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vol.9

<詩を読む>

 

  吉増剛造『「雪の島」あるいは「エミリーの幽霊」』を読む  


桐田 真輔


 吉増剛造『「雪の島」あるいは「エミリーの幽霊」』(1998年10月10日第一刷発行・集英社)は、詩集。95年から97年にかけて新聞雑誌などに初出の作品19編が収録されている。

 吉増氏は本格的な詩人だと思う。本格的というのは、この詩人が、ある種の受動的な体験を詩作の核心においているというような印象からやってくる。いつも詩を書くためのうながしは外部からやってくる。これは遠い巫女の時代からの秘密であるに違いない。

 もちろん、そのうながしをどのように翻案し、配置し、文脈のなかに埋め込むかということが、近代的な詩の作法と作者の個性ということだろう。ただそのプロセスで失われがちな最初の外部からのうながしを、ある強度のままに持続しつつ表現できる資質や技量というような意味で、氏は際だっているように思えるのだ。詩の体験はどこか心がその古層に出会うような状態に身をおくことだった。そういう懐かしい思いを呼び起こしてくれる数少ない詩の書き手というべきかもしれない。

 著者は、コロンビアの国際詩祭や青森の縄文遺跡や宮古島や徳之島といった土地に旅をする。その先々で感受した「うながし」の言葉の体験を核にして、驚くべき自在な言葉遣いで(ときにエミリー・ディキンソンの詩の言葉に共振したり、民俗学者折口信夫の文体に寄り添ったりしながら)詩作品を産んでいる。

 歌物語のように、詩とその語句や背景の解説が混然となっているところもあり、吉増剛造という人(の生きた幻想的な時間)そのものをを詩として読ませられている気分になってもくる。またある詩の語句が別の詩に意識的に利用されているところもあり、詩集全体が同質のひろがりをもった世界として印象づけられる理由のひとつになっている。この全体性の圧倒的な質感量感の中で、独立した一編の詩という観念や、詩と日常性の境界が怪しく溶けかけている。

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  中川千春『詩とは何か-罵倒詞華抄』を読む  


桐田 真輔


 中川千春『詩とは何か-罵倒詞華抄』は、古今の名言ならぬ、詩と詩人に関する非難中傷皮肉罵倒の言辞を集めた異色のアンソロジー。初出は「現代詩手帖」(93年3月〜11月、94年1月〜11月号)に連載されたもの。

 考えてみると「詩」や「詩人」という言葉は不可解な言葉だ。私たちは普段、空気や水のように言葉(日本語)を使っているが、ある種の言葉に思いがけず酔ったり驚いたり感動したりした「詩的」な体験を誰もかかえている。そういう事は、私たちが一面で言葉を習い覚えて自分の世界を獲得するというところから、否応なく起こってしまうことだが、そういう原体験を抱えているために、また、そういう体験の可能性に開かれた存在であるために、いくら「詩」が無用の長物であり、「詩人」という人種は馬鹿で変人ばかりだと言っても、いわば言っていることの底が抜けてしまうのだ。

 編著者は、一章のはじめに、なぜこういう蒐集をしたのかについて、断り書きの一文を付しているのだが、自分にとって詩及び詩人の存在を予め肯定的に認知し了解して書かれている「世の詩論」は、おおむね退屈きわまりなく、逆に、それらからは与えられない啓示が、これらの断章からは与えられることがあり、「詩と詩人を罵倒する言葉がなぜに面白いのか、」ということの解明に、「逆説 的な関心の一点」があると書いている。

 同感するところも大いにあるのだが、「世の詩論」が「おおむね退屈」と感じられるのは、詩及び詩人の存在を予め肯定的に認知し了解して書かれているからなのかどうなのか。そういう前提より、やはり詩論の内容によるのではないのか、と、ろくに編著者のいう「世の詩論」を読んでいないであろう私は思う。なぜなら、「世の詩論」から、一番刺激的な箇所をとりあげて、この断章集の中にまぎれこませてみても、そこだけ退屈というわけではないだろうからだ(空想)。

 つまり、これらの断章がなぜ面白いのか(退屈なものの大いにあるが)、といえば、やはり断章という、いいっぱなしの形式によるところが多いと思う。そしてその「啓示」は、なにに似ているかといえば「詩」に似ている。

 文中には私の好きな著述家の断章も沢山取り上げられていて、懐かしく思いもしたが、特に楽しかったのは、送られてきた詩集を没にして送り返す編集者のコメントに付せられた罵倒だ。なんだか震えるような喜びがある。私は変なのだろうか。

 こういう類の本には、本当ならそれぞれの断章を書いた人の思索や著作に誘われるような構成の流れや雰囲気があればいいと思ったのだが、ともあれ質量に圧倒される。快著(怪著)というべきだろう。

中川千春『詩とは何か-罵倒詞華抄』(1998年11月20日第一刷発行・思潮社)

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  山本かずこ詩集『思い出さないこと 忘れないこと』を読む  


桐田 真輔


 「何も思い出さない。けれど何も忘れてはいない。そうした記憶の枯野に一人で立っている気持ちがすることがあります。」と著者は「あとがき」に、書いている。「そのとき、不意に風が吹いてきて、後ろを振り返った。」ここで象徴的に語られていることが、この詩集全体を彩っている情感にすんなりと重なってくる。「記憶の枯野」と呼ばれているようなある種の心の待機状態があり、過去から立ち上がってくる「風」(記憶)を待ち受けている。詩はいつも、その風を受けて書き始められるのだが、大切なことはすでにその前に始まっている。伝えた いことは、そのプロセス全体をくぐりぬけたことの意味なのだ。それは、ほとんどこの詩人の詩法を証しているようにも読める。

 この詩集のタイトルは、あとがきの言葉とは別に、直接には「(夜の記憶)」という散文詩に登場する詩行から取られているように思える。

 「(夜の記憶)」は、「私」と「あなた」が、知り合いの大勢いる旅館をそっと抜け出して、探しあてたホテルで共にした一夜(年に一度の)の逢瀬を綴った散文詩で、翌朝、「わたし」はベッドに横たわったまま雨を眺めながら、「この朝、すでに、思い出さないこと。そして、忘れないことのまん中にいる。」と思い、やがて服を着てホテルの食堂で朝食をとっていても、その気分は、変わらないだろうと想像している、というところで終わる。

 「思い出さないこと」とは、胸のうちに封印すること、「忘れないこと」とは、記憶に留めること。「わたし」は、恋人と過ごした一夜の「ひめごと」の記憶を、こうして封印しながらしっかりと記憶にとどめようと決意しているように読める。なぜ、決意なのか、といえば、それが「私」が自分で選び取り、自分に下した「あなた」との向き合い方だからだ。だから、一見「わたし」の罪の意識が、夜の記憶の封印をうながすようでいて、そうではない。むしろ封印をいうことが、エロスを際だたせるためのしかけであり、意志は「忘れない」こと(記憶 をとりだせるように潜在化しておくこと)に向いている。この感受性は、どこか過去に縛られながら、現在を耐えているといった古典的な受苦の感じに似ていながら、すこし違っていて、むしろある種の受動性をくぐり抜けたあたらしい意志のかたちを暗示しているという感じがする。

そして白玉ではいや
山桜の
花びらが一枚加わる
水のなかに
もちろん
自らの意志で
飛び込んでくるのだ
「(桜の意志)」より
 この詩集には、詩人=「私」のたつ「記憶の枯野」に吹きよせて、過去の想起に誘った様々な色合いの違う風との出会いを綴った詩が収められている。その風が、「(ゆび)」、「(はる)」、「(売買)」といった、深いエロスの情動を湛えている場合の、詩のことばの放つエロティックな肉感性については、「栞」で芹沢俊介氏が言葉を尽くした素敵な評を書かれている。

 ただ、この詩集には、秋桜を見て想起されたように思える、若い妊婦だった頃の記憶を綴った「(花の記憶)」のような作品や、「(告白)」のように、過去の生き方の分岐点の回想をテーマにしたような作品や、「(二十歳)」のように、娘の振る舞いに過去の自分との相似を発見した母親の驚きを描いたような、印象的な作品も含まれている。また「(道)」や、「(ガンジス河まで)」や、「(ずっと長い夢を見ている)」のように、インド旅行の思い出に心象を重ねた作品群もある。

 詩人は、こうしたテーマのひろがりのなかで、ふとした現前の情景や出来事に触発されて、遠い過去の思い出を綴ったり、旅の印象や、さりげなく過ぎて行く一日の記憶を綴るときも、大切な「ひめごと」を語るように「わたし」の女性性(エロス)を濾過してさしだす。そのさりげないさしだしかたに、この詩人の、とても生得的(本格的)な資質が読めるような気がする。

山本かずこ詩集『思い出さないこと 忘れないこと』(発行ミッドナイト・プレス)
「midnightpress」のホームページへジャンプ。

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