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vol.16
(みついたかこ)執筆者紹介へ

城戸朱理詩集『千の名前』を読む     
  三井喬子

   身と口と意、つまり身体と言葉と心を統一して対峙することによって、宇宙の真理は啓かれる。
 と言われても私にはどうしようもないのだが、たまたま「流れる」ことに気持ち引かれていたとき、奔流のように『千の名前』が面前したのだった。

 1998年の『夷狄−バルバロイ』には清冽な谷川を感じたものだったが、『千の名前』一読後に感じたのは、もう少し下った中流の、粘りの出た青い水だった。それは身体性の増加による不透明さの出来ゆえと言えないだろうか。身体性、そのとき私を貫いたものは「痛み」であった。それも「冴えわたるような」。

 デイヴィド・B・モリスの『痛みの文化史』によれば、「痛みは……人間の最も基本的な体験に属しており、私たちのありのままの姿をあきらかにする」。「覚え書き」には「苦痛とは単純なものである。それだけに奥深くもあり、避けることもできなかった」とあり、詩人の実生活において事件があったことが示されているが、一読者である私には事件そのものは差し当たって関係はない。それでも「痛み」はずんずん伝わってきたのだった。

 古来、人々は苦痛を美に還元し、芸術のエネルギーの源泉として来た。痛みという肉体にとって掛け替えのない事実は、だれしも覚えのある痛みの体験を通して他者に転化される。痛みは、性の歓びや死への恐怖と同様、伝達の媒体としてこの上なく有効なものなのである。こうして先ず私は『千の名前』のとりこになった。

   名付けるということには、時間性を生起させる、対象化するという意味が含まれていると私は思う。痛みの現在を対象化することは、わずかでもそこから逃れることではないだろうか。詩集を読みながら、耐えられない苦痛の現在から逃避するべく、もがき足掻いている人を想わずには居られなかった。痛みとは、死には至らないもののそれ故に簡単には免除され得ない、まさに生と共にあるものである。名付け、身をはがし、追いやることは、ある崇高なものの現れに寄与するかも知れないが、本当の名前は使用を禁じられているのだから(生を過去のものにするかも知れないから、ということだろうか)、詩人が名づけえたものはいつも仮名である。

 「心の底が裂けているから/心の容量が洩れつづける――」と言う。前述のモリスによれば、痛みの「未来は、私達が過去を再生して理解する場合にだけ、その姿を明確に現わしてくるだろう」ということである。だが、詩人にはその過去の事件は了解しがたいものなのだ。名付けるという時間・意味の創出が千たび繰り返されても、受容できないものであるのだろう。想いは何時も何時もそこに至るのだけれど。

  あらゆる名前はここに書き記されるために
  生まれ出るのか
  ひび割れた卵殻を破って
  今またひとつの名前が与えられる
  星の悲鳴は、止まない。    ――「星の悲鳴」


 ところで『痛みの文化史』は、「間――人間的なもの」としてエマニュエル・レヴィナスの見解を紹介している。それは「レヴィナスが他の人間の苦しみへの苦しみと名づけているもの」で、「私自身の役に立たない苦しみは、もしそれをあなたに対する共感の機会とするなら、たとえ苦痛な反応であっても、前とはちがった意味を帯びてくる」というものだ。城戸氏が「この詩集を想像もつかない痛苦に耐えてきた人に捧げることを許していただきたいと思」って詩集を閉じたとき、私は、「のぞ」んだわけではないし大したことなどでは全然ない私自身の苦痛もなにがしか変容したと感じた。他人の痛みでカタルシスを得るなどとは、面妖かつアサマシイことではあるが、それが「覚え書き」に書かれた意味の一つであれば、今は素直に城戸詩の「痛み」に陶酔しようと思う。現実逃避することも、他人の苦痛に癒されることも、生きるための方便なのである。

 それにしても、固有名詞の難しさよ! と始めは引っかかった。けれど知的に理解しようとする前に私が感じた『千の名前』への共感は、たいへん身体的なものだったので、固有名は奔流中の杭のようであって、やがて水中に没してしまった。どうでも良いわけでは決してないのだけれど、それは調べるという、別な、私だけの楽しみのためにとってある。


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