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vol.9

<雨の木の下で 9>

ケーブルテレビ回線でインターネット接続実験?!(1999.2.11)  関富士子


 マンションの管理組合が、ケーブルテレビに加入するかどうかアンケートを取ったのは一年ほど前。ちょうど新聞で、電話線ではなく、テレビのケーブルでインターネットに接続できるようになるという記事を読んでいたので、加入に賛成の票を入れておいた。集合住宅の場合、ケーブルテレビに加入するには、建物全体の工事が必要なのだ。

 加入が決まってマンション全体の工事が始まり、個人契約のためのパンフレットが届いたのが1月の下旬である。チャンネルごとに映画やスポーツや天気予報や音楽やニュースばかり一日中放送しているらしい。家族は音楽も映画もスポーツも大好きだし、今なら加入費も工事費も無料、衛星放送やWOWOWも見られるコンバータもただで貸してくれるというからすっかりその気。月額利用料は1500円から、ハイグレードだと3500円である。

 わたし自身は実際のところほとんどテレビを見る時間が取れない。食事どきにちらちら見る程度。肝腎のインターネット接続については裏ページに「将来的には双方向機能を利用して各家庭からも発信できる21世紀の新しい通信システムです」とあるだけである。とりあえず加入申し込みをして、契約をしに来たケーブルテレビの人に聞いてみた。するとなんとすぐに接続できるという。入会金無しで、月固定3800円(接続料+テレビ回線使用料+モデム使用料)、利用時間の制限がなく、一日中インターネットに繋ぎっぱなしOK、速いですよお、と言う。メールもただでやり取りできるという。

 それならやらない手はない。ネット接続の電話代はばかにならない。3800円だと月19時間しかつなげないが、ヘビーユーザーはそれではやはり足りない。一日30分ぐらいに抑えているが、これではなじみのHPを散歩するだけで終わってしまう。もっといろいろなところに遊びに行きたい。検索一つにも時間がかかってたいした成果が上がらなかったりする。分刻みに電話代が気になって、サーフィンも思うに任せないし、おちおち文章も読めない。11時過ぎると安くなるがつながりにくいしダウンロードも遅い。だいいち眠くて起きていられない。

 これからはそんな心配がなくなるのである。ただし、まだプロバイダーの認可が下りず、HPは作れないという。それでは価値は半減。わたしのインターネットの目的は、第一に自分のHPを作ることにあるのだから。しかし、これは今までどおり、HPをアップしているHIGHWAYに年固定18000円を払うことにする。ファイルを送るときだけダイヤルアップで接続するのである。highway宛てのメールもダイヤルしなければ受け取れないのだ。

 やってみたいと言うと、係りの人が次の日さっそく「ケーブルラン実験申込書」なる書類とケーブルラン実験参加アンケート」用紙というのを届けてくれた。実験の募集数は100、地域と期間に限定がある。詳しいことはなにも書いていない。どうやらケーブルランでのインターネット接続はまだ実験の段階のようだ。わたしはそのモニターとして選考されるらしい。もっとも選考というのは、OSがウインドウズであること、マシンがケーブルにつなげるタイプのものであることだけという。アンケートに応えて渡すと、すぐに「ケーブルラン実験に伴うモニター決定について(ケーブルテレビシステムによるインターネット接続実験)」なる、わずか2ページの書類が送られてきた。誓約事項がいくつか書いてある。

 要点は、
・実験参加費月々3800円を負担すること。
・サービスサポートは有償であること。
・不法な接続、進入、破壊をしないこと。
・随時実施するアンケートに回答すること。
などである。

 誓約書にサインをしてメールアカウントとパスワードを決めて送ると、その週末にはモデムの工事をするという。さっそく街へ出かけて、指定されたノートパソコン用のLANカード(4680円)とケーブル(320円)を買ってくる。初めにかかった費用はこれだけである。このカードとケーブルをパソコンに繋いで設定を済ませておく。

 それからインターネットでケーブルテレビのサイトを探した。あまりにも情報が少なくてわけがわからない。本当はそれを調べてから契約するべきなのだが、わたしは行動を起こしてから考えるタイプである。契約した東上ケーブルテレビは、ホームページはあったが、インターネット接続のことなど一行も書いていない。しかし、武蔵野三鷹ケーブルテレビや四日市市、大阪池田市などのケーブルテレビのHPには詳しい説明があった。だいたい月額5千円から6千円のところが多い。うちは安いほうだ。 しかし、たいていのところは別料金だがHPのサービスをやっている。

 さて、先週の土曜日、工事の人が三人も来たが、やることは部屋のテレビのジャックに線を差し込むだけ、小さなパソコンで接続をチェックして終わりである。後の設定は自分でしなければならないという。マニュアルを見ると、向こうがくれたわたし個人のIPアドレスとホスト名が書いてある。送ってあったメールアドレスのアカウントofujiとパスワードも記入してある。パスワードがわたしの決めたものと一字違っているので工事の人に言うと、彼はメールパスワードの一覧表を取り出した。彼の記入ミスで、わたしの決めた通りのものでいいという。

 それはそれとして、工事の人がパスワードの一覧表を持っていることにびっくりした。パスワードやIPアドレスがそんなに簡単にわかってしまっていいのかなあ。プロバイダーと契約をしたときは郵便で来た。それでもパスワードが盗まれたという話はよく目にする。ほかの人のパソコンでこの設定をすれば、わたしのデータで接続してしまえるのではないか。メールを見られてしまうということはないのだろうか。もっとも料金は固定だから、他の人がわたしのIPアドレスでネットに接続しても、その人の分の料金を払わされるということはないようだ。支払については直接ケーブルテレビの担当の人と契約をしている。

(この件、あとで調べたら、IPアドレスというのは、モデム一台につなぐパソコン一台に固有のアドレスで、マシンを変える場合は使えないらしい。ただし、接続しているパソコンにさらに別のパソコンをケーブル接続して使うことはできるという。)

 さて、さっそく説明書の通りに設定を始める。くれたのがIEのブラウザの設定マニュアルなので、慣れたネットスケープをやめてIEで設定をする。これがマイクロソフトの陰謀か。書いてある通りにしたら、アダプタやプロトコル設定で、ダイヤルアップを削除してしまって失敗。わたしの場合、今までのプロバイダーにHP用のファイルを送らなければならないし、そこのメールアドレスもあるのだから、ダイヤルアップもできるようにしておく。ちょっと手間取ったが何とか完了。メールソフトも設定を終えて、モデムの電源を入れる。すると・・・なるほどなるほど。ブラウザを立ちあげるとすぐに何もしないのに自分のHPにつながる。しかもIE4.0はなかなか快適である。古いネットスケープ3・0より性能が良かった。

 よそのHPにジャンプすると、接続までは今までとあまり変わらないが、表示は一気にどんと出る。大きな画像でも少しずつちびちびということがない。始めのうち「サーバーがダウン・・・」の表示が何度か出て、おいおい、と心配したが、すぐにそれも出なくなった。それに電話代がかからないからいらいらしないのがとてもよい。インターネットの情報がすべて自分のものになったような、大金持ちの気分だ。つい夜更かししてお肌を荒らさないようにしないと・・・。

 どの部屋のテレビのジャックでも差し込めばOKだ。わたしのはノートパソコンで、仕事部屋に置いてほとんど一人で使っているのだが、試しにリビングに運んでみた。子供たちが面白がってどんどんネットサーフィンをしているが、鷹揚に構える。いくら見ても料金が変わらないなんて。うれしいな。これからのインターネットは、夜中一人で見る孤独なものではなく、テレビと同様家族みんなで見たり、わいわい言いながら発信したりするものになるだろう。

 問題はメールアドレス。アドレスが変わると当面混乱するだろう。ダイヤルアップは、HPに毎晩「今夜のおかず」をアップしているから、ファイルを送るときにいっしょにメールも確認すればよい。ところが、わたしの愛用していたユードラはなにを思ったか起動しなくなってしまった。IEメールに設定しても、起動しなくなるということはないはずだが、すねているのか。メールアドレスのファイルはインポートできたが、今までいただいたメールが読めなくて困った。エクスプローラからユードラのメールボックスをフロッピィにコピーしてワードパットで開いたらやっと読むことができた。すねたユードラをなだめるのに時間がかかりそう。





ケーブルテレビラン接続のその後(1999.2.18) 関富士子



 さて、ケーブルテレビでインターネット接続に成功し、新しいアドレスに代えた2月8日以降、9人ほどからメールが届いているが、いずれも調子は良好である。ところが、一部のアドレスには送信も受信もできなくなってしまった。Sさん、お騒がせしてごめんなさい。送信のリターンメールには「受信者の問題でメッセージを配信できません」とある。後で届いたお手紙によると、一時会社のサーバーがダウンしていたときがあったらしい。その後、今までのダイヤルアップ接続で送ったらちゃんと届いて、受信もできた。ところが、今度はメールソフトを変えたら送信ができなくなってしまった。Sさんのアドレスは会社のランにつながっていて、むちゃくちゃに長くて複雑。ファイアーウオールとかの問題があるのかもしれない。いろいろ試した結果次のような状態らしい。

 Sさんのアドレスに関して
・highwayへのダイヤルアップ接続(古いアドレス)
  ユードラメールで送ると送信、受信とも可
  IEのOutlookExpressで送ると、送信は不可、受信は可
・tojo-catvへのラン接続(新しいアドレス)
  送信、受信ともできない。メールソフトはOutlookExpress。ユードラでは試していない。
これはもう少し調査します。もしほかに新しいアドレスで届かなくて困っている方がいらっしゃったら、今までどおりのhighwayのアドレスにご一報ください

 もう一つ困ったのは、音声をネットで聴くRealPlayerからhighwayにつながらなくなってしまったこと。「環境設定」から「プロキシー」を開いて、RealPlayerと、サーバーであるtojo-catvの両方について、プロキシーとポート番号を入力しなければならなかったのだ。ケーブルテレビのポートは知らされていたが、RealPlayerのがわからない。RealPlayerのHPを訪ねて、サポートのファイアウオールのページから、サーバーの管理者の設定の仕方を説明しているところを探して、ポート番号を発見した。7070! これを入力したら首尾よくつながって、今までどおりguiの朗読会の声が聴けるようになった。ところが久しぶりに聴いた自分の朗読があまりに下手で自己嫌悪。これはあとでこっそりもう少しましなものと代えておこう。

 ブラウザはずっとネットスケープを使っていて、IE4.0はたまに表示をチェックするときぐらいしか見なかった。IEでWWWを見るようになったら、ネットスケープでは気付かなかったことがいろいろあった。html文書を作るとき、<PRE></PRE>で囲んだ文字は、基本設定の文字より一回り小さくなるのだ。わたしは「蚤の心臓」という詩集をここに載せているが、散文詩をこのタグを使って表示していた。フォントサイズの基本設定は3なのに、IEで見ると2ぐらいに小さくて、おまけに太字で表記したためにとても見にくい。読者にこんな見にくいものを読ませていたのかと驚いた。このタグを使うときはフォントサイズを指定する必要がある。



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撮られることと撮ること(1999.1.28)  関 富士子


 写真は魂を吸い取ると恐れられていたのはそう昔の話ではないが、特に人物写真の場合、被写体となった対象が、カメラによって何かを剥奪されるその瞬間を見るような痛ましさを覚えることがある。

 暮れから正月にかけて東京都写真美術館で開催されていたヌード写真展「ラヴズ・ボディ」は、既存の男性の眼で評価されてきたヌード写真を、ゲイやレズビアンの視点を交えて、主体性、関係性を伴った新たな身体表現として捉え直すという試み。親しい友人みたいにあっけらかんとした風俗嬢たちのヌードや、うす笑いをしながら観客を見返す挑戦的なレズビアンの作品など。

 胸を衝かれたのは、写真家古屋誠一の自殺した妻の肖像である。よく太った赤ん坊をもてあますように抱いているが、そのからだはやせ細り目は落ち窪み、絶望的にこちら(夫)を見つめる表情は尋常ではない。また、エイズで死んだゲイのロバート・メイプルソープが撮ったパティ・スミスの写真。彼女はアメリカの詩人で目覚ましいロック・シンガーだが、カメラによってカーテンの隅に追いつめられ、強い拒否の表情のあと、おびえたようにこちらに背中を向けている。他者に見られ、撮られる身体は悲しい。

 これらに対して、小さく縮かんだ両腕を持つメアリー・ダフィーのヌードは、全身がふっくらと女性的な曲線におおわれてすばらしく美しい。両肩からすこしねじれて下がる柔らかそうな両腕が、豊かな絶対の均斉のうちにあるのだ。その身体をとりまく包帯のような光の螺旋が、いましもほどけようとしている。自分を見つめ、ありのままを受け入れ、表現することを知った身体である。





左利きの人生(1999.1.21) 関 富士子


わたしに言わせれば、藤富氏はれっきとした左利きである。
藤富保男のエッセイ「ひだり前」にジャンプ

 かつて左利きは、矯正といって箸や鉛筆などを強制的に右手で持たされたものだ。これは幼いころに訓練させられるから、あまり強い左利きでない場合は、自分がそうと気づかないでいることが多い。

 わたしはかなり強い左利きだが、箸や鉛筆は右手で持つ。親の熱心な教育のたまものである。しかし、消しゴムは左手で使う。缶ビールの口金を開けたり、新しいボトルのキャップを開けたりするときは左手を使わないとこぼしてしまう。握手をしようとすると左手が出てくるので相手が戸惑う。エプロンのひもを大急ぎで結ぶと、縦結びになってすぐほどけてしまう。右手で財布から小銭を取り出そうとすると、きまって床にチャリチャリ落としてしまう。

 子供のころはこれが大問題だった。教室で左手を挙げるとなぜだか笑われた。箒を左手で持って掃いても叱られた。左手で何かをするのは恥ずかしいことらしかった。わたしの場合、特に自転車は車が通っている右側から乗ると危険なので、左側から乗る練習をさせられた。これは理由が明確だから受け入れたが、クレヨンももお習字の筆も、右手で持たなければならないから、存分に楽しんでかいたという記憶がない。なぜだか常に不自由感がつきまとった。

 雑布がぎゅっと絞れなくて困っていたが、藤富氏が書いているように、剣道の握りと同じく、左手を上に、右手を下にして絞るとうまくいくのを知ったのは中学生のころか。
(longtailの長尾高弘さんの詩「雑布の絞り方」Longtail:詩「詩的日乗」へジャンプ(「詩学」1998、12月号掲載)によると、彼もまた似たような思いをしているらしい。)
ボールはなぜか左で投げても叱られなかったから、ドッジボールやソフトボールなどは得意だったし、中学のバレー部には敬して迎えられた。左利きの特に女の子の選手は稀少価値があるらしかった。

 今では左利きは少しも恥ずかしいと思わない。小銭は落とすのがいやだから必ず左手で扱う。パソコンのマウスはもちろん左で操る。右手で何かメモを取るとき便利だ。娘が左利きだと気づいたときも、無理には直さなかった。二人目の息子はさらにほったらかしだった。子供たちは二人とも、箸も鉛筆も左で持つ。デザイナー志望の娘は、針を左手で持って器用に何でもちくちく縫ってしまう。

 ところがつい先日のことである。大学一年生の彼女は、学校の課題で初めてスーツに挑戦した。服飾デザイン科は課題が多くて、バイトもしている彼女は時間に追われている。最後の提出日が迫って、一生懸命スーツを仕上げ、もうスカートのまつりがけで完成というときになって、大変なことに気づいた。スーツの前ボタンを右側に付けてしまったのである。ボタンホールは左側だ。これは紳士服の付け方なのである。婦人服はこれと全く逆。ボタンは左側に付けて、右のボタンホールに入れると、大昔から決められている。

 今夜は寝ずに直さなければならないだろうとわたしは思った。実は彼女は夏にブラウスを縫ったときも同じ間違いをしているのである。そのときは大笑いしただけで、一度やればもう失敗はしないだろうと思っていた。ところが二度目である。娘もがっくりしていたものの、立ち直りは早かった。このまま提出するというのである。先生には間違えてしまったと言えばいい、それに、このまま着ても少しも困らないという。

 わたしはうなってしまった。この間違いが彼女の左利きのせいかどうかはわからないが、右左の区別がふつうより厳密でないことは確かだ。でも彼女はさらに合理的である。確かにボタンの位置が右だろうと左だろうと少しもかまわない。紳士服と婦人服で、ボタンの掛けかたが逆ということに、なにか人を説得できる合理的な理由があるだろうか。しかし、とわたしはさらに考える。

 このスーツを見た教師は何と思うだろう。彼女の考えを受け入れるだろうか。頭からこういうものだと思い込んでいる目がまったくそれとは相反するものを見たとき、その存在は実に異様でありうべからざるものに映るものだということをわたしは知っている。すぐに直しなさいと頭ごなしに言うのではないか。

 しかし、とわたしはさらに想像する。そのとき、実に落ち着いて、ごく自然な調子で答える娘の姿を。間違えちゃったけど、このまま着ます、わざわざ直さなくても、わたしはこれで平気です。そのとき、これまで連綿と続いてきた服飾の歴史がいとも簡単に覆される。彼女のこれからの左利きの人生こそが新しい歴史を作るのだ。







猿のことば(1999.1.14)  桐田 真輔



 アフリカの猿がじっと夕陽をみつめている映像をテレビで見たことがある。猿は夕陽の美しさに感動していたのだろうか。猿の気持ちは分からないが、私は西向きの部屋でパソコンを使っているので、時々猿状態になることがある。空が少し曇っていて、はっきりと太陽の丸い輪郭が確認できるのが特に好ましい。

 そんなとき、たまに「蜜柑の如き夕陽」という言葉(註)を思い出すことがある。その比喩が陳腐だとか、そうでないとかいう議論を随分以前に読んだことがあったが、私にとって「蜜柑の如き」という表現は、陳腐どころの話ではない。おおげさにいえば、私がそのように益体もなく夕日を見ながら過ごしてきた時間の堆積と分かちがたい言葉になっていて、いいも悪いもなく、ただただ「みかん」なのだとでも言う他ない。

 それを、私によって「生きられた言葉」というふうにも言ってしまえる。もちろんどんな言葉も、時代に流通する言語規範としての側面から逃れるわけにいかないから、そういう尺度を当てはめて、陳腐だとか、凡庸だという言い方には一定の根拠がある。ただ、人間は歩く辞書ではないから、言葉から言外の感情を汲み取って、それを表現の価値とみなせる側面もある。それが古典な芸術形式が人に感動を呼び覚ます理由のひとつであろう。

 もともと、ふたいろの解釈を許すように言葉は私たちにあらわれてくる。どちらを取るかは自由だが、「生きられた言葉」とは、そういうこととはまた別に、私のなかの猿と共に死ぬしかない単純素朴なものであろう。


(註)「やがても蜜柑の如き夕陽、欄干にこぼれたり」(中原中也「冬の長門峡」より)


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群ようこ『尾崎 翠』を読む(1998.12.31) 桐田真輔



 青春期に、偶然、幸運な読者の一人として出会い、その後、長い時を経ても、ずっと愛着を傾け続けるような作品がある。そういう作品は自分にとって若い頃の記憶と共に独特な光芒を放っていて、世の評価や、一般に知られているいないに関わらない。たとえば、私にとって、ジャン・グルニエの『孤島』がそういう本であり、尾崎翠の小説(最初に読んだのは作品集『アップルパイの午後』(薔薇十字社)だったが、現在、手元にあるのは『尾崎翠全集』(創樹社)全一巻)もそうした少数の本の中の一冊に数えられる。

 尾崎翠(1896〜1971)は「第七官界彷徨」という代表作のある、昭和初期に活動した日本では珍しい感覚的な観念小説の書き手だった人で、本書は彼女の生涯と作品を紹介してコンパクトな新書版にまとめた評伝ということで、表題を見て懐かしくなって思わず買い求めた。

 本文は、著者の群ようこさんが、尾崎翠の「第七官界彷徨」を二十年前に読んだ時の衝撃を語るところから、始まっている。また尾崎へのひとときの傾倒ぶりを「日本の小説はこの一作でいいとすら思ったこともある」とむすび近くでも書いている。実に我が意を得たりという感じでなんとも嬉しく、内容的にも、これまで知らなかった尾崎翠の境涯のエピソードについて多くを教えられたのが楽しかった。

 ひとつだけいえば、本文は時系列的に彼女の生涯を辿りながら、随所に作品の丁寧な紹介をはさみこんでゆくという体裁なのだが、その紹介の書き方について、ちょっと難があるように感じた。あまりストーリーの要約ということをせずに、作品中のセリフや描写をそのままきりとって、短い説明を挟み込んでつなぎ合わせたような紹介文が、けっこう読みにくいのだ(地の部分と行がつめてある箇所も気になった)。これは私だけがそう感じたのかもしれないが、せっかくの紹介の労が報われていない感じでちょっと残念だった。

 また、ついでに勝手なことを書かせてもらえば、彼女の作品が、著者も含めた戦後の若い世代に、これまで、どのような影響を与えたのかといった文化史的な掘り下げがあれば、戦後も一部の少数の人々に熱烈に愛されてきた尾崎の孤高な観念小説の、受容のされかたや広がりの一端を紹介できたかも知れないと思った。私は勝手に、尾崎翠の小説は、少女漫画の作家たちにも影響を与えたように思っているのだが、思い過ごしだろうか。たとえば岡田史子や坂田靖子の漫画。。

 著者の群ようこさんは「この本を読んで、尾崎翠という作家に興味を持ち、そして彼女の本を読んで下さったならば、これ以上の喜びはありません。」と本書を結んでいる。私がこういう場を借りて、本書を紹介したくなったのも、そういう著者の想いを増幅したいという気持ち以外ではない。とりわけ、詩の好きな若い人達に、と書き添えたい。

群ようこ『尾崎 翠』(1998年12月20日第一刷発行・文春新書)
紀伊国屋ブックウェブで購入可能な本
『尾崎翠全集(上下)』(筑摩書房)
『尾崎翠全集』(創樹社)
尾崎翠『第七官界彷徨』(創樹社)

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