rain tree homeもくじ執筆者別もくじ詩人たち最新号もくじ最新号back number vol.1- もくじBackNumberback number15 もくじvol.15ふろくWhat's New閑月忙日rain tree から世界へリンク関富士子の詩集・エッセイなど詩集など
vol.15

青木栄瞳詩集『バナナ曲線』(昧爽社)を読む  2


 三井 喬子
『バナナ曲線』の注文は昧爽社の清水鱗造さんSimirin'sHomePageへ

 栄瞳詩の空白部分には凄いものがある。「行間は語る」という言葉があるが、「行間が語る」という方がぴったりしているように思える。これ以上削げないくらい磨きあげられた言葉が、その空間を切り、開け、閉じる。言葉の構築によってなされる詩作品とは、ちょっと違うものを感じた。

 空白の、言葉ならぬ語りの、リズミカルな生命感。それが魅力の一つだろう。あるいは、印刷された字(知)と、印刷されなかった余白・行間部分(身体)との、ダンスと言っても良いのではないだろうか。  記号は、言葉と余白との関係を、さまざまに屈曲させる役目を果たしているようだ。読者が視覚的に捉える紙面、そこに篭められた「読む心」が、気持ち良いマッサージを受けるのだと思う。わたしはもう少しで、うぇぇぇーとか、わぉぅぅーんとか、奇妙な声をあげるところだった。魂のエクササイズは本当にツボを心得てなされていて、蘇生するような快感があった。

 映画は観ていないわけだが、詩が何かを呼んでいるように開かれているので、わたしが詩のなかに入ってしまう、という経験をした。この『バナナ曲線』という詩集は、空白部分のもつ力を良く知っておられる青木氏ならではの、くねくね術が仕掛けられている。






青木栄瞳詩集『バナナ曲線』(昧爽社)を読む


 桐田 真輔
 私たちは日々、様々な言葉に囲まれて生きている。テレビ、ラジオ、新聞、雑誌や書籍に限らず、広告ちらしの商品名やら薬品の説明書きやら、なにやらかにやら。それらの言葉たちは、私たちの脳のなかで、それぞれ異なる(実用的な)文脈の地平にしっかり繋がれている。ところで、それらを繋ぎ止めている文脈の糸をいったん断ち切ったうえで、自由な発想で空白のうえに置き直してみるとどんな事が起こるだろうか。

他人の会話の断片、実況中継のアナウンス、コマーシャルのコピー、商品カタログの文章、様々な実用書の中の専門用語。。。もとの文脈を離れると、それらの言葉たちは周囲に意味の空白をつくって、謎めいてみえたり、しきりに新しい意味を欲しがって肌寒そうに見えたりする。また、言葉たちはまだ周囲に失ったばかりの見えない文脈の磁場を纏っていて、意味ありげに発光したり、余韻を響かせたりしているように見える。

の詩集の著者がしているのは、それらの裸の言葉たちの放つ意味の希求と微細な揺れに、新しい言葉の背骨(文脈)を与えてあげることだ。それを統御しているのは、言葉を組み合わせて衝突させたり思わぬ連想を発見する異化効果の楽しみを直感的に知っているような、たしかな詩意識だ(もちろん実際は、詩意識のほうが先にあって、自在に言葉を呼び込んでいるというのが、実状なのだろうが)。この著者の詩意識の密度を確かめるには、ちょっと古典的に見える「緑色のカラス」という作品から、「瞬速、、」という言葉で始まる連を空白にして読んでみるといい。こういう暴力的なことをしても、後に残るのは、魅力的な喩によって構成された、軽快な(モダニズム系の)詩の小品だということが言えると思う。

この詩集の作品群の、もうひとつの魅力的な特徴は、詩行の切り上げ方の鮮やかさだろうか。その歯切れのよい名詞や擬音の言葉の止め方と、「です、ます、だわ、なのね、、」といった丁寧語や女性の会話体で終わる詩行の纏う情緒が、何とも言えない爽やかな調和を作っている。同時に自己親和的な完結世界になりかけるのを、語りかけるような丁寧語や、会話体の親密感が回避しているのも見逃せない。それにしてもゼムクリップ(§)やホッチキスの針の形([ )まで作品に取り込んでしまう、作者の柔軟なセンスはちょっと底がしれない。詩ではなく小説を書いた私の好きな作家だが、尾崎翠の資質にも通うものを感じた。


tubu<詩を読む>須永紀子の詩「そして、今も」を読む(桐田真輔)
<詩を読む>詩と時間(2)北村太郎を中心に(河津聖恵)
rain tree homeもくじ執筆者別もくじ詩人たち最新号もくじ最新号back number vol.1- もくじBackNumberback number15 もくじvol.15ふろくWhat's New閑月忙日rain tree から世界へリンク関富士子の詩集・エッセイなど詩集など