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vol.22

<雨の木の下で>


田村奈津子のエッセイ

(COLOURの会合評提出作品)
五月・ニアミス・無境界・四丁目の笑い声・Songs・素敵な適当・音の迷い・冬の十時・消息・彩色されたボトル・色付く机・クールなボタン ホットなボタン・ほくろのゆくえ・ブッダの爪・到来・紫の記憶・月の予定・地図の時間・飛ぶ手紙・オームのかなたで・雲のおかげ・風の道・空中庭園・語呂合わせ・モネが見た駅
  

五月


 数日前から、「クークックク」ときわめて近いところで鳴く鳩がいる。どこかこの付近に住みついているのだろうと、そのあか抜けないけれど妙に音楽的な鳴き声を、なつかしく聞いていた。子どものころには、この声が聞こえてくると、「ああまた朝が来た」と、寝床で思ったりしていたものだった。
 たまたま掃除をしようと思って網戸を開けたら、バタバタバタッと何かが飛び立っていく音がした。一瞬何がおこったかわからなかったが、ちょうど私の部屋の前を通る電線で乱れた羽根をなおしている鳩と目が合い、事態がのみ込めた。鳩は、私の部屋のベランダの小さな物置の上に巣を作っていたのだ。いつのまにか運んできた小枝がきれいに組まれ、質素な巣が出来ている。よく見ると、真ん中に、小さな白い卵がひとつ。
 物置の上には、がらくたが積まれていて、ちょうど陰になるスペースがある。なるほど鳥からは見えないかもしれないが、カーテンを開けると私からは丸見えだ。なんてまぬけ。
 それにしても、またしても卵である。一昨年のこの時期にも、反対側のテラスに卵がやってきては忽然と消えていくという事件があった。そしてそのことに、私自身がどれだけ心動かされたかということを思い出した。
 恐らく、五月に私は切り替わるのだと思う。一年間生きた古い自分が死んで、新しく生まれ変わるのだ。誕生日ではなく、五月のこの季節に。螺旋状にエネルギーが巡り、少しだけ変化していくとき、心身ともに内側にどんどんと沈んでいくような衰弱する気分を味わう。それも限界に近づくと、突如反転して何かが動き始める。その境界で、不思議なことがおこってくることがある。そのひとつが、私にとっての卵だ。自然はそんなふうにして、私に「再生」の時を告げてくれる。鳩はただ命がけで子育てをしているだけだけど。気がつけば今日は母の日だ。ちょっとできすぎた鳩の母の登場。                           
(COLOURの会合評提出作品 2001.5.12 宿題「」)



ニアミス


 大江戸線という不思議な地下鉄が開通した。名前もさることながら、地下に潜ることはなはだしく、エスカレーターでどんどん降りていくたびに、こんなに地球の中まで入っちゃって大丈夫なのか、などと不安になってしまう。空気も薄くなっていくような錯覚にも陥る。
 しかしこの線が、総武線の東中野駅に連絡していることによって、私は多大な恩恵を受けている。いままではぐるっと回らなくてはならなかったところへ、ひょいっと接続できてしまうのである。本当に便利になったと感心するばかりである。こうなると、多少不気味な感じで、地下に深く潜っていかなくてはならないことは、大目に見るしかない。
 友人に、「大江戸線の駅でどこが一番深いか知ってる?」と質問されたことがあった。彼は一度その駅に行ってみたいそうだが、そんなことを私が知っているわけがなかった。
 先日、西武新宿線の中井という駅で初めて降りて大江戸線に乗り換えた。人がほとんどいないホームで、なんとなく車両を選んで、光が丘から来る地下鉄を待っていた。到着した電車のドアがあいて、サラリーマンぽい男の人が降りてきた。すれ違うときに、目があった。じっと見ていた顔に、見覚えがある。あっ、もしかすると高校の同級生じゃないかと思い出したときには、もう遅かった。
 彼はすたすたホームを歩き始めていたので、全く声はかけられなかったが、その後ろ姿を見て、確信を得た。彼は短い足で、うちまたで歩く人だったのだ。
 発車した地下鉄の中で、二十年ぶりの偶然の再会に驚いたが、大江戸線が開通したおかげで、意外な経路を通るようになった自分の動きの招いた遭遇に、なんとも言えない感慨深さを味わった。深く深く潜り、遠い記憶の中の人物にまで接触し、何ごともなかったように巡っていく自分を、瞬間、インターネット上を飛び交う一粒の情報のように感じた。
(COLOURの会合評提出作品 2001.3.17 宿題「」)



無境界


 必要があって、作家の三木卓さんの簡単なプロフィールを作ることになった。三木さんが心筋梗塞に襲われて倒れたときのことを書いた闘病記が、いつ、どこの出版社から出たのかを調べなくてはならなかった。
 インターネットで紀伊国屋書店のサイトを開き、「セイカンノキ」を検索すると、三冊の『生還の記』が出てきた。じっくり見ていくと、一番上は98年に文庫になった三木さんの本。二番目は95年に河出書房新社から出た三木さんの単行本。三番目は93年に花伝社から出た別の人の本。
 比較的ありそうなタイトルなのに、意外に少ないなと思っていると、三冊目の『生還の記』の作者が、見たことのある字面であることに気がつく。
 「君野俊平だなんて、珍しい名字も名前も、亡くなった叔父と同じだ。でも本を出してたなんて、聞いたことなかったよな・・・」と、妙な気持ちになった。
 さっそく従姉妹に問い合わせると、「よく見つけたね」と驚いていたが、やはり亡くなった叔父の本だった。ビルマの戦場で奇跡的に生き残った不思議な体験を綴った記録だという。叔父は鳥取市内で弁護士をしていたが、晩年になって胃ガンの手術をした後も、十年以上も生き延び、非常に生命力のあった人なんだという印象を私に強く残して、この世から去っていった。
 それにしても、ものすごい確率である。いくつもの偶然が重なり、ついにインターネットの情報を検索する必然性が生じて、パソコンの画面上で叔父に再会する。叔父は何年も私を待っていたのだろうか。
 自分が見ていたはずなのに、私自身がどこかから叔父に見られているような感覚に陥ってしまうネットの世界・・・。
 でも私は驚かない。世界はそのようにできているのだ。網目のように縁がつながる世界に、テクノロジーが追いついただけの話なんだと思う。

(COLOUR 7掲載 2001.7.20 宿題「」提出2000.12.)



四丁目の笑い声


 一丁目の子供 駆け駆け 帰れ
 二丁目の子供 泣き泣き 逃げた
 
 四丁目の犬 足長犬だ
 三丁目の角で こつち向いてゐたぞ
          『四丁目の犬
 我が家で一番人気のあった童謡は、この歌だった。今でも口ずさむやいなや、夕暮れの物悲しく不思議な街の光景が浮かんでくる。他にももっとかわいらしく楽しげな歌がたくさんあったはずなのに、なぜかこの歌に、誰もが惹かれていた。
 三歳くらいだった頃、ぎこちない手つきで次々と童話や童謡のレコードをかけては聴くという、至福の時間があった。側のベビーサークルの中では、まだ一歳にならない弟が一緒になって聴いていた。その弟が、「四丁目の犬 足長犬だ」のところにくると、必ずケラケラ笑い出すのだと、母が話してくれた。その箇所では、確かに少し明るい旋律に展開するのだが、どちらかというと全体に不気味な感じのする歌だった。なのに、やけに子供の好奇心をそそるのだ。でも誰が作った歌なのかということは、全く知らなかった。
 つい先日、松岡正剛氏の『日本流』(朝日新聞社)という本を読んだら、冒頭からこの歌のことが書かれていたので驚いた。詩は野口雨情によるものだと、初めて知った。明治時代に子供に向かって、絶望とも不安とも戸惑いともつかぬことを歌にしてみせるのが卓抜だったのが、雨情だったという。
 彼にはこれもまた私が大好きだった『あの町この町』という怖い歌がある。作曲家は違うが、いずれも人間として生き始めたばかりの子供の「あの世」と「この世」の狭間で揺れる心細さに、直接的に訴えかけてくる魅力的な歌だ。
 吸い込まれそうで怖いのに、覗いてみたくなる子供の心を強く引きつける明治の童謡が、今も私の中で生き物のように蠢いている。
(COLOUR 6掲載 2000.6.17 宿題「歌」)



Songs


 「ソングス」という店が在った。自由が丘駅の踏切を渡ってすぐの、奥沢へ向かうバス通りの右側にある喫茶店だった。
 大学を卒業してちょうど一年たった頃、勤めては見たが、初めて接触した社会とどうも上手く折り合いがつかず、会社を辞めてしまったことがあった。何の当てもなく辞めたので、どうしようかなあとぶらぶらと自由が丘の町を散歩していてみつけたのが、「ソングス」のアルバイト募集の貼り紙だった。
 面接を受けるとすぐに採用され、さっそく働き始めることになった。元来そそっかしい私にとっては冒険だったが、何よりレコードのライナーノーツを書いたりするほど、音楽通のマスターが選ぶレコードのセンスの良さに惹かれて、気がついたら楽しく働いていた。
 レコードからCDに切り替わる直前の頃だったので、店内には新しいレコードジャケットが何枚も飾られていた。東向きの大きな窓からたっぷり入る光と気持のいい音の波にかたくなった身体を委ねては、深呼吸をした。
 ザ・スタイル・カウンシルというイギリスのグループ「カフェ・ブリュ」というアルバムが出たばかりだった。午前中の日射しを浴びて、ベンジャミンの葉っぱに霧吹きで水をかけながら、もし「完璧な朝」というものを求めるなら、私はこの瞬間のこの光景をきっと繰り返し思い出すだろうと、はっきりと思った記憶がある。お客は、誰もいなかった。
 意気のいいピアノとジャジーな声。焼けたような青いレコードジャケットも、すでに私の記憶のような色をしていると、何とも不思議な感覚を一人で味わっていた。得体の知れない社会に困惑して、歌を忘れていた日々の息苦しさから、気がつくと解放されていた。
 再就職先が決まってからも、休日だけ働きに行ったりしていたが、忙しくなって辞めざるを得なくなった。その後すぐに、店はなくなったのに、陽の当たる記憶の音の鳴る場所に、「ソングス」という店はいつまでもある。
(COLOURの会合評提出作品2000.2.19 紙版"rain tree"no.22掲載2002.2.2)



素敵な適当


 ステキの「てき」の字が嫌いだ。いつも、どの漢字を当てるのか、わからなくなってしまうのだ。
 漢字のシステムの中で、これは便利だと感心するのは、「へん」を見るとだいたい何を表す字なのか想像がつくということだ。漢字の苦手な私としては、本当にありがたいと思ってしまう。
 ところが、ステキという字を書くときは、「あれ、何へんだったっけ?」と、混乱してしまうのである。確か、「へん」に頼れない漢字であったという記憶だけが、あいまいに残っている。仕方なく辞書を引くと、ステキは普通「素敵」と書く。
 どうして、ステキなのに「敵」なんて字を使うんだろうと、不思議に思いながら、今日まで謎を解かないままでやってきた。
 話はそれるが、「こども」をつい「子洪」と書いてしまう男の子を知っている。そう言えば、人間は七割が水だって言うから、「さんずい」でいいのかもしれないなあと、心の中では思いつつも、「こどもは水からできてるんだ!」とからかうと、「あっ、人だった」と慌てて「にんべん」に書き直す。
 こんなふうに、分かりやすい熟語は助かるが、ステキはどうも苦手である。ついでに言わせてもらえば、テキトウも迷うほうである。
 思い切って漢和辞典を引いてみると、「素敵」は、「素的」でも「素適」でもかまわないらしい。「テキ」という音が重視されているようで、借字だということだ。敢えて言えば、「適」にはうちあう相手に向かうという意味があるので、「素晴らしいに向かう」ということで、「素敵」が使われているらしい。
 なるほど、ステキという漢字を書くたびに、「素晴らしいの敵」みたいだと矛盾した印象は持たなくていいのだと、初めて納得した。
 要するに、ステキは適当に「素敵」「素適」「素的」を使えばいいらしい。嫌いな字が、嫌いじゃなくなりそうで嬉しい限りである。
(COLOURの会合評提出作品 1999.12.18 宿題「嫌いな字」)



音の迷い


 ある二次会での出来事。新宿の居酒屋の二階で自己紹介をしあうことになった。私だけが全員のことを知っていたので、自然に私が紹介を終えた人のコメントに、一言付け加えるような流れになっていた。
 白いカッターシャツの紺のズボンをはいたIが、「公務員をやっています」と言った。東北のイントネーションが、いつもながら彼の素朴さを際立たせている。
 「この人、ひーらーなの」と私が一言。
 すると、同席していたグラフィックデザイナーのMが、いきなり「まっ、いいからいいから」と私の言葉をさえぎった。
 なんだ、みんなそんなにどんな人だか知りたくないんだと、がっかりした私は黙り込む。
 「公務員って、どんなことしてるの?」と聞かれたYが、「職業訓練校に勤めてます」と答えていた。その直後、編集者のTが「この人はいろんなことができるんだよ、手かざしとか、温熱治療とか・・・あんまり効かないけど」と言った。Yは勤めながら時々、アメリカに治療師の勉強に通っているのだ。
 するとMが、「あっ、いま流行りのヒーラーね。平かと思った」と、納得の声をあげた。「なんて紹介するのかと思ったよ」と、コラムニストのFが、ほっとした顔をして言う。
 「なんだ、平の公務員だって私が紹介したと思ったわけ? じゃ、なんて失礼な奴だと思ったでしょ」と、大笑いの私。自分の発音が悪かったのかと反省もしたが、このたった二、三分の間にそれぞれの頭の中でおこった言語の連結を想像すると、可笑しくて可笑しくて仕方がなかった。それにしても、まだまだ「ヒーラー(治療者)」という言葉が、一般に流通していないことを、思い知らされた。
 失礼ながら、白いカッターシャツに紺のズボンの真面目そうな公務員が「ヒーラー」に結びつくより、「平」に結びつく方が自然なことだと思う。しかし、時代は「公務員」と「ヒーラー」が接続するようにも動いている。
(COLOURの会合評提出作品 1999.8.21 宿題「音」)



冬の十時


 まだ薄暗いうちに起きて、ひんやりしたキッチンで朝食を食べ、終わるとその日のおやつを、丁寧に鞄に詰めるのが習慣だった。いつかバナナを無造作に入れて行ったら、鞄の中で、ぐちゃぐちゃにつぶれていたことがあった。香りは悪くはなかったが、教科書やノートまでもが大被害にあい、それ以来、おやつを詰め込むことには、慎重になっている。
 さっきより、少し明るくはなったが、ドイツの冬の朝は、七時半頃でもまだ暗い。どんよりした空の下を、毛糸の帽子やロシアのような帽子を被り、コートを着、おしゃれなブーツをはいた子どもたちは、とぼとぼと登校していった。
 毎日十時になると、おやつの時間がやってくる。人参や林檎、パンやクマの形のグミを鞄から取り出した子どもたちは、思い思いに食べ始める。寒くなったせいか、数日前から当番の子どもが、どこからともなく、牛乳をかごに入れて運んで来るようになった。ココア牛乳も入っていた。様子がよくわからなかった私は、クラスメイトたちが牛乳を飲んでいるのを、うらやましく眺めていた。これは一体どういうシステムになっているのだろうかと考えた。
 最初の二〜三日は、黙って見ていた。ある日、これは好きな人が飲んでいいものなのだろうと結論を出し、さりげなく飲んでみた。おいしかった。何となく私の行動をじっとみつめている視線を感じたが、あまり気にならなかった。味をしめた私は、次の日もまた飲んだ。やっぱり誰かが私を見ている。事件がおこったのはその直後だ。先生に、自分の牛乳が足りないと訴えたのだ。学校から連絡があり、母が謝りに行ってくれた。あらかじめ申し込みが必要だったらしい。そりゃ、そうだよなと、都合がいい自分の考えに、あとでとても恥ずかしくなった。
(「COLOUR」5 1999.6.19掲載)

                  

消息


 私の名前は、本当は「田村奈津子」ではなく、戸籍上は「田村夏子」である。
 以前、一冊目の詩集のあとがきにも書いたことがあったが、亡父が自分の好きだった武者小路実篤の小説『愛と死』の主人公の名前をとって、名付けてくれたと聞いている。その主人公は、結婚を目前にして肺炎であっけなく死んでしまうので、魅力的なキャラクターではあるのだが、母は名付けのときからどうも不安で「そんな名前をつけて」と納得していなかったと、いつも話していた。名付けられた本人としては、自分の名前が好きではあったが、両親の意見が食い違っているという事実が、なんとなく気になっていた。
 二冊目の詩集を出す直前に、ある霊能者に「この名前は変えた方がいい。若い内はいいが中年はよくない」と、言われたことがあった。名前に春夏秋冬の字を使うと、その字が象徴する季節はいいが、それ以外、十分に生きられないという考え方があるらしい。
 そんなことを聞いて、「奈津子」に改名してから五年がたった。今年になって突然、「あざみ書房で電話番号をお聞きしたのですが、田村奈津子さんは、以前マルコメ味噌のコマーシャルに出られていたあのタムラナツコさんでしょうか」という電話がかかってきた。「いいえ、あの人ではなく、本当は田村夏子なんです」と、丁寧に説明して電話を切ったあと、私は思わず大笑いをしてしまった。
 なぜなら、私は子供の頃、マルコメ味噌の子役の女の子が田村奈津子ちゃんという名前であることを偶然知り、この字の方が素敵だなあと羨ましく思い、自分で日記に書いてみたりしていたことがあったからだ。電話をかけてきた制作プロダクションの人は、「あのマルコメ味噌が胃までは詩なんか書いているんだ」と、どこかで私の詩集を見て、大勘違いをしたわけだ。私が、マルコメ味噌の事情をよく知っていただけに、藤富先生まで巻き込んで大騒ぎの「田村奈津子事件」であった。
(COLOURの会合評提出作品 1999.5.22 宿題「勘違い」)


                     

彩色されたボトル


 イギリス人の盲目の女性が、何かに導かれるように錬金術的な方法で編み出したオーラソーマというセラピーを受けた。99本の色のついた水とオイルの瓶の中から、四本だけ自分の気になる瓶を選び、その色を通して自分自身を探っていくという手法だ。長方形の小さな瓶が、窓から差し込む光を背にずらっと並んでいる光景には、胸ときめくものがあったが、「あなたの選ぶ色こそがあなた自身だ」などと言われても、こんなにたくさんの瓶の中から、本当に自分の瓶が選べるのかと不安になった。しかし、自分に今必要な要素が含まれているものをきちんと選んでいた。成分は明らかではないが、植物や野菜や鉱物から抽出された色と香りが、霊的、精神的、感情的、身体的レベルに、はたらきかけて癒していくのだという。
 自分に必要な色の波動を感じて、直感的に選んでしまう潜在意識にも感心したが、この小さな瓶の圧倒的な力に驚いた。とにかく持っているだけて、眺めているだけで嬉しくなるのである。こんなに近いところに存在している色を通って、何とも遠い自分の身体の中に入っていけるのは、大いなる発見だった。
 瓶を持ち歩いているうちに、ふと北園克衛のことを思い出した。透明感のある色彩の喜び、ガラス質の言語、植物の色気、鉱物の共鳴力。四角い瓶から聴こえてくる妖精の言葉は、彼の詩の質感に似ているのではないか。
 私にとって北園は、遠くて近い詩人だ。実験的な作品には、近付きがたいと思うことがあるにもかかわらず、リリカルな彼の詩が大好きだった。しかし、この色鮮やかなガラス瓶を見ているうちに、彼の二つの側面が、自然に私の中で統合されていくような気がした。わたしの勝手な理解だが、彼は「次元のない容器」を作り替えながら、色彩の錬金術師としての実験を練り返していたのではないかと思ったのだ。いろいろと、フォルムを変えた北園の詩は、今も精霊が生きている瓶のようだ。
(COLOURの会合評提出作品 1999.2.20 宿題「遠い近い」)


                     

色付く机


 絵を描くわけでもないのに、やたらと色鉛筆が多いのが不思議な机である。
 キャンディーが入っていた缶には、ドイツのカステル社の鉛筆が二十四色立ててある。時折持ち主は、それらをうっとり眺めたりしている。一体、何に使うつもりなんだろう。
 机の上の本棚の前には、一食分のジャムが入っていた小さな小さな瓶に、わずかな五センチほどの色鉛筆が数本、大事そうに立ててある。よく見ると、フランスという文字が刻まれている。これは確か「エア・フランス」と書かれていたものの一部だ。持ち主が九歳の頃乗った飛行機の中で、スチュワーデスからぬりえと共にもらったものだ。
 そのちびたパープルの色鉛筆によりかかるように、片方がピンク色でもう片一方が青色の短くて少し細い鉛筆が立ててある。この鉛筆には確かポパイとオリーブがついていたはずだ。持ち主が十四歳の頃、京都の四条河原町の交差点の店で買ったものだ。お気に入りだったから、奇跡的に残った一本を、後生大事に持ち続けてるのだ。
 持ち主はとにかく色鉛筆が好きだ。近頃一段とエスカレートして、銀座月光荘の紙筒に入った十二色セットとトンボ鉛筆色辞典シリーズ第3集三十色を立て続けに買ってきた。ただでさえ狭い机の上に、使いもしない絵色鉛筆ばかり大事そうに並べて、無駄遣いもいい加減にしたらどうなんだと忠告したくなる。
 
草わかば色鉛筆の赤き粉のちるがいとしく寝て削るなり  北原白秋

 「気にいった」と、ノートに写した歌を読み返しては溜め息をつく人の胸中はいかに?
 まさかこの歳にまでなって、ただ色を塗りたいだけではあるまい。それにしてもなぜ?
 待てよ。よく見ると机の上の本棚には『色鉛筆の絵本』という色鉛筆画の描き方の本が立ててある。なるほど! どうやら彼女は実のところ、絵が描いてみたいのだ、色鉛筆で。
(COLOURの会合評提出作品 1998.8.22 宿題「わたしの机の上にあるもの」)



クールなボタン ホットなボタン


 私が今までに出会ったボタンの中で、最もクールなたたずまいをしていたのは、火葬場のかまどの扉の横に付いていたものだ。現在では、そのような設備をもつ火葬場も珍しくはないのだろうが、何しろ初めての出会いだったもので圧倒されてしまった。
 島根県松江市の外れの小高い丘にある最新設備の火葬場は、素晴らしくきれいだった。高い天井、白い大理石の部屋にはめこまれたかまどの前に、建たされた弟と私は馴染めない黒い衣装の中で緊張しきっていた。
 五メートルくらい離れたところに、透明なガラスの仕切りがあり、その向う側に親族はこちらを向いて立っていた。まるで、SF映画の一場面のようだ、などと考えながら、妙に客観的になってくる。一方で、自分の父親の亡骸をボタン一つで火の中へ送りこむような時代になったのかと、目まいがしそうになってくる。
 そんな分裂しそうな感覚の中で、弟がボタンを押すと、ゴォーッという音ととともに、かまどが燃え始めた。なんて残酷な……と、感じるはずだと想像していた私の頭は、このクールな進行のおかげで、かえって感情をゆさぶられずに済んだことに気づき、妙に感心してしまった。
 もしかするとあれは、日常から「死」に向かって大きく逸脱してしまった現実を、一瞬にして「生」の側へ引き戻してくれるボタンだったのかもしれない。
 話は代わるが、数年前にいつも泣きそうで怯えた表情の五歳の女の子に出会ったことがあった。その子をなんとか笑わせてみたいと思った私は、会うたびに彼女の洋服についている「ボタン」を、「元気ボタン」と言いながら押し続けた。半年後、彼女は泣きべそをかかなくなっていた。私にとってその子の笑顔は今でも特別なものとして記憶に残っている。
 ともあれボタンの後ろでは人間のさまざまな感情が切り替えられるタイミングを待っている。
(COLOURの会合評提出作品 1998.6.20 宿題「ボタン」紙版"rain tree"no.22掲載2002.2.2) 
 



ほくろのゆくえ


 夏目漱石の小説『三四郎』には、広田先生が、三四郎に向かって夢のは名詩をする場面がでてくる。生涯にたった一遍逢った女に、突然夢の中で再会したという小説染みた話だと告白するのである。どんな女かと尋ねる三四郎に先生は、「一二、三の奇麗な女だ。顔に黒子がある」と答えるのだ。その女が二十年前の姿のまま夢に出てくる。黒子もそのままで先生が女に「あなたは画(え)だ」というと、「あなたは詩だ」といったと三四郎に話すのだ。妙にここのやりとりが印象に残った。
 この夢の解釈には、いろいろな説があるらしいが、私は夢の中で見た顔の黒子を、覚えていられるのだろうかなどと、現実的なことを考えてしまった。そして『三四郎』にでてくる女性の顔について、以前聞いた話を思い出した。漱石がこの小説の中で、はじめて西洋人の女性の顔について描写をしたのがきっかけで、当時はやった美人画が、日本人と西洋人をまぜた独特な顔つきのものになったということだった。この黒子の女のエピソードに出会い、漱石の女性の顔への並い並みならぬこだわりを知り、その影響力の大きさに改めて感心してしまった。
 実を言えば、私も顔に黒子が多いほうだ。泣き黒子もあるし、眉間と鼻の両脇に、結んでいくとちょうど二等辺三角形になるように存在する黒子もある。これは生まれつきだからしょうがないと思っていたが、近頃黒子は冷えから生じるのだということを知った。半身浴や靴下を重ねばきするなどして、冷えをとっていくと、消える黒子もあるということだ。内臓の肩代わりをして拝毒作用をしている証拠らしく、病気の警告でもあるという。
 あれこれ考えていたら、先日黒子の夢を見た。久しぶりに会った友達の顔をじっとみると黒子があり、その黒子故に、何か重要なことを確認しているような夢だった。目覚めたとき、小説の広田先生の気持ちが、何かとてもわかるような気がして不思議だった。
(COLOURの会合評提出作品 1998.4.20 宿題「ほくろ」)


                     


    

ブッダの爪


 からだのなかで、一番時間の経過が感じられる部位は爪だ。以前手相を診てもらったときに、手を出すやいなや、「一ヶ月前に結構なストレスがありましたが、今はもう大丈夫ですね。」と、正確に指摘されたことがあった。それ以来、なんとなく爪をチェックするのが習慣になっている。
 なるほど髪の毛と同じく、最も細胞分裂が活発なのが爪だということだが、髪を切るように伸びる爪も切っている。髪の長さにもやはり時の流れを感じるが、なんといっても手の爪は常に視界に入る距離で動いているので、刻々と変化していくその表情を観察をするには、最適なのである。
 ちなみに現在の私の爪は、上から三分の一あたりのところがべこっとへこんで、変色している。それより下はきれいに平らで艶があるので、桜が咲く頃には自分の体調もすっかり回復するのではないかと、爪を眺めては楽しみにしている。
 桜といえば、この春高校入学が決まった男の子の家庭教師を八年間やっている。彼は、泳げない、足が遅いというのと同じような感覚で、いわゆる学校のお勉強が苦手だった。おまけに空想ばかりしているので、私は爪切りから、電話のかけ方までとやかく言ってきた。オール1の時代を経て何とかオール2までは底上げし、晴れて高校に入れることになった。そんな彼の好きな分野は歴史だった。
 面接試験の練習をしているときのことだ。彼の好きな東大寺の大仏について質問した。どんなところが好きなのかと尋ねると、手の形がおもしろいのだと答えたので、ちょっとやってみるよう促すと、即座に手真似をしてみせてくれた。その瞬間、あまりに美しい指の表情に、私は思わず見とれてしまった。大げさだが、指に仏様が現れているような気がして絶句してしまったのだ。よく見ると伸びた爪は真っ黒だった。何だかホッとして、面接には必ず切っていくようにと助言した。

(COLOURの会合評提出作品 1998.2.21 宿題「爪」)


                     


到来


 テラスの蔓薔薇の鉢の隙間に、ふと気がつくと雑草にしては立派な緑の植物が生えていた。よく見ると小さな白い花まで咲きかけている。こんなに生長するまでよくもまあ手入れを怠ったものだと、あきれるよりむしろ感心してしまった。薔薇には申しわけないがその植物の正体がわかるまで、寄合所帯でがまんしてもらうことにした。しばらくすると可憐な花は、緑色の見に変わっていた。どこからともなく飛んできて、堂々と実っていくこの植物の生命力が私にはとても頼もしかった。
 なんていう名前なんだろう?
 その秋体調を崩した私は、その植物の飛来を希望の兆しのように胸に抱きつつ治療に通っていた。ある日、品川の病院の診療室の片隅に、赤い実のなった件の植物が、小さな鉢植えで置かれていることに気がついた。私の心と身体は、一瞬にして晴れあがっていくようだった。なんていう名前なんだろう?
 どうしても知りたくなったので、鉢の隅に落ちていた赤い実をこっそりもらって帰ってきた。待ち合わせをしていた友人に見せると、「これ、家の庭にもなってた。鳥が種を持ってくるのよ」と教えてくれた。なんだそうだったのかと、ますますその植物を知りたくなった。
 花屋の前を通るたびに探してみた。やっと見つけた店で尋ねると、「サニーボーイ」という商品名ですけど正式名は忘れました」という寂しい答えが返ってきた。なんていう名前なんだろう?
 本を調べても見当らない。謎は深まるばかりだ。
 数日後、国分寺の治療院に向かう露地でとうとう赤い実に出くわした。幸運にも近くの花屋に売っていた。尋ねてみると「フユサンゴ」だと言う。なんだかこの前聞いた名前と全く反対のイメージじゃないかと笑ってしまった。突然やって来て根付いては実っていく植物の存在が私にはとにかく爽快だった。
(「COLOUR」4 1998.5.16発行 宿題「爽快」)



紫の記憶


 「都忘れ」の花が好きだ。
 あの濃い紫色をした小さな花を見るたびに、隠岐に流された後鳥羽上皇が、今まで都ばかり恋しく思っていたが、これからはこの花によって都を忘れられると歌ったことから「ミヤコワスレ」と名づけられたのだというエピソードを思い出す。紫の濃さと花の小ささのバランスが絶妙で、可憐で芯のしっかりした花の力を感じてしまう。いい名前だと思う。
 一輪ざしに生けて愛でたいという想いにかられるので、今でもテラスで育てている。
 アメジストが好きだ。
 河原の石、水晶、蛍石、ラビスラズリ、電気石等、宝石から砂利まで、石なら何でも好きだが、紫水晶はとくに気にいっている。心地良い波動にひきつけられて、握っていると自分の中心に向かって、気持ちがスーッと落ちていくように感じられる。手のひらにのせると、石はどれも振動しながら饒舌だ。何度も引っ越しているのに、机の引き出しから決して消えなかった小物入れの中には、色とりどりの石がぎっしりとつまっている。
 美輪明宏が好きだ。
 佐藤愛子の『こんなふうに死にたい』を読んだとき、美輪さんが霊視者として頻繁に登場していたので嬉しかった。霊界や前世の話等、今流行りの分野に明るい人だから好きだというだけの理由ではない気がしている。記憶を逆上ると『3時のあなた』というワイドショーが、テレビから大きな音で流れていた京都の穏やかな居間の風景が浮上する。太った祖母が寝っ転がってテレビを見ている。本棚には美輪さんの『紫の履歴書』、画面には当時の丸山明宏
 都忘れを愛したのも、石をくれたのも祖母だった。私を連れて歩くのが好きな人だった。大好きなおばあちゃんなどと思ったことはなかったのに、時折母が、私と暮らしていると自分の母親といるみたいだとおかしがる。
(「COLOUR」3 1997.5.31掲載 宿題「好き嫌い」)


月の予定



 もも色のビニールの財布を使っている。吉祥寺の「はいから屋」という店で買った。なつかしい気分になる色の財布だ。カバンから出すと、なぜか誉められることが多い。つい先日も友人が「いい色だね」と言うので、彼女の誕生日に、同じ物をプレゼントした。おそろいのビニールの財布なんて、なんだか小学生の女の子に戻ったような気がしていた。
 ところがである。昨日その友人に会ったらなんと、「本当に申し訳ないんだけど、あの財布をなくしてしまったの。」と打ち明けられてしまったのだ。「私はいいけど、被害はなかったの?」とまの抜けた問いかけをする私に、彼女はとても恐縮していたが、話しながら私は、つい先日の出来事を思い出していた。件の店に立ち寄ったときのことだ。色違いの財布が半額になっていたので、なぜだか知らないが財布に困ってもいないのに、また買ってきてしまったのである。財布をなくした彼女に、財布は大丈夫。元に戻るよ。中身はないけどね。」と、不思議な気持ちで勇気づけるように話していた。半額になり無意味に私に買われたように思われた財布は、どうやら彼女のものになる予定だったのだ。しかし、だれが立てた予定なのだろう?
 話は変わるが、つい最近松岡正剛氏の本を数冊まとめて読んだ。編集工学という新しい分野を、ユニークな発想で探求している氏の「ことがら、というのは「事柄」と書きますが、「事に柄が読めるもの、すべてが情報なのです。」という発言には大いに刺激を受けた。その上で、「情報はひとりでいられない」「情報は行先をもっている」という情報に出会うと、財布事件の構造も読めてくる気がする。松岡氏の『ルナティックス』という月にまつわるエッセイ集を読んでいると、「月は後ろ向きになって/煙を吐いて留守になる」という藤富保男氏の詩句に突然でくわした。まるでこの本(情報)は、私に読まれることが予定されていたようだとおかしくなった。
(COLOURの会合評提出作品 1997.4.5 宿題「予定」紙版"rain tree"no.22掲載2002.2.2)

                     



地図の時間



 地図をながめるのが好きだ。地図柄のノートやカードを街でみつけると、必ず買ってきてしまう。
 住んだことのある街、訪れたことのある街の地図はもちろんのこと、知らない街のものでさえ、私の記憶を深いところで刺激するように感じられる。こんなに地図にひかれるのには明らかに原因がある。
 九歳の頃、ハイデルベルクに住んでいたときのことだ。アパートの前の舗道では、ドイツ人の子どもたちがローラースケートを滑って遊んでいた。全く経験のなかった私も、二階の窓から覗いているうちに、どうしてもやってみたくなって、父にねだって買ってもらうことにした。私は一刻も早く滑れるようになりたかったので、転んでも転んでも練習をするために外へ出ていった。
 そのうち、へたくそなニホン人の子どもが練習をしているのを見つけ、近所の子どもたちが集まってくるようになった。私はまだ、全然言葉がわからなかったので、「ビー ハイズ ドゥー」と名前を聞かれても、(ハイスってハウスのことかなぁ)などと思いながら、住んでいた部屋のほうを指さしたりしていた。当然のことながらコミュニケーションは成立せず、私は動物にでもなったような気がしたものだった。それでもめげずに、私は練習し続けた。
 かなり滑れるようになると、ハイデルベルクの地図を眺めては一人旅の計画を立てるようになっていた。私が住んでいたケプラー通りを北上するとどうやら、モーツァルト通り、バッハ通り、ペートーベン通り、ワグナー通り、ハイドン通りがあるらしいことを発見した。地図を片手にスケートでその通りを探しにいった。見つけに行って何をするでもなく、もしかすると音楽が聴こえてくるかもしれないなどと思い、アパートの窓に向かって、耳をそばだてた。
 このときに、地図と音楽は私の中で分かちがたく結びついたのだと思う。地図の時間を、水色タイツの膝に穴を開けたままの私が、今でも滑っている。
(「COLOUR」 2 1996.6.30掲載 宿題「病気・怪我」)



飛ぶ手紙


 手のひらがかゆくなると、手紙が届いているのがわかるのだという友人がいる。そりゃ便利だねと感心した私には、そんな癖はないが、手紙が届く直前に、差し出し人の夢を見ることが時々ある。夢の中に差し出し人は大変強烈な印象で登場してくる。だから、目覚めても私は、はっきり記憶しているのである。これはたぶん、特別なことでも何でもなく私がたまたま夢日記を毎日つけているから気付いただけで、よくある夢のパターンの一つなのだと思う。
 手紙を書こうと思いたった人は、誰かに何かを発信したいわけで、そう思った瞬間に意識はすでに、受け取り人に向かっている。
 便箋に文字をしたためて封をし、切手をはって投函する頃には、形になった想いが、夢見る脳に、先に旅立っていたとしても、全く不思議なことではないような気がするのだ。
 ところがつい最近、さらにおもしろい体験をした。石毛拓郎という詩人と往復詩誌を発行している。手紙のように詩を交互にやりとりし、一冊の雑誌にまとめあげるのだ。
 最初の頃は、詩が相手から届いてから、あれこれイメージをつかまえて書いていた。あるとき、そろそろ届きそうだなという夜に、なんとなく思い浮かぶ言葉を、メモのように書きとった。さらに形を整えて一つの詩に仕上げておいた。果たして翌日詩が届いた。一読して目を疑ったが、テーマの違いこそあれかなりの単語がシンクロしていたのである。
 彼のエネルギーが空間を伝わって手紙より先に届いたのだろうと気がついた。
 オーストラリア原住民アボリジニは、空間を隔たりではなく意識だと考えるという。空間は意識と同じように、二つの様式に分けられ、知覚できる存在を意識的な心、知覚できない空間を無意識的な心であり、夢の連続体だとみなしているらしい。まさにこの感覚をリアルに体感して、見えない空間には何通もの手紙が満ちあふれている不思議を思った。
(COLOURの会合評提出作品 1996年ごろ 宿題?)


オームのかなたで



 「オーム」などと、私までが唱えるようになったと思ったら、オウム事件である。身体のかたい私が、ひょんなことからヨガを始めて一年になる。エクササイズを行う前には、必ず目を閉じて座り、深く息を吸いこんで吐くときに、「オーム」と朗唱するのだ。
 『世界は音』という本によると、オームというマントラ(音として唱える言葉)は「気息」から「気息」が生ずるまさにその箇所「言葉」から「気息」が、それとともにこの二つの概念に所属する一切のものが生ずるその箇所をあらわしているということらしい。
 なるほど、「オーム」と三回続けて唱えてみると、自分の内側の中心、空ともいえる場に戻っていくような気持ちがしてくるから不思議である。
 さて、今年の夏はいろいろと誤解を招きそうな状況の中、那須高原で行われたヨガの集中合宿に初めて参加した。朝五時に起きてお祈りをし、瞑想や、エクササイズ、聖典の勉強や、食事作りと、三泊四日を自然の中に引きこもって過ごした。不規則な暮らしをしている私には、自殺行為のような過酷なスケジュールに思われた。しかし、始まってみると意外に平気だった。
 外では、鶯が鳴き、ひぐらしの声がサラウンドスピーカーのように回り続けていた。
 二日目の夕方に、ウィパッサナの歩く瞑想というのを行った。「よくみる」という意味のこの瞑想法は、「右足、右足、右足」「眠い、眠い、眠い」というふうに、起こることに次々とラベリングしながら、歩き続けるものだ。宮殿の形の雲が夕日に染まっていた。私は虫の声、鳥の声をラベリングし続けた。すると突然、風の音、木々のざわめき、川の音全てが音楽になって存在し続けていることに気が付いてしまい、言葉を失った。交響楽の中を歩いている自分が「モモ」になったように思えてきた。私が長い間聞きたかった音楽は、すぐ目の前で展開されていたのだ。
(COLOURの会合評提出作品 1995.11.4 宿題「音」)



雲のおかげ



 雲には大変お世話になっている。
 そう思って、毎日暮らしている。仕事柄、いろいろな子供の部屋に足を踏み入れる。
 そこが雲の見える部屋だと、なんだか安心する。子供たちと過ごす時間の中で、時折、「ねぇ、あの雲見てごらんよ。」と、誘いをかけ、二人でぼんやりと眺めることがある。
 この瞬間は、まさに天からの贈り物だ。
 自己をうまく表現できず、自分で自分を傷つけてしまうことのあるS君は、「雲の話をしよう。」と、自ら言い出すことがある。
 S君は、雲のむこうには、亡くなった自分のおじいちゃんや、私の父が住んでいると言って、とてもうれしそうに話してくれる。
 アメリカ、フィリピン、日本の血が流れているクリスチャンのM君の窓は広い。四季折々の夕暮れの雲が見学できる。あるとき私が発見した建物のような雲を見せると、「あああそこに神の国があるんだね、と、妙に納得していた。子供たちとの雲観測が、私の脳内地図を拡張してくれる。
 雲にはつくづく世話になっている。
 友人のコーラスグループのために、詩を書いて欲しいと頼まれたことがあった。作曲担当のK氏に先に詩を書くようにと言われた。
 好きに書いていいと言われたので、『小春日和』という詩を作った。ファックスでK氏に送ると、見事にボツにされた。陳腐な表現が多すぎるとのことだった。「明日までに書きなおします。」と言って、泣く泣く電話を切った。その当時は、目黒区中根に住んでいた。不思議なことにK氏は1ヶ月ほど前に偶然目黒区大岡山に越してきたばかりだった。途方に暮れた私は、大岡山側のベランダに出て空を見上げた。その日は最高の小春日和だった。雲がのんびりと春をまねしてふくらんでいた。そうかとひらめき、その様子を詩に書いた。危機一髪を免れた。あの緊迫感の中で合唱曲が完成したときの喜びは格別だった。雲からはいつも知恵を授かるのだ。
(COLOURの会合評提出作品 1995.8.5 宿題「雲」)



風の道



 かつて、幼児教室というところで働いていたことがあった。個人的には、幼児教育と幼児教室の間には、微妙なズレがあるように感じているのだが、とにかくそういうところで子どもたちと過ごしていたことがあった。
 その教室では、毎年端午の節句のころになると、こいのぼりを利用して、「風」について科学的に考えさせるという指導があった。
 まず、風の絵を子どもたちに自由に描かせてみる。すると彼らは、青い渦巻きや、虹色の横線を描いてみたり、真っ白に塗ってみたり…と、思い思いの風を見せてくれる。
 さて、それからが大変だ。
 「本当に風はそんな風に見えるの?」
 「もう少し工夫したほうがよいのでは?」
 そう問いかけ、風向きや、風が事物に及ぼす影響に気付くよう誘導していくのである。
 私は心の中で、あんなに生き生きと、子どもたちのからだの中を通り抜けていった風の姿を消してしまうなんてと、指導を手伝いながらいたたまれない気持がしたものだった。
  ある日、一人の男の子が、森を抜けていく「風の道」を描いたことがあった。
 それを見た瞬間、私のからだにさえ、新鮮な緑の香りが届いたような気がしたのに、男の先生があっと云う間に、描き直しを命じてしまったのだ。理由はたぶん、こうだ。
 「そんな道、見えるはずがない」
 これじゃあまるで、『星の王子さま』だ。と密かに憤慨した私は、急いでその男の子の様子をうかがいに行った。案の定、彼はさっきの方がうまく描けたのにとしょげていた。
 詩を自覚的に書き始めた私が、突然その職場を去らざるを得なくなったのは、たぶんそんなところに理由があったのだろうと思う。
 なぜなら、私の詩は、風に色をつけたり、「風の道」を言葉で作りあげて、そこを行き来するようなものが多かったからである。
 今、これを書いていたら、偶然テレビからボブ・ディランの『風に吹かれて』が、ニュースのBGMで流れてきた。十歳の頃、初めて買ってもらったジョーン・バエズのレコードにこの曲が入っていた。「いいかい坊やお空を吹く風が知っているだけだ」と、彼女はたどたどしい日本語で歌っていた。
 もしかすると私が、風について初めて意識したのは、比叡おろしの吹く町で、この歌詞を聞いたときだったのかもしれない。
(COLOURの会合評提出作品 時期不明 宿題「風」)


空中庭園



 人は一体どのようなチャンスを得て、園芸家になっていくのだろう?
 チェコの作家カレル・チャペックは『園芸家十二カ月』の中で、素人園芸家になるには、ある程度人間が成熟して、おやじらしい年齢にならないとだめだと書いている。しかも、庭があることが必須条件だというのである。
 自分の庭を持つことなんか、考えてみたこともなかった地方出身の私は、チャペックの園芸家になれる条件を、どれ一つとして満たしていなかったので、長い間、単なる彼のファンの一人にすぎなかった。
 ところが、今から一年前、ひょんなことから越してきた西荻窪のマンションでは、五畳のダイニングルームより広いテラスが、ここは庭だよと言わんばかりに、待っていたのである。
 ある日の夕暮れ、フラフラと自転車で走っている途中、花屋の店先で、五百円で投げ売りされている薔薇の袋を発見した。オランダからわざわざ、海を越えてやってきた苗の立場を思うと、胸が痛んだ。
 さっそく店の人に育て方を聞き、すすめられるままに牛糞と土と苗を買って帰ってきた。
 そうか、花の女王は牛糞が好物だったのかと、感慨にひたりながら土に混ぜ、苗を鉢に植え込んだ。
 四階の庭に、健気に根付いていく彼女を眺めているうちに、私は、徐々に植物と土の関係にも、関心を持つようになった。それ以来、チャペックのいうところの「血液のなかに少量の土が入りこむ、一種の中毒・・・園芸熱に、かかっている。
 痩せた土に石灰を混ぜ、だんご虫のあせる姿に微笑みながら、無心になって耕す。時折、ギコギコギコと妙な音が頭上を走っていく。なんだろうと見上げると、カラスが羽ばたく音ではなく、翼のつけ根が運動する音だった。空に近い庭でだけ聞ける音だ。
 土遊びをしながら、種と花、現在と未来を同時に感じていると、妙に楽天的になる。
(「COLOUR」1 1995.6.30掲載 宿題「樹」)



語呂合わせ


 どうやら自分には、癖になってしまった冗談のような思考回路があることに、気がついたのは、つい最近のことだ。
 第二詩集(編集注『野性のスープが煮えるまで』花神社)を作り、最後に注釈をまとめ上げて初めて、自分は「シンクロシニティ」(意味のある偶然の一致)を通して、世界を見る癖があることを、発見したのである。
 「シンクロシニティ」について、よく発言されているアーチストに、画家の横尾忠則氏がいらっしゃるが、この春にも、彼の存在に関連して、私にとってはとても興味深いことが起こった。
 三月末に、弥生美術館で行われた『横尾忠則 昭和少年風景展』を観に行った。
 その名の通り、横尾氏自身が少年時代に描かれた絵、影響を受けられた物語や物語の挿し絵などが展示されていた。
 中には彼の故郷、兵庫県西脇市の「織物祭」のために制作された、ポスターもあったのだが、宇宙船が描かれたようなその作品が、なぜだか気にかかって仕方がなかった。
 そんな印象を無意識領域にほうりこんだ数日後、『旅人かへらず』をたずさえて訪れた影向寺で、晴れ渡った空の下、私は初めて本当に西脇順三郎という詩人に出合えたような気がし、その後も彼の詩を読み続けていた。
 冗談のような癖が出たのは、このときだ。
 ふと、「西脇市西脇氏? シンクロしてる」などと、関係づけてしまったのである。
 かくして、この二人の芸術家は、私の中で俄然、大きく意味を帯びて来た。
 考えてみると、東洋も西洋も越えて、森羅万象と共鳴しあって、湧いてくるような奔放な作品の成り立ちに、どこか共通点があるような気がしないでもない。それにしても自分の勝手な解釈すぎるのではないか?
 後日、西脇氏の評伝『寂しい声』(工藤美代子作)を読んでいたら、彼の実家が、明石次郎という明石の浪人が考案した小千谷縮の織り元で、問屋であったことから、自分の家のルーツが明石市に近い西脇市であると考えていた時期があったと、記述されている箇所を発見した。
(COLOURの会合評提出作品 1994年?月ごろ。 宿題「癖」)




モネが見た駅

 猛暑のせいか、あわてものの性格のせいか定かではないのだが、大きな勘違いをしたまま横浜に『シカゴ美術館展』を観に行った。
 朝日新聞に掲載された広告ページをチラッと読んで、モネの描いたウォータールー駅をぜひ観たいと思い出かけたのだ。
 テムズ川南岸にあるロンドンの八大鉄道終着駅の一つであるウォータールー駅は、私にとっては特別な駅である。
 一九九〇年、五月のこと。
 肉親二人をほぼ同時期に亡くし、二つの引っ越しでくたくたになった上、駄目押し状態で失業中だった私を、不憫に思った学生時代の先輩が、ロンドンに遊びに来るよう突然誘ってくれたことがあった。
 以前から、一度ストーンヘンジを見に行きたいと思ってはいたのだが、その時は何かに導かれるような感じで、気がついたらたった一人ウオータールー駅で、ソールズベリー行きのキップを買っていたのだ。
 モネが描いたウォータールー橋の絵は、今年に入って、何度か観る機会に恵まれた。彼は、ウォータール駅も描いたに違いない。
 あの駅をもう一度モネの絵で観てみたい。
 そんな思いを胸に、『シカゴ美術館』展の会場を歩き始めた。ルノワールの次のモネ。
 あれっ、ウォータールー駅じゃない。
 その絵の駅名は私の全くの勘違いで、パリの「サン=ラザール駅」だったのだ。
 何でそんな思い込みをしたんだろうと、自分でも呆れてしまったが、その瞬間にどんな解説書を読むより、モネが何を描こうとしたのかが、はっきりわかったような気がした。
 たとえ蒸気機関車が姿を消しつつある二十世紀末でさえも、人々の期待と不安、解放感と緊張感の入り交じった気が、都市の駅の構内には充満して、揺らめいているのだろう。
 モネの眼が見ようとしていた駅特有の気配が、自分の記憶と絵を重ねることによって、からだの中を流れていくように感じられた。
(COLOURの会合評提出作品 1994年8月27日 宿題「駅」)
tubu<詩を読む>田村さん、久しぶりにちゃんと話したいと思って書きます。(ヤリタミサコ)
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