とかく規範意識の強い詩書きのわたしにとってロバート・ローエルは格好のモデル・ケースになってくれた。詩においてどこまで自由になれるかという、自由詩の本質をめぐっての。
ローエルには、過去三回遭遇した。
一回目は一九六〇年前後。わたしが詩らしきものをおずおずと書き始めたころのアメリカの詩界を新批評(ニュー・クリティシズム)を主張する詩人・批評家たちが席巻していた。新批評というのはT・S・エリオットの「詩をまず詩として考える」考え方を発展させたもので、従来の印象批評や伝記的事実にのっとった批評を否定し、テキストを重視し、シンボルやメタファ、イメジャリーなどを微視的に分析して作品の有機的構造を明らかにしようという考え方だった。そして、ローエルは四六年に出版した詩集『ウィアリー卿の城』によって一躍新批評の寵児になったのだった。
一九一七年、ボストンの名家に生まれたローエルは――母方の先祖はメイフラワー号で新大陸に渡ってきたピルグリム・ファーザーズにまで遡ることができ、父方は軍人や実業家、政治家を輩出した家柄で、有名なイマジスト詩人エイミー・ローエルも一族だ。アメリカ文学の世界で真に名家といえるのはローエル家とエリオット家ぐらいのもので、金銭登録機で財を成したバロウズ家は名家といえるかどうかわからない。とにかくローエルはへんなひとで(詩を書く人間がみなへんなひとかどうかはにわかに断定できないが、わたしを除いてへんなひとが多いのは確かだ)、雰囲気が合わないといってハーヴァード大学を中退して新批評の牙城のケニヨン・カレッジに入学した。ハーヴァード大学をやめたローエルは、その足でテネシー州のチャタヌーガ郊外のモンティーグルを訪れた。尊敬する詩人・批評家のアレン・テイトの家がある町を。そして、空いた部屋がないと告げられたローエルは、庭の芝生にテントをはり、そこで二カ月を過した。
テイトやJ・C・ランサムなどの新批評の薫陶のなかから生まれたのが、ローエルの『ウィアリー卿の城』という詩集だった。ひとことでいって、難解で晦渋。聖書や古典などの引用・借用・言及・翻案などに満ちみちた伝統的な詩で、研究家の解説を読んでもぴんとこなかった。こりゃあ、お呼びじゃないと思って、そうそうに撤退した。ローエルは教養がないと読めない緻密な詩を書く定型詩人だったんだ。個人的な感情をおし殺し、人工的に、文学から文学をつくるという新批評の考え方も気に入らなかった。そこから、個人的な感情や生活をえがくビート・ジェネレーションの詩へ。
二回目にローエルと遭遇したのは七〇年代の初めで、詩集でいうと『人生研究』(一九五九年)。ずいぶん、ローエルから遠ざかっていたものだ。
わたしは、ローエルはそもそも反抗のひとだったことに思い至ったのだ。両親に反抗して、ハーヴァード大学をやめてキャニヨン・カレッジにいった。親の反対を無視して、年上の女性と結婚した。徴兵を拒否して刑務所に入れられた。政治や宗教上の理由からではなく、ただ両親を困らせようという理由から。ベトナム戦争に反対した。書斎を飛び出して、さかんに自作詩の朗読を行なった。新批評の詩人はすっかり変貌をとげていた。愛と苦悩と反抗の詩人へ、と。
詩集『人生研究』の大きな特徴はアイロニカルな告白詩にある。かつては顕著だった暗喩や象徴性を削ぎ落とし、頭韻や脚韻も少なくなった。晦渋さがなくなった。何よりも親しみを感じる告白詩に。
三カ月 三カ月だった!
リチャードはもう己れに返ったか?
得意の面にえくぼをつくって 娘は
湯槽の中で私に引見する
鼻と鼻が擦れ合い
互いに 濡れもつれた髪をぽんと叩く……
それで、何一つ失くなっていないと私は知る。
私は四一歳
もう四〇歳ではないのだが、
私がしまい込んでいた時間は
子供の遊びも同様だったのだ。
…………
恢復期にある私は紡がず労しもしない。
見下ろす三階下では 雑役夫が
柩(ほどの長さの土と
水平になった七本のチューリップの世話をする。
ちょうど一二カ月前
あの花は血統書つきの
輸入オランダ・チューリップだった。今は誰も
それを雑草と区別する必要もない。
晩い春の雪に疲れきって、それは耐えられないのだ
更に一年の雪だるま式に肥大する虚弱化には。
どんな地位も身分も私には無用だ。
癒えて、私は生気もなく、ちりちりに縮んでしまった。
徳永暢三訳「三カ月後に帰宅して」部分
三カ月ぶりに病院から帰宅し、一緒に娘と風呂に入ったときの詩で、(ローエルは精神治療のため定期的に入院した)、「中年になろうとしているこの詩人の家庭生活のエピソードを控えめな筆致で描きながら、コリー・シバーColley Cibber(一六七一〜一七五七)の改作による『リチャード三世』へのアルージョンや、ホプキンズにも比せられる、聖書の原句のひねりを効かせているため、退院後に帰宅した詩人と娘のほのぼのとした団欒を描きながらも、それが、ボストン(出身のロバート・ローウェル家の団欒であることをそれこそ臆面もなく示しながら、同時に精神的窮状に喘ぐ自身を赤裸に露わしているのである。注意して読めば、何気ない口語体の日常性の底にひそむ恐怖と、ほとんど死への希いと言ってもよいほどの冷たく不気味なヴィジョンが見えてくる」(徳永暢三『R・ローウェル』)かもしれない。
「どんな地位も身分も私には無用だ」と書いたローエルは、ピューリツァー賞と全米図書賞の受賞者で国会図書館詩学顧問にしてボストン大学教授だった。だからこそ、ソンな詩行が書けるのであって、もしわたしが同じようなことをいったら笑われるだけだろう。なに、寝言いってるんだ、と。なぜならねむり男にはどんな地位も名誉もないから。
このような詩を書いた結果、ローエルはジョン・ベリマン、W・D・スノッドグラス、シルヴィア・プラス、アン・セクストンなどとともに<告白派>と呼ばれるようになった(<告白派>は告白詩を書いた詩人たちというよりも、告白体の詩を書いた詩人たちだ)。そして、昔から気になっているのはローエルとスノッドグラスをのぞくと(スノッドグラスは健在)、全員、自殺していることだ。破滅的な死を死んだローエルにしたって、緩慢な自殺だといえないこともないかもしれない。わたしがいいたいのは、告白詩というスタイルは歯止めがきかずにきわめて危険な領域に詩人を追い込んでしまう致命的なものをふくんでいるのではないかということなのだ。いまのわたしに手に負える問題ではないが、ヴェイチェル・リンジー、ハート・クレイン、ロナルド・キース、ルー・ウェルチ、リチャード・ブローティガンなど、アメリカにおいて自殺した詩人たちの多さはどう説明すればいいのだろうか。
わたしはローエルの熱心な読者とはいえない。詩集は十冊ほど所有しているけど、『人生研究』と最後の詩集『その日その日』(一九七七年)以外ほとんど読んだ記憶がない。本もぜんぜんきれいだ。
ローエルとの三回目の遭遇は数年前、ポーからポスト・ビートまでアメリカ詩をざっと読み返したときだった。それまでビートにばかり目がいっていて目こぼしが目立ったが、なかでも気になっていたのは<告白派>の詩人たちだったのだ。かれらの告白体というスタイルと破滅的な生涯がわたしの嗜好に合うのかもしれない。
わたしはローエルから読むことにした。ベリマンを読みたかったのだけど、小さな本棚にはローエルとセクストンしかなかったのさ。
で、ある日、ローエルを読み出したというわけだ。詩集『人生研究』と『その日その日』とを。二冊ともに鉛筆による書き込みやアンダーラインがたくさんあったことからすると、二十年ほど前もかなり熱心に読んだものらしい。それがほとんど記憶にないのだ。かぼちゃ頭らしいといえば、いかにもかぼちゃ頭らしい話だけどね。
今回、ローエルを読み返してとくに気づいたのは、晩年に近づくにつれて詩が自由になっていったことだった。定型詩の中に自由を求めた初期の詩は別にして。
さっき引用した「三カ月後に帰宅して」(詩集『人生研究』)を見てみると、口語的で各行の長さは凸凹で一定しない。ということは歩格(強弱のニ音から成るリズムの単位)を指折って数えながら詩を書くようなことをしていないということだ。とはいえ、一方で、不完全ながら脚韻を踏んでいて、依然としてローエルが定型意識から完全に自由になっていないことがわかるのだ。
『人生研究』以後に出た詩集『比軍死者に捧ぐ』(一九六四)と『大洋に近く』(一九六七年)を見ると、脚韻はまだ残っていた。尾底骨のように。しかし、晩年の詩集『ノートブック 一九六七−六八年』や『歴史』(一九七三年)、『ドルフィン』(一九七三年)には脚韻らしい脚韻はほとんど見られない。ローエルの脚韻にこだわるのは、弱強格とともにかれの定型意識のインデックスだと思うからだ。
ここで、やっと最後の詩集『その日その日』を読むときがきた。わたしはひたすら読みたかったのはこの詩集であって、いままではそのために必要な道のりであったのだ。
『その日その日』のプロローグはこんな詩。
その日
驚くべきことだ
ひろびろとした野を撃つ稲妻のように
その日がまだここにあるのは、
うち震えつつ浮遊する
堅固だが移ろいやすい大地(テラ)、
地上の至る所で芽吹くクロッカスさながら
人類がはじめて出現したときのように新鮮だ。
汽車から、ぼくらは見た、
丘のあちこちに
散らばった雌牛たちを。
一つの性の、一つの群れ、
生物の階層の中の複製品(たち――
太陽がかれらを真昼の
光輝に変えてしまった。
かれらはぬり絵帳の子供のぬり絵だった
それを見る前に見てしまった。
かれらは汽車の窓のように飛び去る――
アノ日ノ
最後の審判の日(の、
線香花火のような一瞬一瞬。
互いの本来の姿に恋して
永遠に一緒にと
ぼくらが一瞬一瞬を生きたとき――
結末を予期したかのように、
無との結婚生活では、
ぼくらはただ安全にという生き方は
しないですんだ。
かつて古今の文学の引用や借用・言及・翻案による暗喩と象徴と連想に満ちみちた晦渋な詩を書いた新批評の詩人は、晩年にいたってきわめて個人的な声を発する詩人へと変貌を遂げていたのだ。その間、私生活では両親との不和、結婚・離婚・結婚・離婚、精神病院へのたびたびの入院などを経験した。精神病院への度重なる入院は飲酒と薬物の過剰摂取が主な原因だった。そして、死の年の七七年五月、ハーヴァード大学で行なわれた朗読会に現われたときは、左右別の色の靴下をはいていたという。
死んだ年に出版された詩集『その日その日』を読んでいくと、晩年のローエルが一篇の詩の秩序を造り上げる美学よりもいかにして個の内奥の声を響かせるかという強い衝迫につき動かされて書いているかということに気づく。そして、そのことによってロバート・ローエルはわたしにとっていっそう身近な詩人となったのだった。
「どうしてぼくらはつねに人生を安楽なものにしたいと思いつづるのか、それが不可能だと知って」「母に」部分
今夜、満月の運行をとめるのは
木々と、ぼくらの窓と窓の間の壁紙――
苦痛の敷居には
光は存在しない、それでも
その明かりは身を苛み
聖書を読ませ
ぼくらをねむらせない。
「病気のキャロライン」部分
ただひとつ許し得ぬ罪とは
望まれないというぼくらの恐れだろうか?
そのために、母は永遠に家を掃除しつづけて
住めないものにするのだろうか?
健康になることはそもそも芸術なのか、
それとも芸術が健康になる道なのか?
「望まれぬひと」部分
黄緑色の芽たちと、緑色の芽たち、
きのう隠れていた、きょうの先駆者たち。
ジョージア朝風の三十年代のハーヴァードの家々は
四十年間、軽佻浮薄さを流してきた。
建造物は威厳をもって衰退に耐えながら
雰囲気を醸し出している――
ぼくらの希望はこの春の事物のなかにある。
今夜、朧なボストンのまんなかで、
先細りの煉瓦の煙突が、濃紺の空へ昇る
白煙の梯子を尖らせている。
「三月に帰る」全行
ここで、この詩集に対するローエル研究家の意見に耳を傾けてみよう。
……詩人は日毎に生起するくさぐさの事柄(散歩、ある批評家の死、荘園の衰運に結び合わされた英国史の断片、イギリスの田園と樹木、季節、蟻の観察、結婚写真、ボストン空港、詩朗読会、父母の回顧、病院再訪、別居、亀の思い出、鏡の前の髭剃り、妻の病気、詩人の入院)を捉え、それを先ずは観ること(で経験する。『人生研究』のプロットと語りという伝統的、合理的な技法は殆ど放棄し、代わって連想的技法と剥奪されたスタイルとでも
称すべきものによって、省察、瞑想の個人的世界を繰り拡げる。それら一連の抒情詩は詠嘆調からは遠く、自由な連想で次々とイメージを増殖させ、にも拘らず抑えた筆致の、文章の論理構造をしばしば無視した叙述を先へ先へと送り出す体の、独特にロウエル流のエレジーである。それには、老齢と近寄る死の意識、結婚の崩壊の予表などの、うっすらとした灰色味が添えられている。初期の詩集の吼怒する断罪や週末論は鳴りを潜め、痛烈な社会的・政治的諷刺も影すらなく、精神的暗黒裡に低迷し蟠屈する唯我論的不透明さは放棄され、象徴性もまた、卓抜なレトリックや発明の異彩を放つ隠喩の技巧とともに、潔く切除されている。詩人は、ひたすら此処(と今に(に集中する。そのことは、一
見矛盾するようだが、記憶の中から探り出した人物を描く際にも、
この詩人にとって立脚すべき原理かと思われる。
(徳永暢三『R・ローウェル』)
われわれの自由詩はどう書いてもいいということになっているけれども、その自由の意味はきわめて重い。
自由詩の自由はまず定型からの自由を意味しているが、もちろんそれにとどまるものではない。古今東西のすべての詩からの自由を意味する。過去の詩はもちろん、同時代の詩からも自分の詩からも自由であらねばならない。そして、自分の詩から自由でないことをマナリズムというのだ。したがって、「すべての詩は実験詩だ」(ウォレス・スティヴンズ)というのは正しい。
晩年のローエルにあっては、関心は伝統的な美学に基いた一篇の詩を仕上げることにはなくて日々の瞬間瞬間に意識に浮上してくるもやことを書きとめることにあったのだ。そのときのテーマは、ひとつ。――詩においてわれわれはどこまで自由になれるか?
詩においてロバート・ローエルがどこまで自由になれたかはねむり男に即断できることではない。ローエルは最後まで弱強格(アイアンビッグ)から自由になれなかったとするのが定説らしいが、わたしにはうらやましいほど遠くまで自由詩の道を旅した詩人だった。最後の詩集の最後の詩を読んでほしい。そして、実は、わたしの目的もこの詩の提示にあったのだ。かくして、わたしの目的もここにめでたく達せられることになった。よかった。
エピローグ
あの祝福された構造、プロットと押韻――
それらはなぜいまわたしの助けとならないのか
書きたいのは
心に浮上したことで、思い出ではない?
わたし自身の声の雑音が聞こえる――
画家の視力はレンズではない(、
それは震えて光を愛撫するのだ(、と。
しかしときとしてわたしの
目のすり切れた芸術でもって
書くものはことごとく
スナップ写真のような気がするのだ、
はでで、せっかちで、けばけばしい、
生から高められた寄せ集め、
しかも事実にがんじがらめの有様だ。
すべては不釣り合いの結婚さ。
でもどうして起こったことを書いてはいけないのか?
光が照らし出したものにフェルメールが与えた
正確さの美徳を祈願せよ、
光は一枚の地図の上を潮のように忍び渡るのだ、
憧れで充されたかれの娘へと。
わたしたちは通り過ぎていく貧しい事実の集積なのだ、
だから、写真のなかの姿に
生きた名前を与えることによって
注意を促しているのだ。
*Robert LOWELL,Day by Day,Farrar,Straus and Giroux,1977
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