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vol.19
<詩を読む>

宇宙からのまなざし
相沢正一郎詩集『ミツバチの惑星』を読む

関 富士子
   21世紀が明けた月のある日、雪が10センチも積もってまだ道路の端に残っているのに、ママチャリで出かける。なぜかこんなときに限って出歩きたくなる。来月からしばらくまとまった休みが取れないので、細かい買物があるのだ。裏道をとおると、雪はきれいによけられて、もう水溜りになっている。都会の雪は解けるのが早いね。

 たいした買物ではない。台所の調理台用の20ワットのスポットライト。チャコ(犬)が齧って使いものにならなくなった床拭きモップのプラスチックのストッパー。店に置いてなかったので注文したのが届いたと電話があった。開け閉めするたびに乱暴に引っ張るので壊れてしまったカーテン吊りの金具。新しい食器洗い機に入る大きさの小さめのプラスチック俎板。半年も前に切れてほったらかしになっている浴槽の栓の鎖。消臭剤入りのトイレ用洗剤・・・。
このごろ脳細胞の7割ぐらいは死滅していて、かつてあれほど誇った記憶力がゼロに近くなっている。気づいたときにすぐメモしておく買物リストが手放せない。エプロンのポケットに紙とペンを用意しておいて、家事の合間に必要なものを書いておく。そうしないと、情けないことに、スーパーで思い出そうとしてもどうしても思い出せないのである。

 しかし、とわたしはふと考える。ほんとうにこれだけだったろうか。わたしはもっともっとたくさんの大切なものを忘れてしまっているのではないか。乱雑なメモの切れ端が、いつもと少し違う色合いを帯びて見えるのは、『ミツバチの惑星』を読んでいるからだろうか。待望していた相沢正一郎の新詩集である。三つの長い散文詩から成る。詩集を読みながら、映画「惑星ソラリス」(だったかな?)で見た映像が思い出された。人工衛星から撮った地球の映像はズームアップして、今や地上すれすれまで撮影することができるらしい。私が想像したのはこんな映像である。

 人工衛星のカメラが宇宙に浮かぶ青い地球を写している。すると地球がどんどん大きくなって地表に近づいていく。海や陸地や都市がぐんぐん迫り、とうとう、ある小さな島の小さな家の台所のテーブルに座っているひとりの人物に到達する。耳をぴんと立てて身じろぎもせず、じっと何かを聞いているようすだ。彼は真夜中の台所で夢想する一人の詩人である。

 あたしは怖かった。怖いから、壊れた水道の蛇口みたいに話しつづけた。
 お気にいりの湯呑みのふちを欠(正しくは「缶欠」)いてしまったことや、留守番電話にはいっていた二○秒間の沈黙。小包みの紐の結び目がかたくてなかなかほぐせなかったことや、カタログの中から気にいった色と柄のカーテンを見つけたときの小さな喜び。
 それから、悪戦苦闘のすえイチゴジャムの瓶のかたいふたをあけたこと、味噌汁のお椀の中から口をあけていない蜆を見つけたこと。
(「1──台所の片隅で、タマネギがビニールの胞衣(えな)を突き破って」より)
 詩人の耳に、さまざまな人々の声がきこえてくる。朝の食卓の妻の声、記憶のなかに永遠のように生きているおばあちゃんのつぶやきとそれにこたえる少年の「ぼく」の声・・・。みな取るに足りないこまごまとした生活の動作を語るものばかりだ。しかし、はっきりとした手触りやにおいがあり、生きていくことはこのように、些細なものごとの繰り返しから成り立つ、とてもシンプルなものだということを知らされる。孤独感がありながら親密で、生きる者を淋しく慰めるような音楽のような声。詩人の台所はこの世の至福の場所のようでもある。

 しかし詩人は、ほかのだれでもがそうであるように、現実の生活に追われてひどく疲れているようにも見える。彼のいる現実の場所とはこんなふうだ。

 ベンチに、ナイフで自分の名前を刻み込んでみたくなる。――でも、ここはわたしの場所じゃない。文章の途中に打たれた句読点のように、一息いれたあとで、すぐにまた腰をあげなければならない。座面の中央がすりきれている。靴底のまわりの地面が凹んでいる。そぞろあるきに疲れたひとが、ここに腰をおろした。太陽や、夜露がしみ込むように、ひとびとの息が、体臭が、影が、会話が、悲しみが、夢想がしみ込んでいる。
(「1──台所の片隅で、タマネギがビニールの胞衣(えな)を突き破って」より)

さまざまな人々がほんのいっとき腰を下ろす公園のベンチは、ながい生命の歴史のほんの一瞬、一人の人間が生まれて死ぬまで、息をし、言葉を交わし夢想するつかの間の場所のようにも思える。そこは自分の場所ではないが、かけがえなく親密な一点だ。真夜中の詩人の台所も、生命の歴史の一瞬の止まり木のようなものかもしれない。その人生の束の間、彼はときには、はしか熱に苦しむ小さな娘をもつ途方にくれた父親だったりする。

 果肉は、もうすっかり熟れて柔らかくなり、滲み出た果汁が紙袋をぬらす。紙袋の中をのぞくと、カリンは、酸っぱいにおいを漂わせはじめ、だんだん皺や染みをひろげながら、干からびていった。
(「2――マーマレードの空瓶に、ミツバチが……」より)
一刻も早く娘に届けたいと焦りながら、彼は、カリンの汁が滲んで広がっていき、果実がみるみるうちに干からびていく光景を目撃する。事態はすでに破滅に向かっていて、わたしたちには手の施しようがないのではないか。もう手遅れだという思い。彼は干からびていくカリンを抱えて、人間の愚かしさと無力と絶望を見ている。

 ひとさじの蜂蜜が彼の小さな娘を救うはずだ。しかし、蜂蜜をもたらすミツバチはその娘の手でとらえられ、壜に入れられて真夜中の台所で死にかけている。詩人は途方に暮れて懐かしい人々へ呼びかける。ドン・キホーテへ、死んだおばあちゃんへ、パパ・ヘミングウェイへ、チェーホフへ、オデュッセウスへ。彼らへの愛惜と鎮魂の歌のように、詩集で最も美しい断章が連なる。文学に限らず、わたしたちは人々の遺した言葉とともに生きている。それらはきっと現代のわたしたちに生きる力をもたらすはずなのに、わたしたちは生きながら日々彼らの言葉を裏切っているのだ。

そして、彼はテーブルの上のミツバチに「きみ」と呼びかける。
「きみの四○○○の複眼には、この場所がどう映っているんだい。」

 ……養蜂家になりたかった。巣箱をトラックに積んで、花を追って旅する、そんな生活にあこがれた。木の葉のそよぎと、鳥の声と、まどろみにもにたミツバチの羽音と、蜜のにおいにあこがれた。──新聞に目を落とす。それから、日常の些事にまぎれてきみのことを忘れてしまった。
(「3――ぺちゃんこのチューブをしぼって、ちびた歯ブラシに」より)
 詩人は、だれもが行いながら気づかなかったり、やり過ごしてしまっているこまごまとした生活の些事を、記憶のなかにまでさかのぼって、ていねいに一つももらすまいとするように見て聴いて感受し、それを記録する。それははかない命が束の間存在した証の、愛しくも魅力的なリストである。詩集を読み返すたびに、前に読んだときは気づかなかった新しい日常の細部の記述を発見する。そのとき、わたしの記憶に、もう治ってしまった靴擦れの痛みが蘇る。いつかどこかの電話ボックスで、受話器から見知らぬ人のぬくもりを感じたことがあったことをありありと思い出す。ああ、わたしはなぜそれらを忘れていたのだろう。

 昼間、ぼくは靴のひもを結んだ。エンドウの莢をむいた。紅茶の罐のふたをきつく閉めた。友達に≪奈良漬ありがとう、おいしかった≫って葉書を書いた。≪くつずれで、足がずきずき脈うっている≫と日記に書いた。電話ボックスで、まだあたたかい受話器をにぎった。棚の引き出しをあけて、栓抜きをさがした。
(「3――ぺちゃんこのチューブをしぼって、ちびた歯ブラシに」より)
 彼の真夜中の台所では、今このときも新しい有機的な世界の断片が生成している。一つの微細なかけらが地球というこの大きな世界を形作っているのだということ。わたしとは、世界を形作るたった一つの断片であること。そして、小さな自分が今このときを生きていて、一瞬後には死ぬのだということを知らされる。そのとき、わたしはふたたび、人工衛星からのカメラで極限までズームアップされ、絞られ結ばれていく焦点のことを想像せずにいられない。宇宙からやってきた遠い視線は、詩人の台所のテーブルに置かれたマーマレードの壜の中の一点へ注がれるのだ。そこには、一匹の瀕死のミツバチがもがいているのだった。

ミツバチの惑星』 相沢正一郎 \2000E 2000.11.28 書肆山田

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