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rain tree vol.3

<詩を読む 4>谷川俊太郎「朝のリレー」を読む

詩人が落ちる穴

関 富士子


ばかで

びじんの

ぶた

べそかいて

ぼんやり
谷川俊太郎「あいうえおっとせい」より


 ちょっと気分がなえて寂しい日、なぜかこの詩を思い出す。まるであたしのことみたい、と、少し元気を取り戻す。

 ところで、おなじ谷川俊太郎に、「朝のリレー」という詩がある。これを読むと、逆に朝元気に起きる意欲を失うのはなぜだろう。この詩で語られているテーマは目新しいものではなく、エッセイなどの文章でよく見かけるたぐいだが、そのときには決して感じない反発のようなものを、この詩を読むときにどうしても感じるのである。



カムチャッカの若者が

きりんの夢を見ているとき

メキシコの娘は

朝もやの中でバスを待っている

ニューヨークの少女が

ほほえみながら寝がえりをうつとき

ローマの少年は

柱頭を染める朝陽にウインクする

この地球では

いつもどこかで朝がはじまっている



ぼくらは朝をリレーするのだ

経度から経度へと

そうしていわば交替で地球を守る

眠る前のひととき耳をすますと

どこか遠くで目覚まし時計のベルが鳴ってる

それはあなたの送った朝を

誰かがしっかりと受けとめた証拠なのだ


詩集「祈らなくていいのか」所収
(谷川俊太郎詩集「これが私の優しさです」集英社文庫より)


 初めの八行は世界の朝と夜を、北と南、東と西の街の対比で描いている。「いつもどこかで朝がはじまっている」といわれると、なるほど世界は地球という一つの星なのだと、あらためて具体的に気づかされる。後半では、そこでわたしたちが生きるということは、地球という星を守り受け継ぐことなのだという作者の考えが述べられる。

 「朝のリレー」は、一九八〇年代の数年間、中学国語教科書に掲載された。教科書風に解説すると、この詩は、地球を共同体として自覚し、人間どうしが連帯感をもって生きることの大切さを訴えているらしい。まったくそのとおりでテーマには何の異存もない。

 では、この詩を読んで感じる反発とは具体的にどういうことだろう。
 初めの八行は、朝と夜の情景が二行ずつ次々に切り替わるところが、テレビでよく見る全国各地の朝の映像のようだ。「ぼくらは朝をリレーするのだ」で、戦時中のバケツリレーを思い出すのは、わたしがちょっと古いか。しかし、地球の自転という単なる自然現象を、人間が集団で行う共同作業としての「リレー」にたとえるのは、どうにも無理がある。

 だいいち「交代で地球を守る」ってなんのことだろう。宇宙人でも攻めてくるのかと思う人もいるかもしれない。「いわば」とあるからこれも比喩で、地球という自然環境をそこに住む人間が協力し合って守る、ということだろうが、テレビアニメでも、地球人と宇宙人との戦いは繰り返し取り上げられるモチーフではある。

 「目覚まし時計」に至っては、時計のベルの音が、人類の連帯の合図だなんて、もののたとえにもならず、あまりにもこじつけで笑えてくる。作者が本気で書いているとは思えない。

 しかし、もののたとえがまずいからといって、それでわたしが拒否反応を起こすわけではない。なぜこんなひどいことになってしまうかというと、「朝のリレー」には、まず初めに、読者に押し付けようとするテーマというものがあり、表現はそのためにねじまげられているのだ。

 さらに、明らかに意図的な比喩を、対句の繰り返し、断定的文末、切れのあるリズムでたたみかけてくる。詩のテクニック、いかにも詩的表現が、言葉をいまわしいスローガンに堕すのはこういう時だ。

 それでは、もし、この詩がテーマとぴったり合って、しかもすばらしい詩的表現に満ちたものなら、わたしを興奮させ鼓舞したのだろうか。ここに詩というものの陥穽があるように思える。かつて戦意昂揚のために書かれた数々の詩が実際人々を昂揚させたのかどうかわからないが、そうだとすれば、「朝のリレー」の失敗はむしろ喜ばしいことかもしれない。

 この詩を教室で読む少年少女が、朝目覚まし時計のベルを聴いて、地球の裏側のまだ見ぬ同胞への連帯感をかきたてるだろうとはもちろん思わない。彼らが学ぶのは、地球の自転という現象を「朝のリレー」と比喩する作者の意図、ひいてはこの詩を教科書の教材とした人々の教育的意図そのものであり、詩の感動とは無縁のものだ。

 「詩はテーマではない。形式である」と詩人藤富保男は語ったことがある。初めに挙げた「あいうえおっとせい」の詩にはテーマはない。あるのは「ばびぶべぼ」という形式だけだ。そこに思わぬ発見と共感を得て喜びを味わう。谷川俊太郎の他の多くの詩にも、わたしはそれを味わった。だからこそ「朝のリレー」がどうしても気になる。

 詩という表現に魅せられるのは、作品一つ一つに、新しいフォルムと言葉が生まれる可能性があるからだ。その自在さはかけがえがない。しかし、そのことは逆に言えば、詩はどのような意図にも染められるということだ。テーマのために詩を利用してはならない、というのが「朝のリレー」の教訓である。

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