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vol.14
「ヤリタミサコ」執筆者紹介

ラディカルにオリジナリティを確かめていく
−田中宏輔『The Wasteless Land.』を読んで


1999.10.23 ヤリタミサコ


 サンプリングだ。複製だ。断片だ。はぎあわせだ。他人のことばだ。どこかで聞いたことのあるフレーズだ。コラージュだ。
 しかし、そこには真のオリジナリティが立ち上がっているのである。脱構築といってもよいのかもしれない。一度、徹底して意味をばらしたあとに立ち上がってくるものたち。作者は、他者のコトバを焼き尽くす炎で、自分のコトバたちをも焼き捨てる。その灰の中から伸びゆくオリジナルな、何か。コトバたちの意味を全滅させた最終戦争後の、コトバたちが死に絶えたあとに、それでもしぶとく再生する、一本の茎のようなもの。

 もちろん、1編の詩として、十分に詩である。詩としての地力には文句はない。各行のフレーズはもとより、後半のメフィストフェレスが登場してからの、叙事詩としてストーリーの読ませかた、キャスリンとデイヴィッドの、男が女で女が男であるカップルのエロスの熱さといったら、読んでいない人にさえ伝えられるくらい、熱い。ファウストでなくたって、勃起薬と心臓病薬を同時に服用していなくたって、劇薬だ。

 が、この長編詩の本当にカゲキな部分は、作者の意図に従って感じなければならない。つまり、44ページからなる本文詩、それ以上に62ページにおよぶ引用注を味わわねば、メインディッシュを食したとは言えぬ。ふぐの皮だけではなく、肝を食わねばならぬ。猛毒であるかもしれない、美味を。

 この詩において、引用が激しく主張する存在意義とその効果とは、例えば、森村泰昌シンディ・シャーマンを思い浮かべてほしい。どこかで見た、既視感覚。同時に、落ちつかなさと違和感。見る、と、見られる、という関係の固定した役割に???を投げかける作品群。あるいは、河原温のように、手で年月日を書いていくだけの、オリジナルな痕跡を徹底して否定したあげくに、やむにやまれぬ、立ち上がってくる、むにゃむにゃ。

 この詩では、読み手と書き手の役割は、すでに破壊されている。書き手は、書き手の「ふり」をすることを既に拒否している。オリジナルなコトバを発するなんて信仰は、とうの昔に捨て去っている。T.S.エリオットの「荒地」とゲーテの「ファウスト」に依拠し、様々な文献からの引用で成立しているこの詩の書き手は、読み手として書いているのだ。また、読み手は、引用注と、作者の指示どおりに西脇順三郎訳「荒地」を、頭の中に書き込む作業を行ないながら、本文のテキストに対峙していく。作者がやつぎばやに投げかけてくるコトバの断片たちを、西脇とエリオットとゲーテとアツスケさんといった要素と、混ぜ合わせて歯をたてるのは、読むイコール書くことに他ならない。

 詩行については、言うまでもなく計算されつくしている。西脇「ひからびた球根で短い生命を養い。」は、吉増剛造のユリイカ選評のことば「今月は選者も、少し心を自在にして(戒厳令のようにではなくさ、・・・)」を経て、「こころの中にまで戒厳令を布いて。」との表現として定着させられている。説明するまでもないが、読者は、本文→吉増→西脇、の順で読むが、表現されたコトバの発生の順は、読者とは逆で、西脇→吉増→本文となっているはずだ。つまり、読者は、書き手とコトバたちの円環構造に否応なく手を貸しながら参 加せざるをえない。

 そういえば、T.S.エリオットの「荒地」自身が、引用に基づく詩であった。聖杯伝説を下敷きにし、ダンテを取り込んだ、20世紀の古典である。ということは、アツスケ→引用→西脇→エリオット→シェイクスピア→ダンテ→アーサー王物語→ギリシア神話→・・・・ととどまるところを知らない、言語以前の無意識にまで遡及しうるラディカルな運動量を持っている、、、、と読者はあきらめるしかない。具体的な姿を想像してみる。一人の男に別な男が口唇愛撫をしている、その男もまた第三の男に口唇愛撫をされている、そして第三の男もまた第四の男に・・・と・・・。

 こうしてコトバたちの愛撫の連鎖に身を置いてみると、現世には立つ瀬がなくなってくるような心細さと同時に、何層にもわたることばの地層から濾しだされた、ほんの少しのおいしい水のような甘さを私は感じる。私の詩の師はよく言っていた。「心を高く高く置いておいて、できるだけ細い管を使ってほとばしらせる、それが詩だ」と。

 もしも私の師が生きていたなら、「スゴイ詩があるっ」と興奮したであろう。小手先の詩行ではなく全体構造で読ませる長編詩であり、かつ、短歌や俳句のような短詩型と無縁に存在できる日本の詩は、そう多くはない。米の飯の匂いを排除した詩精神の強靱さに、私は惚れ惚れとする。

 この詩の魅力として、多様な読みを許可する(ひらたく言えば、読者が自分の感性で書きながら読まないことには、なんとも不毛となる)点がある。なので、他人の読みは、それはそれ、とするべきなのだが、ひとつだけ、文句を言いたい。添付文書の高橋睦郎が「作中に出てくるヨーロッパの人名はなぜ現代日本の人名まで移行できなかったのか」と、ノウを唱えている。

これには、私は反論したい。以下、任意に引用する。「マダム・アナイスの家で自分を抱いた中年男の言葉を思い出したー」「スミュルナ、スミュルナ、わたしの可愛い娘よ」「いいえ、あたしがデイヴィッドで、あなたが、あたしのすてきなキャスリンよ。」これらを、佐藤さんの家で、敦子よ敦子よ、あたしが太郎で、あなたが花子、と、メロンにしょうゆをぶっかけるようなしわざをしてよいものだろうか? 海外旅行にお茶と梅干しを持っていきたい人はそうすればよいが、ハンバーガーとスパゲッティで365日大丈夫という人に(事実これを書いている私ヤリタミサコもそうである)、ヌカミソを強制するのは暴力である。白野弁十郎や葉叢丸の時代ではない。固有名詞もしくは日常文化こそがリアリティの基礎だと思うのは、大間違いである。逆にフィクションを通過させることにより、表現できうるリアリティがあるはずだ。前述しているように、オリジナルの否定からかろうじて発生してくる、かすかなオリジナリティという要素。私は、そのかすかさを大切にしたい。

井原秀治個人詩誌『分裂機械』7号2000.2.10掲載

田中宏輔詩集『The Wasteless Land.』1999.10.10刊(御注文は書肆山田へ)
田中宏輔 1961年 京都府生まれ 詩集『Pastiche』(1993年花神社刊)
田中宏輔さんの近作詩が、清水鱗造さんのRinzo'sHP、長尾高弘さんのlongtailの詩誌「Booby Trap」で読めます。
  

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