
 vol.16
 vol.16    洪水
| 道は大水のために没しそうになっていた。 | 
| 路面を踏めば めくれあがって泥水を吐く | 
| 誰もいない蒼い朝だ。 | 
| 柳も葦も一夜のうちに痩せていて | 
| 曇り日の | 
| 不安は 歩行につれて傾きの変わる風景画。 | 
| ペイントが流れだしている。 | 
| 橋が毀れてしまう前に | 
| 誰も来ないうちに | 
| この橋渡ってしまわねば……。 | 
| ただ逢いたいだけだと | 
| それだけだと | 
| グラリグラリの不確かな理由。 | 
| 命が無くなってもいいですからと | 
| 橋桁に唇よせて囁いたが、 | 
| 橋は首を振って身を反らせ | 
| 橋 毀れたよ、轟と流れた。 | 
| 大水がわたしを呑んじゃった。 | 
| 大声で笑って | 
| 谷間が大水でわたしを飲み下した、 | 
| 酒で薬を服むように。 | 
|  | 
|  | 
| 幾重に重ねて着ていた皮膚だろうか | 
| アルバムの中の笑顔が剥がれたよ。 | 
| 竹薮のかげ | 
| 倉庫の足元、 | 
| 蛇も紫陽花も流れたよ。 | 
| 倒木の根っこに絡まって流れたよ。 | 
| 逆立った髪の毛が抜けた | 
| そう それは気配ばかり。 | 
| 誰 わたしの膚を脱がすのは。 | 
| 僕ではないよ | 
| 酒だよ | 
| 薬だよ。 | 
| すうっと剥いたら痛くないからね、 | 
| 覚えているだろう | 
| 誰だか何だか知らなくても | 
| 月の涼しさも届かない | 
| 砂丘の暗がりの皮膚と皮膚 | 
| よじれた身体の潮のにおい。 | 
|  | 
|  | 
| 冥い | 
| 重い | 
| 底の 無音の 執拗に回転している、 | 
| そう それも気配ばかり。 | 
| ツクツク突いているのは誰。 | 
| 誰でもないよ | 
| 僕だよ魚だよ。 | 
| 鯵かな | 
| キスかな | 
| ニシンかな、 | 
| それとも髭の生えたアンコウかな。 | 
| リズミカルに嘆く口腔の | 
| ハニイ ハニイ 口実だけのスウィーティ。 | 
| 魚身の挑発 泡立つ報復 | 
| 暗闇の揺籃は発熱して歪んでいる。 | 
| 呼ばないで | 
| わたしじゃないわ | 
| わたしの名前じゃないわ、 | 
| あいうえおあいうえお あいうえお | 
| 多分おそらく 「あいうえお」。 | 
| あいうえおあいうえおあいうえお、あ。 | 
|  | 
|  | 
| 皮膚は剥がれている。 | 
| 水の中の運動は緩慢に | 
| 時々はまだ激しく | 
| 眠ることを許さぬように 人の名を剥ぐ。 | 
| のっぺらぼうの薄い袋に包まれて | 
| 魚が一匹泳いでいるよ、 | 
| 稠密な鱗が七色に光っている。 | 
| キスかニシンか 髭の生えたアンコウか、 | 
| それが何だか誰にわかるの | 
| 舌舐めずりして笑っているけれど | 
| きっと魚にだって分からない。 | 
| 洪水のあとだもの、 | 
| 海は爛れて | 
| もうじき真っ赤に夕焼けるだろう。 | 
『Talking Drums』掲載 1994.9.1   原詩は散文詩
 <詩>四月の茄子(三井喬子)
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 <詩>黒の海岸/渚/なぎさ/ナギサ(三井喬子)
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 <詩>モクセイの木(関富士子)
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