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vol.25

<雨の木の下で>


  デニーズ・レヴァトフ氏の詩を訳して
2002.12.25 山本楡美子


 アメリカの詩人、デニーズ・レヴァトフ氏の若い頃の作品を訳して『ヤコブの梯子』を出したのはもう八年も前のことである。その後も、氏の後半生の詩を訳したが、力不足や怠慢もあって、まとまったものにするまでに至らずにいる。氏から学んだものはいっぱいある。氏の耳や目の鋭敏なこと、詩のことばが瞬時の生きる喜びや人生の深い意味を、開放されたおおらかな感性でとらえていたこと、それが氏の呼吸のリズムで書かれているために音楽的であったり、一瞬のイメージを鮮やかに捕らえているために絵画的であったりしていることなど。神秘宗教家の家系に育ち、詩を秘蹟のように考えていたことを知ったときも、氏が抱くことばの力について改めて考えさせられた。
 氏については書かれたものを通してしか知る方法がなかった。ヴェトナム戦争反対の詩を書いてから、氏の名声はさらに広がり、反戦運動家となったことも知った。「戦争の時代に生きて」や「ヒロシマ」などの反戦詩に続く詩が書き継がれていったこともいくらかはわかっていた。だが、わかっていたのはわずかであった。
 本を出してから大分たって、矢口以文氏の『アメリカ現代詩の一面』に出会った。この本は、私がレヴァトフ氏を知る以前の一九八三年に出されている。一九七六年、ヴェトナム戦争終結一年後、矢口氏はボストンのとなり町ソマビルにレヴァトフ氏を訪ねた。著書にはその時のことを書かれたエッセイとインタヴュー記事が載っていた。そこで特に記憶に残ったのは、レヴァトフ氏のこんな発言である。反戦詩を書かない詩人がいる。反戦詩は書くのが難しく、誰でも書ける訳ではないから、それはそれでしかたがない。しかし平和の詩を書く詩人は書くと同時に平和運動をしなければいけない。
 詩人の自負と反戦思想が直に伝わってくることばである。訳詩集を出す前に『アメリカ現代詩の一面』に出会っていたら、訳詩集は違ったものになっただろうか。そんなことを考えながら、レヴァトフ氏についての格好の資料をお知らせして。

  読書室にて      2002.12.25 山本楡美子


 人が何かに夢中になっている姿は魅力的だ。魅力的な姿は手本になる。たとえば、図書館の小部屋で、小さい脚を投げ出して本を読んでいる子ども。彼らはほかのことが目に入らないくらいに夢中で読んでいる。その近くに、もうひとりお手本がいる。子どもと同じくらい小柄なひとりのおばあさん。子どもの向かい側の壁に寄りかかり、本から目を上げない。わたしはお手本に挟まれて本を読むのだが、つい顔を上げて、おばあさんを見てしまう。小さな顔に小さな眼鏡をかけて、その他には何も興味がないというように児童書を読む姿は、絵本の中のくまさんを思い起こさせる。物静かで、たんたんと日々を繰り返し、そのために、辺りになにか物悲しささえ漂わせているくまさん。おばあさんは畳敷きの部屋で、幼児といっしょにどんな気持で児童書を読んでいるのだろう。いつ来て、いつ帰るのだろう。配偶者はいるのだろうか。
 そのおばあさんに、川沿いの道で一度だけ会った。絵本からそのまま出てきたような物腰で、しばらく一緒にいたい気持にさせられる。川沿いの和菓子屋さんで買い物を済ませ、ほかの何ものにも関心を示さず、夕暮れの薄暮れのなかに消えていく。
 人様のことをそんなに見てはいけないことはよくわかっているので、自分を懲らしめるつもりで下を向き、気配だけを感じながらいっしょにいると、自分が幸せになっていくのを知る。そういう人には頻繁には遭遇できないものだ。そしてその姿は、詩人武田隆子氏を思い出させてくれた。武田氏は詩を大切にして書きつづけていらした。一度だけわき目をしたときの悲しみを何度も話してくださった。「風」の土橋治重氏に「今何をしていますか?」と聞かれて「花を育てています」と言ったときのことである。詩ではなく花を育てていると答えたことは、後になって氏に響いた。そのことを書かれたエッセイは思い起こすたびに胸にしみる。

 ドーラ     2002.11.20 山本楡美子


 夏の盛りに、数人で梓川に沿って、河童橋から明神池まで往復したことがある。梓川の神秘的な美しさは胸が痛むほどのものであった。川と森、つまり、自然のバランスがかろうじてそれを緩くしてくれたような気がする。
 どの川の表情も、その乳緑色の色の中に、女神だったり、眠るオフィーリアだったり、天使だったりを思い出させるのは、私にどんな感情の推移があるからだろう。かなえられない愛――伝えられない愛に抱く感情ではないだろうか。一方的に川に惹きつけられ、しかし、離反せざるをえないこちら側の事情。そんなことを考えながら往き道を歩いた。
 帰り道は、こちらにも免疫ができた。畏敬の気持を抱きながらも、川のほとりで持参したサンドイッチを食べることができた。私が綿毛を見たのはそんなときだ。直径3センチほどの丸い綿が、木の根方に沿って、ふわふわところがっていく。何だろうと思っていると、今度は宙に浮いて、木と木と間をゆっくりと浮遊していく。
 こんな森の中でも、私たちが生きていくときに必ずついてくる綿屑というものが生じるのかと感嘆しつつ、なぜか、私はその綿屑の存在を仲間に伝えることができなかった。
 帰京して、しばらくしても、綿屑のことが頭から離れなかった。友人に話すと、見当がつかないと言われた。はかない感じはしたが、まるで、聞こえない歌を歌っているようだった。あれは生きている、という思いを断ちきれなかった。どうしても気になって、私は一編の童話を書いた。その綿毛をドーラと名づけ、森と町を旅させた。それで気持がおさまったのか、綿屑のことは忘れることができた。
 ところが、先日(11月6日)「折々のうた」に、「わたむしのふわつと逸れて日まみれに」(松本旭)という句を見つけた。雪虫とも呼ばれ、風もない日にもふわふわと綿屑のように空中を浮遊する昆虫とあった。晩秋初冬の頃に浮遊するのだそうだ。
 はっとした。だが、私が見たのは夏の真っ盛りだった。だから、あの綿屑が綿虫であるはずはない。自然にわかるまで確かめるのはやめようと思った。なぜなら、ドーラが最初から綿虫だとわかっていたら、彼女は生まれなかっただろうから。


 屋根に上って     2002.11.6 山本楡美子


 このまま放っておいたら雨漏りがするということがわかって、二十数年ぶりに屋根を塗り替えてもらうことになった。
 秋のある日、家の回りに鉄パイプの足場が張り渡されて、その上から大きな緑色のネットがかぶされた。家はまるで大きな繭に入れられたかのようだった。塗装が終わった後も、鉄の梁と緑色のネットが残され、繭の中の生活はつづいた。
 鉄パイプは二本づつ、およそ二メートル間隔で三段に組まれていた。いくら脚の長い男性でも二メートル毎のパイプをひらひらと上って行くことはできない。調べてみると、家の左右のパイプの組み方に段差があり、さらに一ヶ所だけ、その段差に加えて、短い補助のパイプが足場となるように付け加えられていることがわかった。
 わたしは思い切ってその足場に足をかけて、屋根に上ってみることにした。
 晴れた日、屋根は一面に煉鉄色に光っていた。しゃがむと、吸い付くような感触だが、傾斜しているので、坐っていても不安定だ。その不安定さが逆に「宙」を感じさせてくれた。天使なら、さらにあの空まで梯子を上っていくに違いないと思いながら、それから三日つづけて屋根に上った。
 だが、こんなことができたのは、鉄の枷をはめられて組まれた鉄パイプや丸太の足場のおかげである。がっしりした鉄パイプの足場も、小さな風が吹くたびにヒュー、ヒュー、ヒューと声をもらした。昼夜を問わず折りに触れて聞いたが、眠れない夜は、その声を聞いて過ごした。それはかすかで、犬の遠吠えにも似ていて、聞くものの気持を内に向かわせた。ああ、今自分は何をしているのだろう、そうだ、家族と食事をしている、そうだ、手紙を書いている、というように、自分を振り返らせ、不思議にも密度の濃い生を感じさせた。
 しかし、この音との共生は長くつづかず、数日後に足場と共に去っていった。雨音や風音に気づくとき、それは自分に気づくことに通じるという詩を読んだことがある。心が飢えていれば、風の音も、重力による家の梁の音でさえ、ある魂として創り出されたものだと思えるのである。


 
<雨の木の下で>瓦屋根の上の光景(関富士子)へ
<詩を読む>ブローティガンが帰ってきた!(中上哲夫)へ
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