![]() ![]() ![]() ![]() | ふろく![]() ![]() ![]() ![]() |
「そのために」雲はぎらっと光る 「小岩井農場」の初めの2行を読む 関富士子 |
「小岩井農場」のパート1は次のように始まる。
わたくしはずゐぶんすばやく汽車からおりた そのために雲がぎらつとひかつたくらゐだ このたった2行に描かれた情景のなんてすてきなことだろう。 「わたくし」の動作とその上に広がる自然を一気に描写している。客車の薄暗さに慣れた目が、乗降口のタラップを踏み大急ぎでホームに降りた瞬間、春の明るい光を浴びる。晴天ではなくかなりの雲量があり、太陽は雲の塊の背後にあって、雲の縁をぎらっと光らせる。 なにかが起こりそうな予感がするのだ。詩の始まりの二行なのだからそれは当然なのだが、なにかただならぬ、尋常ではない出来事の始まりを思わせる。この冒頭を読むたびに、なぜこんなにわくわくするのだろう。 ひとつには「ぎらつと」という擬態語。けっしてのどかな日差しではない。太陽の光が、厚めの雲のちぢれた縁から漏れたのだ。空から地上をのぞく怪物の一つ目が一瞬輝くように、不気味なまがまがしい輝きである。 もうひとつ、この二行の文としてのつながり方。二行は、文脈としては、「わたくし」が汽車から降りる動作がとても速かったことを強調するために、雲から射す光をまぶしく感じたほどだという事実を述べている。しかし、ほんとうにそれだけだろうか。 二行目の冒頭にある、「そのために」という言葉。それが原因で、という意味の接続語である。「わたくし」のとった行動と、雲がぎらっと光る光景が、原因と結果をつなぐ「そのために」でつながれているのだ。 これは奇妙なことではないか。人間のごく普通の日常の動作が、自然の気象に影響することなどあるだろうか。まるで、「わたくし」が汽車からすばやく降りたことが原因で、空に浮かぶ雲がぎらっと光ったというかのようだ。 いやいや、比喩でもなんでもなく、奇妙なただならない天変が、この冒頭の二行に明らかに起きてしまっているのだ。 「わたくし」はこれから小岩井農場への道のりを徒歩で行こうとしている。時間は限られているから気がせいて、他の乗客より先に汽車のタラップを駆け降りた。ただ歩くのではない。歩きながら手帖を広げて、あらゆる情景、生起する心象をスケッチしていく。 賢治はこれを詩ではないと言っているけれども、長い距離を歩く分、それは長大な詩になるだろう。 わたくしはずゐぶんすばやく汽車からおりた そのために雲がぎらつとひかつたくらゐだ 詩人は、汽車から降りた瞬間に、頭上の雲にすばやく感応したのだ。彼がこれからの道中に、人間、馬、鳥、木、ユリア、ペムペル、あらゆる存在と交感していく始まりである。雲は、その詩人の頭から突き出た、尖った尋常ならざるアンテナに感応して、怪しくぎらっと光ったのだ。 |
「そのとき」という瞬間 宮澤賢治「印象」(『春と修羅』より)を読む 関富士子 COLOUR8 2002.6.掲載予定(宿題「瞬間」「束の間」 |
Larix,Larix,Larix,瞬間は永遠に通じるといわれるが、宮澤賢治の詩に描かれるひとときの光景ほど、無限の世界を思わせるものはない。 Larix(落葉松)は針葉樹には珍しく、落葉して春には新しい尖った葉が芽吹く。松の針と空の色の鮮やかさ。リズミカルで、詩人の心の弾みも伝わってくる。 賢治はLarixをこんなふうにも描写している。 ラリツクスの青いのは新鮮で青い「神経の性質」をもつラリックスと、列車の展望車に立つ「藍いろの紳士」。紳士の体は透き通るようにはかなく、ひどく思いつめた様子で光る山を見ている。「そのとき」彼が見たのは、山上に立つ一本のラリックスではないだろうか。 ラリックスと紳士には共通点がいくつもある。「青」とそれに黒を加えた「藍」。松の幹の堅さと「X型のかけがね」や「帯革」の堅固さ。見晴らしのいい山頂に生える針葉樹と 「展望車」に「まつすぐに」立つ人、木の「神経の性質」と紳士の「病気のやうな顔」。両者は同類の存在でありながら、遠く離れて近づくことができない。 「藍いろの紳士」のイメージは、木に恋する詩人自身の苦しみから生まれたのではないか。「そのとき」とは、詩が生まれるミステリアスな一瞬を指している。それは、詩人の想像力が、木と人間と、二つの存在を融合させた瞬間のことだ。 |
![]() ![]() ![]() ![]() | ふろく![]() ![]() ![]() ![]() |