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藤瀬 恭子
ミッドナイト・カー・ガール・アローン
西の空いっぱいに白熱の光が燃えたぎり、やがて赤く熟した巨大な瓜となって垂直に沈んでゆくころ、重心を低くした空は大地と睦みあって濁った熱気と埃っぽい光を地上にまき散らすので、前方を走る幾両もの車は埃と光の中に浮かんでただゆらゆらと揺れている。
ぎらぎら拡散する陽光と大地の舞い上がる埃が溶け合うこの時刻、ものの輪郭がぼやけて、形が曖昧に歪み、前方を見つめようにも、フロントガラスの正面から差し込んでは刻々赤みを増す陽の光は空と大地の境目を消してしまう。
陽が傾くころの中央道は避けようと、わたしはいつも思う。
だが車がわたしの自宅近くの甲州街道から調布インターを登って高速道路に入り、府中や国立付近を通過し、八王子を過ぎるころまであれほど燃えさかっていた夕日も、やがて大地に溶けて吸い込まれてしまい、相模湖を過ぎて大月にさしかかった車が高速を降りて甲州街道を走る頃には、ひそやかだがくっきりした硬質のあたらしい秩序が生まれて、空は一面の薄青いスクリーンに変容している。
ハンドルを握ってシートに身を沈めるとき、わたしは二つの世界の間で宙づりになっている。遠ざかってゆく東京と、週末のリゾートというのが通り相場の地へと仕事で移動する毎週の月曜の夕刻、わたしはスピードのもたらす心地よいリズムと顔に当たる柔らかな外気の心地よさにいっとき身をまかせる。
わたしは幾度もバックミラーを覗き込む。それは現在時に割り込んでくる過去の残滓だ。あるいはバックミラーに映し出されたのは終わってしまった過去、いわば過去の過去ではないか、とわたしは思う。それが現在時にフラッシュバックされる。
バックミラーに映った光景とは、幅広サイズの写真大に切り取られた過去の出来事の現場写真だ。現在時のただ中へと引用された、過去時の注釈だ。
わたしはぴかぴか光るステンレス製のタンク車が前方を走る後について行った時のことを思い出す。タンク車の磨き上げられた後部は横長の楕円形をした大型の凸面鏡ととなって外に張り出していた。そこには全角度の外景が映し出され、真ん中の位置にわたしの車は、周囲の車を押しのけて座り、それに接近することで拡大し、遠ざかることで限りなく小さな点に収斂しながら、絶えず楕円の中心を占めたのだった。車内のバックミラーには、じぶんの乗った車より後ろにあるものしか映し出されない。だがステンレス製のタンク車の凸面鏡は、いわばわたしの前に差し出された巨大なバックミラーといってよかった。わたしは前車との距離を狭めたり広げたりしして、楕円の凸面鏡の中でデフォルメされたじぶんの鏡像を眺めながら走っていた。あるいは世界におけるデフォルメされたじぶんの位置を楽しみながら走っていた。凸面鏡の中では、わたしの進行方向の前方に横たわる未来が、バックミラーに映し出された過去そのものであった。映し出された未来に向かって、わたしは疾走したのだった。
深夜の疾走はものの輪郭をゆるがし、頭の中にちんまり収まっていた世界にゆさぶりをかけ、形を液状にしては次々に闇に押しながし、今の瞬間と次の瞬間の境目を消し去ってしまい、いやこの言い方は不適切だ、わたしは瞬間の重なりを連続として捉えることは出来ないのだから、わたしの言葉に疑問符を突きつけ、わたしをわたしでないものに絶えず変容し、宙ぶらりんというありかたすら溶かしさるので、わたしは名づけられるけられる以前の存在となって、今を逃れるだけだ。
(「gui」no.49.VOL.18より DECEMBER1996)