうしてあんなにむごいのか。ごろ石のように手応えが悪く、自分をはねつけるのか。「何という曲?」との修道尼の問いかけにも、「さあ」と言ったきり、それで話は続かなくなってしまったほど、ジェルソミーナは唐突に屈託を見せる。
この修道尼が住む修道院の納屋で、その夜ジェルソミーナは自分に対するザンパノの気持ちを聞き出そうと懸命になる。すべてむなしく受け流されてしまった後、ジェルソミーナは涙を流しながらラッパを吹き始める。昼間修道尼に聞かせたあのメロディーである。ジェルソミーナが正気で吹いた、これが最後となるのだが、ジェルソミーナが奏でていたのは「ジェルソミーナのテーマ」なんかではない。
このメロディーはザンパノを通してジェルソミーナに届き、ジェルソミーナ生涯の宝となった。そればかりか、老境に達したザンパノを、最後に救いとるきっかけになったのも、まさにこのメロディーである。だからこれは「ジェルソミーナのテーマ」というより「ザンパノのテーマ」と呼ぶ方が正しいかも知れない。
さて、ザンパノはジェルソミーナに芸を仕込んだだけではない。知らない人の前でむやみに遠慮がちなジェルソミーナに、人前ではこのようにするのだと、それとなく教えるところがある。 ローマでサーカス一座に加わる場面。ザンパノと座長が契約のことなどを話している横で、座長の妻と思われる女性がジェルソミーナに飲み物を勧める。手の仕草で「いらない」と気持ちを表すジェルソミーナに向かって、ザンパノは「いただけ」とただひと言、ぶっきらぼうに言う。ジェルソミーナはその言葉に従って、飲み物を貰うのである。もちろんジェルソミーナは初めから飲み物が欲しかったに違いない。それをスッと言えないもどかしさを、ジェルソミーナはもっている。
先に述べた修道院の庭でも、同じようなところがある。食事のおかわりを持ってきた修道尼に、ジェルソミーナはやはり「いらない」と意思表示をする。横からザンパノが「いただけ」と言う。それに従ってジェルソミーナはおかわりをよそってもらい、そしてそれを食べ始めるのである。この辺は大道芸人として苦労を重ねてきたザンパノに、軍配を上げたい気がする。ザンパノは決して冷たいだけの男ではない。不器用ではあるが、ジェルソミーナに対して、よかれと思うしつけをしているのだ。勝手にしろと思うならば、「いただけ」などとは言わないだろう。
もっとも、ザンパノがこれからのことを考え外面(そとづら)を気にしたのだとも、言えないことはない。サーカスの場面では、仕事の話を有利に進めるために。修道院の場面では、一晩泊めてもらうのだから、仲のいい夫婦を装って女ばかりの修道尼たちを安心させるために。 たとえそうではあっても、ジェルソミーナにとっては「いただけ」と言ってくれる方が、言ってくれないよりははるかに嬉しいことであろう。飲み物や食事を、素直に「欲しい」と言えないジェルソミーナには、ザンパノのひと押しがどうしても必要なのだ。
他人のくれる飲み物や食べ物を、ジェルソミーナが素直に受け取らないのは、この場面だけではない。ザンパノと売春婦らしき女が自分を置いて何処かへ行ってしまった翌朝。道端に座り込んでいるジェルソミーナの脇には、気の毒に思った近所の人が運んでくれた食事が、手をつけられないままになっていた。見咎めた人に向かってジェルソミーナは何と言ったか。「いらないよっ、こんなものっ」意固地になって地べたを蹴っ飛ばしたりするんだから、これはずいぶん素直じゃあない。ザンパノと女のことを考えれば、腹が立つのは当然だが、腹が減るのも自然であろう。 ジェルソミーナは欲求に抵抗して意固地になる癖がある。欲求に全然抵抗しない苦労人ザンパノは、ジェルソミーナのそんなところを時々は軌道修正してやっていた、と言わなければなるまい。
ザンパノは非道なばかりの人間ではない。いい顔を見せることも結構あるのだ。「道」の本場である西洋で生い育った人々にはわからないことかも知れない。イエス・キリストを信じるか信じないか、ゼロか一か、白か黒か。西洋型二者択一はある意味では安易な道である。『蜘蛛の糸』という名短編を持つ我々日本人は、そうあっさりとは白黒を決めない、決めかねる、決められないという、ゆるんだ発想が多分にある。『蜘蛛の糸』のカンダタには一本だけだったが、ザンパノには十本以上の蜘蛛の糸が、束になって下りてくることだろう。
六 ジェルソミーナのまわりにはいつも火がある。先にも書いた「火燃えろ、火の粉とべ、夜ひびけ」の場面。また、心のよりどころを示唆してくれた綱渡り道化師に応えて、小石を手にしながら「今にみんな燃やしてやる」と詩のように語り始める場面。そして泊めてもらった修道院の枕辺にともっていた小さなろうそくの炎。この炎を吹き消してからジェルソミーナの運命が暗転するのだが、ほかにも火は終始スクリーンに現れ、あるいはセリフにも現れる。
ジェルソミーナが見捨てられた場所は、雪の廃村であった。狂気におちて旅芸どころではなくなり、それまで何日も荷車の中でうずくまっていただけのジェルソミーナが、この廃村では不思議に生気を取り戻す。映画全編の中で、ジェルソミーナの表情や仕草が気高さをみせるのは、唯一この場面だけである。久し振りに荷車から降りたジェルソミーナの表情は、落ち着いた明るさを取り戻し、私には神々しささえ感じられた。「ここはいい所」そう言ってジェルソミーナは雪の残る静かな廃村を眺めわたすのである。そうして食事の仕度をしているザンパノの方にゆっくりと歩み寄る。今度はいったい何が起こるのか、気がかりで様子をうかがっていたザンパノだが、ジェルソミーナが落ち着いているのを見て取ると「ここで陽に当たっていろ」と、煉瓦壁の一角を指し示す。ジェルソミーナの最も美しい仕草がここから始まる。指示に従って座った後、柔らかに降り注ぐ太陽と冷たい大気を静かに受けて、頭や衣服を軽く叩くのである。それはホンの数秒の場面。何ひとつ音も声もない静謐。映画「道」のクライマックスである。
ここでジェルソミーナとザンパノは火を囲んで食事をする。出会った最初の頃に「めしもつくれねえのか」とザンパノに罵られたジェルソミーナが、ここでは自分から味付けの調整を買って出るのだ。飯盒から掬い取ったスパゲティを味見したザンパノが「なんか足んねえな」と呟くと、陽に当たっていたジェルソミーナが「あたしがやるわ」と身を乗り出してくる。そしてジェルソミーナが二人の配膳をするのである。ここにも、先に述べた聖書世界との重層構造がある。最後の晩餐として名高い場面である。イエス・キリストは自分を見捨てるすべての弟子に対して、自分の手でパンと葡萄酒を配った。イエスは、ユダが裏切ると承知しており、いずれ自分が捕まればほかのすべての弟子たちも自分との関わりを否定することも承知していた。聖書にはペテロの否定場面しか描写がないが、ほかの弟子たちもペテロ同様イエスを見捨てるのである(遠藤周作著『私のイエス』ほかに詳述)。ジェルソミーナは正気を得た最後の機会に、間もなく自分を見捨てるザンパノに対し食事を調え渡すのだ。果たしてジェルソミーナは、自分が捨てられるとわかっていたのかどうか。もちろんそれは考えても埒のないことであろう。しかしひとつだけヒントらしきものはある。
「道」を初めて見てから三年後、東京・三百人劇場という所でイタリア映画五作品の上映があり、その中に「道」も入っていた。これまで私が書いてきたのは、すべてTV放映を録画したものをもとにしており、画面の小ささは仕方ないとしても、セリフそのものに謎めいたところがあって、だからこんなに長い文章を書くハメになったのだ。もしかしたら別の翻訳であっさり氷解するかもしれないと思い、見に行くことにした。笑わないでほしいのだが、前日はTV・ラジオは言うに及ばず歌舞音曲一切に触れず愉しまず、ひたすら清廉潔白粗食に耐え、身心の挟雑物を排し精神一統、一乗下がり松決闘に臨む宮本武蔵かくやあらむ、恐らくは只一度のこの機会、隅々まで見尽くそうと、ほかのものには目もくれずただ一直線まっしぐら、当日一番乗りを果たしたはよかったが、開場一時間半も前で誰もおらず、しばらく近くを散歩して戻ってみたら五十人以上が並んでいた。
そのときの字幕スーパーでは、久し振りに荷車から降りてきたときのジェルソミーナのセリフは、「ここがいいわ」となっていた。それまでにも翻訳上の差異はもちろんたくさんあったが、この場面での録画ビデオ「ここはいい所」と三百人劇場「ここがいいわ」は、ストーリーの決着にかかわる違いである。前日の禊(みそぎ)も効なく、このあと終了までずっと頭が混乱してしまった。「ここはいい所」は、ジェルソミーナの順直が切々と伝わる言葉である。一方「ここがいいわ」は、日本語では「○○するにはここがいいわ」のように使われるから、ジェルソミーナの胸には捨てられる予感・別れの予感があったとみていいだろう。あるいは一歩すすんで、捨てられるにふさわしい場所を自分で選んでみせたとも言えるかも知れない。三百人劇場での字幕スーパーは、全体の印象としては、聖書を知らない人が翻訳したか、あるいは意図して聖書から離れようと心掛けたか、いずれにせよ聖書世界との関わりが見えないようになっていた。しかしこのセリフだけは例外。イエス・キリストが裏切られ見捨てられていくときに、儀式のようにひとつひとつ旧約預言を成就していったのと、明らかに重なるのである。三百人劇場での字幕スーパーに従えば、ジェルソミーナは捨てられる予感を抱き、ひそかにその時と場所に辿り着くのを待っていた気配があるのだ。
私の好むのは「ここはいい所」の方である。ほんとうに、冷ややかな清潔さのある、静かでいい所なのだ。一面野原というのでもない。人が住んでいた痕跡の残る、しかし何らかの事情で誰もいなくなった、そういう所である。第二次大戦で戦災にあった名残かとも考えたが、山また山を越えたこのような土地が、戦場になったとも思えないし、爆撃を受けるほどの村でもないように思える。一切わからないが。この穏やかな風光の中で落ち着きを取り戻したジェルソミーナが、再び狂気の影を見せたのは食事のさなかであった。「また一緒にやろうな」ザンパノはこう切り出し、近くで祭りがあること、そこへ行けばまた儲けられることなどを話し出した。実際ザンパノは、狂気のジェルソミーナに手を焼きながら旅をしていたため、仕事にならなかったのである。ところがジェルソミーナの耳は途中から──また儲けられるとのセリフを聞いたあたりから──ザンパノの言葉を捉えることができなくなってしまった。木下順ニ『夕鶴』の“つう”のように、カネの話になった途端この世の言葉がわからなくなるのである。食器を置き、ジェルソミーナ最後のつぶやき、とりとめのない独吟が始まる。
「あんたがやった」──これはザンパノが綱渡り道化師を殺したことを指している。その一部始終を目撃してから、ジェルソミーナは正気を失ってしまったのだ。
「あの人が、あんたといるように言ったの」──あの人とは、綱渡り道化師のことである。ジェルソミーナには、手荒くむごいザンパノと手を切るチャンスが、少なくとも二度あった。そのたびにザンパノを選び直してついてきたのだ。それは、この綱渡り道化師が、からかいながらもいつしかジェルソミーナを可愛がるようになり、寄る辺ないジェルソミーナに道しるべのようなものを与えたからである。軽はずみなことを言ったりしたりする男の気まぐれな、他愛もない説諭ではあるが、この人の言葉をジェルソミーナはついに生涯守り通したのだ。
「ここはいい所」──先程と同じ言葉。二度も繰り返すのは、ここは自分に合っている、ここが自分の場所だ、自分はこの清浄な土地に居たいということである。しかし実際には荒れ果てた廃村なのだ。何もない。エジプトからカナンの地に戻ってきたユダヤ人も、実際に目にしたのは荒れた故郷であったはずだ。
「木をくべなきゃ、火は消える」──火である。ジェルソミーナがスクリーン上で言った最後の言葉が、火なのである。旧約聖書・箴言二十六のニ十に、「たきぎがなければ火は消え、…」という詩句が見える。旧約のこの部分を含む前後は、争いの火種がなければ争いは生じない、という趣旨で書かれてあるが、ジェルソミーナはそういうことを言いたかったわけではないだろう。生きるのにはたきぎが必要、ということだ。たきぎを言葉と言い換えてもいいだろう。心を柔らかくして人から言葉を受け、人に渡そうという気持ち。それがなければ干からびてしまう。自分を捨てていくザンパノへのはなむけに、正気から遠ざかりながらジェルソミーナはそんなことを言ってのけたのである。
まだ元気に旅芸を続けていた頃に、ジェルソミーナはザンパノに向かってこう言ったことがある。「もっと頭を使うようになったらねっ」ここで頭と言っているのは、心のことである。心を使うようになったら結婚してもいいヨ!人をはねつけること石のようで、自分の言葉が殆ど通じないことに業を煮やしたジェルソミーナが、たった一度叩きつけた挑戦状であった。ジェルソミーナにとっていちばんの問題は、自分の発する言葉が悉くザンパノの革ジャンを擦過するだけで、傷ひとつ負わせられないことであった。
スクリーンからジェルソミーナが消えた後、もう二度と火は登場しない。
七 綱渡り道化師とザンパノは、大道芸人として顔見知りであった。お互いにウマが合わないことを認めているような仲であるが、たんにウマが合わないのではなく、道化師はこう言っている。「(ザンパノの)顔を見ると、どういうわけかからかいたくなる。」道化師自身が言うように、からかう理由は全く見当たらない。映画のどこにおいても、説明はされない。敢えて理由を探せば、ザンパノが2メートルを越す大男であること、それにもかかわらず芸といえば胸に巻き付けた鎖を切るだけであること、あまつさえ無骨で孤高を保つかのような生真面目な風貌であることなどが考えられよう。とくに3つ目の「生真面目な感じ」は、道化師にとっては不倶戴天の敵、どうあっても「こわばったその場崩し」のワザに走ってしまうのも無理はない。 「どういうわけか、からかいたくなる」と述懐したのは、ジェルソミーナが「なぜ喧嘩ばかりするのか」と問いただした場面でのことであった。そのジェルソミーナに対しては、道化師はこれまたどういうわけか、終始温かい言葉をかけ続ける。
警察沙汰を起こして留置所に入ったザンパノを、ジェルソミーナが待つ場面。ここで道化師は、自分が身に付けていた首飾りをジェルソミーナの首にかけてやった後、自身は去って行く。人から好意でプレゼントされたのは、生涯でおそらくはただこの一度。忘れ得ぬ好意の記念でありやがて形見ともなる首飾りを握り締めて、ジェルソミーナは道化師の後ろ姿を見送るのである。映画中、胸に温かいものがじんわりくる殆ど唯一の場面。 ジェルソミーナにとって道化師は、いろんなことをいい加減に、行き当たりばったりに、しかし欲得なしに教えてくれたただ一人の人である。ジェルソミーナはそのすべてに耳を傾け──道化師の言ったことに忠実に・ときにはその意をはるかに越えて──考えや行いの基準としていったのである。この道化師が「ザンパノはきみを必要としている」なんて気まぐれを言ったもんだから、ジェルソミーナは逃亡のチャンスを自ら放棄し、警察の前でザンパノが出て来るのを待つことになったのだ。
綱渡り道化師というひとりの人間が、会えば相手への揶揄が止まらない側面と、会えば相手に親身になる側面をもつ。その上、揶揄も親身も殆ど行き当たりばったりで、偶然そうなったに過ぎない感がある。道、という題名に何らかの意味があるとすれば、綱渡り道化師がもつ相反するこの側面のことではないかと思う。それは、人生のもつ両側面と言っていい。
同じ荷車付きオートバイで共同生活を続けても、からかわれおちょくられイライラを増幅させられるザンパノと、温かく迎え入れられ慰撫され励まされるジェルソミーナ。何故?と問われても明確な答えは出ない、人生の両側面だ。 ザンパノとジェルソミーナの関係は全くのすれ違いであり、ひどくアンバランスであり、そのままではどちらかがどちらかを殺すことになるのは明らかであった。そうならなかったのは、並走する二人の間に綱渡り道化師が介在し、同じく並走していたからである。もちろん、仲を取り持っていたという意味ではない。綱渡り道化師としての役回りそのままに、荷台のバランスをとっていた重石、その時の状況でどちらにでも転がる重石、しかしなくてはならない重石、ということだ。むしろ軽石と言うべきか。
激昂したザンパノが綱渡り道化師を殺したときにジェルソミーナの正気が失われたのも、殺害の一部始終を目撃した衝撃から、ということのほかに、もう少し付加してよい理由がある気がする。ザンパノのそばにいることが自分の役目だと覚悟し、兎にも角にも歩き出そうとしていた道。綱渡り道化師の殺害は、ジェルソミーナにとって道そのものが奪われたことになるのだ。
もう1度、修道院の場面に戻ろう。ひと晩泊めてもらった修道院を去るとき、前日から何かと世話をしてくれた美しい修道尼が、ジェルソミーナの異変に気付く場面である。 泊めてもらった深夜、ザンパノがキリスト像を盗むという恐るべき行為に及ぶ。協力を迫られたジェルソミーナが泣いて断ってうずくまるところで場面は変わり、これ以降ストーリーは暗転を繰り返すことになる。 そのとき修道尼は事情を知らないままジェルソミーナの様子を心配し、「ここに残りたいのなら、院長に掛け合ってあげる」とまで言ってくれるのだが、ジェルソミーナは迷うことなく断る。貧しさの極みとも言える順直な心根をもって、神ではなくザンパノについていく。この修道尼との別れの場面は、ホントに切なくて困ってしまう。この修道院にいれば間違いなく静かに穏やかに暮らせたはずで、それはジェルソミーナもよくわかっていたであろう。だから、泣いた。荷車の上でハンカチ振りながら、思いを残して泣いた。 そうまでして選んだ、自分の生きる道だったのである。
──あとがき──
今でこそそういうことはなくなったが、以前はこの映画を見るたびに、私の歩き方がジェルソミーナの歩き方になってしまうことがよくありました。アリャ?と気がついても、おもしろいのと気分が落ち着くのとで、そのまま歩き続けたものです。任侠映画を見た人たちが映画館を出ると、目つき鋭く肩で風切って歩くよという話を聞いたことがありますが、冗談で言ってるのかと思ってました。本当だったんですね。似たようなことが、まさか自分の身に起こるとは。
この映画を初めて見たのは、ずいぶん歳をとってからでした。もっと早く、若いうちに見ておいたらと、悔やむ気持ちも少しはあります。でも若い頃に見て、果たしてちゃんとわかったかどうか。「ああ、とてもいい映画だった」で終わってしまったのではないか。「道」がいい作品だという記憶は残るだろうけれど、社会に出て働き出して、年とともに忘れていってしまうような気がします。記憶の中のコレクションに過ぎなくなる……。 出会うのはだいぶ遅かったけれど、必要なときに出会うことができた──そう思っています。歳をとってから巡り会ったので、これはもう忘れることはありません。一生の宝です。あと五十年は見続けるつもりです。2002.10.10
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