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vol.20
<詩を読む>
 

アイルランドは詩と妖精の島か?
栩木伸明
『アイルランド現代詩は語る――オルタナティヴとしての声』
を読む

中上 哲夫


 アイルランドとつぶやくと、心に浮かぶことがふたつある。
 ひとつはアイルランドにはついこの間まで「妖精に注意!」と書かれた道路標識があったという話で、司馬遼太郎の『愛蘭紀行』で読んだ.
 もうひとつはアイルランド人は歌と踊りが大好きで、通夜も例外ではないという話で、栩木伸明『アイルランドのパブから 声の文化の現在』で読んだ.同書によると、アイルランドでは通夜に柩の前で音楽を奏で踊り狂うので死者はとても死んでいるわけにいかず、起き出して、一緒に踊り出すというのだ。
 わたしが読んだアイルランドに関係する本は、この二冊のほかはジェームズ・ジョイスの『ダブリン市民』『若い芸術化の肖像』加島祥造編訳『イエーツ詩集』だけで、はっきりいってアイルランドとアイルランドの詩についてはなにも知らない。にもかかわらず、栩木伸明の『アイルランド現代詩は語る――オルタナティヴとしての声』を読みたいと思ったのは、ひとつにはシェイマス・ヒーニーのことがずっと気になっていたかららしい。ノーベル賞を受賞した、わが国でも高名なこの詩人の詩をわたしはいまだに一行も読んでいないのだ。しかし、おもしろいことに、栩木さんの本が扱っているのはポスト・ヒーニーの詩人たちだった。それはそれでいいんだけど。
 もうひとつ、栩木さんの本を読みたいと思った気持ちのなかにはサブタイトルの<声>というキーワードに惹かれたということもあったように思う。というのも、二年前に同じ著者の『アイルランドのパブから 声の文化の現在』という本を購入していて、そのときも<アイルランド>という呪文とともにサブタイトルの<声>という言葉に関心を惹かれたらしいということがあったのだ。そして、<声>という言葉に惹きつけられたわたしの心の奥にはわが国の詩や自分の書く詩にはもしかしたら<声>が欠落しているのではないかという漠とした恐れがあったように思う。
 詩は、もともと、声から発生した。
 このことはだれにも異論はないと思う。しかし、わが国の詩の歴史を見ると、いつしか(モダニズム以後?)声を失ってしまって詩は活字で読むものに変わってしまった。六〇年代以降、アメリカのビート・ジェネレーションの詩人たちの影響もあって朗読会がたびたび行なわれるようになったが、一方でなぜ声に出して読むのかという朗読論がたえず論じられてきた。それこそ、わが国の詩が声を失っているなによりの証拠ではないだろうか。
 『アイルランドのパブから』はわたしの期待とはちょっとずれていて、「声の文化」というときの著者の軸足は詩にではなく音楽にあったのだ。毎晩、ダブリンのパブめぐりをしてアイリッシュ・ミュージックのシャワーを全身に浴びた栩木伸明はさぞや楽しかったことであろう。ただ呑んだ暮れていただけではないよというかれのいいぶんはこうだ。
 
 ……アイルランドという国は、ハイブラウな文学としての「詩」とローブラウな娯楽としての「うた」が分裂していない稀有な場所だと思う。このふたつが幸福な関係を保ちつづけてきたためだろうか、ここでは、ビート・ジェネレーション以降のアメリカ文学のように詩の朗読が文学運動の重要なエレメントになることもなければ、朗読とジャズの競演などの実験をことさらにおこなう必要もなかった。たとえばベルファストの詩人キアラン・カーソンは、詩人であると同時にフルート奏者であり、伝統歌謡の歌い手でもある。そして、これら三つの声の文化の部門が、カーソンという人間のなかでは同じ価値を持って肉化している。文学的な「実験」は、彼の身ひとつのなかにあらかじめ体現されているのである。
栩木伸明『アイルランドのパブから』

 つまり、栩木さんにいわせれば、アイルランドは町の噂話とパブの音楽と現代詩が地続きであって、その間に分離がないのだ。極東の国で暮らしているとにわかに信じられない話だけど、追い討ちをかけるかのように栩木さんは詩人でトリニティ・カレッジ教授のブレンダン・ケネリーのつぎのような興味深い言葉も紹介していた。
 
 ゴシップはいろんな点で詩と似ている。まず、両方とも飢え――精神的・感情的・知的・肉体的、さまざまな種類の飢餓感――から発している。両方とも、「うまくいった」場合には特別なエネルギーというか、ちょっと比類のない快感をともなう。それから、両方とも肉食だ。ゴシップは他人の困り事や悲劇さえも餌食(えじき)にする。詩のほうは、感情を食らう――詩人の感情ばかりでなく、しばしば詩人によってとりあげられた他人の感情をも――食らうのだ。さらに、ゴシップも詩人も、一定の距離――自分は傷つかないような距離であることが多い――を楽しむ……。


 『アイルランドのパブから』の話はこのへんできり上げて、さっさと本題の『アイルランド現代詩は語る』に移ることにしたい。十一人のアイルランドの詩人たち(男八人、女三人)にインタビューし、人物像、文学観、詩作品を提示した本で、ひとくちにアイルランドの詩人といってももちろん一様ではない(政治的詩人や社会性の強い詩人、アイルランドの伝統に根ざした詩人、難解な詩人などなど)。
 画家で、各地で朗読会やワークショップを主催するポエトリー・アイルランドのディレクターで、マスメディアにたびたび登場する有名人でもある一九五三年生まれの行動的詩人テオ・ドーガンは、こういう。

 一九四〇年代から五〇年代のアイルランドでは、美なんてものには無縁な俗物根性が支配していたから、詩は社会の隅っこに追いやられていた。しかし、今詩を書いている連中のほとんどは自分と読み手との間に仲間意識があることを知っている。この変化をもたらしたのは六〇年代以降のロックだよ。(略)ロックが国際言語になって、グローバルな文化が花開いている。そして、ロックは新しい「部族」文化をうみだしてきた。今の詩人たちが仲間意識の根底に置いているのは、興味と関心を共有するこの「部族」主義だ。

 かれの詩をすこし紹介しよう。「ドーガンは本来、レトリックを駆使する大技の詩人ではない。彼の詩の妙味はむしろ、日常をこまやかに観察する抒情性にある」ようだ。

 ぼくはぼくのゆびで とてもちゅういぶかく
 ねむっているこいびとの すてきなからだに ふれる
 へやはしずかでおおきくて くうきはうごかないから
 ほこりに微片がはっぱみたいにベッドスプレッドにおちるおとがきこえる。
 
 ぼくがいきをとめると かのじょが いきのうねりで
 ぼくをみたす あちらでは潮のたかまりとおとろえが
 とてもしずかでぎんいろだから ぼくはふっとうかんでもう手はとどかない。
    「ゆっくりな詩」部分

 こんな調子で十一人の詩人たちの詩と世界を順々に提示していったら、いつまでたってもこの文章がおわらないことにいま気がついた。そこで、あとは好きな詩人だけを提示することにしたい。

 あたしはあなたのミューズじゃないの。
 名画のなかできれいな身体して
 開いた貝殻に載ったビーナスとはちがうからね。
 あたしはフツーの女なの、お月さまの
 満ち欠けで、二十八日のうち六日間は
 血みどろなの、わかってね。
    「あなたのミューズじゃないの」部分

 アーチストたちのたまり場や
 塀で囲われた大学へは行かない
 わたしが行くのは瘋癩病院
 昼の月がのぼったら
 出掛けていって
 知らない男の口からうたをひったくるのだ。
    「祝福」部分

 あなたは なにも変わっちゃいない部屋へ
 なにも変わっちゃいない夕暮れに 入っていく
 そうね 五月なかば ラバーナムが

 スクエアの柵に懸かる頃
 八時ともなれば 町はお眠の子守歌
 車が減って 空気もすがすがしくなってくる

 だれか待ってるひとが いればいいのに
 と あなたはおもうけど 今は
 ひとり暮らし 電話にだってちっとも

 出やしない 手紙は隅のほうに
 摘んだままでしょ ……
    「ラバーナム/キングサリの木の花」部分

 一九五五年生まれのポーラ・ミーハンの詩たちで、かの女の自作朗読はたいへん人気があるらしい。「耳で聞きとりやすい英語で」、「まるごと覚え込んでいて、目を閉じてうたうように自作を暗証したりも」するかの女は、一方で、かの女の詩の大衆性やセンチメンタリズムが批判されることもあるそうだ。でも、かの女の詩が女性たちから(男性からも)支持されるのはわかるような気がする。この時代に生きる人間の気持ちが率直にうたわれているからだ。
 最後に、もう一度かの女の詩を読んでみよう。

   常備軍

 母ゆずりの槍をかかえて
 姉ゆずりの金のイヤリングをしたからには
 さあ、未来へ歩いていこう、戦う者の
 列に加えられた誇りをもって
 仲間を守るわたしの役目を果たすために
 知恵のベッドから跳び起きて
 表通りにもうあつまっている詩人たちと
 語り合うのだ、燃える目を輝かせ
 韻律合わせの約束事には飽き飽きして
 うたに飢え、部族のうたを渇望するあの詩人たちと。
 一九九〇年メーデー

 アメリカの大学で教鞭をとる移民の詩人、一九五八年生まれのグレッグ・デランティは、こう語る。

 ……移民体験はアイルランド人の心性のなかで大きな位置を占めているのに、移民して外国で暮らす者の視点からまとまった数の詩を書いた詩人は、不思議なことにまだほとんどいないんだ。移民を送り出す側から書いた詩や、移民してゆく者の立場になって書いた詩はいろいろあるがね。俺にとって「ホーム」は、さしあたって詩を書くことのなかにあるんだろうな。

 この移民詩人は、移住先のアメリカの風土と伝統のなかで自己のルーツを再確認しながら新たに詩を組み立てようとしているように見える。アメリカ詩の詩学の系譜のなかで。

 外ではしんしんとした雪が積もって
 地球の硬直した亡骸をおおいかくす季節、
 毎晩、寝る前に水をやっている。
 切断された茎の端からしずくが
 まぼろしの手足と花をもとめてしたたる。
 死者をいたむ涙か、それとも蕾なのか。
 「園芸家によればフューシャは冬越えできないらしい」部分

 ここへきた最初の晩
 ブロンクスではしご酒をした
 シャムロックとか
 ゴールウェイ・ショールとかいう

 オールナイトの店の酒やストリートライフは
 はじめてとはいえぞっとしなかったが
 正規の移民も非合法の連中もいっぱいいて
 みんな帰りたがってて

 つぎからつぎへとパイントを傾けては
 アイリッシュおきまりの千鳥足
 ダブが飛ばしたジョークに乾杯(スランチエ)!
 それにしてもアメリカのギネスはひでえ味だ…
    「鷲の国にて」部分

 どんどん、気に入った詩人たちの気に入った詩たちを紹介していこう。まず、一九五二年生まれのヌーラ・ニー・ゴーノルの詩たち。
 

 ゆうべ息子を妖精の砦から奪い返して
 きたんです、いのちからがらでした
 息子のからだは生傷とシラミだらけで
 肌なんかすりむいて真っ赤だったもんで
 お尻に湿布貼ってあげて
 からだじゅうにオロナイン塗ってあげたんですよ、
 ほんと一日がかりでした
 妖精の砦には三人の乳母がいて
 そのうちのふたりはもうあの子に
 おっぱいをあげてましたからねえ
 三人目にやられてたら見納めになるところでした。
 (……)
 このままじゃこの子を病院へ連れていったって
 このいちばんあたらしい乱打の痕が
 あたしのせいじゃないって信じてもらうのは
 きっと相当たいへんだわ。
    「乱打」部分

 「うちの親兄弟のせいなんだよ。
 あたしが三つくしゃみをしたうちの
 どれか一回でもよかったんだ、だれかがひとこと
 言ってくれさえしたらそれで止まったのにさ。
 
 あたしがさいしょのくしゃみをしたのは
 十二のときだった。
 月のものがくる入り口のところで
 すっかりうちのめされちまったのよ。
 
 ふたつめは適齢期のころのこと。
 だあれも、神様のお恵みをとも
 言ってくれなけりゃ、
 いい旦那さまがみつかるといいわねの一言も
 
 なくってね、……
    「くしゃみ三つ」部分

 十一人のアイルランド詩人たちのなかでわたしがいちばん気に入ったのは、このヌーラ・ニー・ゴーノルだ。ゲールタハトと呼ばれるゲ―ル語地域で口承文化にどっぷりつかって育ったかの女は、当然のことのように、ゲ―ル語で詩を書く。ゲ―ル語の詩のいちばんの妙味は、「音の連なりが持つ豊かな音楽性と単語の多義性を利用した言語遊戯にある」という。しかし、そういうことよりも、かの女の詩の魅力は、わたしとしてはかの女がアイルランドの伝承に根づいた詩を書いていることなのだ。たとえば、部分引用した「乱打」は妖精伝説を利用して書かれた幼児虐待の詩であって、読み方によっては妖精たちを現実の事件にひきずり込んだとも読めるし、また現実の事件を妖精物語という意識の薄明へと溶解したようにも読める。そうした二重性がこの詩の大きな魅力になっていることはまちがいない。そしてまた、こういう詩人の存在はもちろんアイルランド詩の幅と深さとをわたしたちに垣間見させてくれるのだ。ケル的想像力。そんなふうにいってもいいかもしれないね。
ゲール語詩人ヌーラ・ニー・ゴーノルは、自分の使う言語についてこういう。
 
 アイルランド語ではひとつの単語がコンテクストに応じてじつにたくさんの意味を持ち得ます。英語ではお互い何の関係もないような複数の意味を、アイルランド語のひとつの単語が持っていることもよくあります。英訳をしようとすると、意味を選んでポイントをしぼらなければいけないから難しい。ところが、アイルランド語ではいろんな意味が単語のまわりを浮遊しているので、読み手/聞き手は意味を選ぶ必要がありません。ひとくさりのことばはさまざまな意味を同時に持ちうるのですから。また、語彙がとても具体的なので、隠喩が生まれやすいんですね。アイルランド語の日常会話のなかでは、苦心してつくりあげたかのような隠喩が自然に発生しやすいんですね。だから、おしゃべりは楽しいですよ。詩人にとってこういう言語は有利です。
 
 アイルランド語(ゲール語)がもしかの女のいうような言語ならば、詩にとって理想的な言語だということになるけれども、いずれにしろ、かの女がゲール語の特徴を最大限に使って詩を書いていることは想像にかたくない。そして、妖精などといっているけれども、かの女は決して空想的な詩人ではなく、むしろ社会性の強いフェミニスト詩人なのだ。
 先を急ぐことにしたい。
 一九五〇年生まれのメーヴ・マギキアンは、そうとう異質な詩人だ。「アイルランドの神話や伝説のことはよく知らないの」というし、「わたしが詩を書きはじめたのは、誰にも読めないようにって考えたからなんです。誰にも。たとえ誰かが読んだとしても内容はわからないように、もちろんほかの詩人なんかにはわかってたまるか、って」いうし。
 どんな詩なのか、かの女の詩を二篇読んでみよう。

   
 
 姉といっしょのベッドは寒くて、
 街灯はクロッカスみたいにふくらんでいた。
 二月のお月さまをみようとしてわたしが起きても
 姉はぐっすり眠っていた

 わたしの手にカーテンがすらりと触れ、
 わたしの息で窓ガラスがマーブル模様になった。
 わたしの顔が窓にうつって、凍えていて、
 外を見通すことがとってもむずかしかった。


   「シンガー」

 夕方になるとよく母の古いミシンで
 勉強したものだった。
 ときどきべダルに足をのせて
 うえへ、したへ、ふんで、まるで
 行ったこともないところへ
 行こうとするみたいに。
 
 毎年、試験の時期になるとプレッシャーが高まって――
 夏の光が横目でのぞくように
 ページのうえを横切っていった。
 こどもたちの大声が通りのお天気を反響させ、
 自動車はかみなりで、
 時計のチクタクは土砂降りの雨だった……

 暗くなると帰りがけのカップルたちが
 建物のあいだの狭い通路にいつまでもいるので
 カーテンを閉めた。掛けはずしたホイールを
 ぶんぶんまわして、ケースのなかの
 空のボビンをがったがったいわせた夜が
 何度もあった。

 なんだ、わかりやすいじゃないか――そういわないでほしい。翻訳だし、かぼちゃ頭にもわかる詩を選んだのだから。栩木さんはこういっていることだし。

 ……マガキアンの詩行には、重層的な隠喩や破格な語法、あるいはイメージや語り手の主体の飛躍がちりばめられていて、意味をたどろうとする読者を絶えずてこずらせる。彼女をやしなってきた詩神は、人生をおおらかに祝福したりとぎすました皮肉の棘で刺すことを得意とする言語ではなく、葛藤のなかでいくらよじれても決して切れることのないしなやかで緻密な言語を好む。彼女の詩は、共同体を前提としたコミュニケーションの言語ではなく、孤独な魂が自己破裂しないために発する屈折した暗号としての言語で書かれている。彼女自身のことばによれば、「詩はまずだいいちに自分自身を精神的に平穏に保つために書いている」のであって、「たとえ誰かが読んだとしても内容がわからないよう」な詩を書くのは、精神が自己防衛しているのだ。


 詩と詩人の提示は、ここでやめる。そして、いい残したことをいくらか付記して冗漫な文章にピリオドをうちたい。
 アイルランドは詩と詩人たちがたいへん見えやすい国である。
 と栩木伸明はいうのだ。どういうことかというと、街を歩けば無名詩人が街角で詩を朗読しているし、いろんな所で朗読会のポスターが目につく。書店、大学、パブ、コーヒーハウスなど、朗読会がたえずどこかで行われているのだ。その数、年間六百回以上に及ぶという。さらに、、新聞、雑誌、テレビ、ラジオなどのマス・メディアに詩人がしょっちゅう登場する。コマーシャルやトーク・ショーにも。まずは、詩人という存在が「見えやすい」ということなのだ。で、詩の方はどうかというと、朗読会のほかに、詩集の出版、販売など、詩と読者の出合いの場がたくさんあって、うらやましいかぎりだ。詩が詩人という狭いサークル内にかぎられているわが国にくらべて、詩がひろく流通しているのだ。アイルランドにおいては詩は「共同体の声が語る器」であって、詩人は「共同体のスポークスマン」なのだ。つまり、「詩人たちは根っからの語りのエンターティナーなのだ。この国では「声」としての詩が詩集や朗読会から日常のなかへ勝手にはみだしている。詩は「見えやすい」だけではなく「聞こえやすい」存在でもある」のだった。
 この国で詩を書いていると、いくら書いても一般の読者には読まれないんじゃないかという不安から自由になれない。そして、それがいつしか詩人たちのトラウマにさえなってしまった。戦後、詩が読まれなくなった原因はとてもひと口ではいえないが(戦前はまだ読まれたように思う)、アイルランドでの詩の流通のシステムはその点でも大きな示唆をふくんでいると思うのだけど。
 <声>というとき、わたしはT・S・エリオットの「詩における三つの声」の<声>のことを思ったのだが、栩木さんの<声>はそれよりも人間の肉声の方を意味しているみたいだ。両者がまったく別物だというわけではないけれども。
 わが国の詩が肉声を失ってから久しい。そして、それを回復する試みも詩人個々に行われているけれども、まだ顕著な成果は見られないのが現状だ。この問題を考えるとき、アイルランドの詩はわれわれにヒントを与えてくれるかもしれない。
 最後に、アイルランドは詩と妖精の島かという設問が残った。
 アイルランドの過酷な歴史をすこしでも読めば、アイルランドに対してロマンチックな空想をいだくことはできなくなる。しかし、この本を読めば、アイルランドは多彩な詩の国であることがわかる。そして、まだ彼地のひとびとの心に妖精たちが生きていることも。
栩木伸明『アイルランド現代詩は語る――オルタナティヴとしての声』思潮社2001年3月刊

 
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