<詩を読む 3>木村信子「日曜日」を読む
納屋に囚人を飼う女
関 富士子
『日めぐり』は、木村信子が「おとなのため」に出した9年ぶりの詩集である。そのあいだに「こどものため」の詩集を何冊も出しているが、おとなが読んでもぞくぞくするほど悲しくて、こどもだった自分をだきしめたくなる。
しかし、『日めぐり』はそんなわたしの甘さを容赦なくうちのめす残酷なまでのしろものだ。罪深いおとなになってしまったかつてのこどものために、書いてくれたと思うしかないのである。
日曜日
木村 信子
西の納屋が牢屋になっている
わたしが朝食を持ってきたとき
まだ祈りの時間で
裸の男たちが三方の壁に向いてならんで
みぎ手を壁につきひだり手で男根をにぎって
黙想している
もうずいぶんまえから
牢屋になっているのに気がついたときから
ずっとああしている
おもやは
弟の家族が住んでいる
きょうはにちようびなので
こどものわらい声もする
日がくれてくる
風も寒くなってきた
食事はとっくに冷めている
祈りはまだ止まない
(木村信子『日めぐり』思潮社1996年刊より) |
人はいつどんなときに、家の裏にある納屋が、終身刑を受けた罪人のための牢屋であると気づくのだろうか。
「わたし」の納屋にいるのは、奇妙にきまじめな男の囚人たちである。彼らはただ祈っているだけだ。体の中心にある男根を握っているから、姿勢も安定している。
黙想の姿は、罪人としても何か確信ありげだ。屈強だがストイックな修行僧のようで、近寄りがたいが変になまめかしく、また、ちょっとこっけいでもある。
納屋の表の明るい母屋にいるのは、「わたし」の弟の家族である。かれらは裏の納屋がいつの間にか牢屋になっているのに気づかないらしい。いやいや、知らないふりをしているのかもしれない。幸福だが欺瞞的な聖家族ふうでもある。
かれらの団欒に加われない「わたし」が、囚人たちに食事を運ぶのだ。安息日である日曜日もその苦役は変わらない。祈りが終わるのを一日ただ待つほかはない。それが、納屋が牢屋であると気づいてしまった「わたし」へ、だれかが与えた罰ででもあろうか。
しかし、とほうにくれているかのような「わたし」にうっかり同情してはならない。弟一家を憎み、ねたみ、うらやみつつ、「わたし」は牢屋へ食事を運ぶ。胸の中のくろぐろとした悪意は、幸福な人々へ、また、納屋を牢屋にしてしまったなにものかへ向けられている。囚人たちが苦行僧のようにみえるのは、かれらがそんな「わたし」の罪を引き受けているからかもしれない。
人生そのものが牢獄であるにしても、「わたし」はかれらに食事を運ばずにはいられない。納屋に囚人を飼う行為は、卑近な日常に悪意を育てながら、日々その罪を赦しつづける、いまわしくも親密な営みでさえある。
「ゆめは映像ではなくもう一つの体験」と、詩人木村信子はいう。彼女と詩の中の「わたし」は、近い距離にあるようだ。彼女にすれば、納屋の囚人たちは寓意でもなんでもなく、確信に満ちて具体的な現実そのものらしい。だから、彼女にとっての詩は、それがどんなに異形であろうとも、ただその体験をそのまま書くだけで事足りるのである。この簡潔さは、詩人として基本的にもつべき潔さにも通じるだろう。
これは夢の出来事だろうか。たとえば「かいだんをおりてゆく/ますますおなかがすいてくる/おりてもおりてもかいだんはつづいている」とか、「どろぼうをつかまえて/なわをなう」が「あわてているのでおもうようにいかない」、「そうしてなわはだんだん長くなる」。なんとも滑稽で残忍な話がつづく。詩人自身、「ゆめは映像ではなく、もうひとつの体験なのだ」という。この確固たる夢への視点が、現実の虚偽をいとも無残に引き裂く。(帯文より)
木村信子詩集『日めぐり』1996年思潮社刊/2472円