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vol.14

今年の詩集から

1999.12.16 嵯峨 恵子

 今年出た詩集で手元にあるものを積んでみる。大小様々だが、これで40冊近く、高さが55センチくらいある。それぞれ送られた物、買った物、必要を感じて著者の所に頼みこんで求めた物もあり、縁あって私の所にやって来た本である。

 年末までに更に数冊は増えるものと思われるが、この数、決して多い方とは言いがたいが、1年でこれだけ増えると仮定すると日本の住宅事情からすれば、厳しいものがあろう。家族からは要らぬ物はさっさと処分してほしいと要望が出る始末である。

 日本に詩人がどれほどいるか、正確なところはわからないにせよ、某雑誌の住所録によれば5,500人。1冊の詩集の発行部数はといえば、約300から500冊が標準ではないか。ほとんどが自費出版である。一般の人が詩を読む機会が少ないのはもちろんであるけれども、この割合からいっても1冊の詩集は詩人の1割にも行き渡らない事になる。詩集は詩人においても読まれる機会は少ないのだ。しかも詩集は特定の詩人たちに集中する傾向にある。読んでほしい相手は限られるという訳だ。

 詩集が手に入りにくいのは現実である。本屋にいっても置いてはいないし、取り寄せるというのも手間ではあろう。それに詩人の世界は狭いのだ。長年、詩人をやっていれば付き合いも増える。詩人だとて人の子、何も知らぬ(?)一般の人に与えるより、詩を知っている詩人仲間に読んでもらった方がまだマシである。かくて、黙っていても詩集はあちらこちらから送られてくるようになる。詩集とは買う物ではなく、送られてくる物となる。わざわざ本屋に買いに行かなくともそれなりの数は手元に揃うようになるのだ。

 しかし、それで本当によいのだろうか。詩集を送りつける方ももらう方も考えてほしい。あなたの送った相手は精魂込めて作った詩集を読んでくれるのだろうか。どういう理由で送られてきたのか判らない詩集をあなたはわざわざ大事な自分の時間を割いてまで読む必要があるのか。

 さて、今年、私が読んだ詩集の中から印象に残った物、気にかかった詩集をいくつか取り上げる。

 『めぐりの歌』(安藤元雄)は風格、技量、精神性からいっても堂々たる詩集。時代の移り変わりの中、自分の位置を確かめるように語られる詩の数々はずっしりと読み応えあり。ただ、この本は立派な作りで字も大きく読みやすいが、その分値段も高めで買いにくい感がある。

 今年は熟年層の女性詩人の詩集を読む機会に恵まれた。『はたはたと頁がめくれ... 』(新川和江)『風の夜』(高良留美子)『はしばみ色の目のいもうと』(水野るり子)『倚りかからず』(茨木のり子)はいずれもベテランたちの近年の成果というべきところ。『はたはたと頁がめくれ... 』の確かな時間の流れを見つめる目、『はしばみ色の目のいもうと』のみずみずしい少女性、『倚りかからず』の強靱な精神には加齢の重みの中に力強ささえ感じられる。
特に『倚りかからず』はベスト・セラ−を続ける希有な今年の詩集である。茨木氏の名が知られていることもあるだろうけれども、何よりもわかりやすい内容と老いてもこのような精神を持ちたいという願いもあるのではないだろうか。詩人のはしくれとしては詩集が一般の人に多く読まれることを喜びたい。が、しかし、このくらいわかりやすくないと一般には受け入れられないかという気持ちもなくはない。病身を感じさせぬ精神力はさすがであるが、昔だったら彼女は椅子の背にも倚りかからなかったろうと思うのだ。

 『イスアの石』(田代芙美子)は重厚な詩集。特に散文詩に田代氏の格調ある言葉が生きている。『インディアン・サマ−』(宮田小夜子)は渇いた言葉で人生を眺める。少女時代を回想した詩は作者の地の部分に触るよう。

 世俗に徹した『空中の茱み(「茱み」は文字が出ませんが正しくは漢字で植物名の「グミ」です。「シュユ」とも読みます。関)』(荒川洋治)は小説や脚本と詩が結合したり衝突したりする特異な詩集。これを歓迎する向きと反発する向きがあるだろう。それも計算の内か。手に取りやすい大きさ、価格、分量、装丁とよく考えられている。大変おもしろいと思う。ここまで世事のあれこれを考え詩にした人はなかなかいない。難をいえば、世俗にまみれた人間にとってみれば、世事を突き抜けた視点もないと息苦しい気にもなる。世間の人が面白がって読むにはちと難解では。

 『夜にいっぱいやってくる』(高階杞一)『月下の一群』(池井昌樹)はともに父親の喜びと哀しみを感じさせる詩集。家族を抱えての中年の男の生き方の違いは両者にあるが、喪失に新たな方向を模索する前者と子供の成長に自分の老いと死を重ねて展開をみせようとする後者はいずれも、迷える男の現実の姿であろう。『昼のふくらみ』(貞久秀紀)は日常の感覚のずれを楽しむ作者の詩の今後の行方を占う詩集といえよう。『春夏猫冬』(大橋政人)は猫たちとの生活に哲学的人生をみようとするあたりが、大橋氏ならではの視点。

 『狂気の涼しい種子』(野村喜和夫)は饒舌な三つの詩編を新たに構成した詩集。女性になれなかった男の限りなく女性に近づく試みか。いつもながら器用で賑やかな言葉が繰り返されながら、ある方向へと進んでいく手腕の確かさ。その中心はというと涼しいというより寒い、狂気というより平和というか、非常に詩の今を感じさせてくれる。今後に続刊される2冊の詩集の展開に期待。

 『助手A』(あいはら涼)は様々な医療助手を務めた作者の経験から生まれた詩集。患者との距離間のドライさに鼻白む人もいるかもしれないが、仕事となればこうなるのではと思わせる。新たな介護ものとも言えよう。

 『副題 太陽の花』(寺西幹仁)『今年の夏』(笹野裕子)はともに第1詩集。ぽっと出の新人とは違い、ふたりとも地に足の付いた視点で今を捉らえる。『副題 太陽の花』は静かな中に自分を置いた生活の1コマ1コマが地味ながら好感が持てる。『今年の夏』には働く女の不安と揺らぎを孤独の中に立ち上げる感性がある。テ−マを絞り込めば、もっとはっきりした形で現れてくるだろう。

 以上、読んだ詩集の半分にも満たないが、今年の詩集の私なりの感想である。もっと詩を。他人にも私にも与えねばならない。誰が名づけたか「ひとりカラオケ状態」では寂しい限りである。来年は更に心してよい詩を選んで読むように、新しい詩人を発見して読むように、努力したい。

 「今年の詩集から」に取り上げた詩集リスト

 1.『めぐりの歌』 安藤元雄 思潮社 3,200円
 2.『はたはたと頁がめくれ... 』 新川和江 花神社 2,300円
 3.『風の夜』 高良留美子 思潮社 2,800円
 4.『はしばみ色の目のいもうと』 水野るり子 現代企画室 2,000円
 5.『倚りかからず』 茨木のり子 筑摩書房 1,800円
 6.『イスアの石』 田代芙美子 ア−トランド 2,800円
 7.『インディアン・サマ−』 宮田小夜子 ア−トランド 2,300円
 8.『空中の茱み』(「茱み」は文字が出ませんが、正しくは漢字で植物名の「グミ」です。「シュユ」とも読みます。関) 荒川洋治 思潮社 1,800円
 9.『夜にいっぱいやってくる』 高階杞一 思潮社 2,000円
 10.『月下の一群』 池井昌樹 思潮社 2,800円
 11.『昼のふくらみ』 貞久秀紀 思潮社 1,800円
 12.『春夏猫冬』 大橋政人 思潮社 2,200円
 13.『狂気の涼しい種子』 野村喜和夫 思潮社 3,200円
 14.『助手A』 あいはら涼 夢人館 1,500円
 15.『副題 太陽の花』 寺西幹仁 詩学社 1,800円
 16.『今年の夏』 笹野裕子 空とぶキリン社 1,500円








一編の詩から(渋沢孝輔「ロマネスク」を読む)


1999.12.2 嵯峨 恵子

 渋沢孝輔が亡くなってから、二年がたとうとしている。ガンが発見されてから半年で死去してしまった詩人の置土産は、二冊の詩集となった。『行き方知れず抄』と『星曼荼羅』の二つは対照的な詩集である。前者は朔太郎賞を受賞している。後者は彼の最初で最後の散文詩集になった。どちらが好きかと問われれば、『星曼荼羅』と私は答える。ここにはまだまだ、枯れきっていない力強い渋沢さんがいるからだ。それに比べると『行き方知れず抄』は何かぐっと年寄り臭くて(もともと、そういう面が渋沢さんの詩にあるけれども)あまり好きになれない。
と言いながら『行き方知れず抄』の中から気になる一編をあげる。

ロマネスク

                 渋沢孝輔 



むかしの黄金時代を懐かしんでいる老いの人よ

遙か南の島では大型台風が吹き荒れ

椰子やガジュマロの樹が大波のように揺れている



紅毛碧眼ならぬ黒髪のきつい眼の美女をかきいだき

屠られたばかりの牛の耳に舌鼓を打ちながら

いまセビ−リアの中庭で誰がヘレスを飲んでいるか



わたしはそれに似た情景をなんとか思い出そうとしているのだが

この八つ頭(がしら)の山のすそには夏らしからぬ雨がしとしとと落ちている

深夜のこの灯りなのに蛾たちの訪れも少なく



贈ってもらった「スペインの夜」と題するテ−プが繰り返し回っている

ほうっておけば朝までも鳴っているつもりらしい



「わたしを愛していると言って!」

突然そんな意味の歌がきこえてテ−プがガチャリと止まった

ドキリとした途端になぜか大噴火の光景がかすめた



ついに終わりか いや

一瞬の間をおいてふたたび最初の曲が鳴りだしている

当地産のワインはあるがここにはヘレスはない



脱け殻のような言葉だけを増殖させながら

一瞬と永遠を融けあわせて安心立命(あんじんりゅうめい)を得るべく

どれだけのエネルギ−が費やされてきたことだろう



優雅に激しくタップを踏んでいるスペインの夜

目の前の明るく四角い画面の中で荒れ狂っている南島の嵐

そしてむかしの黄金時代を懐かしんでいる老いの人よ




 これを読んでいると、遊びに行ったことのある渋沢さんの別荘が思い浮かぶ。晩年の三年間ほど、彼は時間を見つけるとそこで静かな時間を過ごしていたらしい。友人たちを呼んで楽しく過ごす時も、ひとりの時もお酒がおいしくすすんだことと思う。

 真夜中、TVとカセットをつけっぱなしにし、今までに訪れたあの地、この地に思いを馳せる詩人の姿がある。「黄金時代を懐かしんでいる老いの人」とは作者自身だろう。ずいぶんとおじいさんになってしまったという感があるのかもしれない。

 しかし、私が惹かれるのはそういった見慣れた詩人の日常の姿というより、「脱け殻のような言葉だけを増殖させながら」以下の三行だ。詩人のこれまでの仕事をいささか自嘲的に表したとすれば、この気持ちは私のような若輩にも身にしみる。あるいは人間の営々たる営みも、またこの繰り返しなのかもしれない。「どれだけのエネルギ−が費や」されて何がなされたのかと問うことより、詩人は何かを求めて費やされる人々の飽くなきエネルギ−に感嘆している。自分は老いた身であるといいながら、世界の風景を興味深く眺めている。絶望も希望も抱かず、淡々と。その視点こそが渋沢さんらしいと私には感じられるのである。

参照 『行き方知れず抄』渋沢孝輔 思潮社
*( )内は原典はともに漢字にふりがな表記。

  

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