20年くらい前に男友達二人と3人でレンタカーで行った北海道旅行の述懐からは
じまるこの作品は、二連で、その旅行にでた当時の学生時代に自分の抱いていた孤独
な心持ちの描写と、そうした日々のなかで、言葉を共有できる仲間との出会いが、ひ
とつの精神的な転機となったことが語られ、3連目で、その転機の内実が、言葉の共
有=同時代の詩の発見であったことが明かされて、終連で、すっと現在に滑り込んで、
そのように、青春時代に同時代の詩を見い出し、それ以来、自分が詩を読み、書き続
けてきたことの意味合いが、自分(たち)にとっての個の尊厳(プライド)の確立と
してあり続けたことだったのだと、きっぱりと把握しなおされて、ひとつの宣言のよ
うに完結している。
最初に読んだ時に感じたのは、まぶしいな、いい出会いをしたんだな、という感じ
だった。この感じがどこからきたのかと言えば、全編に流れる、しなやかな言葉の疾
走感のなかで、楽しそうな青春時代のドライブ旅行の回顧と、詩のことばとの幸福な
出会いが、溶け合うように語られているように思えたからだと思う。詩のことばとの
幸福な出会いというのは、詩との出会いに先立って、「(倍速でしゃべる)彼とあな
た」たちとの出会いがあったように描かれているからだ。著者は、彼等にみちびかれ
るようにして、いわば、等身大の彼等の感受性への信頼に支えられるようにして、同
時代の詩の世界のひろがりに、すっと身を預けていけた、というように読めて、それ
は詩の言葉との出会いとしては、とても希有なことのように思えた。
ところで、この作品のまぶしさの由来はそれにつきていない。著者が語る<わたし
>のエピソードが、同世代の「遅れてきたわたしたち」のエピソードに開かれている
ところがあるのも、その理由のひとつかと思う。「わたしたち」は、性もちがうし、
20年という歳月で、おそらく生き方もかわってしまっている。それでも詩の言葉の
共有によって結びついている、という詩の言葉の力に対する信頼や、自分(たち)の
立つ位置の確定が、この詩をとても力強いものにしている。
現在の詩の多くが、同時代の共有感覚をもたらすように書かれ、読まれているかと
いうと、おおいに疑問がある。けれど、著者が「すばらしい詩」として知ったという
のは、「逃げないこと、愚痴をいわないこと、マイナスを負のプラスと考えること」
という、詩のことばの有り様ではなく、むしろ、詩の行間から透けて見えてくるよう
な、詩を書く人の生きる姿勢のようなものなのだ。その姿勢が、「自然にあふれる欲
望のようなもの」として、「この目に世界がどう見えているか 知っていることばで
伝えたい」という思いに結びついていると思える時に、おそらく「すばらしい詩」が
成立すると言われている。
ここでは、わたしたちを、すっと、自分と詩との出会いの初源にたちもどらせるよ
うな何かが、抑制された言葉でいいきられている。そのことが、この車窓に流れる木々
の緑の光の印象に、みずみずしい青春時代の追憶を重ねたようにも見えるフォルムの
美しい詩作品を、一方で、とても芯のある味わい深いものにしているように思えた。
「そして今も」(須永紀子)は、詩の雑誌『midnight press7 2000年春号』(ミッドナイト・プ
レス)に掲載。
桐田真輔
KIKIHOUSE
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