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vol.18

田中宏輔「陽の埋葬」における地下茎・神話・転生のはなし


ヤリタ ミサコ  (20000919)

     

1 地下茎として


 この分厚い詩集を、日陰で、風通しのよいひっそりとした土に埋めておき、数年の時間がたつと田中宏輔が生えてくる。とわたしは直観した。

 つまり田中宏輔の地下茎のような詩集なのである。先の詩集「The Wasteless Land.」が果実であるのに対して、「陽の埋葬」は果実を実らせるために地下に伸びている根であり、水脈であり、ポエジーへの繊細な触手なのだ。

 全体は3部構成で、ひとつの存在に収束するような構成となっている。まず、たどたどしく手首から語り始め、少年天使の残酷と美の側面が登場し、第二部では、引用と語り手である作者との絶妙のバランスで、心のありどころを揺れ動きながら叙述、第三部では、観念的存在として語られている。全体で、少年―>青年―>神話化、とも読むことができるし、あるいは、身体存在―>心の存在―>抽象存在、とも読むことができる。

 また「The Wasteless Land.」が全編、引用によるペルソナの叙事詩であるとしたら(エリオットの「荒地」とゲーテの「ファウスト」はもちろん、「プルーフロック氏の恋歌」もまた踏まえられている)、この「陽の埋葬」は、ペルソナと素顔(という名前のペルソナではあるが)と、そして素顔さえも取り外したときの空洞の顔の3つの面が交錯して現れてくる詩集である。
 

2 引喩ということ


 長澤忍が換喩、田中宏輔が引喩の詩人であるということを、わたしはとても誇りに思う。なぜならば、世の中で詩と呼ばれる作品群は、飯食いホームドラマ、あるいは生活綴り方、の世界からほとんど抜け出ていないものが多く、そのような「やさしい」詩のなかで、換喩や引喩というテクニックを駆使して難解を恐れない蛮勇をわたしは愛している。いや、それは、本来は正当な詩法なのにもかかわらず、蛮勇といわなければならない状況を怒ってもいるのだが。

 宏輔が多用する引喩を、なぜか難解と思う人たちが多いように思う。日本の短歌の伝統では本歌取り、西脇順三郎では「セザンの林檎」(「旅人かへらず」)というように、詩と引喩は切っても切れないはずなのだ。が、引喩と聞いてビクツク人たちは、その本歌を知らないと恥ずかしいかのような、あるいは、西脇ではセザンヌの林檎の絵を思い浮かべないといけないような気になって、萎縮するのであろう。が、サンプリングなんですよ。わたしが単純に言ってしまうと。

 例えば、ポリスの「見つめていたい」という曲は、愛する人への追悼の曲にサンプリングされちゃったし、スティングの「ニューヨークのイギリス人」は、「ニューヨークのジャマイカ人」にサンプリングされちゃうし、クイーンなどもそうですよね。だからといって、元歌を知っている必要はまったくないし、知っていればいるなりの楽しみかたもあるし、どっちでもそれなりの楽しみ方ができるはずです。

 つまり、宏輔の引喩は、書かれた結果だけを読んでおもしろがってもかまわないし、引用注を見ながら楽しんでもかまわないということです。宏輔の場合は、この引用注の記載の方法にも工夫があるのでそれも楽しんでもヨシ、無視してもまあ、いいです。

 では、注の楽しみかたのその1。「Coda:Hideous Narcissus」という詩では、「花のように」はコレットの『青い麦』、「ふり仰ぐと」は原民喜、「高いところに」はトオマス・マンからの引用だったりする。これが本文中に、それぞれの詩文の次行に、下揃えに記述されている。ここで任意に取り上げたフレーズ、「花のように」「ふり仰ぐと」「高いところに」とは誰でもが思いつく、普通の日常語の日常的な使用範囲のことばである。しかしながら、なぜ、宏輔は、これらにコレットだの原民喜だの、マンだのをくっつける必要があるのか?

 これなんです、核心は。例えば、目をつぶって、冷たく冷やした無色透明の水を飲むとするでしょ?その出自がわかりますか? 北海道のおいしい水道水かもしれないし、六甲のおいしい水かもしれないし、大清水かもしれませんよねえ。微妙に味は違うのだろうけど、差異を明確化して他人に伝達するのはほとんど不可能に近いと思う。ひと昔前のパブスナックでは、水割を作るのにサントリーのミネラルウォーターを出していたが、非良心的な店では、ビンだけ使ってナカミは水道水、というようなところがたくさんあった。そういうところは、客をなめていて「わかりゃしないよ」と言っていたものだ。

 で、最高に良心的な宏輔は、すべての水にきちんとその背景を入れ込むわけです。1000年前の水なのか、5年前にとれた水なのか、南なのか北なのか。例えば「花だった。」というフレーズは、マルテの手記からの引用です。そうすると、花の種類は、ヒマワリとかハイビスカスではないことは明らかです。それ以上は読み手がその引用注を見ながら想像し創造すればよいこと。「咲いていた。」もヘッセからの引用だと思うと、そんなにイージーに咲いたわけないよな、とイラヌ気を回したりする。

 ただ、宏輔は、このような読み方さえ、強制していない。どう読んでもよいように、さりげなくほおり出しているだけだ。そこがまた、イイのだけど。

 注の楽しみかたその2。208ページの「僕は」「僕が」は両方ともラディゲからの引用です。これって、書き手が自分のことを何と記述するかにかかわらず、はなっから、自我意識なんてオリジナルなものはないんだよ、って言ってることだよねえ? わたしは、はじめて分裂機械で宏輔の引用詩を読んだときに、これってスゴイ現代詩をバカにしていて、かつ、激しいアンチテーゼで、挑発的アジテーションだ、と思いました。宏輔さん本人はそこまで意識的戦略的ではないでしょうけど。

 つまり、詩人たちは、アプリオリにノー天気に盲目的に、自作の詩というのはオリジナルなものだと思い込んでいるが、実のところは本来的な意味でのオリジナルなんて存在しないのだ、と宏輔は何も言わずに主張していることなんです。詩人が自分だけの経験や感情からコトバをつむぎ出しても、実際は、コトバの死体やら、ばらばらのホネやら、ゴミのヤマやら、過去のコトバの残骸のヤマから取り出してきたことにすぎないわけです。キャロル・キングの歌で「I feel the earth moves under my feet 」というフレーズがあるように、自分が立っている足の下でコトバの破片が動いているミョオな感じ、を宏輔は、読み手に突きつけているのだと思います。

 その3。「Spinal Cord/Dodecahedra Edit.」では、本文のあとに、活字のポイントを落として引用注がまとめて付されている。これの楽しみ方は、2までのように、1フレーズずつ対応を楽しみながら、でなくともよい。いや、1対1の対応をとるのはほとんど無理といってよい。となると、どのように読むか。

まず、本文はワンフレーズずつ、●で区切られているので、それをギクシャクしながらレールの継ぎ目を感じるように、人形振りの踊りのように読む。そうです。カブキのように読めばよいのですよ。例えば、江戸一番のいい男、助六。それは仮の姿、実は曽我のなんとかさんで、あだ討ちのために刀を抜かせて確認していた、とか、という誰もが知ってるウラの本当の話ってのがあるでしょ。安宅の関だって、義経は山伏の格好しているけど、ほとんどの人はそれが義経だとわかってて見てるわけ。もっと単純にいうと、遠山の金さんだよね。べつにその人が北町奉行かなんか知らなくても話はおもしろいのだけど、あとになってその実、桜吹雪を見せられて、これこれのフレーズは、プルーストであるとかジョイスであるとか、明かされるわけでしょ。

ダブルで進行しているストーリーを追うもよし、表面のストーリを楽しむも、よし、です。コトバの地層の深さを見る勇気のある人は、拡大鏡でよーく注を読み込んでください。わたしがうれしくなっちゃうのは、ディキンソン、とか、ウィリアムズとかがたくさん引用されてるの。真っ黒になるまで、判別しきれないくらいたくさん書き込まれた寄せ書き、ってかんじだよね。宏輔さん、こういう食べ物食べて大きくなったんだ。ウーン。という楽しみ方です。

3 「陽の埋葬」連作について


 大学の卒業アルバムくらいに分量のある、この詩集の楽しみかたは、もう人それぞれでしょう。ハンカチの上に置いておくとアイロンがわりにもなるし、2冊重ねると枕にもなる、というシロモノだ。冗談はさておき、詩集のタイトルである「陽の埋葬」の連作はこの詩集のコアなので、これをよむとっかかりについて考える。ただし、書かれた内容よりも方法論へのアプローチを中心にします。

 まず、「陽の埋葬」というタイトルの詩は28編ある。全体が59編であるから、約半分。田中宏輔の詩人としてのアイデンティティの重要な部分をしめる連作である。(だからうっかりしたことは言えないぞ、と少し緊張しているヤリタである)

 「陽」という語についてまず、注意しなければならない。宏輔の使用する「陽」は、明るく健康的な夏の太陽、という概念からは極北にあるということ。任意に引用すると「狡猾な陽よ!」「陽の病巣が凝り固まっている」「陽の針が、わたしを貫いた!」「陽の初子は死産だった」「陽の亡骸を味わいながら」というフレーズが、11ページから始まる最初の「陽の埋葬」に登場している。これらの「陽」を見ていると、北国の冷たい荒涼とした海岸べり、霧に覆われてほとんど見えない太陽のような気がする。

 「陽の埋葬」は全編に死が満ち満ちていて、「わたしは、わたしの、死んだ声を、聴いてゐた。」とあるように「死んだ声」が語り手の声である。17ページの4番目と次の5番目の「陽の埋葬」では、幼い少年の語りくちで「ぼく、連れてかれちゃうよ。」「死んだ鳥の歌に、じっと耳を、傾けて、いま、した。」など、宏輔の死の詩の世界を象徴していて、うつくしい。

 この連作のキーになる部分を引用する。


―陽にあたると、死んでしまひました。



言ひそびれた言葉がある。

口にすることなく、この胸にしまひ込んだ言葉がある。

何だつたんだらう、忘れてしまつた、わからない、

・ ・・何といふ言葉だつたんだらう。

すっかり忘れてしまつた、

つた。



死んだ鳥も歌うことができる。


(2番目の「陽の埋葬」より)


 宏輔は、ほとんどの場合、華麗な修辞をレトリックをメタファーを隠喩・引喩を駆使して、死を豊かに彩っているので、上記のような素朴な声はめったにない。死の詩の世界、ということを説明するときに上記の部分をきっかけにすると、理解しやすいのではないか。つまり、現実には口に、記録に、のぼらせられなかったコトバたち、それらはさしづめ、中絶された胎児のような存在。彼ら死んだ鳥の歌なのだと。

 生の世界の使用言語は、1プラス1イコール2、とか、how are you? / fine.thank you.など、意味や使用方法が規定されている社会の共通言語だとしたら、死の詩の世界の言語は、詩人が自分の内面に中絶した、コトバの姿までに育っていない言語たちなのだ。宏輔は、詩の羊水の中で死んだコトバたちに詩の姿を与え、世の中に送り出す困難な手術を施している。ブラックジャックが、ばらばらな細胞の塊だったピノコを姉妹の腹から取り出して、女の子の外形を与えたように。

 さて、「陽の埋葬」は、6番目からは自伝的な要素を含みつつ、最高に美しいのは9番目の29ページ。どうしても引用したい!

月の夜だった。

わたしは耳をひろった。



月の光を纏った

ひと揃いの美しい耳だった。



月の渚、

しきり波うち寄せる波打ち際。



どこかに耳のない天使がいないか、

わたしはさがし歩いた。

(9番目の「陽の埋葬」より)

 これを読んでシビレナイ人がいたら、ちょっともう話したくない。反論・反発は感じてくれてももちろんいいんだけど、わたしはわたしの解釈を述べます。陽を埋葬した死の世界とは、すなわち、月の世界のことです。わたしは宏輔さんによく言うのだけど、宏輔は月のイレズミが刻印されたルナティックな世界の住人だと。日光では見分けられないが、月のポエジーの光が当たったときに、かすかに光るイレズミを生まれつき刻印された詩人なのだと。引用の詩のコトバでいうと、語り手自身が、耳のない天使=人間としてはカタワな存在。そして、できることといったら、いくつかの美しい耳のかたちの詩を置いていくことだけ。ただし、それは鶴の羽で織物を織ることと同じに、詩人が自分の命を削るのと引き換えで。わたしのイメージでは、宏輔は毎夜毎夜肝臓をついばまれるプロメテウスのようだと思う。痛々しく美しい。

 耳のない天使=宏輔は、15番目の「陽の埋葬」あたりから、激しく神話世界を構築していく。これは、サリンジャーの「倒錯の森」のように、地上で日光の正気世界の神話とは正反対の、月光で死で狂気の世界の神話化である。つまり通常の文法では、「ない」というマイナスのアイデンティティの確立である。そうして「あやしくも、くるひたり。」とファウストからの引用に行き着く。

 19番目からは、蟇蛙が登場してくる。彼らは、耳のない天使が神話化して転生した姿であり、「TWIN TALES.」で琵琶湖までの真夜中のドライブで車にひき殺された蛙たちである。もうこうなったら、何も怖いものはない。生の世界の端っこ―>死の世界―>神話―>転生とくれば、どんな姿にも変身できる。

 詩集としては第二部となり、現実のエピソードらしき叙述が書き込まれ、翼を折りたたんだ耳のない天使が人間世界に紛れ込んでいる様子が描かれる。そのあたりで、宏輔は、独自の引喩のスタイルを確立するようである。23番目の「陽の埋葬」では、シャネルズから川端、レイモン・クノーまで引用される。特にクノーからの「骨?」という引用がふるっている。それも『文体練習』というワルフザケすれすれの著作から。これは、あるセンテンスを各種の文体で書き分けるというオモシロイ本。ここらから、宏輔のスタイル確立!だ。(引喩の楽しみ方は、前章をご覧ください)

 さて、詩集第三部には、ふたつの長編の「陽の埋葬」。この境地に達すると、前述した引用の楽しみかた、その1は、ほとんど役にたたなくなります。なぜならば、ほとんどの引用が、聖書、辞書、もしくはゲーテ、シェイクスピアなどにしぼられてくるからです。ということは、宏輔は、どこの出自を持つ水、と説明することは必要なくなって、水は水の味、と宣言しているようなものです。「口々に」がシェイクスピアで、「たしかに、」がゲーテなのですよ。宏輔自身が、シェイクスピアであり、ゲーテだと言ってしまっているのです。引用の楽しみかたその2の方法も使えます。

 ラスト28番目の「陽の埋葬」では、引用はすべて聖書から。ということは、宏輔流の、聖書の書き直しという、大胆不敵な、既製の神への大冒涜だ。神=父から与えられたストーリーを抹殺し、神話化し、再生させるという構造がこの1編に立ち上がっている。


おお、おまえは、死んだ父のように、聖書にある言葉を繰り返す。


―あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。<マルコによる福音書>



    いいや、一度として愛してはくれなかった。愛してなどくれなかった。


―心のねじけたものは王に憎まれ、まっすぐに道を歩むものは彼に喜ばれる。<箴言>


これを見よ。この指を見よ。父の手によって折られた、このねじくれた指を見よ。



(28番目の「陽の埋葬」より。注の表記は文中に略して筆者がいれました)


 すごい!!!世界という父に敵対し、断罪する、耳のない天使、宏輔。父=神を断罪するのですよ。無謀・蛮勇といわずして、なんというか!!

4 Coda:Hideous Narcissus.のあとのスワンソング?は


 詩集の最後から2番目の「Coda:Hideous Narcissus.」がこれまたスゴイ。最後に置かれた「THE PRAYER BOOK IN THE OLD INSTRUMENT SHELTER.」があとがきに近い書き方なので、実質は「Coda:Hideous Narcissus.」がラストソングだ。詩集85ページに「WHOLE LOTTA LOVE.」があるように、レッドツェッペリンからの引喩もそこここに見られ、このCodaというタイトルも、ツェッペリンが意識されている。ジョン・ボーナム急死後の、ツェッペリン解散宣言である最終楽章である。

この楽章は、宏輔の引用詩の最高傑作である。「そうして」はシェイクスピア、「思い出す。」はハイネ、「たくさんの詩、」はサルトル、「そこには」トオマス・マン、「一輪の花が、」がノヴァーリス、「近づいてみると、」がボルヘス、「ぼくが」がロートレアモン、「多くの」がサド、「詩を書き、」がナボコフ、「と、」はスタインベック、「と、」はプルースト、と、全文引用による詩である。ひとつの完成されたスタイルだ。

 この引用の楽しみ方はすでに述べたので繰り返さない。このスタイルの発展形で「The Wasteless Land.」が書かれたことも、この詩集を読むと理解できる。

 神話を経て神を断罪した耳のない天使は、蛙に、ぼくに、ハンカチに、転生していく。どの姿、どの声のときも、スワンソングを歌う。一生一度の生をかけた叫びとして。(田中宏輔ではないわたしたちだって、本当は少しはそれに近いことやってるのだよ。夢中になって読んだ本のなかに、自分の命、ちょっと入っていたでしょ? オトナが子どもの自分を忘れるように、読み物の世界の中にいた自分をすぐ忘れちゃうだけさ。宏輔のスゴイのは、それを記憶し記録し、ソングに歌えるところ!)

 読者ヤリタミサコは、その痛みに満ちたスワンソングを美しいと感じる。痛みの度合いでいうと、渡辺みえこの「声のない部屋(クロゼット)」と同じくらい、痛い。しかし、渡辺がとことん、逃げずに痛みとつきあいながら、現実の痛みを受容する方向に行くのに対して、宏輔は神話化・転生の方法をとる。肝臓を食いちぎられきったプロメテウスになった宏輔に、わたしは、一瞬の聖なる救済と恍惚、を感じる。

詩集『陽の埋葬』田中宏輔 2000年 8月 私家版
 一部の作品が清水鱗造個人詩誌tubuBooby Trap で読めます。場所は長尾高弘tubuLongtail
ヤリタミサコの田中宏輔論 vol.14tubuラディカルにオリジナリティを確かめていく
−田中宏輔『The Wasteless Land.』を読んで

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