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vol.7

   <詩を読む12>「田中清光詩集」を読む

   生きるまなざし

                       関 富士子



   夜明け

                     田中 清光
  橋の欄干をすべるように
  灯が渡ってゆく
  あれは夜の明けきるまえに
  出立してゆくものたちだ
  風景はこのまま終わってしまうわけではなく
  ようやく始まる気配なのだが
  なにが訪れてくるのか
  わたしたちは
  なにも知らされてはいない
  動くものとしては
  出立してゆくものたちがあり
  石や土蔵のように
  古くから居すわっている物と物とのあいだで
  曙の光が
  芍薬花に火を点ずる
        (『岸辺にて』1996年思潮社刊より)










 長い夜がようやく明けようとしているらしい。詩人は闇のなかでベッドに横たわったまま、「橋の欄干をすべるように/灯が渡ってゆく」のを見ている。

 「出立してゆくものたち」はどこへ旅立つのだろう。静かすぎて恐ろしいような光景である。

 それは、世界が終わってしまうような予感をはらんでいるが、まだ終焉は訪れず、「風景」は逆にさらに新しく「始まる気配」なのだ。

 わたしは「出立してゆくものたち」をまだ見たことがない。明け方の夢に現れるのは今ここにいる愛しい人ばかりだ。
 わたしは生のまっただなかにいて、自分が早晩老いるだろうことをおぼろげに感じるだけだ。

 詩人もまた「わたしたちには/なにも知らされてはいない」と言う。だれにも「なにが訪れてくるのか」わからない。生か死か、終焉か再生か。

 そんな不安のなかで長い夜に耐えていると、この人にはどうやら彼岸へ架けられた橋が見えてくるようなのだ。「動くもの」としての「出立してゆくものたち」と「居すわっている物」。その「風景」を淡々として眺めるあまりに静かなまなざし。

 わたしは恐ろしさでいっぱいになる。彼もまた同じように出立してしまうのではないか。それをわたしはとどめることができず、ついに姿さえ見ることはできないのではないか。

 田中清光は、わたしが二十代のときに出会った『山脈韻律』(1976年刊)の詩人である。そのときから彼の白皙の額に、優美でありながら強靭な詩が宿っているのを、畏敬の念とともに感じつづけてきた。


  

   岩壁登攀

                        田中 清光
  この垂直な岩壁にもろうでをさしのばし
  登るのは 西蔵ふうの祈りのすがた
  
  そうしてここには神がいないので
  おれは許されるはずもない
  
  聖なる刑台に磔にされて
  背に夥しい炎の矢を射たてられ 仮死しているおれ
  
  が 小さなホールドをさぐりあてるやいなや
  ゆびは心臓のようにはげしくふくらみ
  
  おれは昆虫よりものろのろと
  そぎたった岩を いざりのぼる
  
  たとえ聖処女が 刑台にくちづけてくれようと
  たれが許されることをねがうだろう
  
  ただ岩に密着している感触だけが
  おれを無我の祈祷者にしている
  
  おれを神から 無限に遠くしている (1959年)

 岩壁を登攀する男の、地平に垂直な祈りの姿に、夜じゅう痛みにさいなまれ疲労困憊しながら、水平に横たわる人の姿が交差する。彼はこの数年の数度にわたる腫瘍の手術に耐えたのだ。

 詩「夜明け」にもう一度戻ってみよう。ここでで詩人に見えるのは、彼岸へ渡るものばかりではけっしてない。朝いちばんの光が「芍薬花に火を点ずる」とあるではないか。「芍薬花」の文字が、火薬を内部に仕込んだ癇癪玉のようにぱちんと爆ぜる。生き物のもつ濃厚な官能の香りがたちこめる。詩人には「生」が明るくはなやかな炎をあげるのが見えるのだ。このとき、詩人の命もはげしく美しく燃えている。「神から 無限に遠く」と言い切った強靭な詩精神は、今死を見つめながら、ひとしく生をも見つめている。

     (『田中清光詩集』1998年刊思潮社現代詩文庫1165円+税)




<田中清光の最新詩集>

2000年 『再生』思潮社
1996年『岸辺にて』思潮社2678円 詩歌文学館賞受賞 ご注文は書店かtel.03-3267-8153 fax.03-3267-8142へ
(帯文より)「寝たままのこのありさまが実存なら十センチ身をずらせばそこは深淵となる」
生死の岸辺をさまよい歩くなかで、著者はときに濃い闇に包まれ、死者の叫びを聞き、谷奥のさきに燃えさかる火の河を見た。それは1945年3月10日、一瞬のうちに人々を呑み込み消し去った炎であった。現と幻、生と死の境界に横たわる深淵の虚を見抜き、旧友たちの無告の魂を心に刻みつけてきた著者の、根源からほとばしり出るレクイエム。佳品『風の家』以後3年間、22の詩篇と長篇詩『東京大空襲』を収録。


1995年『東京大空襲』月草舎1000円

1994年『空峠』湯川書房3800円 ご注文はtel.06-362-9559へ

1992年『風の家』思潮社2800円 日本現代詩人クラブ賞受賞
(帯文より)「わたしは衰弱している海綿のように今夜だけを生きている」
腹部腫瘍で開腹手術を受けて人間の生や死の姿に触れた詩人は、<帰還してから内や外のさまがよく見えるようになった>という。生と死への眼差しが自然や日常に向けられるとき、詩人の言葉は深い詩的叡智となって、内奥の世界を照らし出す。

上記四冊は全編が『田中清光詩集』思潮社現代詩文庫に収録されています。


<詩的散文集>

1981年『山上の竪琴』文京書房 1600円
(帯文より)新緑の木蔭、岩峯の登攀、峠越え、湖の畔、光溢れる丘・・・自然に憩う著者の心は、その美しさ、自然の持つ意味を詩情豊かに謳いあげてゆく。山岳詩人の清新な散文詩集。


<最新の詩論集>

1996年『大正詩展望』筑摩書房4635円ご注文はtel.048-651-0053へ
(帯文より)現代詩の起点となった芸術思潮を捉えなおす。
西欧の先進諸国理論と固有の伝統の狭間から噴き出た若き詩人たち。その強烈な個性と作品の特性を思潮の中に位置づける。抒情派から前衛まで、爽快な批評によって、「詩」への理解を深めながら、大正詩の醍醐味と詩人の形姿を興味深く浮かび上がらせる。


1994年『詩人の山』-わたしの詞華集 写真・三宅修 恒文社 1800円 ご注文はtel.03-3238-0181
(帯文より)詩人・田中清光氏が自らの自然体験、山体験を織り込みながら、折々に読み、触れてきた先達の詩人たち・・堀辰雄、立原道造、尾崎喜八、串田孫一、八木重吉、鳥見迅彦、辻まこと等の詩作品を交えてまとめた山の詩をめぐる半自伝的エッセイ集。自らの歩んできた道程とともに、本書に紹介される詩作品からは、戦後現代詩の一断面も浮き彫りにされる。自然を愛好する読者に贈る山の詩集。


1990年『月映の画家たち』田中恭吉・恩地孝四郎の青春 筑摩書房4530円
(帯文より)幻の版画誌「月映(つくはえ)」の全貌。大正初期、時代の中で傷める生命を激しく燃焼させた若き画家の内奥の声が、ここによみがえる。

ほかに

世紀末のオルフェたち』『山村暮鳥』(筑摩書房)

詩人八木重吉』(麦書房)『堀辰雄−魂の旅』(文京書房)

<編著>

八木重吉全集』全3巻『八木重吉全詩集』『八木重吉文学アルバム』(筑摩書房)

もっとも新しい仕事として、筑摩書房の『串田孫一集』全8巻(1998年1月より配本開始 各65000円税別)の編集・解説がある。
ご注文はtel.048-651-0053へ
(串田孫一 挨拶『串田孫一集』リーフレットより)
筑摩書房から最初の『串田孫一随想集』8巻が出たのは1958年で、40年前になります。私は今後も、自分に書けるものを考えてこの仕事を続けたいと思いますが、内容を重複させずにこれだけの量を書くのは無理です。従って今回纏められる8巻は自分の大切な記念だと思っております。
 実は六つの種別を編年体に整理してみることを私に勧めたのは、半世紀に近い静かな文学の付合いが続いている田中清光さんです。彼には二年を越す編集の長期間、そしてこの八巻が完結するまで、息を抜くことも出来ない苦労をかけてしまいました。



<詩を読む11>長尾高弘詩集「縁起でもない」を読む(関富士子)へ
<詩>「岸辺にて」(関富士子)へ<詩>「これなあに?2-6」(関富士子ほか)へ
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<詩を読む11>長尾高弘詩集『縁起でもない』を読む

                    関 富士子


 タイトルどおり、縁起でもない話が次々に出てくる。コーヒーをいれるたびに死んだ男のことを思い出させられるとか、会社にたどりつくまでに何度もけつまずくとか、今日死ぬという天啓があって、ぐしゃっと潰れた自分の顔まで目に浮かぶとか、都庁の前でポカンと口をあけたまま銅像にされてしまうとか、カメムシに家を占領されるとか、身体からはぐれて迷子になるとか、人間のときの記憶を持ったまま犬として生活するとか、蓑虫みたいに宙吊りで生きるとか、男らしくなるのに苦労する人生とか、電車の中で痰をひっかけられそうになるとか、朝出がけに歯が欠けるとか・・・。

 同情しつつ笑いがこみあげるのを抑えられないおもしろさ。まったく日常生活とは果てしない冒険である。ひたすら眠いだけの小心なひとりの男。彼のごく平凡に始まる一日は、ちょっとしたつまずきをきっかけに奇妙な想念を呼びこんで、思わぬ方向へ転がっていく。男は右往左往、七転八倒、立ち往生。とまどい、困惑、怒りのやり場もない。自問自答をくりかえし、ときには「私は何者だろうか」と首をかしげるのである。

 そこへ登場するのが男の一人息子、ナオキくん。ナオキくんのすることなすこと話すこと、率直かつ、明快、生きることの示唆に満ちて、当惑している男を人間社会のこんがらかった災難から救い出す。ナオキくんこそ「何者」だろう。

 人の親として子どもを育てていると、成長していく年齢に応じて、その年代の自分のことをわれ知らずまざまざと思い出すことがある。子どものころ感じていたこと、考えていたことがすっきり整理されて見えてくるのだ。わたし自身、子どもを持つまで思いもよらなかったことだが、もう一度子ども時代をなぞりかえし、生き直しているような希有な体験をするのである。

 人は一生自分が何者かわからないで生きるのだろうが、その人生にいやおうなくかかわってくる他者が、そのことについてなんらかのことを教えてくれる。もちろん我が子でなくてもよいのだが、心の内側だけをのぞきこんで途方にくれるより、身近な家族や友人などの目に映る自分を知るほうが、よほどわかりやすいことがある。

 その具体的な手段として、『縁起でもない』の小話風のスタイルは成功しているように思える。作者はちゃんと存在するが終始受け身に徹している。現代の寓話とも読めるが、寓話のように完結せず、さらに日常に寄り添いながら、ひとつひとつに疑問符が付けられている。言葉の枝葉を刈り込んでいないから、詩を読んでいるような気がしない。リズムや呼吸、思考の道筋はあきらかに作者固有のものである。テクニックを弄せず、過剰な比喩をいましめ、普段用の言葉をシンプルに使い、人間というものを読者にありのままに伝えることを心がけている。現代詩の肥大しきった表現にうんざりしている人にも、詩などあまり読んだことのない人にも、共感をもって受け入れられるだろう。

(Longtail)長尾高弘『縁起でもない』の紹介/BoobyTrapで一部の詩が読めます。2200円+税1998年8月15日刊 ご注文は書肆山田


<雨の木の下で7>むかし、解放という言葉があった(倉田良成)雨の木のしずく(関富士子)へ
<詩を読む12>「生きるまなざし」(田中清光詩集を読む)(関富士子)へ
<詩>「これなあに?2-6」(関富士子ほか)へ
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