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vol.20
<詩を読む>
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短い詩のおもしろさとつまらなさ

A・R・アモンズ詩集『本当に短い詩』を読む


中上 哲夫

 詩は何行ぐらいが適切なのかという議論がもっとなされてしかるべきだと思うんだけど、どうだろうか。
 上州のねむり猫大橋政人の調査(?)によるとこの国の詩は年々長くなっているらしく(「ガーネット」31)、それにともなって詩は長い方がえらいという気分が瘴気のように漂っているみたいな気がして能天気なわたしもさすがに看過できない。
 昨年、A・R・アモンズの詩集『ほんとうに短い詩』を一日一篇ずつ160日かけて読んだ。つまり、1頁に1篇、2行から14行までの詩が160篇収められた詩集なのだ。
 くわしくは知らないのだけど、A・R・アモンズはアメリカ詩を論じた文章にはかならずといっていいほど名前が出てくる詩人で、D・W・ライト編『アメリカ現代詩101人集』にももちろん入っている。1926年生まれの自然詩人で――この年にはアレン・ギンズバーグ、ロバート・クリーリー、フランク・オハラといった錚々たる詩人たちが生まれた――、自然詩に目のないわたしはつぎの詩を読んだときからこの詩人の詩をもっと読みたいと強く思っていた(先日、アモンズが死んだという話を独協大の原成吉さんからきいた。原さんは『英語青年』7月号に追悼文を書いた由)。
   

蜂が止まった


 蜂が 岩のうえに 止まり
 頭と羽を擦って
 休み それから 飛んだ
 蜂は 白くて緑で赤い
 岩に平らかに伸びる樹のうえを走ったが
 ひとびとは 見ようとしない
 何も岩のうえに伸びるはずがないから
 わたしは 湖のほうや その向こうの
 丘や樹木へ 目を 凝らした
 何も動いていなかった
 それで わたしは よく 見た
 湖岸に沿ったり
 イグサの古い葉のしたや
 ドライグラスの藪の回りなどに
 命は どこにでも あった
 だから わたしは ときたま 口笛を吹いて 歩き続けた
 (渡辺信二訳)
 で、昨年のある日、渋谷のタワーレコードにのそのそ出かけていった。このレコード屋の六階には、知るひとぞ知る(知らないひとは知らない)、ビート・コーナーがあって、ビート関係の新刊書を探索するかたわらアモンズの詩集を入手しようという心づもりだった。ところが、アモンズは『ほんとうに短い詩』というハンディな詩集一冊しかなかった。
 アモンズの短い詩を読んでいくうちに、短い詩に対してねむり男の目もぱっちり開かれ、かれの詩に刺激を受けて、一日一篇短い詩を書くことにした。そして、もう100篇以上書いた。
 詩は、元来、短いものなのではないのか。
 アモンズの短い詩を読み、短い詩を100篇以上書いたわたしの結論は、右のようなものだった。かねてよりのわたしの理想は、雑誌や詩集を開いたとき、ぱっと一目で作品全体が見てとれる、一頁か見開きの長さの詩であった(歴史や物語を扱った詩は除く)。  
 ……長い詩などというものは存在しないというのがぼくの立場である。「長い詩」という言い方からして既に用語上の矛盾を犯していると考える。
 一篇の詩が詩の名に値するのは、魂を高揚し、興奮させる限りにおいてであるのは言うまでもない。詩の価値はこの高揚する興奮に比例する。だが、およそ興奮は、精神の必然によって、やがては醒めるものだ。一篇の詩を、いやしくも詩と呼ぶにたらしめるほどの興奮が、相当長い作品を通じて終始保たれるなどということは、とうてい不可能である。半時を過ぎ、まさに作品の極点に達しようというときになって、興奮は弱まり、鎮まって、逆に退屈さを覚えるということになる。そのとき、詩は事実、もはや詩ではない。
           E・A・ポー/篠田一士訳『詩の原理
 いま、150年以上前に書かれたポーの古典的詩論を読んでもうなずけることが少なくない。
 短い詩はなんといっても、すぐ読み終わるのがいい。苦悶にあえぐ汗まみれのランナーの表情のクローズ・アップがえんえんと映し出される、凡庸なマラソン・レースのように退屈な詩行がつづく長い詩ほど苦痛を強いるものは、この世にない。それに対抗するのにはただちに読むのをやめるのがいちばんだ。長い詩は一般の詩の愛好家は読まない、とT・S・エリオットはいった。読むのは研究者や専門家だけだ、と(とすると、1000行以上のホイットマンの詩「ぼく自身の歌」を何度も読んだねむり男とは何者なのだろう)。英米にはエリオットの『荒地』、エズラ・パウンドの『キャントゥーズ』、ハート・クレインの『』、ウィリアム・カーロス・ウィリアムズの『パタースン』など長篇詩を書くのが偉大な詩人だという伝統があるけれども、だれがそれらを読むのだろうか。わたしもほんの一部しか読んでいない。
 御託をならべるのはこのへんにして、A・R・アモンズの短い詩を少し読んでみよう。
   

小さな歌



 葦は風に
 道を

 譲り 風を
 やりすごす
 この「小さな歌」はかぎりなくわが国の最小の詩型の俳句に近いような気がするね。もう少し複雑な詩を読んでみよう。複雑といってもこんなものだけど。
   



 強風のなかでは
 木の葉は
 落下しないで
 鳥のように木から
 まっすぐに飛び立つ
 短い詩は俳句のように全部いいきらない傾向が強いので――「いひおほせて何かある」と芭蕉はいった。全部いってしまってもつまらないではないか、と――、いろんな読み方が可能だ。結論は、書き手から押しつけられることなく、読み手が自由に出すのだ。そこに短い詩を読む楽しさがある。もう一篇、アモンズの詩を読んでみよう。
       

呼んでいる

 風がポーチの
 椅子たちをゆする

 家のなかにだれかいるのだ
 この詩の読み方も読者の手にゆだねられているように思われる。それによって訳し方も当然変わってくるはずだ。わたしの読みでは、椅子が複数なのは家のなかにいるのは二人以上の人間であって、早くポーチに出てこいよと、風が椅子をゆすって「呼んでいる」のだ。日本語の言葉はそんな解釈から選ばれたが、もちろん、ほかにも読み方があることを否定する者ではない。ここにも俳句との類似を感じるね。というのも、『去来抄』のつぎのようなエピソードを思い出したからだ。
 岩鼻やここにも一人月の客  去来
 この句はどういう句なのだと、あるとき、芭蕉はつくった本人にきいた。それに対して、月があまりきれいなので磯を歩いていてある岩鼻(岩の突き出た場所)までくるとそこにも月見をする風流なひとがいた、というものですと去来が答えた。すると、芭蕉は、それよりも、月に浮かれて岩場を歩くひとに対してここにも一人月見をする風流人がいますよと名乗り出るといった句にした方がおもしろいよといったのだった。
 俳句という片言的な詩型はきわめて柔軟な読みを受け入れる深い懐を持っているけれど、短い詩も同じようなことがいえるのではないかと思うのだ。
 一方、短い詩には短い詩ならではのつまらなさがつきまとうことも否定できない。
 複雑な展開が望めないのだ。
 出足が遅れても途中で挽回し優勝することも不可能ではないマラソン競技のような妙味は、短い詩に求めることはできない(一度、レースの途中で便意を催しトイレットに駆け込んで大の方の用を足したあとふたたび走り出して、優勝したマラソン・ランナーを見たことがある)。短い詩は、百メートル競走と同じように、スタートで出遅れたらもうとり返しがきかない種類の詩なのだ。そして、スタートは一行目にあるのではなく、むしろタイトルにあるのだ。途中で逆転する楽しみは短い詩には期待できない。
 それだけではない。さっきの本のなかでポーはこうもいっていたのだ。「一篇の詩が不当に短い場合も確かにあり得る。甚だしく短いと、単なるエピグラム風に堕してしまう。極端な短詩は、、ときたま輝かしい、また生き生きとした効果を生むこともあるが、深遠な、或いは持続的な効果を生むことはない」と。『ほんとうに短い詩』を読んいて、ポーのいうような感想をわたしもたびたび持った。「小さな歌」は「柳に雪折れなし」といった教訓詩として読むこともじゅうぶん可能だし、「」だってポエジーのない詩は落下するだけだけどポエジーのある詩は鳥のように飛翔するというふうに意味づけて読むことがじゅうぶん可能だろう。つまり、エピグラムやアフォリズムに堕してしまう危険が短い詩にはつねにつきまとっているのだ。ポエジーを欠くと。いいかえれば、すぐれた詩にはエピグラムやアフォリズムに移行するのを峻拒する強さがあるのだ。  冒頭にふっておいた、詩の長さはどのくらいが適切なのかという問題にもどるときがきたようだ。
 詩の行数に関する荒川洋治のおもしろい文章を最近読んだので(「文章でつくる詩論3 枚数と行数」「東西通信」11)、さわりの部分をちょっと紹介してみたい。詩の行数について考える上で大いに参考になりそうなので。
 〔1行〕俳句とまちがえられる。
 〔6行〕相田みつをになる。
 〔10行〕ひとふでがきのようにさっと書く。自分のいいところを出そうと思うと、わるいところだけが出るので、その点は注意。
 〔20行〕一行あきをつかって「おおきな」詩に見えるようにする。きれいな飛躍をつくる練習になる。
 〔30行〕雑誌などで、いちばん求められるケース。読むほうも「あ、詩だ」と思うので、何を書いても現代詩になってしまう。おそろしいことだ。
 〔35行〕これも前に同じ。書いたつもりもないのに、現代詩。
 〔40行〕どこかに展開不充分のところがないか、あやしむこと。
 〔50行〕どこかにむだな言葉はないかチェック。
 〔70行〕三〇行を過ぎた折り返し地点で転調しなくてはもたない。実力があらわれる行数。  ――以下、略――
 荒川洋治の軸足は30行あたりの所にあるような気がするけど、現代詩人の平均値は大橋政人の調査だと確か33行だった。わが国のバブル経済はとっくにはじけたというのに、現代詩のバブル現象はいったいいつまでつづくのだろうか。戦後詩人はいかに詩を書き始めるかにばかり苦心してきて、いかに詩を終わるかが疎かになっているというのがねむり男の意見。最初の一行を用意すればいい、あとは神さまが書いてくれる、というような詩が田村隆一にあったような気がするのだが――。
*A.R.Ammons,The Really Short Poems,
W.W.Norton&Company,1990
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