「時間」のほどき方
(井坂洋子「軽いひざ」を読む) 河津聖恵
「軽いひざ」は、詩集『GIGI』のなかでも、行の進行が「現実の時間」の展開に極力添おうとしている作品である。実はそのことだけでもう、まだ二十を過ぎたばかりの私はいいがたく魅せられたように思う。その頃私はようやく現代詩というものを意識しながら曲がりなりにも詩を書き始めていて、さまざまな傾向の詩人の詩に接するようにもなっていたが、こんなふうに「時間」そのもの(「歴史」や「日常」ではなく)の現実的なすがたを感知させる作品は、初めてだったように思う。
この作品は「窓硝子に顔をつける」という大胆な一行で始まっている。この一行により、「私」は直接車内をみているのではなく、暗いガラスに映る、現実よりもさらに黄ばんだもうひとつの車内をみていることになる。だが、「私」がみているというよりも(「私」は「扉近くの銀の棒に/からだをもたせかけている」といったように、ひどく疲れてしまつているらしいのだ)、「ガラス」という物質の目がみている、いいかえれば、疲れた「私」は「ガラス」という物質の目にみることをまかせてしまっている、といった方が正しいだろう。
軽いひざ
井坂洋子
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窓硝子に顔をつける |
地下鉄の車内に |
新聞の戸をたてて |
侵入を防ぐ黄色い片手がいくつか |
すり減ったひざの上にのびている |
そこに載せる |
夕食時のこどもの尻は柔らかく |
しだいに重みを増していくだろう |
私は油のついた |
扉近くの銀の棒に |
からだをもたせかけてる |
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座席の |
ジャンパーをはおった若い男が |
母親のような年ごろの女と |
手話ではなしている |
相手の顔をじっと見ながら |
発情の錐をもむように |
苛々と軽いひざを揺すっていたが |
硝子のなかで |
こちらを向いた |
告げるべき言葉を持たない |
戸が開けば |
トンネルになった道を |
てんでんにくぐっていく |
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窓硝子に顔をつける |
更紗の布がひとつづき |
順々に風をはらむ |
図書館の窓際でその一頁 |
プールの水面では二頁と |
光をたたんでいったことを |
思い起こす |
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「物質」がみている、というこの逆転を私は今でも凄いと思っている。こんなふうにさらりと詩の中心を「物質」に移してしまうという、大胆さときわどさ(これは私も何度真似ようとして失敗したことか)。なぜそれが魅惑的なのかといえば、「中心」を「物質」に移す(あるいはほどく?)ことで、そこに途方もない深さが、いやおうなく生じるからだ。「私」の視野だけで描ききろうとすれば、詩の「時間」は線的に、「起承転結」や「関係」へおとなしく分岐してゆくだけにちがいない。ところが、「物質」にみられるという逆転をしかけることで、「時間」はやわらかにゆるんでゆくだろう。そして、やがてその本来の姿をみせはじめるだろう。黄ばんだ光に照らされて乗客は疲れて黙り、轟音だけがきこえる暗いガラスの中の車内─そこには、「時間」そのものが、いきづいてゆくのだ。
第二連では、聾唖者(一方だけかもしれないが)の「若い男」と「母親のような年ごろの女」の手話での会話をとらえている。六行目から七行目の「発情の錐をもむように/苛々と軽いひざを揺すっていたが」に、十六年前の私はとても驚かされたように思う。そんなふうにいってしまっていいのだろうか、と。と同時に、実は自分も「手話」のどこかにそのような淫らさを覚えていたのでは、とも。けれど驚きは、「比喩」のレベルにはなく、その淫らさを「ガラス」の目が露わにしてしまっているという「物質」のレベルにあったように思う。つまり、そこにあるのは、「手話」の淫らさではなく、「ガラス」という何よりも弛緩した「物質」の淫らさであり、だからこそ、どこか拭っても拭っても深く汚れた感じに、ここの箇所でいつも染まってしまうように私は感じたのだと思う。
そして、聾唖者は、やがて「ガラス」をみている「私」の視線に気づく(「硝子のなかで/こちらを向いた/告げるべき言葉を持たない」)。この「告げるべき言葉を持たない」という一行は、この作品のなかで最も印象深かった。それこそ制札のように立っている気がした。「ガラス」をみている「私」は、「ガラス」の中から聾唖者に見返されたのだが、聾唖者の視線は実は、「ガラス」の目を通して車内をぼんやりみていた「私」に、ついに向けられた「ガラス」の視線なのである。だから「告げるべき言葉を持たない」のだ。「物質」にどんな言葉が告げられようか。
最終連は、読むたびにどこか別な時空がひらかれる気がした。「図書館の窓際でその一頁/プールの水面では二頁と/光をたたんでいったことを/思い起こす」─こんな「時間」のほどき方に、私は意味も言葉も越えて一瞬で魅惑された。そして「時間」を「作り上げる」方向ではなく「ほどく」方向でこそ、詩というものは成功するのだと、知ったのだ。
(初出 「現代詩手帖」1999年4月号 原文では引用の詩の第一連は省略されています(関))
中谷泰詩集『旅の服』を読む
KIKIHOUSE 桐田真輔
中谷泰『旅の服』(1999年7月2日初版第一刷発行・
ふらんす堂)は、詩集。
あとがきによると、「全体の作品の主題は旅」。しかし馬頭琴やケチャやガムランの調べも登場するこの詩集の著者は、(現実には)ほとんど旅をしたことがない、とも書いているのが面白い。
物語詩あり、叙情詩ありと、バラエティに富んだ作品が収録されているが、それらの作品の基調をなすように思えたのが、「空」(そら)への心の傾斜のようなもの。「空」はいろいろなかたちで登場する。
「今日は朝から雨が降り 夕方に晴れた空を見ていると/黄昏の霊魂がどこか戦いに行く帆船のようだ」(愚者の恋物語)。
「青い城浮かぶ空の下 垢にまみれた商人は森の湖を歩く」(城へ逝く鳥)。
「青空のあの場所に大きな雲は白くかたまり/見上げるたび 風もないのに別な場所へ動いている」(至福の道)。
一方、旅で出会う多彩な言葉たちの多くは、現実の比喩や象徴になりかける手前で、すっと意味を消してしまうように思える。ちょうど空
模様の変幻が、私たちにかいまみせるつかのまの意味や物語の行く末ように。そこに作者の抑制が働いているのかわからない。ただ「空」に惹かれる心の大きな肯定感があって、この詩集の想像力のスケールや明るい肌合いをきめているような気がする。
「かぎりなく/かぎりなくたかく/かぎりなく/かぎりあるそらへ/わたしのこころをいれよう」(ある日 1)。
詩集収録作品が読める、中谷泰さんのホームページ
「三つの水路」へ。