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                 心を癒す7つの習慣 1.愛し合う

 1.愛しあう
 
 1.愛されないで傷ついた人はしばしば誤った手段で愛を獲得しようとする
 心を癒すには、「愛しあうこと」が何よりの特効薬である。なぜなら愛こそが、人間の本質だからだ。愛だけが、欠けた傷口を埋めてくれる。
 宗教では、一般に「愛する」ことに重点がおかれている。もちろん愛することは大切だが、「愛されること」もまた、それと同じくらい大切なことである。人が傷ついてしまう原因の多くは、直接的にも間接的にも、「愛されないこと」にあるように思われる。人は愛されることによって自己の存在価値を自覚し、自信を得ることができる。愛されないと、発育も順調ではなくなり、病気に対する抵抗力も弱くなってしまう。どんな人も愛されなければならない。だが、愛されないで傷ついた人は、愛を獲得するために、しばしば誤った手段に訴えることがある。たとえば、有能であるとか、名声や富があれば愛されると考えてしまう。たしかに有能な人や名声や富がある人は、それなりの社会的な評価と賞賛を受けるであろうが、それは愛ではない。いくら頭がよくても、尊敬はされるかもしれないが、愛されるとは限らない。富があれば、ハンサムな、あるいは美人の異性を獲得できるかもしれないが、それは愛ではない。そのような「愛」は、成人になって虚像的な幻惑に惑わされてしまう一時期だけ、錯覚に基づく満足感を与えるだけである。

 2.異性として愛されなかった経験も心の傷となってしまうことが多い
 大切なのは、たとえ完全ではないとしても、できる限り無条件で純粋に愛される経験をもつことである。そしてできれば、それは異性から愛されるのがもっともよい。もちろん、どのような関係でも、愛の関係は心を癒してくれる。とはいえ、やはり人は、「人間」としてのみならず、「異性」としても愛されることが必要なのだ。なぜなら、「異性的な魅力」を評価してもらうこともまた、心を支える自信のひとつだからである。
 したがって、たとえ何歳になっても、若いときのみならず、中年や老年になったとしても、異性的な愛の交わりは、深く心を癒すのに貢献してくれる。
 このような理想的な異性愛が、色あせることのない結婚生活において実現されるのであれば、それはもっとも幸せなことであろう。だが、そのような夫婦生活を営んでいるのであれば、“心を癒すために”、このような文章など読んではいないかもしれないが。
 夫婦関係は、時間がたつにつれて、相手を「異性」として愛することが希薄になりやすい。たとえば妻は、「女性」としての存在よりは、むしろ「主婦」として、「母」としての、いわば社会的な「役割」としてしか、見なされなくなりがちである。
 心が傷ついている人は、人間として愛されない経験の他に、「異性」として愛されなかった経験をもっていることが少なくない。そのため、男女の深い愛の交わりは、心を癒す上でとても有効だといえる。もしも、いくら努力しても、結婚生活がそれを満たしてくれないのであれば、配偶者以外の異性と、そのような関係を築くしかないのだろうか。

 3.異性との親密な交わりを通して心は深く癒されていく
 その場合、当然のことながら、社会的なモラルという点で、問題が生じる可能性がある。男女の愛というと、ほとんど肉体関係ということが避けて通れないが、肉体関係を目的とした男女の愛は、心の癒しという点ではあまり貢献はしない。一時的な麻酔のように苦悩を忘れさせてくれるかもしれないが、むしろ最終的には、心の傷を広げてしまう可能性の方が高くなる。肉体を許し合える関係を築いたとしても、「自分は異性として愛されている」という実感は、より精神的な領域で芽生えるものなので、それで空虚感が満たされることはなく、かえって挫折感だけが残るからである。
 したがって、肉体関係を目的とするのではなく、あくまでも心の交流を目的とした異性の友人をもったほうがいいように思われる。社会的なモラルとは奇妙なもので、いくら愛しあっていても、肉体関係がなければ、それは「友人」とみなされて責められることもない。何歳になっても、こうした異性の「親友」をもつということは、心の傷を癒してくれるのみならず、人間的な成長という点でも、かけがえのない影響を与えてくれる。
 だが、そのような深い心の交わりの結果として、その親友と一線を越える関係になったとしても、社会的なモラルという点ではともかく、二人の精神世界には、何か実りあるものが生まれ、心を豊かにさせてくれるに違いないと、私は思う。

 4.心の傷を癒すために異性を求めるとあまりいい出会いはなく不幸になりやすい
 とはいえ、そのような異性との交際は、そう容易に築けるとは限らないのが現実である。それはある種、不思議な巡り会いの恩恵ともいうべきものが関与しているので、努力の問題ではないのかもしれない。私たちはただ、そのような出会いがいつ訪れてもいいように、常に心を開いているといった、受け身の姿勢でいるより他にすべはないのかもしれない。
 もっとも最近では、男女の出会いの手段は多様化しており、努力の余地があるように思えなくもない。たとえば携帯電話の「出会い系サイト」などもそのひとつであろうが、あまりいい噂を聞かない。
 一般に、心の傷を癒す目的で異性を求めるときには、まずいい結果を生まない傾向がある。たぶん、その求める動機が真の愛とは異質な不純なものであり、なおかつ、あせりや渇望のために正しい判断が麻痺させられているせいであろう。「愛されたい」ために「愛する」のは、しょせんは交換条件であり取引であるから、心を癒すような愛には巡り会わないのだろう。また、このような「愛」で愛された相手は、何となく自分が縛られているような、支配されているような気がして、しだいにうんざりしてしまうことが多い。事実、これは愛というより「所有欲」だからである。
 そしてまた、「自分が必要とされる」ことによって、空虚な心を埋めようとすると、いわゆる「共依存」という、不幸な関係に落ち込んでしまう危険もある。たとえば、まったくどうしようもない男なのだが、その男が自分を必要としていると、その関係が切れなくなり、いいように利用されたり、だまされたりしてしまうといったことになるのだ。自分に共依存の傾向があることを自覚しないと、いつまでも同じパターンを繰り返すことになりやすい。いわゆる「男運が悪い」という女性は、共依存の傾向がないかどうか、よく考えた方がいいかもしれない。

 5.無条件に愛することによって心の傷が癒される瞬間が訪れる
 ならば、結局のところ、いったいどうすればいいのだろうか。
 愛されるには、愛されるような(魅力的な)自分になる方向をめざすべきであり、相手のご機嫌を伺うような方向は間違っているといえよう。そして、愛されるような自分というのは、能力や名声や富を獲得して誇示するような人間ではなく、もっと根元的な、人格的なレベルなのだ。それはたとえば、公明正大であること、心が寛いこと、思いやりがあること、強い信念をもっていること、勇気があること、裏表がない誠実さ、ユーモア、さわやかさ、このようなものなのだ。
 そして、何よりも大切なのは、真心をこめて愛することであるに違いない。なぜなら、「類は友を呼ぶ」といわれるように、真心の愛がある人には、同じような気持ちの人と縁が生まれやすいからであり、また、どの宗教でも説かれているように、「人は自分の巻いた種を刈り取らなければならない」、すなわち、真心をこめて愛することによって、真心の愛で愛されるようになるからである。
 だが、結局のところ、愛に方向性は存在しない。もしも真に愛することができれば、それ自体で、真に愛されたも同じことになる。「愛される」のは恩恵である。だから、それを期待するのはやめよう。ただ無条件に愛することによって、はじめて本当に心の傷が癒される瞬間が訪れる。

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