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vol.18
<詩を読む>

アレン・ギンズバーグ晩年の一面を読む


ヤリタミサコ  20001111

                     

1 アレン・ギンズバーグの詩は意外と読まれていない

 アレン・ギンズバーグといったら、ビートの親玉、不良の大物、ゲイ詩人、ドラッグ常習者、など不名誉という名誉を背負った、60年代ヒッピーのカウンターカルチャーのアンチヒーローと思われている。日本でも、アメリカでもおそらく。
 しかし、詩人としての実体は??となると、日本では、彼を一躍有名にした「howl」「kaddish」などが部分的に知られているだけ。ビート文化の文脈でのイメージが先行しているだけで、実際に詩のテキストはほとんど読まれていない。翻訳者の諏訪優さんと高島誠さんが早くに亡くなっているせいもあって、最近のものでは、現代詩手帖の1997年のアレン追悼号以外はまとまった翻訳もない。だから、ヒップスター、ビートニクとして、プロテストし政治的行動する詩人というイメージだけが先行し通用してしまっている。同性愛者差別反対、反戦運動、白保の珊瑚礁保全運動、反原発、などの行動面が断片的に報道されるだけで、詩人そのものの仕事は紹介されていない。現在50代くらいのベビーブーマー世代の文学青年たちに聞くと、おおむね、「なつかしいなあ」「若い頃読んだよ」「カッコよかったよ」といったふうに、60年代文化と結びつけて覚えられている「過去の人」扱いだ。
 これに対して私は、まったく、シツレイしちゃうわ!!!!!!!!!とイカリシント〜!!なのだ。アレンはそんな「懐かしむ」対象ではない。キミたちの青春のノスタルジーなんかうすっぺらいものと一緒にスルナ!!!!アレンは、スゴイ詩人なんだぞ。知らないからそんなことを言えるんだ。老いを感じつつも、若い男の子たちとベッドをともにし、糖尿病や肝臓病におびえつつも、現代社会に怒りを正当に述べ、自分の弱さを引き受け、そんな自分をチョット茶化すことのできる、空前絶後の詩人なのだ。老いて老成し、達観したように見せかけていく詩人はたくさんいる。だが、茶目っ気たっぷりに自分の老い、エゴや臆病な気持ち、恋することと性的な衰えや死への不安、をまっすぐに書くことができる詩人はそう多くはない。ヒヨッテ生きてるキミたちに、老いが書けるか??!!

2 自分の死の詩―エロスとタナトス


 1997年4月5日、ニューヨークの自宅で死んだアレンは、死ぬ直前に自分の葬式の風景を書いた詩を発表し、結果的には死の予告となった。「死と名声」というこの詩は、黒鳥のスワンソングと言うべき、猥雑のなかにピュアでイノセンスな精神を発見できるダイケッサクだ。山内功一郎訳から部分を引用する。(現代詩手帖総特集アレン・ギンズバーグ、1997年)
  
「ぼくはただあおむけに寝転がって目を閉じさえすればよかったんです そうすれば
   あの人は口と指をぼくのウェストに這わせて ぼくをいかせてくれました」
  「あいつのどてかいペニスをしゃぶったよ」
  そこでくり広げられるのは 1946年の恋人たちの噂話 1997年の肉体を得て
  若き血潮と交じり合う ニール・キャサディの亡霊
  そして驚き―「おまえもか? おまえはゲイじゃないとばかり思ってたよ!」
  「うんそうなんだけどギンズバーグは例外なんだよ なぜかあいつとやると気持ちよ
くって」
「俺は自分がゲイだかゲイじゃないのかオカマだか変態なのか忘れちまったし我を忘
れちまった 俺の頭のてっぺん 額 喉 胸 みずおち 腹 ペニスにあいつがキ
スして舌で背中をなめたとき 俺は敏感だった 俺は愛を感じた」

この部分のキャサディが出てくる場面は、ニールが結婚したての頃、妻が外出先から戻ってきたところギンズバーグがニールにオーラルセックスをしていた、というエピソードが残されていて、その時のニール(30年も前に死んでいる!)の姿が、1997年に死ぬまでベッドをともにした若者たちの間に混じって、それぞれがアレンとの愛の交歓を口々に語りあっているところ。エロスとタナトスは表裏だとは思うが、まさか、愛した男たちにこのように語らせられるとは!!うーん、ステキでしょう?
 エロスの話で脱線する。2000年に出た関富士子さんの詩集「ピクニック」には、エロスがストレートに表出されていて、その雰囲気をあやうく「清潔なエロス」と表現したくなった自分に気がつき、ちょっと待てェ!と反省した。エロスに清潔と不潔があるか?バリバリのフェミニスト、ヤリタミサコとしては、不潔な交合や不純な恋愛ごっこ、利害と予断と損得と計算の結婚、など、を嫌うことはある。が、エロスとは、死への衝動と同じで、やむにやまれぬもっと基本的な衝動なのではないか?不潔だとか清潔だとかは、現実への適用のしかたであり、現実の行動の結果に対しての評価なのではないか?例えば、子どもという生物に対して、純粋とか無垢とかとオトナはレッテルを貼りたがり、そうでない子どもは子どもらしくないなどど叱られたりする。が、子どももそのものはそんなレッテルとは関係なく生きている生物ではないか?同様に、エロスそのものは清潔でも不潔でもなく、もっと根源的なものであろう。詩集「ピクニック」は日記や身辺雑記ではなく、詩として生の本質に迫り、人間の普遍性をつかみとっているから感動や共感を呼ぶわけで、そこに現れているエロスは、エロス、として素直に感じ取るべきなのだと思う。
 なので、恋人の少年がやってくる前に黙々と排便するアレンは、少々滑稽に書かれているが、エロスに満ち満ちている。愛する気持ちがいっぱいでも充分にエレクトしないアレンの姿には、エロスを感じるのがアタリマエである(「白いかたびら」という高島誠訳の詩集にはそのような描写がある)。いいなあ、60男が少年に恋し、トキメキ、愛の交歓の準備をしているドキドキ!!なんてステキでカワイイことでしょう!エロスを他のものと取り引きしないで素直に大切にしているのだよ、アレンは。
 エロス、というともう一面のタナトス。「死と名声」の死の扱い方を見て、私はエミリー・ディキンスンの712番の詩を連想した。これはイラストレーション詩にもなっていて、髪の長い少女が、死というオジサンと旅をしていく詩である。

  わたしが死のためにとまることができないので
  死が親切にもとまってくれた
  馬車はわたしたち二人きりと
  それに「永遠」とで一杯だった
                 (新倉俊一訳)

そして、この同行ふたりは、校庭や麦畑を通って、墓らしき家の前で止まる。そして最終連は

  あのときから 何世紀もたっている
  だが なんと短く感じられることだろう
  馬の頭を永遠に向けたと最初に思った
  あの1日よりも
            (新倉俊一訳)

で終わる。
この2つの詩に共通するのは、死後の立場から生を見つめ返している視点である。極端に言うと、生そのものを相対化しているといってもよい。死と生とは、どちらが短くて幻なのだろう。生が長くて確実で実体のあるものだとは、誰も証明できない。
死生観に関わるのだが、私は、アレンが書く自分の葬式風景や死の受け止めかたには、とても親近感を抱く。この世がウツシミであるとか、あの世でこそ願望がかなって絶対の幸福にありつける、などといった考えは現実逃避だし、カルト宗教的なにおいがするので、私はキライだ。また、現実に執着しすぎて死にたくないよう〜〜〜〜というほどには、現世に未練もない。なんというか、死もまた現実のひとつであろう、というくらいの死生観なのだ。
 ディキンスンとギンズバーグの共通点は、心理的に現実社会からかなりな距離を置いていたことだと思う。この死生観を見てもわかるように。ディキンスンは実際に隠遁生活をしていて、友人たちや支援者とは文通はしても面会することは皆無だったし、ギンズバーグは、ユダヤ人でゲイであって、社会的的多数派に対してのマイナー存在である。また、彼は日本的葬式仏教ではないチベット系の仏教徒でもあって、禅を組んで瞑想し、冷徹に現世を見ている。死も生も相対化したふたりは、ある種の普遍性を獲得している。人の世のハカナサといってしまうとミモフタもないが、そこを喝破して、死をも含めた存在という普遍性に到達したのではないか。
 

3 「コスモポリタングリーティングス」と「死と名声」からの訳詩(「分裂機械6,7,8号」から)


「コスモポリタングリーティングス」(1994年)からは3編。「ジョン」では、「僕は自分の足が邪魔なんだ」というコトバに強い印象を持ちました。壮烈な喪失感なのです。スルドイものを突きつけられた感じがしました。「落葉」では「まだ死体にはなっていないな」、「個人広告」では「死ぬまでの時間をやんわりやりすごしている」という行にとても魅かれて、訳出しました。死を身近に置いて毎日生きてるって、スゴイアタリマエだけど、そう簡単には意識できない。死を感じつつ、少年に恋しまくっているアレンて、ほんとにほんとにカワイイ!!という思いです。(ちなみに、ムロケンさんという日本人のビート詩人も、アレンに会って耳に息を吹きかけられ「アウム」とささやかれたそうです。1988年の来日時には、土方巽のアスベスト館のダンサーが口説かれたそうで「私は女よ」と彼女が言ったら、アレンはとてもがっかりしたそうです)
「死と名声」(1999年)からは「ガイコツのバラード」「こんなメッセージばっかりさ」の2編。この2つは、「howl」の流れを汲むカタロギング的長編詩のスタイルで、皮肉や風刺、社会批判などがギンズバーグ的な語り口調で描かれています。この語り口調というのは、日本でいうと河内音頭のシンモン読みのように、口から耳へリズムよく伝えていく口調です。アメリカなら、スダンダップコメディ、あるいはテレビもラジオのない古くは、日曜日の教会牧師の説教もそのようであったでしょう。
私ヤリタミサコが「ガイコツのバラード」を朗読したときのエピソードがあります。昨年の秋に、大学の教授が主たる聞き手である朗読会で思いっきりこの詩を読みました。アレンは、権威的なるものをすべてガイコツと称してぶっとばしているのですから、訳者の私も負けていられません。結果は、というと、その場はシーンと固まってしまいました(予想どおり!!)。司会者の桜美林大学教授は、他の朗読者にはそれぞれコメントを加えていたのにも関わらず、ヤリタミサコのときだけはノーコメントで、「ハイ次の人」といってそそくさと進行させていました。朗読会が終わって、「よかったよ」といってくれたのは、マレーシア人の教授だけでした。まあ、これも、アレンの詩らしいエピソードで、私としてはたいへん気に入っています。
というわけで、この論の次へつながる論を予告します。アレン・ギンズバーグの「白いかたびら」の中に「白帷子」と「黒帷子」という詩があります。これは、アレンが30歳のときに死んだ母ナオミを、57歳のアレンが浮浪者の中に見つけ、58歳になったアレンが夢のなかで母の首を切り落とすという詩作品だ。これについては、どうしても語らなければならないので、また、稿を改めて発表したいと思う。読みたい人はどうぞ、ヤリタまでリクエストをお願いします。


ジョン



俺の毛を好きなヤツなんていなかった
母さんは 髪をつかんで映画に引きずって行った
父さんは 俺のアタマのてっぺんをひっぱたいた
チンピラたちは 毛に火をつけやがった
固く 短く 黒い さえない
俺の毛
こんなもの ハゲていくし
でも ジョンに出会ってからは違う
ジョンは俺の毛を愛してくれた
縮れっ毛をくるくると指に巻きつけて
毛が伸びるよ と俺に言う
ジョンは俺の毛に顔を埋めて
キスする
愛撫してささやく 「あ あ ああ」と
俺の頭を抱きしめながら
頭から 首 首筋へと 優しく手で撫でていく
地下鉄で向かいあって座り 俺をいとおしく見つめてる




マジェスティック劇場のロビーでは 大きな大理石のひじかけに腕をのせた
大勢の客たちがひそひそ声で話している
エルサレム モスクワ バレエ 準星 利率相場について
ジョンは 自分の席から離れて 天井桟敷に登って行った
そこに座り込み 手で耳をふさぎ肩を落として「僕は自分の足が邪魔なんだ」と言った
客たちは「なんだって?」 「君は自分の足が邪魔なんだって? どういう意味?」
ジョンは 首を振って目を閉じ また 顔を手に落として
「僕は自分の足が邪魔なんだ」と悲しげに繰り返すだけだった




ジョンはエイズだった
まずは 自分自身に告げなければならなかった
精神科医は言った
「自分に対して語るなら
詩を書くようにやりなさい」
1991年11月7日 午前8時30分



落葉

66歳になってはじめて 自分の体を管理することを覚えたよ
午前8時に機嫌よく目覚め ノートに少し書いて
裸でベッドから起き上がり 壁側に寝ている裸の男の子から体を離す
朝食は キノコとネギとカボチャのみそ汁
血糖値をはかり 念入りに歯を磨く 歯ブラシとピックとフロスとマウスウォッシュとで
足の手入れをして 白のシャツ 白のパンツ 白のソックスを身につける
洗面台の横に一人座り
髪をとかす前の一瞬 まだ死体にはなっていないな と
喜ぶ
1992年9月13日 午前9時50分


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ここニューヨーク ひとりっきりで孤独な俺を見守ってほしい
女性精神科医のところへ行くと 言われることは
人生のなかでは あなたを抱きしめてくれるパートナーが大事よ
快楽のあと あなたの心臓のうえにそっと頭をのせてくる その人と一緒の時間を
大切にしなさい と
1987年10月8日




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