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vol.17

言語秩序からの解放
  栄瞳流フリル言語の生成

佐 藤 文 明

   栄瞳の朗読会が終わって、誰もいなくなった真夜中のライブハウスに客がやっ てきた。30歳を越えたぐらいのミュージシャンたちである。いつものライブ・ス テージとは違った店の様子を敏感にかぎわけ、「今日は何があったの」と聞いて きた。「詩の朗読会だよ」「へえ、めずらしいね」そう言うと、床に落ちていた 朗読用の紙片を拾い上げた。

 しげしげと眺めていた彼は、やにわに立ち上がると、声を挙げて読み始めたで はないか。栄瞳の詩は難解だという巷の声に、ぼくまでが冒されていたのだろ う。だから心底驚いてしまった。そればかりではない。彼の朗読にあわせて、別 な男が踊り始めたのである。即興で、詩がつむぎだすイメージを必死で表現して いるのである。

 ときどき意味が解せなくなると卵のように縮んでしまい、床にうずくまる。イ メージを取り戻すとまた、弾けるように動き始めるのである。ぼくが感じている イメージと、彼の表現とがぴったり重なると、思わず「すごいよ、すごいよ」と 叫び、我を忘れて拍手していた。かくしてぼくは1日に二回、栄瞳の詩とパ フォーマンスとに感動させられることとあいなった。

 朗読会を行ったのは国立市にある"のみ・くいどころ"「かけこみ亭」。イン ディーズのミュージシャンにはちょっと知られたお店だ。1997年3月23日、第2 詩集『ボリューム4倍角』の出版を記念して、ぼくが呼びかけた朗読会だ。聴衆 は栄瞳さんの学生時代の友人たち。詩とは縁遠い人たちも多いので、まずは活字 からではなくパフォーマンスから彼女の詩に接してもらいたかった。  というのも、ぼく自身、彼女の詩に接したのは西八王子「アルカディア」での 朗読会が最初。活字からではなく、彼女自身のパフォーマンスにいたく感動させ られた。それは鮮烈としか言いようのないものだったからである。そしてこの日 は若き天才舞踏家・大橋可也が、彼女の朗読に花を添えた。というより、肉体に よって栄瞳の詩を表現してみせたというべきだろう。それはまた、優れたセッ ションだった。

 ぼくは詩よりも前に、栄瞳の歌や絵画に接している。そしてその細やかな気配りや大胆な手法にも通じてはいた。詩は歌や絵とは ちがうというさまざまな根拠を理由なきものとはいわないが、彼女の詩は極めて 歌や絵に近い。彼女はまるで、言葉を音符や絵の具のように扱う。そしてその音 の連なりや色の結合を超えて、新しい地平を描き出す。彼女の中でそれらの表現 形態は互いに連続し、絡み合っているのである。

 ところで、絵や歌を言葉で評すというのは困難であるが、不可能ではない。一 定の限界と、ある種のウソっぽさを踏まえているなら、それはまた、対象に迫り 得る。ぼくは言葉を生業にしているので、そうした評論も行ってきた。同様にま た、文章を言葉で評すのも困難ではあるが、不可能ではない。それこそが評論活 動の使命ではないか、と言う人があるかもしれない、が、それは違う。

 文章という同じ表現形態を対象にしていても、限界とウソっぽさを抜きに表現 を評論することはできないのである。文字は別に、他の表現形態に対して特別な 地位を占めているわけではない。ましてや、言葉をまるで音符や絵の具のように 操る栄瞳の詩に対して、言葉による特権的な評論が可能だとは思わない。

 だが、音楽や絵画、映画や舞台、秋刀魚を焼く匂いや都市デザイン、それらの 評論をするのと同様に困難ではあるが、また不可能ではない。言葉を生業にする ものにとって、評してみたい魅力的な対象であることに違いはない。私見ではあ るが、ポエムにはそうした魅力が欲しい。評論(散文)によって丸ごと評し得る ポエム(韻文)など、韻文としての価値もない。

 言葉は今、死につつある。熱や匂いを失って、単なる記号と化しつつある。文 章は今、滅びつつある。味や艶を失って、何語にも翻訳可能な記号の束になりつ つある。ロラン・バルトはこれを憂いて『零度のエクリチュール』を書いた。そ の流れは認めざるを得ない。が、人はなおそこに熱を求める。記号と化した言葉 で世界を埋め尽くせると信じたウィトゲンシュタインも、晩年、この考えを放棄 したではないか。

 たしかに、現実はますますワープロ化している。優れた日本語変換ソフト 「ATOK」は、優れている分だけ、言葉を殺す。死んだ言葉を組織する。「ATOK」 は、現代語の枕詞を大量に記憶している。常套句はその分、変換率も高いのだ。 パーフェクトに変換されるポエム、それはもう、おそらく韻文の形式を持った散 文だ。だれもが共有する心情の、省略形式に他ならない。

 栄瞳の感性は、こうした惰性を許さない。だから、第一詩集のタイトルは『カ パ』。カパとは、「瞬間密度120%の生命(エロス)の輝き」であり、震度7の 「激震」なのである。そして第2詩集『ボリューム4倍角』、これはワープロの 反乱なのだ。死んだ言葉の組織機であるはずのワープロが、ワンタッチで4倍角 になる。この衝撃、この激震。誤変換なら、きっとそれに輪をかける。

 まったく皮肉なことなのだが、言葉を殺そうと必死になっている人びとの目論 見が、鮮やかに破られ、ワープロ自身が存在感を主張する。誤変換には、機械の そんな温みがある。死んでしまったのは、機械ではなく、言葉を扱おうとする人 間のほうだった。栄瞳の詩は私たちにそうした問題を突きつける。言葉を殺す な。生きた言葉を扱え、と。

 いまさらいうまでもなく、言葉は生きている。生き物である。ところが、ほと んどの詩論、言語論はそれらを殺すほうに働く。構造主義言語論に反対して、 チョムスキーは生成文法論を展開した。生まれ、発展し、滅びていくのは文法ば かりではない。単語、文節、文章展開、文章構成……そのすべてがダイナミック に生成流転していく。

 たとえば単語はひとりひとりに、まずは圧倒的なイメージとしてやってくる。 わたしたちは経験によって、そのイメージの中心に核を作り、核がくっきりとし た姿を持つにつれて、周囲のフリルを切り落としていってしまう。そして多くの 詩論、言語論がこの核としての単語だけを言葉として扱うのである。しかし、そ れは単語が持つ生成流転する生命力の否定である。圧倒的に豊かな、単語によっ て目覚めさせられた自己のイメージ世界の否定である。

 栄瞳が操る単語はみんな、大きなフリルに飾られている。核がどこにあるのか も定かではない水母やオーロラのようなものである。人が削ぎ落としていってし まうもの、彼女はそれを大切に維持している。単語Aと単語B、その核どうしには 既に多くのルールがまつわりつき、息絶え絶えになっている。「ATOK」はその大 部分を出現率によって秩序づけている。こうした秩序から、表現を解放する手は ないものか。

 かつて、ラッセルは未来の小説は単語カードになると予言した。読み手がこれ をシャッフルし、自分でドラマを仕立てていく。死んだ(定型化し、秩序づけら れた)ドラマトゥルギーから解放されるにはこれしかないという、悲愴な叫びで もある。 また、単語Aと単語Bの連結に意思の介在を避けることで、表現を回復 しようとする運動が、シュールレアリズムでありダダイズムであった。意思はど うしても出現率に包摂されてしまうからである。

 だが、栄瞳の詩はこうした偶然性に依拠したものではない。むしろその正反対 で、単語が持つフリルの広がりを徹底的に追求し、洗練させて、驚くべき連結を 発見する。それによって単語の新鮮さが、あらためて弾き出されてくるのであ る。偶然に依拠した詩づくりは、作詞の世界で少なくない。若いミュージシャン たちの新鮮な感覚が、これを支えている。そしてまた、わずかではあるが、栄瞳 の詩に近い詞も見出せる。

 栄瞳の詩の楽しみ方にはいろいろあるだろうが、ぼくはもっぱら彼女のイメー ジを追いながら、次にくる言葉に期待しつつ読み進む。その多くが、鮮やかにも 裏切られ、思いがけない言葉に出くわすのだが、そのたびに「ああ、そうだよ な、このほうがずっといい。いや、そうじゃない。これ以外にはありえない」と 深く納得させられてしまう。

 というのも、もうすでに新たな一語によって次の鮮烈なイメージがむくむくと 沸き立ってきているからなのである。それはたいがい、圧倒的な説得力を持って いる。イメージが疾走して、メルトダウンを起こしそうな作品「犬・猫を寄せつ けない 薬あります。」「金髪色の秋」(ともに『ボリューム4倍角』)。いず れも、落ちにアイロニーが効いている。

 もっとも、この楽しみ方の難点はひどく疲れること。彼女のイメージは単語が 持つ広大なフリルを、デリケートなセンスで次の単語のフリルと縫い合わせる。 フリルとフリルの接点(ぬいしろ)は極めて小さい。そして縫い目はさらに細か い。このトレースには張り詰めた神経が必要なのだ。

 これを救ってくれるのがリフレインである。第二詩集のリフレインは「タンタ カ タンタカ タッタッタ」はともかく、なかなかしたたかで、気を許せないも のが多いのだが、第三詩集『"ハ長調"の海とパラソル』のリフレインは、明らか にリズムをとるためのリフレインで、イメージの縫い合わせに全神経を傾けなく てもすむ。リズムに身を任せていられる余裕がある。

 「ハ長調」というタイトルを見るまでもなく、第三詩集は音楽に傾斜している (「パラソル」は圧倒的に視覚的だが)ということができるだろう。栄瞳の詩は あらゆる表現形態を彼女のイメージ世界に吸着した上で、均質の素材として扱 う。だから、音もリズムも色も絵画も、街角のビラも詩人の名文句も、壮大なシ ンフォニーも映画も演劇もおなじレベルで表現される。どれもが均質なイメージ の束なのである。

「果てもなくしゃべりつづける彼と彼女 口いっぱいになにかを満たしたと思っ たら 輪をかけて溢れる言葉の洪水 二人はもう駆け引きを超えて 互いの言葉 を丸呑みにしあっている さらにさらにむさぼりあってもいい」これは栄瞳の詩 篇「ボリューム4倍角」を、ぼくなりに引き取って、ぼくのイメージに変換した ものだ。

 単語レベルで追うのが疲れた時は、こんなふうにイメージで追ってみる。彼女 のイメージ世界に身を任せた時、どんなイメージが浮かんでくるか。それをまる ごと、適当に文章化してみたものだ。

 これが彼女の詩を楽しむ第2の方法。つまりは彼女が繰り出すイメージに対し て、ぼくなりの言葉でセッションを楽しむわけである。もちろんセッションだか ら音楽でもいい。舞踏でもいい。栄瞳の詩の豊かさは、さまざまな表現形態の セッションを生き生きと受け止める。

 大橋可也の舞踏が見事にマッチングしていたのも、栄瞳の詩が舞踏の素材同様 にイメージの束であるからに他ならない。あるいはまた束のより大きな連鎖、で あるからに他ならない。

束の大きな連鎖、つまりはイメージによる大河ドラマが第4詩集『野生のセロ リ』である。

 ポエム・フィクション〔野生のセロリ〕は母の羊水に浮かんでいたときから、 現在までの性的な目覚めを追求する、優れて斬新的な試みだ。驚くほどになまめ かしい、感覚の記憶に舌を巻く。想像力では構成し得ないイメージ。彼女には単 語が持つフリルを越えて、物語的な事象が抱える膨大なフリルをも、そっくり保 持する能力があるのかもしれない。

 このポエム・フィクションは、1997年現代詩フェスティバルで、大橋可也の舞 踏とのセッションのために書き下ろされた作品であるという。なるほどな、と思 う。流れを持ったイメージの束は、舞踏とのセッションにうってつけの素材であ るからである。

 同様に、流れを持ったイメージの束は、栄瞳の詩作にとっても格好の題材 (セッション対象)である。それが彼女のセッション・ポエム(『野生のセロ リ』III、IV)を生み出す原動力になっている。「柳下鬼女図」のような単品も 面白いが、圧巻はストーリー性のある映画を対象にしたもの。

 ぼくはポランスキー監督作品は「反撥」ぐらいしか知らないのでそれを語るの にためらうが、第4詩集後に連作を続けているパゾリーニ監督作品物は小気味い いと断言できる。たとえば「王女メディア」を題材にした「緑色のカラス(もう このタイトルだけで、相当にOK だが)」は、天空の頂点から「完熟詩人たち と、金髪ビーナスたちの甘い心臓」を求めて「急降下↓」する。鬱屈したもの の、一気的な解消なのだ。

 作品の解説をするつもりはないので、話を元に戻すとしよう。栄瞳の詩が楽し いのはまた、読むたびに新しい発見、新たなイメージが湧き上がってくることに ある。もちろんぼくはそれを楽しむのも大好きだ。言葉は生き物なのだから、読 むたびに新しい思いを呼び起こすのは当然のことだし、ぼくと彼女の詩との出会 いは一種のセッションなのだから、出たとこ勝負。いつもおなじアンサンブルで ある必要はない。

 それに加えて、彼女の詩には移ろいやすい要素がある。言葉のフリルが持つ魅 力を知るからなのだろうが、彼女は新語を積極的に採りいれる。たとえば「ヘク トパスカル」「O‐157」、タイトルの「ボリューム4倍角」だってそうだ。ま だ、人びとの間に共通の核ができていない段階の単語。それは多くの人の好奇心 と戸惑いの中、フリルだけの姿で立ち現れる。
はらはら、どきどき、恐る恐る……。

 だが、これらの言葉もやがては死んでいく。もともと、科学者たちの間では死 んだ記号に過ぎなかったものなのだから、正体はいつか割れる。
 だが、はらはら、どきどき、恐る恐るの初期感覚を失ってしまうと、栄瞳の詩 も最初の輝きを失う(それでも別な味わい方は可能だが)。こうした時事語や流 行語の例はわかりやすい。だが実は、他の普通の単語にも多かれ少なかれ、同様 の側面がある。だからみずみずしい言葉のフリルを削ぎ落としてしまえば、彼女 の詩は遠くなる(つまり理解不能になる)。そういう意味では、栄瞳の詩もなま 物なのである。

 それでも、である。うれしいことに彼女の詩のファンは少なくない。いや、む しろ、意外に多くの共鳴者を見出す。それも、詩とは縁の遠かったひとたちや、 活字に違和感を抱いている若者たちの間にも。「これが好き」「あれが気に入っ た」ということはあるにせよ、彼女の言葉は確実に届いているのだ。

 なぜそれがうれしいことなのか。それは、言葉がなお死んではいないことを意 味しているからだ。栄瞳の言葉が届くのは、それと自覚はしないまでも、栄瞳が 操る単語や言葉の周りに広がるフリルとフリルの縫い合わせに、心揺すられるも のがあるからである。だれもが実は、削ぎ落としきれず、心の奥深くに眠らせた ままにしておいた、それぞれのフリルを持っているのだ。そしておそらく、それ ぞれのフリルは互いにけっこう似ている。

 そしてまた、これは驚くべきことだが、彼女の詩は翻訳しやすい。国を超え、 言葉の壁を越えて、深い共鳴者をやすやすとつくりだす。ふつう、言葉が持つデ リケートなニュアンスを訳すのがいちばん難しいとされる。ニュアンスを伝達す る必要のない数理式や、科学レポートである場合、約束としてのテクニカルター ムさえ正しく伝えれば翻訳はほぼ完璧。詩は普通、これとは対極にあると考えら れているのである。

 だが、確かに栄瞳の詩は翻訳しやすい。そしてそのニュアンスも、おそらくほ とんどが伝達される。というのも、彼女の文脈にはニュアンスを伝達することを 目的とした単語がほとんどないからだ。ニュアンスは単語のフリルとフリルの縫 い目に乗せられて運ばれる(コラージュやオブジェの手法に近いのかも)。だか ら、日本語を使った場合と外国語を使った場合とで、ほとんど違いがないのであ る。
 しいていえば、フリルの広がりかたに、文化的、経験的な差異があるかもしれ ない、という程度だ。

 人はおそらく、シャッフルした単語カードからも何らかのドラマを読もうとす る。突然出現した誤変換にも、何らかの意味を読み取ろうとする。言葉はますま すデジタル化し、熱を失っていくが、人はどこまでも、律儀なほどにアナログな のだ。それも、うれしいことに、そいつはほとんど人類共通らしいのだ。

 そして、人がそうである限り言葉は滅びないし、生み出され続ける。詩もまた 限りなく編まれつづける。そのことを栄瞳の詩は証明してみせているようにおも う。もしかしたら、彼女のようなイメージの詩人や言葉の巫女が時々出現してく れることがなければ、ぼくらはとっくに言葉殺しの共犯者になっていたのかもし れない。とすれば、彼女はまた言葉の豊かさの証明者であるばかりではなく、詩 の豊かさの救世主であるともいえる。

 ぼくはこの評の中で、彼女の内面にある言葉の相をフリルとして、あるいは単 にイメージとして語らざるを得なかった。ひとつには、大きく語り得ぬものの世 界を含むためであるが、もうひとつには語り得る部分にしてもあまりにも語るの が複雑で、短評では手に余るためである。すくなくとも従来の言語論や詩論の2 項対立的な枠組では到底捉えきれないものである。

 たとえばシニフィアン―シニフィエ、連合作用―統合作用、自己表出―指示表 出、顕在意識―潜在意識、右脳―左脳、α波―β波……。関連のありそうな2項 対立は次々と浮かびはする。が、そのようなものに栄瞳の詩が収まることはあり えない。セッション・シリーズには収まりやすい作品も見うけられるが、それは おおむね素材(ゲスト)に起因する。

 栄瞳の詩の真価は彼女自身とのセッションにあると思うのだ。そのとき言葉 は、信じがたい輝きと深みを見せる。 1999.8.9


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 佐 藤 文 明  (BUM SAT)
E-mail address : mailbumsat@muf.biglobe.ne.jp
URL : tubuhttp://www2s.biglobe.ne.jp/~bumsat/

no.6"「gui詩gui詩」Poetry Readingに、
青木栄瞳の詩のテキストと朗読音声、朗読写真があります。


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