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vol.6

<雨の木の下で 6>






4羽のひな  (1998.7.30)  関 富士子



 夕方、ポストへ郵便物を投函した帰りのこと、マンションの正面玄関にひとりで座っている男の子がいる。玄関の軒下にはツバメの巣があって、4羽のひなが育っているのだ。

 いっしょに階段に座って、二人黙ってツバメの巣を見る。ひなたちが、狭い巣から身を乗り出して餌を待っている。顔の半分ほどもあるくちばしのまわりは、黄色くて分厚いくちびるだが、口を開けると赤い喉が見える。今は育ち盛りで、親ツバメが交代で30秒おきぐらいに餌を運んでくる。いっせいにギーギー鳴いて口を思い切り開ける。

 今年は例年どおり4月15日にツバメが巣作りを始めたのだが、引越しが多かったせいか卵を産まなかった。空の巣を見あげてみんながっかりしていたのだが、6月も下旬になってツバメの夫婦がやってきて卵を抱いているという知らせがあった。卵が孵って、小さな鳴き声が聞こえたのが7月16日頃、巣から灰色の産毛が見え、小さなくちばしを精いっぱい伸ばしている。

 一羽巣から落ちて死んでいたという話も聞いたが、わたしはそれは気づかなかった。4羽のひなは、あっというまに大きくなって産毛もとれ、親に近い大きさになり、巣に満員で押し合いへしあいしている。

 見ていると、ツバメの親は4羽に平等に餌をやっているふうでもない。巣の左右の端にいるひなの口に餌を入れる率が多いのである。内側の2羽は必死に鳴いて大口を開けるが、なかなか餌をもらえない。それでも4羽とも元気に育っているのはなぜだろう。

 不思議に思って見ていると、ひなたちは驚くべき行動をとった。内側の位置にいたひなが、巣の中を通って、左端にいたひなのさらに左にぐいと頭を出したのである。そのままぐいぐい押しのけて、自分が左端の位置を陣取った。押されたひなはくちばしでつついたり抵抗するが、しかたなく内側に移動する。そこへ親ツバメが飛んできて、左端のひなの口に餌を入れた

 こうしてひなはまんまと餌にありついたのである。右端のひなも同様に、内側のひなに、場所をとられている。こうして4羽のひなたちは場所を交代しながら、結局は平等に食べ物をもらい、元気に成長しているのだ。

 すっかり感嘆して、隣にいた男の子にすごいねえ、と言うと、その子は黙ってうなずいている。この子は一人っ子なので兄弟と生きるための競争する必要はないのである。うっかりして巣から突き落とされる心配も、食いっぱぐれる心配もないのだ。でも、あんなことやってみたいなと、ちょっと思っているかもしれない。








天気のあとで  樋口 俊実(1998.7.23)



 関さんの折り句詩に触発されて、昨年の秋頃から幾つかの作品を試みてきた。その実作の過程で、改めて気付かされたのは、折り句という限定条件が、思いがけない語彙や言い回しを引き出すという事実である。

 ならば、連詩のように折り句詩を共同で作るのはどうだろう。自分以外の言葉を引き受けることで、より複雑な変化が自分の書く言葉に訪れるかも知れない。うまくいけば、連詩よりも一篇としてのまとまりを持った作品が出来上がるかも知れない。というような思惑で私は共作の話を持ちかけた。  期待どおりの結果になったかどうかの判断は、読み手に委ねるとして、実際に作業をしてみての感想を少しばかり書いてみる。

 まず感じたのは、題名と最初の数行の重要さである。題が作品全体に影響するのは当然だが、それに続く数行は、内容だけでなく、行あたりの文字数、漢字の使用頻度などすべてに影響する。今回の場合、「郵便男」「白眉」「菜園」「降る文字」など以降の展開を豊かにする様々な材料を用意したのは関さんの手柄だと思う。

 それから、如何に相手に合わせ、如何に自分を失わないかその匙加減もなかなか難しかった。
 「とんがり杉」や「へびいちごの森」、「ルーペを握ったファーブル」や「昏睡したゾウムシ」の後を受けるのは実にスリリングな作業だったし、「投擲」「欠片」などの語彙がなければ、「慰藉」とは書かなかったはずである。おそらく関さんも同じような困惑と楽しみを経験したのではないだろうか。

 関さん、お疲れさまでした。少し頭を休めたらもう一度やりませんか。

「天気」<ふたりはひとつ(折り句詩共同制作の試み)>(樋口俊実・関富士子)へ







片思い  関 富士子(1998.7.23)



 詩が詩人にとって永遠の「片思い」なら、わたしにとって今は、詩にぞんぶんに恋い焦がれる時期だ。今書かなくていつ書くのだ。書かないためのあらゆる留保は、恋の前では無力である。詩がどんなにつれなくても、恋しつづけることはできる。

  愛よりももっと深く愛していたよおまえを

  憎しみもかなわぬほどに憎んでいたよおまえを

  わたしに重なる影 わたしの神
(「半神」)

 萩尾望都の漫画「半神」はシャム双生児の少女たちの物語だが、これにレイ・ブラッドベリの「霧笛」をからませて脚色した野田秀樹の芝居「半神」は、中ほどのリリアン姫の場面を速送りして見ると(ビデオで)とてもよい。孤独にあこがれてマリアの死を願うシュラと、百万年の孤独ののちに燈台に恋い焦がれ、打ち壊してしまう恐竜と。

 ラストは原作のほうがクールで悲しみが深いが、芝居では、ふたりがひとりぼっちになるのではなく、ふたりがひとつになるまでの苦しみが泣けるのである。

 さて、半年間かけて往復した<ふたりはひとつ>
「天気」が完成した。樋口さんの言葉どおり、スリリングで幸福な体験だった。できた作品は客観的にどうだろう。初めてなのでちょっと遠慮があったかもしれない。折り句や連詩の縛りをばねとして、共作のとまどいや喜びがそのまま行に現れるような、動きのある詩を目指したい。




<雨の木の下で>「昔とちかごろ」(有働薫)「インターネットに詩を発表するということ」(関富士子)へ
<詩を読む8/9>倉田良成「海に沿う街」/木下夕爾児童詩集『ひばりのす』マンデリシュターム「石」(関富士子)へ
これなあに?1・2(関富士子・桐田真輔)へ
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vol.6
昔とちかごろ  有働 薫 (1998.6.25)

 「昔とちかごろ」というのは、ヴェルレーヌの晩年の詩集のタイトルだが、若い詩人の選びそうなタイトルではなさそうだ。こういう題名が頭の中にとどまるというのは、それだけである兆候を表すと言えるかもしれない。いつのまにか、時が過ぎて、気がつくと……というわけである。

 こんなふうに言い始めたのは、もう詩のほうを書いてしまったから、さしあたって言いたいことが無いわけであって、詩ができれば、散文はお払い箱にしたっていい。詩がうまくできなければ散文で補ったり、言い訳を試みたりするのだが。

 このあたりがたぶん詩を書く者の思い上がりなのだ。詩はそれほどの片思いの相手で、高嶺の花。ルネ・シャールの詩に次のようなものがある。「詩人にはふたつの時代がある。詩が、なににつけても詩人につれなくする時代と、狂おしくかき抱かれるままになっている時代と。しかし、いずれもそれと十分に定義づけられるものではない。また、第二の時期が、至高のものであるというわけではない。」(『ねむりの葉むら』)。

 また、わたくしの好きなシャールの詩の一節は、次のようである。「ぼくがひとりなのは、見すてられたからではない。ぼくがひとりなのは、ひとりでいるから。農園の壁のあいだのあの巴旦杏の実のように。」(『読書室は火ともえて その他』)(引用はいずれも山本功訳)。
 このはたんきょうの実は裏庭でたった一つ枝にぶら下がっているわけで。





インターネットに詩を発表するということ  関富士子 (1998.6.25 詩誌「詩学」1998年7月号掲載)



 インターネットに詩のサイト"rain tree"を開設して8か月になる。同時に同じ名前の小さな個人誌の発行を始めて、隔月で5号を出した。初期の熱中が過ぎて、ようやくこれまでの検証をしようというところ。

 2年ほど前、寄稿していた
「Booby Trap」の清水鱗造さんがホームページを開いて、私の詩も載せてくれるという。インターネットで見られますよ、といわれると見たくなるのが人情で、パソコンを買った。

 映像だ音声だと欲張らなければ、ホームページ作りも案外簡単で、詩のサイトならネタはまああるし、というわけで、見よう見まねでここまで来てしまった。ずぶの素人でもこのぐらいはできるという見本のようなページである。私の契約している業者の場合、接続料を月に固定で1500円払えば、ホームページはただで作れる。ほかに、インターネットを見るのに電話代がかかるが、私は節約して月2、3千円ぐらいか。

 昔書いた遺物のほこりを払って載せるだけでは電気のむだ。新作を発表しなければと思うと何か書かねばならない。詩は日記ではないからそう書けるものではないので、他の人の詩の感想やエッセイなども書き、何とか週一回ずつ作品を追加掲載している。

 書けばネット仲間だけでなく、詩集や詩誌をいただいていた詩人の方々に読んでもらいたくなる。同時進行で、A3の紙を折りたたんで80円で送れる詩誌も作った。

 締め切りというのはありがたいもので、自分で勝手に決めたものでも、あれば守りたい私。注文もないのに毎月新作を書くというかつてない多作になってしまった。どろなわというのか、その質はともかく、他人に見せる手段があるというのはいいことである。

 しかもネットのほうはこちらが勝手に送りつけて感想を強要するのではない。読者が電話代と接続料を払って読んでくれるのである。この5月までで約1600カウント、一週間に延べ4、50人が"rain tree"を訪れていることになる。

 初めはすごい数字だと思ったが、これは詩のサイトの中でも少ない方で、万単位のカウントがあるものも結構あるらしい。くりかえし訪れるリピーターを何人か確保したというところか。しかも、その読者というのは不特定多数の見知らぬ人々だ。同じネット詩人が中心だろうが、いちいちメールはくれないからだれが読んでいるのかわからない。

 見知らぬ読者に詩を読んでもらうということ。これは、まったく新しい経験といっていい。詩を書いては発表してきたが、その手段は、詩集や詩誌をこちらから好きな詩人に送るのである。相手の詩は当然読んでいるから、人物は知らなくても詩の顔は知っている。逆に言えば、こちらで詩の読者を選んでいたということになる。郵送料はばかにならないから、読んでほしい人に送るのは当然だ。

 商業誌から注文が来るわけではないから、ネットに載せてだれかに読んでもらえるだけでうれしい。しかし、詩を読むということは、現代詩の場合、ある程度の読む技術が要求されるのも否定できない。

 ところが、ネットの読者にそれを要求することはできない。読者をこちらで選べないのだ。これはサイトを開設するまであまり頭になかったことだが、需要と供給の関係でいえば、買う方が商品を選ぶのはしごく当然のことで、詩の流通こそが倒錯しているのである。

 ネットの読者も私にお金を払うわけではないが、やはりここでは読者が作品を選ぶのだ。私の詩を読んで、ネットの住人たちはどんな感想をもつだろう。なあにこれ!とあきれられるかもしれない。私の詩が不特定多数の読者の読みに耐えうるものか。だれにでも受け入れられる詩など書くことができるだろうか。なんて、これはまるでメジャーを目指すうぶな詩人のたまごの言い草ではないか。

 今のところ、変なものを掲載するなという抗議も、悪意ある謎の人物からの嫌がらせも、興味本位のからかいのメールも、犯罪がらみの事故もまったくない。ただ淡々とカウントが増えていくだけである。新刊のたびに感想をくれるのは親切な友人だ。ときどき同じ詩のサイトからのリンクの依頼があるが、みなさん礼儀正しくかつ簡潔である。

 むしろ、印刷して送りつけた"rain tree"のほうが、共感に満ちた返事をたくさんもらえる。初めて個人誌を自分の手で発行してみて、確かな読み手が存在するのを改めて知ることになった。やはり、こちらで切手代を負担するだけのことはある。

 インターネットに詩を発表するということは、パソコンで遊ぶという興味がひと段落すれば、数字というつかみどころのない相手へ向けての、営々とした作業なのだ。紙で作った詩誌はいつか朽ちて土に帰るが、ネットにとびかう言葉も宇宙へ散らばるばかりだ。

 当然のことだが、だれが読者であっても、今まで書いてきた自分なりの詩を書くほかはない。心の中の、顔の見えるたった一人の読者に向けて、手紙でも書くように書いていけばよいのであって、できあがった詩がインターネットという世間でどのように遇されるかを思い煩うことはないのだ。これはカウントがコンスタントに増えていれば案外快適な状況である。

 しかし、そう思い決めるまでの数か月の動揺は、ずいぶん昔、初めて詩を書き、それを机の中に隠しておくのではなく、活字にして発表するというときの、あの自分がはだかで荒野に立っているような不安をまざまざと思い起こさせるものだった。

 頼みとするのはそのころも今も変わりはない。書きたいという欲求と書き上げたときの喜びだけである。どんなに茫漠とした世界でも、詩を読んでくれる人が少数確実に存在することがわかれば十分だ。

 それを再確認したうえで、明らかにインターネットは私の詩に大きな変革をもたらそうとしている。書く行為と発表する行為が分かち難く結びついたのである。映像や音声との幸福な一体化も可能だろう。そのときあらためて、書く行為そのものが問い直されることになる。インターネットを単に詩を発表する場所にとどめず、新しい表現を伴う詩の生成の場としたい。私のわずかな体験だが、その芽は少しずつ育っているように思われる。





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