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<詩を読む>ツェランと石(河津聖恵)へ
vol.12
<詩を読む>
tubu中谷泰詩集「旅の服」へD・W・ライト編『アメリカ現代詩101人集』へ(桐田真輔)
  

「時間」のほどき方

         (井坂洋子「軽いひざ」を読む)   河津聖恵


軽いひざ」は、詩集『GIGI』のなかでも、行の進行が「現実の時間」の展開に極力添おうとしている作品である。実はそのことだけでもう、まだ二十を過ぎたばかりの私はいいがたく魅せられたように思う。その頃私はようやく現代詩というものを意識しながら曲がりなりにも詩を書き始めていて、さまざまな傾向の詩人の詩に接するようにもなっていたが、こんなふうに「時間」そのもの(「歴史」や「日常」ではなく)の現実的なすがたを感知させる作品は、初めてだったように思う。
 この作品は「窓硝子に顔をつける」という大胆な一行で始まっている。この一行により、「私」は直接車内をみているのではなく、暗いガラスに映る、現実よりもさらに黄ばんだもうひとつの車内をみていることになる。だが、「私」がみているというよりも(「私」は「扉近くの銀の棒に/からだをもたせかけている」といったように、ひどく疲れてしまつているらしいのだ)、「ガラス」という物質の目がみている、いいかえれば、疲れた「私」は「ガラス」という物質の目にみることをまかせてしまっている、といった方が正しいだろう。


 

軽いひざ


             井坂洋子

  
窓硝子に顔をつける
地下鉄の車内に
新聞の戸をたてて
侵入を防ぐ黄色い片手がいくつか
すり減ったひざの上にのびている
そこに載せる
夕食時のこどもの尻は柔らかく
しだいに重みを増していくだろう
私は油のついた
扉近くの銀の棒に
からだをもたせかけてる
  
  
座席の
ジャンパーをはおった若い男が
母親のような年ごろの女と
手話ではなしている
相手の顔をじっと見ながら
発情の錐をもむように
苛々と軽いひざを揺すっていたが
硝子のなかで
こちらを向いた
告げるべき言葉を持たない
戸が開けば
トンネルになった道を
てんでんにくぐっていく
  
  
窓硝子に顔をつける
更紗の布がひとつづき
順々に風をはらむ
図書館の窓際でその一頁
プールの水面では二頁と
光をたたんでいったことを
思い起こす


 「物質」がみている、というこの逆転を私は今でも凄いと思っている。こんなふうにさらりと詩の中心を「物質」に移してしまうという、大胆さときわどさ(これは私も何度真似ようとして失敗したことか)。なぜそれが魅惑的なのかといえば、「中心」を「物質」に移す(あるいはほどく?)ことで、そこに途方もない深さが、いやおうなく生じるからだ。「私」の視野だけで描ききろうとすれば、詩の「時間」は線的に、「起承転結」や「関係」へおとなしく分岐してゆくだけにちがいない。ところが、「物質」にみられるという逆転をしかけることで、「時間」はやわらかにゆるんでゆくだろう。そして、やがてその本来の姿をみせはじめるだろう。黄ばんだ光に照らされて乗客は疲れて黙り、轟音だけがきこえる暗いガラスの中の車内─そこには、「時間」そのものが、いきづいてゆくのだ。

 第二連では、聾唖者(一方だけかもしれないが)の「若い男」と「母親のような年ごろの女」の手話での会話をとらえている。六行目から七行目の「発情の錐をもむように/苛々と軽いひざを揺すっていたが」に、十六年前の私はとても驚かされたように思う。そんなふうにいってしまっていいのだろうか、と。と同時に、実は自分も「手話」のどこかにそのような淫らさを覚えていたのでは、とも。けれど驚きは、「比喩」のレベルにはなく、その淫らさを「ガラス」の目が露わにしてしまっているという「物質」のレベルにあったように思う。つまり、そこにあるのは、「手話」の淫らさではなく、「ガラス」という何よりも弛緩した「物質」の淫らさであり、だからこそ、どこか拭っても拭っても深く汚れた感じに、ここの箇所でいつも染まってしまうように私は感じたのだと思う。

 そして、聾唖者は、やがて「ガラス」をみている「私」の視線に気づく(「硝子のなかで/こちらを向いた/告げるべき言葉を持たない」)。この「告げるべき言葉を持たない」という一行は、この作品のなかで最も印象深かった。それこそ制札のように立っている気がした。「ガラス」をみている「私」は、「ガラス」の中から聾唖者に見返されたのだが、聾唖者の視線は実は、「ガラス」の目を通して車内をぼんやりみていた「私」に、ついに向けられた「ガラス」の視線なのである。だから「告げるべき言葉を持たない」のだ。「物質」にどんな言葉が告げられようか。

 最終連は、読むたびにどこか別な時空がひらかれる気がした。「図書館の窓際でその一頁/プールの水面では二頁と/光をたたんでいったことを/思い起こす」─こんな「時間」のほどき方に、私は意味も言葉も越えて一瞬で魅惑された。そして「時間」を「作り上げる」方向ではなく「ほどく」方向でこそ、詩というものは成功するのだと、知ったのだ。

(初出 「現代詩手帖」1999年4月号 原文では引用の詩の第一連は省略されています(関))





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中谷泰詩集『旅の服』を読む

KIKIHOUSE 桐田真輔


 中谷泰『旅の服』(1999年7月2日初版第一刷発行・ふらんす堂)は、詩集。
 あとがきによると、「全体の作品の主題は旅」。しかし馬頭琴やケチャやガムランの調べも登場するこの詩集の著者は、(現実には)ほとんど旅をしたことがない、とも書いているのが面白い。

 物語詩あり、叙情詩ありと、バラエティに富んだ作品が収録されているが、それらの作品の基調をなすように思えたのが、「空」(そら)への心の傾斜のようなもの。「空」はいろいろなかたちで登場する。
今日は朝から雨が降り 夕方に晴れた空を見ていると/黄昏の霊魂がどこか戦いに行く帆船のようだ」(愚者の恋物語)。
青い城浮かぶ空の下 垢にまみれた商人は森の湖を歩く」(城へ逝く鳥)。
青空のあの場所に大きな雲は白くかたまり/見上げるたび 風もないのに別な場所へ動いている」(至福の道)。

 一方、旅で出会う多彩な言葉たちの多くは、現実の比喩や象徴になりかける手前で、すっと意味を消してしまうように思える。ちょうど空 模様の変幻が、私たちにかいまみせるつかのまの意味や物語の行く末ように。そこに作者の抑制が働いているのかわからない。ただ「空」に惹かれる心の大きな肯定感があって、この詩集の想像力のスケールや明るい肌合いをきめているような気がする。
かぎりなく/かぎりなくたかく/かぎりなく/かぎりあるそらへ/わたしのこころをいれよう」(ある日 1)。

詩集収録作品が読める、中谷泰さんのホームページ「三つの水路」へ。

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「河口の風景---D・W・ライト編『アメリカ現代詩101人集』を読みながら

KIKIHOUSE 桐田真輔

 『アメリカ現代詩101人集』(思潮社)は、20世紀のアメリカの詩人101人の詩篇を集めた詩のアンソロジーだ、その中には、レイモンド・カーヴァーの「水と水が出会うところ」という、川辺の風景の魅力を讃える短い詩が収録されている。「水と水が出会うところ」は、小品ながら、スメタナの交響組曲『モルダウ』みたいに水源から河口に至るまで河川の魅力をまるごと綴った詩作品だが、そのなかで、とりわけ「水と水が出会う」河口の風景のすばらしさが、以下のようにうたわれている。


(前略)

川が大河に流れこんでいくところがいい。

大河が海に入る広大な河口がいい。

水と水が出会うところが

いい。こうしたところは

聖地のように心にきわ立つ。それにしても

海に入るこの幾筋もの大河はどうだ!

まるで馬や魅力的な女を愛する男みたいに

ぼくはこの光景を愛する。この

冷たい速い水にとり憑かれる。

見ているだけで血がさわぎ、

皮膚はひりつく。この幾筋もの大河は

何時間見ていても飽きない。

(後略)

     レイモンド・カーヴァー「水と水が出会うところ


 ところで、カーヴァーの作品といえば、小説家の村上春樹氏がその翻訳者・紹介者として有名だが、村上氏の新作小説『スプートニクの恋人』(講談社)には、以下のような印象的なセリフが登場する。


 「ひとりぼっちでいるというのは、雨降りの夕方に、大きな河の河口に立って、たくさんの水が海に流れこんでいくのをいつまでも眺めているときのような気持ちだ。雨降りの夕方に、大きな河の河口に立って、水が海に流れこんでいくのを眺めたことはある?」(中略)
たくさんの河の水がたくさんの海の水と混じり合っていくのを見ているのが、どうしてそんなにさびしいのか、ぼくにはよくわからない。でも本当にそうなんだ。君も一度見てみるといいよ」(P287)。


 さて、ここからは私の勝手な空想だが、村上氏はこの一節を書くまえに、きっと、この、カーヴァーの「水と水が出会うところ」という詩作品を原著で読んでいたのではないだろうかと想像してみる。そうして、カーヴァーの詩句に触発されて?ご自分でも河口の風景を眺めに行ったことがあり、そういう体験をふまえて、小説の中の主人公に、わがことのようにその風景の印象深さを語らせたのではないだろうかと。。。

 引用した部分は、村上氏の小説『スプートニクの恋人』では、万引きを繰り返す小学生の無口な教え子に、心を通わせたい小学校教師「ぼく」の語るセリフとして登場するのだが、シチュエーションとしては、格好はいいが、ちょっと不自然な表現だと思い、そういう意味のことを自分のホームページ「KIKIHOUSE」掲載の感想文に書いたことがある。

 ただ、そういうことを離れて比較して読んだ場合、カーヴァーにとっては「聖地のように心きわ立つ」河口の風景が、小説の「ぼく」にとっては、孤独感や寂寥感を募らせる風景とされているのが、とても対照的で興味を惹く。日本語では、ある種印象深い「風景」を、「情景」といいかえて、特定の共通の情緒を喚起することを前提にして使われるような場合が多いと思う。『アメリカ現代詩101人集』には、思いの他、沢山の自然の風物をうたった詩作品が収録されている。そういう彼我の違いにあれこれ思いを馳せながら、アンソロジーを繙くのもまた楽しからずやと。。。



tubu<雨の木の下で>「アメリカ現代詩101人集」出版記念・詩とジャズのコンサート
<詩を読む>中谷泰詩集「旅の服」を読む(桐田真輔)へ
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