リチャード・ブローティガンがモンタナ州ボリナスの自宅でピストル自殺したのは1984年10月24日だったから、あれから20年近い歳月が流れたことになる。時間は矢のように飛ぶという平凡な感慨が、かぼちゃ頭をよぎる。
視野から消えると、心からも消える。
正直にいうと、この間、ブローティガンを思い出すことはあまりなかった。そんなところに、唐突に、『未発表作品集』が出た。1999年のことだ。
1956年、ブローティガンは雨の多いオレゴン州から陽光輝くカリフォルニア州へとヒッチハイクで出発したが、『未発表作品集』はそれ以前に書かれた未発表の詩や散文を集めたものだった。そして、その本を読んだのがブローティガンを思い出した数少ないときのひとつだった。
それから数年たった本年、ブローティガンの生涯と作品をたどった藤本和子の『リチャード・ブローティガン』(
新潮社)が出た。そして、この本を読んで、それまでぼんやりと想像するしかなかったブローティガンの生涯が初めてわたしの前にはっきりと姿を現わしたのだった。この本が重要なのは、ブローティガンが自伝的な詩人/作家だからだ。
そして、今回、かれの生涯の輪郭を知った上で『未発表作品集』を読み直したとき、ブローティガンの詩と散文が新たな光のもとに輝き始めたのだった(「自伝的」というとわたしの好きなジャック・ケルアックが好きだったトマス・ウルフはいったっけ。「すぐれた作家はすべて自伝的だ」、と)。
ブローティガンが自分のほんとうの姓を初めて知ったのは、高校を卒業するときだった。それまでティトルハウスという継父の姓を名乗っていたのだ。
ブローティガンの母親メアリー・ルーは不安定な性格の女性だったらしく、かれが生まれたときはもう別の男と暮らしていた。その後も、男や土地をてんてんと移り歩いた。生活保護を受けたこともあったし、住む所がなく義父たちと福祉モテルを渡り歩いたこともあった(福祉モテルがどんなものなのかはわからない)。母親が男とどこかへ消えてしまうこともときどきあったし、ブローティガンが義父から虐待を受けることもあった。
そんな知識を得たあとで、『未発表作品集』を読み直すと、作品に以前とは別の光線が当てられるのもやむをえないことだろう。
親愛なる懐しのママ
ぼくの母は
大した
女だったよ。
そうとも。
もぐらを
完璧に
まねた
かの女の
魂に
神の祝福を。
ブローティガンは、母親から親らしい言葉をかけられたり、やさしく抱いてキスされたりしたことは一度もなかった、という。
さらば、オイディプス・コンブレックス
クリスマスには
母に贈ろう
と
思う、
時限爆弾を。
カルヴィン
1
カルヴィンは
3歳
だった。
4
あるとき、ぼくはパンに手を伸ばした。
・
パパは怒った。
・
そしてフォークでぼくの手を叩いた。
・
それでぼくは声をあげて泣いた。
6
トムという名前の黄色の猫を飼っていた。
・
よく喉をならすかわいい猫だった。
・
ぼくはトムが大好きだった。
・
ある日、トムはどこかへ行ってしまった。
・
トムは二度ともどってこなかった。
9
「あんた、かわいいわね」と、ママがいった。
・
「ほんとかわいい子ね」
・
ママはぼくを抱いて、キスした。
・
ぼくはママの胸の小さな丘にさわった。
・
やわらかかった。
・
丘は2つあった。
・
2つとも好きだった、ママの目や声と同じように。
・
ママの口はピーナツバターよりもいい味がした。
せつないね。「カルヴィン」のパート9なんてかれの幻想だろう。願望としての(「トムの魂」という詩には、「怯え、さびしい、かなしい生き物、すなわちトムの魂が、/欲したのは愛だけだった。それはただ求めた、/暗闇の記憶がすっかり去るまで、/両の腕で抱きしめ、キスし、あやしくてれる女(ひと)を。(中略)だけど女のひとはトムの魂を抱きしめ、愛することをしなかった。/それで、/いうまでもなく、それは飢えて死んでしまった」とある)。また、パート4は実際にあった出来事だろうし、つぎの詩も実際にあった話らしい。
よくある話
ひと冬、モンタナ州ビュートですごしたことがあった。
・
母がフランクとかジャックとかいう名前の男と失踪したあとのことだ。
・
父はコックで長時間はたらいた。食事のとき以外めったに顔を合わせなかった。父はヴァージニアという名の娼婦と暮らしていたので。
・
ヴァージニアはぼくが好きじゃなかった。
・
ぼくにはホテルに自分の部屋があった。
生涯二度と、ブローティガンは不幸な幼少年期を送った太平洋岸北西部へは帰らなかった。帰る気もなかったらしい。カリフォルニアに出てくるに当たって、かれは『未発表作品集』の詩や散文をすべてガールフレンドに委ねたのだった。写真やなんかと一緒に。つらい記憶のこびりついた太平洋岸北西部を捨てるかのように(後年のかれの詩や散文に見られる独特の発想やスタイルは、単純な形ではあるけれども、この作品集にほぼそっくり見ることができる)。
リチャード・ブローティガンは太平洋岸北西部のワシントン州やオレゴン州の子ども時代の亡霊をついに追いはらうことができなかった。かれ自身とかれが見た者たちの貧しい暮らし、感情的に不安定だった母親、父親のいない家庭、あるいは暴力的な継父のいた家庭、いつも雨にぬれた土地、疎外感、途方にくれている状態などは、カリフォルニアに移ったかれにいつも亡霊のようにつきまとっていた。藤本和子『リチャード・ブローティガン』
「故郷という亡霊」(藤本和子)を追い払うためにブローティガンがなにをしたかといえば、いうまでもなく詩や小説などを書くことだった。だけど、そんなことは可能なのだろうか、一体全体。藤本和子はレイチェル・リーメンの『祖父の恵み』から言葉をひいてこういう。「人間の生には、口にできないような苦しみが、言葉ではとてもいい表せないような極限的な傷があって、そのような苦しみを前にしてわれわれにできることは、誰もたった独りで苦しまなくていいように、そのことを代わって語ることだけだ」(前書)、と。
父親の不在、いつも自分のことにかまけていて子どもたちにまで関心や愛情が及ばない不安定な母親、貧困、度重なる転居と住所不定……そんななかで、「ブローティガンが生きのびたのは想像力のおかげだった。想像力のほかに何ももたない者は想像力を身にまとって寒さをしのぐ。それは鎧のように着て、わが身をまもる。言葉は生きのびるための命綱だった」(藤本和子)。
自殺という形で生涯の幕をおろしたリチャード・ブローティガンは、想像力によって生きのびたというべきなのか、それとも想像力によってさえも生きのびることができなかったというべきなのか、いまのわたしにはしかと判断できない。いい換えれば、ブローティガンの詩や小説を読みながら、たえずかぼちゃ頭を占めていたのはブローティガンはたしてわたしたちにとって希望なのか絶望なのかという問いだった。かぼちゃ頭に確かなことはなにもわからないが、少なくとも今後ともその厄介な問いをかかえながらブローティガンを読みつづけることだけは確かなことに思われる。
※Richard Brautigan,
THE EDNA WEBSTER COLLECTION OF UNDISCOVERD WRITINGS,
Mariner Books,1999
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