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vol.15
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詩と時間(2)─北村太郎を中心に


 河津 聖恵

詩と時間(1)−北村太郎を中心に(河津聖恵)


  詩は時間というものに深く関わる、と私には思える。けれどそれは一体どのようにしてなのか。むしろ、「詩は永遠である」という言い方の方が、耳慣れているではないか。実際詩作品において、たとえ生活や人生、つまり「時間的」な情景や感慨が題材にされていたとしても、作者がそれを詩として成立させようとしている限り、あるいは読者が詩として読もうとする限り、そこに流れる「時間」の多くは隠喩的なものになり、「無常」や「永遠」という既製の観念あるいは情緒を、どこかしら指さすものとなっているのに気づくだろう。詩においてそうした「時間」の隠喩的な転調を、あるいは脱力を避けることは意外に難しい。いやむしろ、そうした転調に成功した作品を「よい作品」「しみじみとした作品」と私たちはつい呼んでしまう。けれど、転調に成功したということはまた、持続に耐ええなかったということでもあり、持続に耐えうるリアリティーを持ちえなかったということでもある。

 時間とは、直接的には私たちの意識の流れであるのだから、その意識の実質である言葉の流れ(あるいは差異のうごき)に、有用性や功利性から離れたかたちで、つまり最も無償に触れることのできる詩というジャンルにおいては、実は時間でありつづけようとすることこそが、詩に詩としてのアウラをまとわせていくのではないか、と私は思っている。もちろんアウラとは永遠に関わるものであり、時間の流れのただなかで聖なるものを呼び寄せる雰囲気をいうのではあるが、詩においてそれは決して「詩は永遠である」というアプリオリな前提(「永遠」はいつもアプリオリな観念である)からは決して生じることのないものなのだ。それは言葉という差異の流れ、あるいは言葉という差異の流れとともにたえずうごめきつづける現実の流れ、つまり言葉と現実の相即不離な途方もない流れの一端を、数行においてでも見事に耐ええてみせること、そのことによってその流れの途方もない「全体」あるいは「本質」をどこかしら読む者に予感させること、そのことから生じなければならないのではないか。

もちろん、その「予感」のレベルは、書き手の数だけあるだろう。決していつも大袈裟なものでなくてもいい。日常においてかすかにつかまれてくるものから、思考や大自然においてつかもうとしつつつかまれえないものまで、つまり快い美にとどまるレベルからおののくしかない不安や崇高のレベルまで。いずれにおいても、流れ(=言葉の差異のうごき、しかもそれは戯れでなく、もっと人間の根底にあるものとして)のただなかにおいてその流れそのものに化すことのなかで、流れの「全体」あるいは「本質」を直観的に把握した一行がそこにあるのならば、それは詩としてのアウラをまとうことに成功しているだろう。流れ、というのは私たちの意識(=言葉の差異)のそれであるとともに、まったく同時的に私たちの生と存在のそれでもあるのだから、詩のアウラはそれら両者の「本質」をひとつのものとしてつかむことによって生じるのだといえよう。

   今回も、戦後詩人において最も「時間的」であった北村太郎を取りあげてみたい。前回でもみたように、北村の詩世界を特異なものとして際だたせているのは、その技量と素養を越えて、時間(北村の言葉では、計量化される「時間」に対する意識の流れとしての「持続」)への未踏の関わり方であるといっていい。だからそれは同時に、意識への関わり方、あるいは言葉への関わり方、存在への関わり方において、きわめて特異であるということを意味している。その特異さについてもう少し考えてみたい。

 時間は意識の流れ(持続)であり、その意識の実質は言葉の差異の流れであると先に書いた。逆にいえば、そのような意識の実質としての差異の流れには、日常的な概念の次元にある言葉は決して触れることはできない。むしろそれは、そうした時間または意識の流れの実相を、凝固させ空間化してしまう。そのような「空間化」はまた批評のレベルでも起こりうる。詩というものが日常の言葉に本来的な差異を回復させ、それと同時に時間(持続)を取り戻させるものであるとすれば、多くの批評もまたそれを、日常とは違うがそれぞれの依拠する言説空間あるいは体系のレベルにおいて凝固化してしまう。

自然を時間(持続)の相で考えつづけた北村太郎は、そうした日常や批評の言葉による「凝固化」「空間化」を、「反自然」と呼んでいるのだと思う(「にんげんはことばを発明したときから/反自然の存在になってしまった」(「港の人・3」)、「・・・ものごとを考えること自体/ひどく反自然なのだが、だからこそ/ヒトは生きて、怪物にならないわけにはいかない」(「すてきな人生」)。

言葉による空間化を拒む北村太郎の倫理は、もちろん詩においてこそ十全に発揮される。それは、「詩的言語=隠喩という等式への嫌悪」(スガ(正しくは糸へんに圭 注関)秀美『詩モダニティの舞台』)という態度としてあらわれる(ここではそのことを、それによって生者に死者の代行がなしうるという「「荒地」的過誤」(同前)に対する北村の距離、いわば詩史的事情からは、離れて考えてみたい)。

隠喩、というものは、ある言葉によって、それがあらわすものと似ている別のものごとをあらわそうとする用法である。そして詩的隠喩においては、その「別のものごと」は、全体的なもの、つまり生や死に関わるものといった拡がりをみせることが多いだろう。しかし、ある言葉とそうした別のことがらとの結びつきは、たとえ結果として魅惑的であろうとも、知性あるいは感性が「類似性」の基準で設定したものであるだろう。そこに「類似性」という基準が介在しているということは、実はもうひとつの別の言葉のレベルによる操作と解釈が介在しているということでもある。だから、それは時間のもうひとつの「空間化」なのであり、決して時間という「全体」を「全体」のまま表すことにはならず、やはりむしろそのうごきを概念的に止めるものである。

北村が隠喩からは距離をとりつづけたというのも、原理的に考えれば、そのような隠喩による時間の空間化を怖れたからで2ヘないか。時間という文脈においてはそのような意味で北村は「反隠喩的」なのであり、存在や意識の流れを流れのまま隣接的に関係づけてゆくことで、その流れの本質を直観するという意味において、「換喩的」なのであるだろう。

 それでは、そのような言葉への反隠喩的態度、言葉による空間化を拒む倫理的態度を根底にして、北村は詩のなかに時間(=持続)のリアリティを呼び入れることに成功している。それは、単に技法だけの結果ではない。そうしたリアリティを私たちが北村の詩に確かに感じてしまう理由は、やはりそれ以上に、詩人の深い「時間観」(観念や概念ではない)にあるだろう。それは時間のとらえ方、といっても、あるいは直線的に、計量的になってしまいがちな時間のほどき方といってもいいだろう。それでは、北村が考えている、あるいは感じている時間の様相、あるいは様相としての時間のとらえ方は、どのようなものなのか。ここでは大きく分けて、四つの様相を取り上げてみたい。

 まず、北村は、当然のことながら、時間(=持続)を、直線的なものとはとらえない。直線的な時間は、前回引用した詩論「空白はあったか」において、「主体の外側」にあるものとされた「時間」、「神」であるかもしれないし、「空間」であるかもしれない、「持続」に対して「時間」とそこで名付けられていたものである。それに対して、持続としての時間は、北村の詩作品においては「まるい円」としてとらえられている。



 時は直線ではなく
 円を描きながら動いていて
 それがもはや五十個以上の円になってしまった
 どの円も互いに縺れて
 とぐろを巻いている
 それらはたぶん
 死ぬときにするするっと一直線に伸びるのだろう
 それまでは
 まるい時間がたってゆく
       (「死の死**」『おわりの雪』)



 「五十個以上の円になってしまった」というのは、たぶん「五十歳以上になってしまった」ということで、すると一個の円は一年のめぐりをあらわすことになる。それが、「互いに縺れて/とぐろを巻いている」のだが、「死ぬときにするするっと一直線に伸びる」のだという。つまり、生きているときの時間(=持続)は、そのリズムを自然のめぐりに合わせてまるいのであるが、死んでしまうと、それらが一瞬にしてすべてほどけて直線になってしまうのだ。これは、シニカルすぎる時間観である。直線的な時間を拒み、同じことを円環的に反覆しながらも、自然の変化を感受しながら生きてきた私たちの時間=持続は、死ねば結局はその拒んできた直線的な時間の延長のなかに消えてしまうということなのだから。そしてそれは持続とはことなり計量化できる時間なのだが、計量化する主体があくまで不在の(あるいはもしかしたら神である)時間なのである。これは、たとえばそれは、ベルクソンの次のような「死」の考察と通底するものだと思う。

 ・・・しかし、わたしの意識が抹消されたとしても、物質世界は在ったがままに存続して いる。ただ、私が諸事物に働きかける際の条件であった持続の特殊なリズムが捨象され たので、これらの事物は自分自身に立ち返り、科学が区分する数だけの瞬間を刻むこと になる。感じられるさまざまな質は、消え去ることなく、もっとはるかに細分された持 続のなかに拡がっていき、そこに溶け込んでいく。こうやって、物質は無数の震動に解 消され、これらの震動は、互いに切れ目のない、一切がつながり合う連続のなかでむす びつく。すべての震動は、ざわめきのように、あらゆる方向に走っていくのである。
   (「記憶に浸透されているがままの知覚」『記憶と生』ドゥルーズ編・前田英樹訳)  

 意識の抹消=死とは、「持続の特殊なリズム」が捨象されることで、その後、持続から解かれた事物は、ただ記憶のない自分の現在をしらじらと反覆させるだけになる。それは、主のいない家の中で時を刻みつづける時計のように、計量化しうる直線的な時間をどこまでもみずから刻んでゆくことである。ただ、ベルクソンは、量としての事物に関してはそうだが、その事物について私たちが感じていた質は、消え去ることがなく、さらに世界のどこかで無数の震動に解消され、一直線どころか「あらゆる方向に走っていく」ものだとしている。

実は、死という「時間」についてはここでは「一直線」とのべている北村も、死というものの質については、「黄が緑にちかいように/死は/どこまでも生にちかくて」(「港の人・24」)というように、生と同じこの世界に含まれる、「黄が緑にちかいように」ニュアンスの微細な差異として存在していることをほのめかしている。そしてこの、ニュアンスとしての「死の質」こそが、実は北村の言葉に比類ない陰翳を与えているものの本質だと思われる。

たとえば北村の詩では、光や色彩が、どこか読む者の知覚をはげしく押し広げるところがあるのだが、それも、北村の絶妙な言葉の技量によって、それらがこの「死の質」のニュアンスを微妙に含みえているからではないか。先に引用した「死の死**」の終わりの方で、


闇の雨に
紫陽花のはなびらが
刻々と色を変えてゆくのも
まるい時のへりでだろう




とあるのだが、このイメージは、北村の詩作の時間をあらわしているようにも読みとれる。それは、持続=まるい時のへりで、その外部の闇から「死の質」のニュアンスの照り返しを受けて、「紫陽花のはなびらが/刻々と色を変えてゆく」ように、微妙な陰翳をおびてゆく、そのような過程としてである。

 ところで、まるい円としてとらえられる時間は、先にも述べたように、自然のめぐりとともにある時間=持続である。自然のめぐりとしては、大きくは先の「死の死**」でのように、一年のめぐり=四季の変化がまず考えられる。けれど、北村は、ニヒリズムとともにある時間へのいとおしみによって、そのような四季の変化から、さらにその円を身体の側へちぢめてゆく。



 そして
 一生は一日として
 ありつづける
 鉄道から
 じゅうぶんな信号が発せられ
 不在を確認してベルが切れる寸前にすこし感情をしめす電話は
 光のおわりを告げようとするが
 一日は
 一生として
 まもなく
 まったく同じあすを夢みるだけである
       (港の人・4」)



   ここでは生=「まるい時間」は、一日の日常の繰り返しと、一日の外界の変化の繰り返しという、身体をめぐる最小のものとして感受されている。死を予感し、一日一日をいとおしむ詩人の感受性において、一日はたしかに一生であっただろう。そして、円がより身体の側へちぢめられた分、外界のうごきはなまめかしく擬人的になるのではないか。北村において時間は、世界となかばまじりあった「感情の変化」であることがある。たとえば、夕暮れをあらわす場合、



夕日は
とりかえしがつかない思いを
遠い橋にだけ
ごく短いあいだ投げかけていた
       (「港の人・29」)





ベンチにぽつんと残っている
呼びもどしようのない表情
そのまわりに
敬語が
枯れ葉のように溜まり
夜は
しぶしぶ近づいて
やっと
空はいちめん黒くなりかかる
       (「夜まで」『路上の影』)



といったように。もちろん、他方で世界の側からの、感情移入できない不可解な暗示としてとらえられてもいる。たとえば


雲に、ちいさな穴があって
すこしずつ目の形になり、そこに
オイル・サーディンみたいな光が、影を集めている
       (「雲の目」『すてきな人生』)



けれど、そのように感情移入しえないものについ感情がまざりあってしまおうとすることによって、詩人の時間はつねに遅れてしまうのだ。たとえば次のような詩行。



部屋に入って、少したって
レモンがあるのに
気づく 痛みがあって
やがて傷を見つける それは
おそろしいことだ 時間は
どの部分も遅れている
       (「小詩集・1」『北村太郎詩集』)



─「レモン」や「傷」の存在を、事後的に見いだすとき、詩人の知覚と感情がとらえるのはそれらの現在の姿ではなく、「さっきからそこにあった」という、過去のままのそれらのぼんやりとした姿である。たぶん詩人がここで語りたいのは、私たちは感情や感覚や知性がある分だけ、それらと照準が合わない限り現在そこにある事物をとらえられないという、その微妙な「遅れ」の感覚についてであり、そのようにして時間が「どの部分も遅れている」ことのおそろしさなのだ。ましてや、感情移入をこころみれば、そのおそろしさは途方もなくなることがあるだろう。

けれどそのような人間の宿命からすれば、私たちが生きている限り、つまり持続としての時間のなかに生きている限り、そのような「遅れ」の感じに苛まれ続けないわけにはいかないということになる。持続としての時間が遅れないためには、感覚や感情を廃棄しなければならないのだが、それは死の直線的な時間に入ることを意味してしまう。私たちの時間の円は、つねに遅れながら、あるいは遅れることそのことによって、かろうじてめぐってゆくのだ。

 最後に、北村の時間=持続の魅惑の根源について、考えてみたい。詩において顕在または潜在する北村の時間観が魅力的なのは、そこに私たちの時間の実相を直観によってとらえるなにかがいつもあるからであるのだが、その魅惑は、詩人の時間=持続が、なにか根源的な深みからやってきている、あるいはそうした根源的な暈を帯びていることからくるのであると思う。たとえば、詩人はさまざまな匂い、あるいはそのまぼろしにときおりおそわれる。匂いは詩人にとって死にも近い、はるか遠い記憶の深みからふいにあらわれてくるものだ。

もっとも官能的なのは、詩人が「夏のにおいの始まりはクチナシで」(「物のにおい」『すてきな人生』)という、「くちなしの匂い」である。どんな者にとってもこの花の匂いは、記憶の奥ふかくを揺さぶるものであるだろう。私もまた、その甘美な匂いに誘い出されたあいまいな記憶にとらえられてぼうっとなってしまうことがある。



ぼくの墓碑銘を刻んだ石のかたわらに
白いくちなしが強くにおって、不滅の時が死ぬのである。ぼくの
骨がゆっくり朽ちてゆくのである
       (「ある墓碑銘」『北村太郎詩集』)



─繊細な詩人の感性にとっては、「不滅の時」さえそのなかでは死んでしまうほどの官能がそこにはある。つまり、くちなしの匂いは、時間を生みだし、ころすことのできるほどの根源から匂ってくるのだといえるのではないか。たとえば、それは次のようにいわれている「宇宙」のレベルを想起させる。

 フロイトの心理学的な無意識は、個体化した人間の現在の活動のなかでのみ捉えられる が、ベルクソンの存在論的な記憶は、人間の記憶そのものを、分化によって生み出して いる〈宇宙〉という唯一の記憶の円錐につながっていく。私たち人間が個々に持つ記憶 の円錐は潜在的なものである。だが、この潜在性は、それよりもさらに深い潜在性から の分化として発生しており、私たちの記憶、もしくは生命の全体は、それ自体が分化し、 現働化した潜在性のひとつの度合にほかならない。
                     (「精神、収縮する物質」前田英樹・同前)


 人間の知覚は、それぞれの個々人の記憶の収縮である円錐の先端にあるという文脈のあとでこのようなことが語られている。実はそうした個々人の記憶の円錐は、宇宙の記憶という、より潜在した「唯一の記憶の円錐」が分化してきた先端にすぎないというのだ。けれど、宇宙の記憶とは一体なにか。経験ということを積むことのない宇宙が、なぜ記憶というものを持てるのか。それは、もちろん私たちの記憶よりも深いところにあるものであり、生命をも、私たちの身体をも創り出してしまうものなのだから、想像を越えている。

けれど、私たちが詩とよぶものは、そのようなレベルにどこかで一気に身をよせることによって成立するのではないか。たとえば、北村太郎の時間=持続を、一気に詩として成立させてしまうものも、そのようなレベルにある「匂い」であったり、あるいは横浜の港でいつも詩人が覗き込んでしまう、骨壺の水のように澄んだ「水」あるいは「水底」であったりするのではないかと私には感じられる。それらはあからさまに「宇宙」ではなく、読者がふっと落ち込む、かすかな虚空のようなものなのだが、その魅惑にとらえられることで、「すべて」の存在と秘密を直観させるものなのである。

詩誌「pfui!」 17号 1999.10.20掲載

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