1551/11〜1555/12 第3章「甲斐の虎と陸奥の獅子」 第2章へ戻る 烈風伝メニューへ トップページへ 常陸の水戸城を陥としたときから、 我らが愛田軍は進軍方向を慎重に選ばなければならなくなった。 それは当然のことである。 東北地方は南北に細長い上に、山脈が幾つも縦断しているのだから。 基本的に一本道と言って良いため、後背に守備兵を残す必要がないのである。 勢力の混在する関東平野に入ってからが、本当の戦略を練る始まりといえる。 太平洋側から京のある山城国(南京都府)を目指すには、 東海道と中山道の2ルートがある。 当然そこには戦国を代表する強豪達がひしめいている。 相模(神奈川県)の北条氏康、尾張(西名古屋県)の織田信長、 そして甲斐(山梨県)の虎武田晴信である。 彼等のうち数人を打ちのめさなければ、東北からの上洛など夢のまた夢である。 有象無象が小競り合っている関東平野を平らげた後は、 相模の北条か甲斐の武田を進撃対象として選ばなければならない。 堅城を誇る名将北条氏康か、最強騎馬軍団を率いる巨星武田晴信か。 別に武田を選んだのは大きな意味が有ったわけではない。 強いて言うなら、武田がたまたま関東に伸びてきただけのことであった。 1551/12 私を総大将とする8武将の軍で、暗愚な関東管領上杉憲政の治める、 上野国(群馬県)の箕輪城攻略に進軍する。 1552/ 1 私が甘く見ていたのか、巨星と言われる所以なのか。 武田軍の明智光秀、御館様の居城、武蔵の松山城に5武将で進撃する。 箕輪城の手前でこの報を聞いた私は、 即座に松山城への大返しを決断する。 強軍の条件の一つは神速である。この剣崎知美を舐めてもらっては困る。 光秀が松山城を包囲する前に奴等を射程に収めた我が軍は、 関東平野にてついに武田軍と正面衝突を展開する。 この瞬間、上洛へのコースも決まった。徹底抗戦あるのみである。 総大将私、軍師瑠美殿で鶴翼の陣を敷く我々に対し、 総大将明智光秀、軍師内藤昌豊の武田軍は雁行の陣で待ち受ける。 私は瞬時に状況を見て取り、小姓の遠藤(笑)に早馬を飛ばさせる。 一気に鋒矢の陣で中央を分断してくれるわ。 明智は所詮野戦の将ではない。美香の猛撃が光秀の雁行陣を噛み破る。 これが戦国最強と言われる武田軍か? 美香が高らかに勝ち鬨の第一声を挙げた。轟きが舞う平原。 しかし、私はこの先の苦しい戦いの予感を背に感じていた。 / 5 磐城国の三春城が帰順を申し出てくる。 御館様がはね除ける手を持とうはずがない。 上野国箕輪城を攻める。敵を早急に武田に絞りたい。 長野・上泉は粘ったが、2将が内応してくれた以上 陥落しないわけがない。 長野業正は逃げおおせて独立勢力と化したが、上泉信綱は帰順した。 関東の平安を守らず、民から搾取するだけの関東管領家など、 その地位に留まる資格はない。 / 7 沼田城へと長野業正を追って進撃する。 越後(新潟県)の龍、長尾家と領土が隣り合うが、 業正の軍略は惜しい。 火を噴くような猛攻をもって沼田城を陥とす。 激戦の末、業正を捕らえることには成功したが、さすがは硬骨の士、 「関東管領に仇なす者には決して屈服出来ない」と斬首を申し出る。 何度も説得するが、私より何歳も年輩の武士。 私のような若輩者では、心を動かすに不十分なようだ。 さすがに困ったそこに駆けつけた方がいる。なんと理奈様だ。 「業正殿。そのお覚悟、大変ご立派です。 しかし、今ここであなたがその武士の命を散らすことに どういう意味があるのですか? 私は確かに関東管領の軍を討ちました。 それは関東管領殿の統治によって、現にこの関東が 安土となっていないがため。 人々の怨嗟の声に、 上杉憲政殿(=関東管領)は何をなさいましたか? 私は後世の人々に下克上と言われようともかまいません。 ただ、私は多くの民に対して、何一つ恥ずかしいことを 行っているつもりはございません。 お疑いならどうぞ御納得のいくまでご覧になって下さい。 私の行っていることが覇道であると仰るなら、 その時はいつでも私の暴虐を正して下さって結構です。 そのため、どうか知美達と共に 私の側にいらっしゃっては頂けませんか?」 業正殿、理奈様の人柄にはウマが合うらしく、 虚心坦懐に聞いて頂いている。 やがておもむろに「孫娘のような大道を目指す者を見届けようとはな」 と苦笑されると、理奈様や我々にうなずいてみせた。 この瞬間、後々までの功将長野業正が誕生したのである。 長尾家に対する備えとして、 黒田殿に守将として沼田城に入っていただく。 1552/12 いつまでも武田軍に良い気にさせてはいられない。 向こうも「甲斐の虎」と呼ばれた名将だが、 こちらとて「陸奥の獅子」と呼ばれた女。 評定の結果、思い切って奇策に出る。 武蔵国の武田諸城及び、中山道の岩殿山城をやり過ごして、 晴信の本拠地、甲斐は躑躅ヶ崎館を急襲する策である。 これには状況的な理由が一つと、ゲームシステム的な理由が一つある。 1:晴信は大変強敵である故、大軍の総大将としてぶつかりたくはない。 幸いにも、現在晴信は単独で躑躅ヶ崎館に留まっている。 この期は一気に甲斐まで侵攻するチャンスである。 2:前作将星録では、戦略マップ上の行軍ユニットには「方向」の 概念があり、背面や側面から攻撃されると大変不利となったが、 今作に於いては、行軍ユニットに方向概念は無い。 これは数少ない改悪とも言えるかと思うが、このおかげで、 少数の軍勢しか留まっていない支城は兵站の問題さえクリアすれば、 無視して行軍することも可能なのである。 (敵支城にZOCはあるが) この戦国の巨星が史実で後に、征夷大将軍となる徳川家康に 三方ヶ原で喰らわす素通り戦法を、逆にやってのけようというのである。 無事武蔵国を抜け、岩殿山の武田軍も籠もったまま出てこない。 武田晴信の本拠、躑躅ヶ崎館を大軍にて囲む。 「人は城、人は石垣、人は壕」まさしく至言であると思う。 有名な話だが、躑躅ヶ崎館は城郭としては大変攻めやすい城だ。 但し晴信は、本丸にてその強力な騎馬隊にて待ち受けている。 気軽に足軽で隣接すれば甚大な被害が出るであろう。 ここは慎重を期す。 二の丸まで足軽が行軍装備で向かった後は、 全員長槍装備にて槍襖を作りつつ、相手の突進能力を削ぐ。 あとは慎重に取り囲んだ後に、一斉攻撃で味方の被害を極力少なくする。 さすがの戦国巨星も西に引かざるを得なかった。 1553/ 1 下野国の壬生城が帰順を申し出る。 2 躑躅ヶ崎館に沙律殿に入っていただき、引き返して岩殿山城を討つ。 老将原虎胤が籠もっていたが、これを陥とす。 虎胤は取り逃がしたが、捕らえた小山田親子が帰順する。 これが現在の愛田家の勢力圏である。 5 分断した武蔵国の武田軍の掃討戦に入る。 光秀の籠もる忍城を攻めるが、これがさすがに堅かった。 なぜかこの武田軍、鉄砲を500丁以上備えているのだ。 しかも光秀、鉄砲の達人でただの「三段」技能者ではない。 通常の「三段」射撃は2連射なのに対し、彼は3連射してくるのだ。 釣瓶撃ちしてくる明智隊に、開門軍はボロボロになるが、 私が手の者の乱破を何人も放ち、数日後にどうにか混乱状態に陥れる。 そこに美香の騎馬隊が乱入してようやく決着がついた。 明智光秀は河越城に逃亡する。 7 河越城に光秀を追う。さすがに体力は残っていないらしく軽く落城。 光秀を捕らえるが、さすがは硬骨の士。帰順に同意しないため、 御館様の意志通り、馬を付けて身柄を放してやる。 あれだけの硬骨の士であれば、尚のこと戦友となった場合、 さぞかし心強いであろう・・・。 陸中の金山の開発に着手する。 10 御館様に、ある剛毅そうな少年を紹介される。 この度、御館様が養子として迎えられたそうだ。 鋭い眼光を見るに、一廉の武将と成るであろう。 名を佐竹義重より、愛田義重と改めたそうだ。 南信濃(南長野県)に乱入する。高島城を攻める。 守将は武田四天王が一、馬場信房。 稀代の名将であるが多勢に無勢である。 陥落後捕らえるがやはり硬骨の士、簡単に帰順には応じないが、 業正殿と同じように御館様の懸命の説得の後、 帰順されることに同意いただく。 11 陸前国白石城が瑠美殿の説得で帰順する。 1554/ 2 南信濃国本城、村城を陥とす。 武田の軍を押しやり、頓に我が軍の名声も 日の本に認められてきたようだ。 瑠美殿が、岩代の名将蘆名盛氏と当家の盟約を取り付ける。 盛氏殿は以前より御館様を支持して下さっていたらしい。 正に「名将は名将を知る」である。 3 武田軍の猛反撃が始まる。 さすがにこれ以上戦国最強の威信を落とすわけには行かないのだろう。 村城に押し寄せる雲霞のごとき軍勢に立ち向かって城を出る。 武田晴信の軍と渡り合い、これを見事追い払う。 秋山信友軍と渡り合い、これも野戦にて追い払う。 しかし、3連戦はきつかった。 武田信繁の大軍に我が軍初めての敗北を喫する。無念この上なし。 「勝敗は兵家の常」とは言うものの、どの顔をもって御館様に相まみえようか。 散り散りとなって逃げ戻った我々に御館様はこう語られた。 「よく頑張られましたね、みなさん。 一戦だけでもたいそう大変な事ですのに、よく3戦も頑張りました。 この理奈、本当に頭の下がる思いです。 ありがとう。そして今は体を休めて下さい。 あなた方の休んでいる間は、私が先頭に立ってこの地を守ります。 幸いにも信繁軍もあなた方との戦で疲弊している様子。 私が幾ら戦下手とは言え、一戦や二戦くらい引けは取りませんよ。」 そう笑って、我々の労を労って下さったのだった。 あの時の微笑みは決して忘れない。 信繁め、目にもの見せてくれん。 4 上野国沼田城が武田軍の板垣隊に襲撃される。 予め進攻の報は受けており、黒田殿が十分城の改修を済ませ、 沙律殿が800丁もの鉄砲を運び込んでいる。 この2将が籠もっている城、 支城と言えど、たやすく陥ちようはずがない。 2将の釣瓶撃ちにて、散々に板垣隊を敗走させる。 5 高島城に向かっていた信繁軍を、再度捕らえることに成功する。 平原に於いて、互いに鶴翼からの陣を、 信繁は魚鱗、我が軍は鋒矢に変えて一気に正面衝突する。 この一戦、武門の矜持において決して負けられないのだ! 神の御照覧か御館様の御加護か、 信繁軍をズタズタに寸断することに成功する。 7 上野国館林城が帰順を申し出る。 8 秋山信友の再進攻軍を再度撃破する。 9 武田信繁、雪辱戦を挑んでくるが、これまた野戦にて勝利する。 秋山、信繁と2連戦ではあるが、このまま中山道を下って 木曽福島城の攻略を決定する。 実は武田軍、北信濃の他に、梟雄斎藤道三を近江に追っており、 美濃国(南岐阜県)も支配下に治めているのだ。 しかも美濃国稲葉山城下には鉄砲鍛冶村まであると言うではないか。 これがあの武田に似合わぬ鉄砲隊の正体か。 稲葉山城には2万人の予備兵が犇めいている。 それを一々、秋山と信繁軍のピストン攻勢で迎え撃っている暇なぞ無い。 一日も早く御館様を京に送り届けるのだ。 このまま両名の体制が整わぬうちに、少しでも勢力圏を西進させる。 10 木曽福島城を攻略に入る。ここでとんでもない秘密兵器が出てきた。 守将の木曽義康は、なんと大砲を持っていたのだ。 瑠美殿の隊に打ち込まれる砲弾。 大きく全軍がざわめくが、顔を煤に染めながらも 元気に手を振ってみせる瑠美殿。 どうやら義康、大砲を使いこなせないらしい。 一気に間合いを詰めて城壁に取り付けば、大砲は使えない。 結局それ以上さしたる被害もなく、福島城は陥落した。 12 御館様よりお召しがあり、家老の位を授けられる。 お恥ずかしい話だが、御館様の前で感動のあまり泣いてしまった。 これまで以上に御館様の為に粉骨砕身する所存である。 1555/ 1 原虎胤率いる武田軍が、沼田城を強襲する。 しかし沙律、黒田隊の鉄砲は更に増強されている。 逆立ちしようとも抜けようはずがない。 3 下総国佐倉城が帰順を申し出る。 4 美濃国稲葉山城を攻撃する。 武田信繁が城を出た一瞬の隙を突いての強襲だ。 いかに堅城を誇る稲葉山城であろうと、 守っているのが名もない雑兵では持ちこたえようがない。 5 慌てて稲葉山に引き返してきた信繁軍と濃尾平野にて決戦する。 敵の軍師には山本勘助も付いているが 勢いに乗った我が軍には歯が立たない。 散々なまでに武田軍を追い散らす。 7 陸前国寺地城が帰順する。 9 ついに武田晴信を最後の本拠、 北信濃国(北長野県)葛尾城に追いつめる。 籠もる武田の将7名、これに対して攻めるは私を総大将とした12名。 戦国最強の大名を倒し、御館様を上洛させるのは私の悲願でもある。 さすがに抵抗凄まじく、敵味方入り乱れての大乱戦となったが、 特に武田軍が鉄砲を持っていないのが幸いした。 無事葛尾城を陥落させる。 御館様、晴信殿に共に日の本を支えていこうと申し出るが、 巨星の矜持はそれを許さないらしい。 晴信殿は、弟の信繁殿に御館様に代わりに協力するよう言い含めると またいつの日か相まみえん事を誓って、信濃の山中に消えていった。 ここに甲斐武田家が滅亡する。 武田家が滅亡するにあたり、明智光秀もついに帰順した。 事後処理の後は、美濃国から一気に京を目指すのみだ。 10 北信濃国飯山城の内藤昌豊、小諸城の高坂昌信が帰順する。 名将2名を得て、愛田軍の陣容はますます厚くなった。 11 甲斐武田家を滅ぼした事実は、日の本中に広まって 御館様の威信を大いに高めたようだ。 試しに瑠美殿に行ってもらった、長尾景虎(=上杉謙信)殿への 同盟申し入れが成功する。 友好度が34しか無かったのににわかには信じがたい事だ。 これも御館様の人徳と、瑠美殿の才知によるものと言えよう。 いずれにせよ、毘沙門天の化身と詠われ、最も義理堅いと言われた 軍神が御館様に味方すると誓われたのだ。百万の味方を得たに等しい。 これで、北陸道の懸念は全く無くなった。 12 御館様の威信が高まっているのか、信繁殿が名将な所以か、 なんと今度は相模の北条氏康殿との同盟を武田信繁殿が成功させる。 全くもってお見事だ。 これで、武蔵国の危険はほとんど無くなったわけで 美濃からの進出に全軍を割り振ることが出来る。 以上が武田家との4年にわたる激戦の粗筋である。 これで東国から上洛するための最も大きな壁が無くなったわけだ。 近江国(滋賀県)には浅井・斎藤、山城国には六角が待ち受けているが、 武田の旧臣をも糾合した我ら愛田軍の前に敵は無い。 このまま一気に京まで駆け上ってくれん! 第4章へ 烈風伝メニューへ endra@yahoo.co.jp