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vol.12

<詩を読む>



 『駅名のような自然  河津聖恵  



言葉なんかおぼえるんじゃなかった/言葉のない世界/意味が意味にならない世界に生きてたら/どんなによかったか」─この有名な連は今詩人の死(注 田村隆一[注は関])を契機に詩を書く多くの者に思い出され、それぞれの初心に連れ戻しているように思える。詩というものがその本性として抱え込んでいる矛盾─言葉が「言葉のないもの」、「いいがたいもの」、つまりは「自然」そのものと対峙することによって生まれるものであることを、たとえ詩人への喪の気持ちのつづくあいだだけでも、わたしたちはあらためて思い出そうとしているのかもしれないし、またそうしなければならないだろう。

 言葉と「言葉のないもの」、「自然」との対峙というシンプルで根源的な原理。それは、とてもなつかしく、そしてなつかしいがゆえに大切なものに思える。そしてこの亡くなった詩人が、その「対峙」を詩の言葉の内部でじっと抱え込むというよりは、あらわに対象化しつづけていったことを思い出せば、さらにめくるめく思いがする。もちろんその詩人のスタンスは、時代の要請の結果あえてとられたものでもある。現在、そうしたスタンスをだれもとってはいないし、とることはできない。そのようなスタンスをとりうるには、時代の要請とその要請に足るだけの時代を越えた稀有な能力が必要なのだから。

そもそも現在という時間がわたしたちに、「自然」との対峙そのものを謳うことを要請することなど決してない。せめてそれを密かに詩の言葉の内部で抱え込もうとしても、やはりそらぞらしい気持ちはぬぐえないだろう。「自然」との対峙の不可能─だからといって、近代詩にみられるように「自然」を素材にした直喩などによってそれととやわらかな接合をはたし、それを感情の器にすることは、はるかに許されないにちがいない。つまり「自然」に包まれることも対峙することも不可能な地点にまできてしまったといっていいだろう。

現在詩を書こうとするとき、「自然」という自明な背景が、肯定的にであれ否定的にであれ書くわたしたちの身体の背後にあらかじめ存在し、することはありえないのだ。それほど「自然」という自明で前言語的なものは、「社会」や「状況」といった言語的なものにとってかわられたのか。あるいは「情報」という単位にばらされてしまったのか。要因はさまざまだろう。けれどもちろん「自然」それ自体はそのような言語的なものに翻訳されきることはできないし、身体は身体であるかぎり、当然「自然」に属しつづけている。詩を書こうとするこの身体と無意識も。あるいは現在詩の言葉を書こうとすることは、対峙することも包まれることもできなくなった「自然」と、あらたなきわどい関わりをむすぼうとすることなのだろう。

 近代詩や戦後詩はいま、わたしたちにとってもはや遠いがために、輝かしく魅力的に思えているのだが、その遠さと魅力は、「自然」、冒頭の詩人の言葉では「言葉のない」ものの存在を肯定的にであれ否定的にであれ、必ず背景にしていることからくるだろう。近代詩はそれに包まれ、戦後詩はそれに対峙するといっていいが、現在そのどちらのスタンスも不可能に思える。けれど述べたように詩と「自然」=「言葉のないもの」との関係が切れたわけはない。たとえ詩でなくとも、言葉を他人に伝えようとするときには、それによって「自然」=「言葉のないもの」が他人と共有されることが不可欠なのだから。そしてまた現在その「自然」=「言葉のないもの」が、詩においてだけでなくコミュニケーション一般においてみえにくくなっているという事実がある。一般的に言葉というものが同時に立ち上げるものが希薄になっている実感があるのだ。

けれどそれでも他人とコミュニケートしようとすれば、わたしたちは今かたるその言葉によってそのつどたえず「自然」=「言葉のないもの」を立ち上げなければならない。たとえば携帯電話を抱えてひっきりなしに語りかけ、そのときだけ「友愛」をもり上げ、あるいはジャーゴンを手練れに駆使して「状況」のただなかにいるふりをする、といったように。いや、言葉はとりあえずかたるしかないのだし、そうしているうちに立ち上がる「言葉のないもの」がひとつの位置を確保してくることも十分ありうるのをわたしたちは知っている。

だが、言葉にたいする特殊な態度を必要とする詩という領域においては、同じように「とりあえず」といってしまっていいだろうか。詩においてもまた、「自然」=「言葉のないもの」はみえにくくなっており、むしろそこは言葉が現在的に集約する特殊な言葉の領域であるために、もはや言葉しかないといった状況は悪化しているといってもいいのだが、だからといって「とりあえず」詩語を乱発し、詩らしき雰囲気を立ち上げるというだけでは、いつまでも決してこれが詩だという確信はやってこない。それは誰しも経験的に知っていることだ。けれどそれはなぜか。

 おそらく詩が詩として成立するには、一般のコミュニケーション以上にあらかじめ「自然」=「言葉のないもの」の側へ一気に身をよせてしまうことが必要なのだ。たぶん詩という領域は、言葉しかないという現在的な状況が集約される先端的な場でありながら、その一方でコミュニケーションの最も本来的な姿が要求されるところなのだから。それでは詩において最も本来的に追求される「自然」=「言葉のないもの」とはどのようなものなのか。それはもちろんあらかじめその位置が予測でき、あたりをつけられるものではない。また信憑されるものではない。それは「一気に身をよせる」あるいはそこへむかって「飛躍する」ものだとしかいいえない。

これは決して批判ではないが、現在書かれている詩の多くは、そのような「飛躍」の可能性が閉ざされているなかで生まれてきたようにみえるし、近代詩や戦後詩はそのような「飛躍」をこそ成し遂げてきたようにみえる。だからたとえば近代詩を読むとき、私にとってそのすべての言葉は現在書かれているどの詩の言葉よりも「深い」とかんじられる。なぜなら言葉が一気に身をよせる「自然」=「言葉のないもの」の深さこそが、当の言葉の深さを決定するのだから。そしてまたわたしたちはその「自然」=「言葉のないもの」の深度がもっともふかい言葉こそを、詩として呼びつづけてきたということは間違いないだろう。

 けれどこの現在に、「それが身をよせた深度がもっともふかい言葉が詩である」と詩の歴史を振り返りながら気づいたとしても、それがなにになるのだろうという気持ちになる。それはただ空虚なテーゼではないか。詩を書いて生きている私たちにも、詩を書かずに生きている私たちにも、つまりは言葉をもつすべてのものにとって「自然」=「言葉のないもの」は自明なものでなくなりつつあるのは事実なのだから。そして「自然」=「言葉のないもの」へ一気に身をよせるという、コミュニケーションの極限的な姿が要求される詩という領域で、その事実は致命的になるはずである。だからといって詩という領域だけで了解しあえる「自然」=「言葉のないもの」を捏造してしまってはもはやおしまいである。のこされている道はないのか。

 しかしまた「自然」=「言葉のないもの」があらゆるコミュニケーションにおいてその自明性を喪失しているようにみえるという事実は、逆にいうならば、詩を書く者にも書かない者にも共通の根源的な問題が浮上しているということにもなるのだ(もちろんここでは詩を書く者と書かない者という二者が同一人物をもさすことは当然含意している)。言葉という顕在的なレベルでも、「自然」=「言葉のないもの」の自明さのレベルでも、詩を書く者と書かない者にますます通底するものはなくなっていくように思えるのに、それとは比例するようにして「自然」=「言葉のないもの」の不在、その自明性の喪失という問題では、逆にますます同じよるべなさにいるように思えること─この逆説的な事態は、もしかしたら詩を書く者がどの時代にも経験できなかったような、ふつうの見方では希望的には思えないが、もし別の見方をとるならばひどく魅惑的な事態なのではないか。

つまりそれは、たぶんつぎのような魅惑なのだ。まず身をよせるべき「自然」=「言葉のないもの」のみえにくさという共通の問題によって生じた、コミュニケーション一般の不可能性と詩の不可能性という二重の不可能性の強度を引き受けることによって、今までとは全く違うありかたをした、詩の領域を越えた共同性の萌芽をもつことがありうるのではないかということだ。もしかしたらそれはニヒリズムにささえられたものかもしれないのだが、それだけに本質的であり魅惑的な事態であるにちがいない。

 たとえば極端を承知でいえば、このように「自然」=「言葉のないもの」の自明性が総体的に失われている現在に、「詩とはなにか」と問うことは、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いとどのようにちがうだろうか。それはもはや同じ深淵に立たざるをえないのではないか。あるいは逆にいえば「詩とはなにか」という問いは、「なぜ人を殺してはいけないのか」というような、歴史や状況を超えた存在論的あるいは根源的な問いと、ようやく同じ深淵に立つことができるようになったのだとさえいえるのかもしれない。あるいはコミュニケーション一般において生じる問いが詩の問いと同じ程度に根源的になりはじめたともいいかえれるのかもしれないが。

もちろん、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いに対して詩の言葉で直接的に答えようとするのは滑稽である。そうではなくて、詩である根拠を保持しながらするべきことは、なぜ人を殺してはいけないのか」という答えの方角にあるこの「深淵」、つまり「自然」=「言葉のないもの」の自明性の喪失を、言葉の側へと引き寄せることではないか。あるいは今ここにある「言葉でしかない言葉」をその「深淵」に晒すことによって、「言葉でしかない言葉」以上のものに変貌させることではないだろうか。もちろん、それが具体的にどのようなことかは個々の実例をみていくしかないが、極めて現在的な詩の運動の軌跡を追おうとすれば、そのようなものであるにちがいない気がつよくする。しかし一方で詩の定義の方は、つまり「詩とはなにか」という問いの方は─それはまた詩の駆動原理でもあるはずなのだが─つねにコミュニケーション一般の側からさらに深く口をひらく問いに二重化され、やがて多重化されてゆく運命にあるのであり、その結果いつも曖昧な受け身の状態で、つねに変貌を甘受しなければならないのだが。

 しかし、とやはり思う。詩を書く者が「詩とはなにか」と問うとき、それはその者の身体と心に一致しているという当然の事実を思い出すからである。そう、問いははじめから分裂し、別の問いに晒されているわけではない。「詩とはなにか」という問いが「言葉」=「言葉のないもの」の自明性の喪失をめぐるさまざまな問いの系列に多重化されてゆくまえに、それは一瞬まるで「自然」のように無垢なすがたをとったはずだ。それはもはやそれが多重化されていったあとに気づかされた無垢性かもしれないし、多重化されていることに気づいたがゆえのノスタルジーかもしれない。しかしそれが無垢でありえた、あるいはありうるという記憶もしくは予感があるからこそ、わたしたちは「詩とはなにか」という無垢的な問いの地点であると思われる地点、近代詩や戦後詩の歴史、言い換えれば「自然」=「言葉のないもの」に包まれ、あるいはそれと対峙することによってそれを保持してきた言葉の歴史につらなる地点、あるいはつらなりうると思われる地点にに依然としてとどまろうとするのだろう。このような現在でありながら、戦後詩の序列や意味がいまだ問題となるのもそれと無縁でないにちがいない。そして実際書かれる詩の言葉がけっして状況や現代思想や情報や操作のターミノロジーに置き換わり得ないのも、この事後的にみいだされるしかない「詩とはなにか」という問いの無垢性のためだろう。

「詩とはなにか」という問いが「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いにいつのまにか置き換わざるをえないとしても、あるいはそれとないまぜになる形で置き換わるべきなのだとしても、その事後的に見いだされる無垢性の記憶が、現在という「深淵」に晒されながら書かれる私たちの言葉に、「中心性」を与えつづけているのは確かだ。私が書く言葉が「深淵」へ向かい「深淵」に言及するのではなく、私の書く言葉の方へ「深淵」を呼び寄せそれを抱き込むという「中心性」を。あるいは「深淵」を抱き込む心身の器としての「衷心性」を。

 もはや自然に抱き込まれるのではなく、自然と対峙するのですらなく、「自然の不在」を抱き込むための器としての言葉─そんな存在を思ってみよう。それはたとえていえば、旧某と滅びた土地をなざす駅名のような存在であるだろう。荒れ果てた土地を背にした木札のなかに書かれたその名前は、滅んだ町や人々の生活や自然についてなにごとかを一瞬たしかに語り、それからそれが滅んだことを錆や亀裂とともにゆっくりと永遠に宣明しはじめる─そのような言葉。そしてもちろん、そのような駅名が旅人を魅惑するのは、滅びが告げられたあとではじめて気づく、「自然」のありえない輝きによってであるだろう。

  (1998.12.10「pfui!」13号)


tubu『夏の終わり』1、あるいは駅名をめぐって(河津聖恵)
<詩を読む>詩と時間(河津聖恵)へ
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 『夏の終わり』1、あるいは駅名をめぐって      河津聖恵  

<詩>夏の終わり 1[縦組み横スクロール]へ[縦組み縦スクロール]へ[横組み]へ


「私にはある言葉がまるで駅名のように思えてしまうことがあります。それが旅へと誘っているたたずまいにみえてしまうのです」─これは、歴程新鋭賞を戴いた私の詩集『夏の終わり』の後記に書いた言葉です。受賞者としてなにかエッセイをということですが、日常生活にろくな素材がない?私としては、この詩集の14のパートのうち最初のパートを素材に、この詩集における「駅名」という存在を中心にして、おこがましくも、少し書いてみたいと思います。



駅名。

どんな夢のいいまちがいなのだろう。

もとめるほど水めいて読みとれなくなる名前

(でも、すべての言葉はつねにそうだったではないか)

(もとめるほど意味は水になり)

(疲れた広ごりにつながり)




同人雑誌でこのように『夏の終わり』の連作を書き始めたとき、私の脳裏には、その数年前に訪れたドイツの旧東独の都市の郊外にひろがる農村地帯で、ふと踏み迷ってでくわした廃駅の記憶がよみがえってきていました。それはシュベリーンという小規模都市とその隣の小さな町をむすぶ途中にある、野外歴史博物館からの帰路のことです。

バス停を探そうとさんざん荒れ地をふみまよい、遠くから駅らしきものを発見して喜んだのもつかのま、近づけばプレートは赤錆び、待合室はゴミだらけの廃駅でした。人影もないし、民家もないし、また雨はふりそうだし、トイレにも行きたいし、お腹もすいたしと、とにかく疲れてしゃがんだまま、ぼんやりプレートを眺めていました。それは、見れば見るほど赤錆び、駅名の文字ももはや染みのようなぼやけ方で、たよりない気持ちがますますたよりなくなりましたが、また一方で久しぶりにまるで親を見失った幼児のような気持ちになるのを、なかば新鮮に感じていたのをはっきりとおぼえています。

空腹や尿意に苛まれていたときの記憶は、とても立ち上がりやすいものなのでしょうか、「駅名。」と先のように詩の冒頭を書き始めたとき、私の内側には、その駅名の赤錆びたプレートが、それを背後から覆っていた蔦の雨上がりのあざやかな緑の嵩とひんやりとした空気の、胸をつくようなたたずまいとともに、まざまざと蘇ってきたのでした。プレートには「alt Schwerin」─訳せば「古いシュベリーン」あるいは「旧シュベリーン」とでもいうのでしょうか─とありました。

ところで「旧シュベリーン」とは妙な訳かもしれません。「旧東独」という国名がどこにもないのと同じように、「旧シュベリーン」という村の名もありえないでしょう。本当はただ「昔のシュベリーン」というような素朴な意味だと思います。けれど、ドイツ統一後にはじめて訪れた旧東独北部のだれもいない片隅で、私はその「alt Schwerin」を思わず「旧シュベリーン」と心の中で翻訳していました。

たぶん、社会をささえる価値観がふいに滅びてしまった国に来ているという意識がはたらいたのでしょう。なぜなら「旧」という接頭語には、たんに「昔の」という素朴な感じはなく、そこがなにか歴史的な事件によって滅ぼされ、名前と繁栄を奪われてしまったという感じがしますから。名前の実質が奪われたのに、名前の痕跡だけが主のない傷のようにのこされてしまっているというような。大袈裟にいえば、あのときそのように「旧シュベリーン」と心で翻訳したときから、この詩が準備されていたような気がするのです。



木札のうえでみずからを消し去りがてに

また駅の名はいいまちがい

器官や粒子、あの忘れられた価値さえ呼び起こされる。

旧某。

木札。

錆。腐食。物質。




このような詩行の進行には、あの廃駅の記憶と、言葉をなんとか先鋭に使おうという現在の意識とが、たがいに入り混じっています。だから「駅の名はいいまちが」うのかもしれません。過去なのか現在なのか、記憶にある実在なのか現在にある言葉なのか、というように、つまりは「ここはどこなのか」と記憶と現在の交錯になかばよろこびながら、駅名は呟いているのかもしれません。

ところで、詩という現在先鋭に書かれようとする言葉は、どの時間に関わろうとするのか、未来なのか現在なのか過去なのか、という問いかけがあったとすると、私自身は、それは過去だと思います。なぜそう思うのか、私がいまのところいえるのは、言葉がそこではほっと息を抜ける、そしてイメージがふかぶかと拡がるからだ、ということです。

もちろん昔をなつかしむノスタルジックな言葉がいいというわけではありません。そうではなくて、現在ここで自分が先鋭なものとして選択した言葉が、その観念と表象を、過去に生きた一匹のいきものとしての記憶へと遡らせるということでしょうか。あるいは観念や表象は、それが私のものであるかぎり、いきものとして過去に感じた光や風をそのただなかからあらわすはずだからということでしょうか。

いずれにしても私には、詩とは、記憶または過去の「生」と現在が要請する「言葉」とが、濃密に関係できる場所だと思うのです。また、過去過去というと旧弊なやつと思われるかもしれませんが、「生きる」という経験は過去にしかなされていないのですから。詩の言葉は未来を志向するとしても、それがはらむ観念や表象の経験は、わたしたちそれぞれの過去にしかありません。



ざらざらと浮き上がる光、光なのか木肌なのかわからない光

水滴はよじれ、まるで駅の名のただなかからこぼれるように。

こんなふうに傷を負わせた言葉があった。

それは傷を負わせたことによりもはや言葉ではなく

駅名のように人だった。

肩を押さえている。目を伏せている。みずからに折れこんでいる。

蔦の葉が繁茂し

Oだけが見えて、

ここはどこなのか

(あなたは誰だったのか)




こんなふうに傷を負わせた言葉があった。/それは傷を負わせたことによりもはや言葉ではなく/駅名のように人だった」というのは、なんだか変な詩行かもしれません。本当なら「こんなふうに傷を負わせた人」であり、「駅名のように言葉だった」なのでしょう。それは印象づけるために故意に反対にしたということもあるのですが、やはり「傷を負わせた」のは「言葉」であり、その結果それは「駅名のように人」になるのだという逆説的な私なりの真理のようなものがあったように思います。これもまた「過去の経験」というもののありかたのひとつだと思いますが、人との交わりにおいて最終的になにが記憶となって残りうるのかといえば、私は姿よりもやはり言葉だと考えます。もちろんそれにまつわる状況や声や感情もそれとなくひきつれてくる言葉です。

たとえば私は電話で人を傷つけたことがあります。電話では姿がみえませんから、傷つけるのは言葉そのものです。あるいは言葉と化したその人の存在そのものです。「えっ」とその人はいったように思うのですが、姿が見えていれば表情の変化でとどまっていたかもしれないそれは、受話器のなかで全面的にあらわにきこえ、全身みずからに折れこんでゆくようでした。言葉、それは人が私に与え、のこしていった記憶であり、人がすでにこの世にいなければ、その人そのものとなるでしょう。駅名だってそうなのではないでしょうか。誰がその土地を名付けたがわかりませんが、誰かが名付け、訪れる誰かにのこしていったものとして考えれば、それだって人そのものです。ここはどこなのか、という問いは、つきつめれば、あなたは誰だったのかという問いになるのではないでしょうか。



 なんだか受賞者の特権に甘えて、まだまだ書いてしまいそうです。またそれだけ「駅名」という存在は、あるいはそうした言葉のありかたは、日頃緘黙的な私にとってさえ、いつまでも語ることを誘わずにはいられない魅惑があるようです。あるいは、それは言葉について語るということの魅惑なのかもしれません。そして、たぶんこれからもそのような、言葉について言葉で語るということの魅惑にひかれて、私は詩を書いてゆくような気がします。それが自閉的なものにならない方途をさがしながら。

        (「歴程」1・2月号・1999.2.1)


tubuツェランと石(河津聖恵)駅名のような自然(河津聖恵)へ
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   ツェランと石     河津聖恵  



1ユダヤ人と「自然」



 現代の私達の日常にとって、言葉とはものの表象をなんなく指示するものである。それを通して、「自然」や「社会」や「心理」の表象が行き交い、私達はそのような表象の網目のなかに護られている。だから日常においては言葉それ自体が露出して、世界が別の相貌を帯びることはない。言葉は表象をロックするほどの強さを帯びることはない。

 とすれば、依るべきものが言葉しかない、という状態は想像を超える。言葉が指し示す現実がなくて、言葉だけがあるという状態は。それは大雑把に言い換えれば、精髄だけがあって本体がない状態、ともいえるだろうか。たとえばソファのバネだけがあって綿がないような、あるいは雌蕊と雄蘂だけがあって花弁がないような、そんな剥き出しの、痛々しい環境。そんなところへ生まれ落ちたとしたら、赤ん坊の柔らかな皮膚はどんなに傷つくだろうか。あるいは逆に生まれながらにして傷つくことによって、その子はどんなに感受性の強い子になるだろうか。

 ユダヤ人でありながらドイツ語で書きつづけた詩人、パウル・ツェランは私にとってそのような傷つく赤子のイメージを持っている。この詩人についてはいろいろな文脈で語られてはいるが、私にとってはそのような痛々しいイメージでこそ、読み解くことができるように思えるのだ。もしかしたらそこには、詩人あるいは詩というものは、そのようなものであるべきだ、という私自身の願望のようなものが密かに入り込んでいるかもしれないのだが、それでも、そのような文脈でこそ語ってみたい誘惑にずっと駆られている。

言葉しか依るべきもののない環境へと生まれ落ちた赤ん坊、ツェラン。彼にとって、確かに「自然」というものはなかった。表象としてさえもなかった。そのことの究極的な理由はやはり、彼がユダヤ人だったから、ということに尽きるように思える。詩論「山中の対話」では、ある夕べ、「ひとりのユダヤ人」が山中で「かれのいとこ」であるもう一人のユダヤ人と出会い対話をするのだが、そこでユダヤ人と「自然」について次のようにはっきりと言われているのだから。

 このようにしてひそまりかえっていた。この山頂はひそまりかえっていた、しかし それは長いあいだではなかった、というのもひとりのユダヤ人が ゆっくりと歩いて来 てやがてひとりのユダヤ人に出あうともう、たとえ山の中でも、沈黙ははたと止んでし まうのだから。というのもユダヤ人と自然、それは二つの別々のものだから、いまもな お、今日でも、ここでも。       (飯吉光夫訳)
「ユダヤ人と自然、それは二つの別々のものだ」──日本人についてならば、全く逆になるだろう。「日本人と自然、それは別々のものではありえない」。だから、この「自然」という根底的なところでもう、私達はツェランを理解できないのかもしれない(けれどだからこそ理解したい誘惑に駆られるのだろう)。ところでここでツェランは二人のユダヤ人を登場させているが、それは、ユダヤ人が二人寄ればおしゃべりが尽きないということ以上に、「自然」の不在が個人の問題ではなく、ユダヤ人たち一般の問題であることを明確にしようとしたためかとも思える。だが、なぜユダヤ人一般にとって、「自然」は不在なのか。その根本的な理由としては、やはりユダヤ人についてよくいわれる次のような歴史が挙げられるだろう。

 イスラエルの古代史のなかで、生き残ったのは聖書とその注解だけである。今日でも、聖書の国を訪れてまず気づくことは、この「書物」があまねく存在しているということ である。古代の遺跡のなかで、いくらか石が残って昔の面影をとどめているのは「歎き の壁」だけであるが、それさえも聖書の思想の一つのあらわれなのである。
 イスラエルはその「書物」のなかに、神の考えのすべてを、救いの唯一の条件を認める。 
(アンドレ・シュラキ『ユダヤ思想』)
 神殿を破壊され、迫害を受け続けて世界の各所に散らされたユダヤ人たちにとって、「聖書とその注解」という「言葉」だけが生き残ったという歴史。迫害されて変貌しつづける自分たちの周囲の「自然」のなかで、それらの「言葉」だけに世界の解読とみずからの民族の救いをもとめていったという歴史。つまり、聖書という「書物」の存在が、「自然」の不在の裏打ちとなっていること──それがユダヤ人の「歴史的環境」なのだ。だからユダヤ人にとって「歎きの壁」の石は、「聖書の思想の一つのあらわれ」そのものだろう。そして「自然」のなかからあらわれてくる「言葉」は、「自然」という表象よりもずっと強烈な神の力を感じさせるものであるにちがいない。



2石だけが語りかける

 

 だが、ツェランのこの二人のユダヤ人がいる山中にあるのは、「歎きの壁」からははるか遠く、ただの石ころとして転がっているものであるはずだ。しかしそれでもそれは「自然」ではない。『山中の対話』ではさらに次のように「自然」の不在が嘆かれるのだから。

 あわれなマルタゴン、あわれなチシャ! ふたりはそこに立ちつくしたまま、この山 中の道に、このいとこどうしであるものは、かれらはふたりは立ちつくしたまま。杖は 沈黙している、石も沈黙している、だがこの沈黙はいかなる沈黙でもない、いかなる語 も、いかなる文もここでは押し黙っているのではない、これはひとつの単なる休止なの だ、ことばの隙間なのだ、空(から)の箇所なのだ、
何も語らないただの石ころも、「自然」ではない、ただ言葉の「単なる休止」、「ことばの隙間」「空(から)の箇所」だという。つまりようやく「言葉」から逃れ、ぼんやり道端の石ころに目をやっても、それは「自然」ではなく、ただの「余白」なのだ。そしてまたその「余白」はやすらかな「休止」ではない。この石ころも、本当は語っている、というのだ。ただそれは誰に話しかけるともない呟きであるので、一見「言葉」の「休止」にみえるだけだ、と。

 石は、いとこよ、誰に話しかけるというのかい? 石は話しかけたりはしない、石は 語る、そして語るものは誰に対しても話しかけたりしない、それは語る、誰も聞いてく れるものがいないから、誰も、いかなるものもいないからだ、石はいう、みずからの口 でもみずからの舌でもない石そのものが、石のみがこういう──聞こえるかい、きみ、 と。
 「石」という「自然」は、他の「自然」と同様に確かにおしゃべりだが、「誰に対しても話しかけたりしない」。なのに石のみが「聞こえるかい、きみ、」と挨拶する、という。もし、「石」もまた「聖書」の「言葉」に裏打ちされるものなら、そのように挨拶することはないだろう。そう、「石」からは神の「言葉」は聞こえない。「石」という「自然」は根源的な神の「言葉」がまとうかりそめの表象ではもはやないから、「空の(から)箇所」つまり書き込み可能な「余白」のままでありつづけることができる。「石」とはツェランの詩において動き回る不思議な存在であるが、「言葉」との原理的な関係においても、やはり特別な存在であるように思える。

 ところで、「聞こえるかい、きみ、」と挨拶するもの、といえば、あの「ハンザ自由都市ブレーメン文学賞受賞の際の挨拶」の中で語られた「投壜通信」を連想させる。

 詩は言葉の一形態であり、それゆえその本質上対話的なものである以上、いつかはど こかの岸辺に──流れつくという(かならずしもいつも希望にみちてはいない)信念の 下に投げこまれる投壜通信のようなものかもしれません。詩は、このような意味でも、 途中にあるものです──何かをめざしています。
 何をめざしているのでしょう? 何かひらかれたもの、獲得可能なもの、おそらくは 語りかけ得る「きみ」、語りかけ得る現実をめざしているのです。
「かたりかけ得る「きみ」」をめざしている「詩」──「かならずしもいつも希望にみちてはいない」が「いつかどこかの岸辺に──流れつくという」という「言葉の一形態」──これは、「誰も聞いてくれるものがいない」からこそ、「聞こえるかい、きみ、」という「石」と、ほとんど同じ存在であるように思える。だが、語られている次元は違う。先の「山中の対話」はユダヤ人についての「言葉」の可能性について語られたものであり。この「ハンザ――」は戦後のドイツ、つまりは アウシュヴィッツ以後に、「詩」の可能性について語られたものである。

 繰り返せば、「石」とは、ユダヤ人にとっての根源的な「言葉」のなかの「空(から)の箇所」、「言葉」にも戻れず、だからといって単なる「表象」になりきることもできない孤独なもの、孤独だからこそ「きみ、」と一人呟くもの、である。それに対し、「詩」は、ユダヤ人だけではなく、現代の人間にとっての「石」のようなものなのだ。

 同じ講演で、「もろもろの喪失のただなかで、ただ「言葉」だけが、手に届くもの、身近なもの、失われていないものとして残りました」とアウシュヴィッツ以後の状況についてツェランは言及している。つまりもはやユダヤ人だけでなく人類全体にとって「自然」という安定した表象が失われ、その代わりにそのなかを生き延びてきた「言葉」だけが壊されたまま残されている状況、その瓦礫の悲惨さのなかで、ときおりガラス片のようにちらちらと「きみ」へ訴えてくる、「空(から)の箇所」としての言葉──それが現代の「詩」だといっているのであろう。

 もはや「言葉」だけが残ったのではあるが、ただ「言葉」だけでは瓦礫にすぎない(「アウシュヴィッツ以後詩を書くのは野蛮だ」)。それが「詩」であるには、あの「石」のように孤独に耐え、誰にも語らないでいる強さが必要なのだ。その強さは詩および言葉みずからの「対話性」という「本質」からたえず汲み上げていくしかあるまい、と。

 確かに、現代の私達が「詩」を読むときに期待するのは、主にそのような孤独の強さなのだといえないだろうか。また、そうした「現代性」を失わないためにも、ツェランはあえてドイツ語で詩を書いたのだとも思える。



3石と植物



 ところで初期作品からツェランの詩のなかの「石」を追ってゆくと、その不思議な成長ぶりがみえてくる。まず『敷居から敷居へ』(1955)では、「石」は死者との関係が濃厚な重いものである。

「お前が運んできた石をもつウンブリアの夜」
「そして お前が積み重ねた、
 お前が積み重ねる石たち」

「ぼくの隣で お前は生きている、ぼくと等しく―
 夜のくぼんだ頬にいる
 一つの石となって」

「小石、深淵に向かって転がって」

「これらの石たちのどれをお前は持ち上げるのか―
 お前はむき出しにする、
 石たちの庇護を必要とするものたちを」

「こうして 見知らぬ者たち そして自由な者たちが漕いでいく。
 氷の そして石の支配者(マイスター)たちが」


――これらの大部分の「お前」は死者であり、「石」は死者そのものだったり、死者を庇護する重石だったり、死者の方向へ転がろうとしたりして、とにかく重い、沈黙の存在である。ところが、『言葉の格子』(1959)では、「石」は可愛らしく、睫毛を持ちはじめる。

「もうひとつ目があるだろう(中略)
 石の瞼の下で 押し黙って。(中略)
 一本の睫毛があるだろう、
 石のなかで内側を向いた、
 泣いて流されなかったものに鋼とされた、
 あの一番細い錘が。」


痛々しい睫毛だが、まるでこれを「一番細い」翼にして(?)やがて「石」たちは次々に飛翔しはじめる。
「石。
 ぼくがあとを追った 空中の石。
 お前の目、その石のようにこんなに盲目で」

「一つの石
 それがもう一つ別の石を目指した」

「鳥の飛翔、石の飛翔、描かれた
 千の軌道」

というように。

ところがこの詩集の最後の作品で、飛翔していた「石」は突然植物化する。

「粒状に、
 粒状に そしてけばだって。茎状に、
 びっしりと― 
 房状に そして放射状に、腎臓状に、
 滑らかに そして
 塊状に、粗く、枝‐分かれして―――石は、それは
 口をはさまなかった、それは語った、
 喜んで乾いた目に向かって語った、それがその目を閉ざす前に」


 ここでは「石」が奇跡的に語っているのだ。もしかしたら、「石」は「植物」に擬態することで語ることができるようになったのだろうか。つづく『誰でもないものの薔薇』(1963)では、「石」はさらに軽くなって「飛翔」し、あるいは大胆に「植物化」するようにみえる。

「明るい
 石たちが 空中をいく、明るく‐
 白い石たちが、光を
 運ぶものたちが。

 それらは
 降りようとしない、墜ちようとしない、
 当たろうとしない。それらは
 登る、
 ささやかな
 垣の野薔薇のように、そんな風にそれらは開く、」


――「石」はもはや「飛ぶ野薔薇」、「石」と「花」のキメラだ。

 ところでツェランの詩において「石」は「雪」と同様に、「沈黙」を表す重要な物象である。それに対し「植物」は、「花」であれば、

「ぼくたちは見つけた
 夏をこちらへ上ってきた語を――
 花。

 花―ひとつの盲目の語」(『言葉の格子』


というように、「明るく語ること」とむすびつきうるし、また分かれてゆく「枝」であれば、

「陰鬱な奇跡を信じた、大枝が
 すばやく天に書かれて」
(同前)

からも、「書くこと」を連想できる物象であると考えられる。つまり、枝分かれする「石」はツェランの「沈黙」が「書くこと」へ向かう際に被る奇態であり、また花咲く「石」は、それが「語ること」へ一気に弾けた姿であると考えられるのではないか。

 このような「キメラ化」は、ツェランの詩の他の物象相互にもしばしば生じる現象であるが、「石」というものが被るそれは、なにか根源的な「弾け」であり「奇態」であるように思える。先に「詩」は現代人にとってユダヤ人の「石」に当たるものだと述べたが、もしツェランの詩にある「石」たちを、ツェランの「詩」そのものの姿と取るならば、非常に魅惑的な事態になるだろう。なぜなら、「詩」の中で「詩」が奇態な姿で述べられていることになるのだから。だがそれはもちろん高踏的な自己言及、あるいは自己正当的な自己言及などではない。それは作品の中へ作品全体が、同様に奇態な姿でぐいぐいと巻き込まれてゆく自己破壊的事態なのだから。

 飛ぶ石、成長する石、裂ける石、吹き出す石――ツェランの「石」たちは、みなそれぞれ「詩」自体であるのに、「詩」を無化し破砕してしまう物象なのである。あるいは自分が「詩」であることがわからず(なぜなら「石」は盲目なのだから)荒れているのだろうか。それとも、それらが真の「詩」であるからこそ、荒れずにはいられないのか。そしてそこで「詩」とはもちろん、もはや「言葉」の瓦礫のなかでわずかに見いだされる奇跡的な「言葉」である。神の「言葉」からはぐれ、つらい歴史をくぐりぬけ、「言葉」の不可能性が露呈しはじめた今になって、ようやく誰に語りかけるともない「言葉」となって輝きはじめた「言葉」。だがそのような自分の「奇跡」に気づかないで荒れ、滅んでゆく盲目の「言葉」たち、「石」たち――ツェランの詩とは、そんな奇妙で無償で痛ましい、そしていとおしい逆説のドラマではないだろうか。
  (「櫻尺」18号・1998.9.30)

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