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vol.19
<詩を読む>

第二の男の肖像
藤富保男詩集『第二の男』を読む


関 富士子

このごろ夢らしい夢を見ることがなくなった。眠れないわけではないのだが、年齢のせいか眠りが浅くなって、気づいたら朝だという熟睡感がない。眠っているあいだうつらうつら何か考えていて、夢のようなものも見ることがあるが、起きているときの日常的な現実とあまり変わらないのでさっぱりおもしろみがない。眠るにも体力が要るというのはそのとおりかもしれない。

 藤富保男の新しい詩集『第二の男』は全編夢の記述の体裁を取った散文詩で、理由も原因も説明されずに支離滅裂な出来事が展開する。謎は謎のまま解決されずに終わっても少しも不思議ではないのは夢だからである。夢を記述する本人は頭がはっきりしているらしく、夢を見ながらそれを片隅で見ている自分を意識しつつ、出来事や情景や物の細部を忠実に描写することに専念している。記述しながらその展開に驚き戸惑い首をかしげてもいる。

しかし、夢はそれがどんなに奇妙でも、あとで読む限り他人にとってはそうおもしろいものではない。夢を見た本人の精神状態に興味があり、夢判断でもしようというなら別だが、そうでもなければ夢は夢にすぎない。夢を材料にして詩を書く人は大勢いるが、詩作品として成功しているものは少ないように思う。夢のストーリーの展開に頼ってしまって、そんな夢を見る精神状態を詩的と思いがちなのである。

 もちろん、藤富保男はそんなことは先刻承知である。それならなぜ、このように熱心に夢の記述に没頭しているのだろう。いやいや、たぶんそうではないのだ。彼は、これらの連作の枠組みに、夢というものの構造とスタイルを採用したにすぎないということなのではないだろうか。

 思い当たるのは、これらの散文詩のいくつかには、世界じゅうのさまざまな天才たちが登場するということだ。藤富保男は詩だけでなく絵もかくが、彼の人物画をご覧になった方はいらっしゃるだろうか。有名なのは詩集『サディ氏人相書付』(書肆山田刊1994)の挿画のエリック・サティの似顔絵。いくつか入っているが、特に扉にある、ピアノの上の山高帽をかぶったサティの鬚のある横顔は、眼鏡の円二つがふるっていてわたしの大好きな絵である。ネットで見ることができるのは、先日の神武なつこさんのピアノリサイタルのパンフレット掲載のフランス6人組の作曲家たちの似顔絵。井出正隆著のエッセイ『イタリアの二人の詩人』(あざみ書房刊1994年)のカバーにも、ウンガレッティとカジーモドの似顔絵があった。シンプルな線で人物の特徴をたちどころに表現してしまう藤富保男にじろっと睨まれてごらんなさい。怖いのなんのって・・・。

 それはともかく、詩集『第二の男』では、世界の芸術的な天才たちが夢の中に現れて、奇想天外などたばた劇を演じる。冒頭の「夕陽」では、チャップリンやジャン・コクトーやピカソが登場する。行動の端々に、その人物らしさが現れていてほほえましくも親愛の念が沸き起こる。詩で書かれた一筆の似顔絵といった風情。人物の仕草や表情の特徴を軽いタッチで描きつつ、彼らに白い足袋を履かせて阿波踊りを踊らせる楽しさ。これがちょっとペーソスのある文明批評になっていて、藤富保男ならではの諧謔を感じさせる。

 きょうの太陽が長い道の奥の方へ落ちて行く。三人の長
い影がこちらまでのびる。チャップリンのステッキが小さ
くゆれる。コクトーがガラス屋のように光る。ピカソが足
袋をはいた牛のように、あばれて踊っている。
(「夕陽」部分)


 二〇世紀の最後にやけのように踊りまくる彼らは、夕陽とともに世紀末の彼方に去っていく。藤富保男は、彼らに多大の畏敬の念を表しながら、阿波踊りを踊らせるという詩的批評を試みているのだ。小難しい芸術批評よりもはるかにおしゃれで気が利いている。この試みに、夢の記述のスタイルがぴったりはまったということではないだろうか。

 たとえば「再会」では、「ぼく」は黒い太縁の眼鏡をかけた男に出会う。どうやら旧知の間柄のようだ。彼は会話のはしばしに「自由への道」とか「存在の危機」とかの言葉を口走る。あたりは「出口なし」で窓に「蝿」がとまっている。彼の右眼は豆腐屋行のバスを見て、左眼はモンパルナス行の電車を見ている。ロンパリである。読者がははあ、と思ったとき、人物の名が明かされる。

占う」では、あるとき語り手の前に現れた一人の男。
「この人物には海の匂いがする。漁夫ではないらしい。この傷の手は鮫と戦ったのか。この指で猛獣を撃ったのか――」
「待て、待てよ。この掌にはスペインの丘陵にたわわに実るオレンジの匂いがしみている。
「あなたは飛行機の事故で助かったことがありますね」
語り手はどうやら占い師らしい。そして男の「自分の頭を銃で撃つ終末相」を予言するのである。
 読み手は、占い師の言葉から、海と戦争と冒険に生き、悲劇的な最後を遂げたある人物のことを思い描くだろう。
たいていはその人物名を最後まで明かさないから、読者はその人物がだれであるか、行動や言葉などから推理する楽しみがある。あちこちにちりばめられたヒントから薄々だれだかわかってくるという仕掛けである。
こんななぞなぞ遊びに、夢というスタイルはぴったりである。

 そんなことを考えながら詩を読んでいって、ふと気づいたことがある。これらの夢が展開していくときのポイントになるのは、ある特定のコトバや、それが喚起するイメージへの、作者の(あるいは語り手の)奇妙にナンセンスなこだわりぶりである。

 たとえば、「夕陽」の「ビカソが足袋をはいた牛のようにあばれて踊っている。」
これは桐田真輔さんが"rain tree"vol.18第二の男』評で指摘したように、ピカソのゲルニカの牛の角と、阿波踊りの白いとがった足袋にイメージ上の共通点がある。


「国境警備隊の一員であったぼくが、脱走をくわだてたのは、久保田、桑原、小林、坂東という奴らと訣別したかったからだ。その氏名にはなぜか皆、Bが入る奴らばかりである。」

盛大なもてなし
「ぼくはいつの間にか船の上で手をふっていた。そうだ! 小笠原諸島にいたのだ。すると小笠原君とはいったい誰だったのか。」

すべる
「S駅を、夕方の五時半発の東京行寝台特急に間に合うように急がなければいけない。」
(中略)
「振りむくと、美しい股をひろげて一人の女性が座っている。
「あなたは誰?」
「・・・・・・」
「あなたは?」
「ワタシハ、ゴゴ五時三○プンデス」

ケガから怪我になる正しい順序
「本当に自分が怪しくなるのは、この時で、ケガがまさに怪我になるのである。」

遭遇
「それは神様の言うとおり。」
「それは亀様の言うとおり。」

 あげてみると、それがどうしたの?と言われそうだが(^^;)、つまり、言葉の連想と言うのはおかしなもので、ある二つの言葉があるとして、両者の意味はぜんぜんつながらないのに、音だけが似ていたり、イメージに共通性があったりする場合がある。すると、この二つの言葉はいつのまにかセットで脳にインプットされていて、夢などの無意識の領域が映像として現れた場合に、奇妙な具合に組み合わされて、世にもおかしな連想に発展していくことがある。

 『第二の男』を読んでいて、このようなナンセンスなコトバへのこだわりが、詩に描かれた場面ののキーワードになっているように感じたのである。その辺の音感というか言語感覚が鈍いと、詩のイメージはなかなか広がらないものだ。藤富保男は、夢というものがもつ無意味なコトバの連想がもたらすエネルギーを、詩作の一つの方法として着目したのではあるまいか。

 ある点にだけ共通していてほかはまったく似ていないいくつかのコトバの結びつきが、話のオチになるだけでなく、詩が書かれる際のヒントや、理由も説明もない展開の原動力や、妙にこだわった細部の描写などにつながるような気がするのだ。これは一見ナンセンスなようだが、案外コトバを扱う際に大事なことだ。AとBのコトバが出会う瞬間をさっとつかまえて、そこから展開するイメージをできるだけ客観的に描写すること。あんがい難しそうだが、訓練としてやってみる価値があるかもしれない。

藤富保男詩集『第二の男』思潮社刊\2400+E 2001.10.30

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