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vol.21

<雨の木の下で>



『セツアンの善人』──ブレヒトの戯曲

布村 浩一
  
 ブレヒトの戯曲の舞台を初めて観たのは九九年に新国立劇場で上演した串田和美演出・松たか子主演の『セツアンの善人』だった。松たか子の繊細でみずみずしい演技と串田和美ののびやかで自由な舞台空間のつくりかたがとても印象的だった。ブレヒトのセリフは唐十郎を思い出させた。ベルトルト・ブレヒトという人はこんなにも猥雑で面白いセリフを書く劇作家なのか、ヨーロッパ的な観念的なセリフを書かないことが新鮮な驚きだった。

 ぼくの手元にあるのは未来社刊のブレヒト戯曲全集の第五巻で、ここに『セツアンの善人』は収められている。ブレヒト一九四〇年の作品だ。この『セツアンの善人』のもつ衝迫性はこの社会ではよい人のままでは生きていけないのだというメッセージにある。現在の日本の社会もそうだと思ったし、ブレヒトがこの戯曲を書き上げた一九四〇年ごろのヨーロッパ社会もそうだったのだろう。

 中国セツアン(四川)に住む娼婦シェン・テは神様に一夜の宿を提供したお礼にお金をもらう。そのお金を元にして煙草屋を開く。店を持ったシェン・テにセツアンの町に住む貧乏人どもが食いつきはじめる。あくどくたかりつづける。お人好しで正しいことをなそうとするシェン・テは拒否することができない。自分の善意と善意につけこむ人びとに引き裂かれそうになったとき、シェン・テはおのれの分身である悪人シュイ・タを造り出す。シュイ・タはだますことも、突き放すこともできる人間なのだ。

 だまされ、利用されながらなおも人間を信じようとするとき、生きつづけようとするとき、悪をなせる分身を生み出してしまう、というのが切実だとその時思ったのだ。身につまされる感じがした。いったいこの主人公は最後はどこへいくのだろうと思いながら、観つづけた。

 たかられ続け煙草屋がつぶれそうになったとき、従兄弟のシュイ・タという別人になって、シェン・テは姿を現し、難局を切り抜ける。まとわりついていた貧乏人どもはたたきだした。愛のない人間シュイ・タでなければ打開できない局面があり、シュイ・タに何度か変身しながら、シェン・テは生き延びる。悪と善、感情と理性が対立し、交錯するブレヒトのこの戯曲は面白い。ユーモアがあって生々しい。「俺たちには生きるに必要な残酷さが足りない」と『セツアンの善人』の登場人物は叫ぶのだ。

 ドイツ人であるブレヒトはナチスが政権をとるころ亡命している。それからデンマーク、フィンランド、スイス、フランス、イギリス、ソビエト、アメリカなどを転々としている。一九四七年にはマッカーシズムの非米活動委員会に共産主義活動の疑いで召喚され、一九四八年には西ドイツ入国を拒否された揚げ句、東ドイツに入国している。『セツアンの善人』には資本主義への批判というモチーフも見て取れるが、それを超えて人間の物語であり、もっといえば人間の社会の物語になっている。セリフが生きており、モチーフにつかまっていない。このへんがブレヒトの力だろう。だから六〇年後の今も生々しいインパクトを与え得るのだ。政治に翻弄されながら、徹底的に最後まで演劇の人だったというのがブレヒトの姿なんだろう。球体の人間の像がいろんな角度でとらえられており、類型的な人間の見方はしていない。

 この戯曲は煙草王にのし上がっていく悪人シュイ・タが善人シェン・テを殺したのではないかと疑われ、裁判官として現れた神々の前で、シュイ・タは実は死んだはずのシェン・テなのだと明かす。善人であれ、しかも生き抜けという神の言葉が「私を稲妻のようにまっぷたつに引き裂いたのです」と告白する。答えを、助けを求めるが、神はあいまいであり、答えを与えずに消え去ってしまう。幕はここで降りるのだが、最後に一人の役者が現れ、答えは「私たちには見つかりませんでした」と語り、この問題の解決を観客がひきだすことを求める。ブレヒトの素顔がのぞいていると思う。   

初出誌  「図書室月報」第459号 2001年8月5日(国立市公民館発行)

*未来社の「ブレヒト戯曲全集」第5巻(岩淵達治・訳)では『セツアンの善人』は『ゼチュアンの善人』と訳されているが、ここでは『セツアンの善人』に統一した。
 
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