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vol.22
<詩を読む>
 

田村さん、
久しぶりにちゃんと話したいと思って書きます。


ヤリタ ミサコ
  もう1年以上かしら、お会いしていないのは。いえ、小さく冷たくなったお顔にさようならと言ったのが、この前の10月のことでした。でも、またいつかは会えます。私の大好きな人たち、死んであちらの世界で生きている人たち、が、私の行くのを待っていてくれます。そのときを楽しみにしています。
 で、「野性のスープが煮えるまで」「人体望遠鏡」の2冊の詩集のことをまとめてお伝えします。断片的にしか話していませんでしたもの。私としては「地図からこぼれた庭」が最も田村さんらしくって一番ヨイと感じています。私には手出し口出しのできない、独自の世界を築かれたものです。そのことは充分に言ったつもり。でも、この2冊には言いたいことを全部伝えていなかった気がするので、ここで書きますね。

1 野性のスープは、オトナには食べられない


 32歳のときの第二詩集です。若書きといってもやむをない、です。特にタイトル詩といってもよい一番目に配置された詩を見て、私はだいぶ困りました。私は田村さんよりも5歳年上ですが、お互いに30過ぎてからのおつきあいだから、ほとんど一緒くらいの感覚です。でもそのときは、ほんとに困りました。

    野性のスープ

  夜の階段を
  スキップでかけあがる
  そこに ミロ(*1)がいて
  今日のスープを煮込んでいる

  きみの洞窟の
  おもちゃ箱をひっくり返して
  カタツムリを3匹
  とってきなさい

というのが第一、ニ連、そして4行ずつ、あと2連が続きます。どこが困ったかというと、「ミロ」に困り、かつ、そこにアスタリスクで注がついているところにもっと困りました。ホアン・ミロは私の大好きなアーティストのひとりですが、注を見てみると、やはりそうでした。それ以外の注記はありません。そして、第二連の突拍子な調子、第一連との脈絡のなさ、です。
 困ったことをもっと詳細に説明しましょう。田村さんという現実の女性を先に知っていたので、この詩からより深くその詩人のことがとらえられるとは思えません。逆です。かえってわかりにくくなります。が、もしも現実の人そのものを知らないで、テキストだけ読んだとします。コトバではとうてい定義できない、何かイマジネーションの世界のオモチャを得意げにみせられたカンジです。どう?私の宝物よ!と。
 作者にとっての宝物だということはわかりますが、残念ながら、それはお子様の宝物。オトナにとってはどろんこのスープであり、単なるガラクタおもちゃです。 そうなんです。ここで、作者は読者を試します。オトナにはガラクタにしか見えないものを、宝物として感じられる人かどうか?ホアン・ミロと生き生きと会話できる人かどうか?
 私はオトナ側に立ってしまっていました。もう、アリスより大きくなりすぎて、小さな穴の中に転げ落ちることはできません。耳に聞こえない声は聞けなくなりました。だから、田村さんにとっての宝物を一緒に楽しむことができなくて、困ったのだと思います。

2 八月の割れた窓からは現実とイマジネーションの世界が行き来できる


 田村さんには直接言いましたね。私はウディ・アレンのフリークで、「カイロの紫のバラ」は大好きだし、うずうずっとして泣けちゃったよって。
 「八月の割れた窓―1992―」は、前章で述べたことが具体的事例で表現されています。このエッセンスは、この詩集のあとがきにあります。

昔住んでいたドイツのレストランのメニューには、大抵「ターゲスズッペ」(今日のスープ)というのがありました。
異国の地で、「今日のスープ」に温められて生きていたせいか、私は今でもスープに目がありません。

と書かれている、心の中のスープのことです。うーん、わかりにくいかなあ。つまりね、田村さんは、小学生のときの過去の体験として「今日のスープ」の味を持っています。でも、20代で思い出している「今日のスープ」は、心の中で再構成された味です。これは、イマジネーションの味だから、レシピがジャガイモとか塩とかパプリカとかの材料ではなく、冷たい空気とか鼻につんとくるニオイとかスクリーンの向こうに行きたくなったとき、とか、という材料でできてるんです。
 そのイマジネーションのスープと現実の体験のスープが二重になって出てきているのが、「八月の割れた窓―1992―」なんです。以下はその部分。

  わたしが好きな人たちが みんな好きだった
  「カイロの紫のバラ」(*8)
  もう ウディとミアは一緒に 映画を作らないんだね
  あの日の ウクレレ 置き忘れたまま
  夢と別れた少女が
  濡れた瞳でスクリーンから抜け出してくる


 この詩に出てくる「カイロの紫のバラ」という映画は、ミア・ファーロー扮する、もう若くもなく今後人生に起こりうることはほとんど予想できてしまう、さびしげで夢想癖の女が、田舎町の映画館でヒーローものの映画を見ている。熱中しているうちに、スクリーンから飛び出してきた主人公と共に、波乱万丈のストーリーに自分も参加するヒロインとなっている。ああ、これを待っていたんだわ!と。でも、現実に戻るシンデレラの時間。泣ける、泣ける、と思っていたけど、やはり泣けました。
 現実とイマジネーションの境目は、物理的な布であるスクリーン。でも、想像力は自在に往復できる。映画のスクリーンの世界とそれを見ているミア・ファーロー、そしてミアを見ている観客の私であり、田村さん。想像力で映画のヒロインになれるミア、想像力でミアになれる田村さんであり、私。世界は、こちら側にあるのではなく、ほんとうはスクリーンの向こう側にあるのだ。切ない気持ちの映画です。自分にとっては真実の心情はスクリーンの向こうにあるのに、体が仮に住んでいる世界の時間やルールに従わなければならないのだから。
 田村さんにとっての真実のスープは、スクリーンの向こう側。私の内的真実もスクリーンの向こう側なんだけど、これが、違う向こう側なんだなあ。こちら側ではないということは共通なんだけど、方向の角度か距離か、私と田村さんでは何かが違うんですよ。
 田村さんが、その向こう側の真実を語ろう、伝えよう、としていたのはわかります。そしてそれが、コトバでは表わしきれない向こう側のことであることも。だから断片にしか見えなかったり、ミロやミアなどの媒体となる登場人物が必要だったこともわかります。でも、ちょっと不満でした。映画の枠組みを借りるとか、タルコフスキーとかケストナーとか他人のコトバを引用することでしか顕現できないんだろうか?と。

3 ほんとうの声はほんとうだから、表現しきれない


 
    ほんとうの声

  ほんとうのおしゃべりは
  だまっていても ダイアローグ

  一人なのに
  四っつの瞳が世界を見つめている

  感覚器官は
  静かでも 響きあう水

  はなれているときも
  誰かに話しかけている

  耳を立てて
  からだの声をすくう

  色が聴こえて
  音が見える
  (後略)

 だんだんわかってきました。私自身が。田村さんに聴こえる色と見える音が、私には聴こえないし、見えないんです。田村さん自身が聴こえて見えている、ということはよーくわかりますが。ほんとうの声というのも、私の「ほんとう」と田村さんの「ほんとう」は違うのです。田村さんが現実ではない、「ほんとう」の声を感じていることもよーくわかります。
 ああ、ちょっとさびしいです。シェアできないんです。そして、わたしの「ほんとう」もきっと誰かとシェアできるものではないでしょう。そのシェアできなさ、という限界を置きつつ、でも、聴こえて見えている「ほんとう」を書く、想い。ねえ、田村さん。
 でも、田村さんは他人にシェアされないことはわかっていて書いていたのかもね。自分に聴こえる色と見える音のナカミを書こうとすることよりも、そういう世界があるのだよ、ということを書いたのでしょう。だから、そのナカミを理解しようとすることは意味がないかもしれません。それこそ、オトナの論理であって、感覚の自由さを見失うことかもしれません。

4 人体望遠鏡が見て記録したもの


 向こう側にある内的真実、それを自分の身体の奥底のそのまた底(もしかしたら身体さえも突き抜けた向こう側)にいくらか像を結んだのが「人体望遠鏡」という詩集です。さきほどのミロやミアには、ミロやミアである必然性は感じませんでした。が、「人体望遠鏡」では、さりげないことばのなかに切々たる実感が重くこもっています。「天の滴」全文です。

    天の滴

  赤い雨が
  大地に突き刺さり
  ピリピリと
  静脈を刺激した

  チェロの響きに
  耳を澄ませて
  真昼の星を
  思い浮かべた

  瞳から雨を降らせ
  細胞の戦場を悼んだ

  巡る水をみつめて
  音楽の奇跡を信じた

 ピアノではなくてチェロである必然性、カザルスかどうかはわかりませんが、静謐な真昼の星である奇跡の音、耳に聞こえるのではなく心に届く奇跡の音でなくてはなりません。一般的には「奇跡」というキリスト教やその他の宗教を思い浮かべることばは、そう簡単には使えません。でもここでは、神秘的な意味での奇跡です。まったくスナオに奇跡、がすっと入ってきます。
 ストーリーは、おそらく乳がんの手術をされたのでしょう田村さんが、がん細胞の戦場を思って涙して、でも、体液が循環する力に回復を信じた、ということだろうと思います。詩作品として、比喩がすぐれているとか構成が巧みだ、というレベルを超越して心を打つものがあります。真実です。体験したから真実が描けるわけではありません。この作品では、受容しにくい体験を全身で受け止めて苦しみながら、その苦渋の中から透明なエッセンスを得ています。ことばで書くほどにやさしいことではないのは、誰にでもわかることです。
 その血の貴さ、そのことばの透明さ、その力の信頼と限界、圧倒されました。もちろん、冷たくなった田村さんのお顔を見た今だからそんな無責任なことが言えるのかもしれません。でも、本当にこの詩を読んだときに、田村さん、天使に会ってきた、と思いました。
 もうひとつ、「天使の角度」が同様なテーマを凝縮した内容で書いています。

    天使の角度

  からだが壊れたら
  石をさわりにいく
  手のひらから
  響きを感じて
  音符のかたちに眠る

  からだが泣き出したら
  砂浜に寝転びにいく
  背中から
  波を聴いて
  水のかたちに揺れる

  (略)
  からだが流れ出したら
  夢を結びにいく
  脳天から
  はみ出して
  天使の角度を射る

 最初の2連を引用しました。読み手の感傷など許さないほどの、緊密で飾らないことばたち。田村さん、あなたの「ほんとう」はこのような痛みを経由して表現されたときにようやく、私の中にドーンと突き刺さってきました。かつて、スクリーンの向こう側に無理やり手を伸ばしているようなもどかしさを感じていた私は、ようやく田村さんの「ほんとう」に感動しました。
 タイトル詩の「人体望遠鏡」も感動です。

    人体望遠鏡

  流れる汗の源を問うと
  遠い川で洪水がおきている
  
(略)

  夢が走っている
  白血球が増えている
  
(略)

  皮膚の地図を読む
  爪の輝きが灯台代わりだ
  
  脈をとって目を閉じ
  人体望遠鏡をのぞく
 
  見知らぬ船がわたっていく
  転調した波で汗がひく

 ここでは、「人体望遠鏡」という装置を発見したことが成功していますね。もちろん人体の内部を超音波などで画像化する機械のことなのでしょうけれど、それを人体望遠鏡と名づけた田村さんの勝ち、です。私は、脳波をとったとき、田村さんのこの詩を思い浮かべました。肺炎の熱で苦しいときは、飯田有子さんの「たすけて枝毛ねえさん」を唱えていましたけど。病気のときって、何かことばにすることができると、いくらか苦しさが軽減するような気がしますよね。
  この詩の連では、「流れる汗の源を問うと/遠い川で洪水がおきている」「皮膚の地図を読む/爪の輝きが灯台代わりだ」という2連が好きです。田村さんが発明したことばが「人体望遠鏡」ならば、私は「人体鳥瞰図」ということばをここで確信しました。人は鳥のようには自分たちの立っている大地を見ることができないのですが、でも、測量という技術とその表現法によって鳥瞰図を描くことができます。同様に私たちが自分たちの肉体から離れられないにもかかわらず、田村さんは、自分の肉体を鳥瞰しています。ああ、なんて悲しい意識化でしょう。
 

5 ようやく田村さんへ言えるようになったこと


 この文を書き始めて約1カ月たちました。最後に個人的な心境と環境の変化をお知らせします。2週間前に私も父を亡くしました。田村さんとは違う意味で、心理的に大きく影響があります。というのは、弟とか、母とか、その他の親戚とかとの間の葛藤が顕在化してきて、非常につらい思いが湧いてきています。
 私は家族を持たず、子どもも産まない人生を選択してきましたけど、今、そういう緩衝地帯を持たないキツさを感じています。田村さんも、もしかしたらそんなふうなこと、感じたかしら?
 田村さんのことばの奥の奥のずっと底にあるものは、なんとなく感じるものがありました。今自分が心理的葛藤のただ中で、そこからことばを搾り出したら、きっと、客観的にはわかりにくいことばになるんだろうなあ、と思います。
 田村さん、また書きますね。

ヤリタミサコ

ふろく 「詩人たち」"rain tree"に掲載したヤリタミサコの作品
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