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                  心を癒す7つの習慣 3.祈る

 3.祈る

 1.祈りは人間に与えられた最後の救い
 人は、同じ苦しみであっても、ひとりで背負い込むのと、だれかと一緒に引き受けるのとでは、その苦しみの度合いも抵抗力の度合いもまったく違ったものになる。いうまでもなく、だれかと一緒に苦しみを分かち合うことによって、その苦しみを乗り越える勇気も励ましも、力も沸いてくるものである。
 心に傷を抱えた人は、内面的にも外面的にも、何らかの障害や苦悩に遭遇し、現在まさに戦っている状態にある場合が大部分だろう。幸いにも頼りになる人がいて、その障害に対して親身になって一緒に戦ってくれる人がいれば、それはもう心強い限りであろう。
 けれども、現実には、必ずしもそういう人がそばにいてくれるとは限らない。多くの人は、ひとり苦悩を抱え、相談できる人もなく、孤立無援の苦闘にあけくれているように思われる。冷たい風が吹きすさぶ荒野にひとり取り残されたように、進むべき方向もわからず、この先どうなってしまうのか、不安で寂しくて仕方がない。行くも地獄、残るも地獄の状態において、人はいったい、どこにその救いを求めたらいいのだろうか。

 2.救ってくれる霊的存在は本当にいるか?
 おそらく、自力ではもうダメだというときに、人が最後にすがる手段は、神仏への祈りであろう。自分を越えた超越的存在に対して、救いを求めることだろう。「神様、助けてください」と祈ることだ。
 だが、果たして祈ることで、人は救いを得られるのだろうか。祈りを向ける対象、すなわち神や仏というものは、本当に存在していて、人間の救いを求める声を受け入れてくれるのだろうか。
 ここに確信がもてなければ、いくら祈っても、それは本気にはなれないかもしれないし、私は単なる「気休め」を説いていることになってしまう。ここで、「神の存在証明」という大胆な理論を展開するつもりはないが、神秘思想や心霊科学といった分野の研究をしていると、「守護霊」だとか「守護天使」だとか、呼び名はどうであれ、常に私たちのそばにいて見守り導いてくれる霊的な存在が、たしかにいるようにも思われる。そうした存在は、古今東西、表現は異なるけれども、多くの人が同じことを述べている。これは単なる偶然とも思えないし、人類共通の幻想であるとも考えにくい。また経験的に、そのような存在の気配を感じる人も多く、政治や経済、科学といった、一見するとこのような事柄には縁のない、どちらかというと否定的な見解を抱いてもおかしくないような著名人の多くが、霊的救済者の存在を信じていたり、なかには積極的に訴えているのである。たとえば「成功哲学」で有名なナポレオン・ヒルなどは、そのことを堂々と告げており、彼の「成功哲学」のエッセンスは、そうした霊的存在(無限の知性とも呼んでいるが)とコンタクトを取ることだと述べているのだ。

 3.救いの祈りが叶えられることは多い
 ナポレオン・ヒルの体験によれば、幼いときにチフスにかかり、高熱が出て何週間も苦しみ、ついには昏睡状態となって医師も手の施しようがなく、あと数時間の命だとされたときがあった。彼の父は森の中に入り、一時間以上もひざまずいて祈りを捧げたそうである。すると心が平安となり、どこからともなく、ほんの少しの疑いもなく、息子が回復しつつあるのだという確信を得たという。果たして家に帰って見たものは、ベッドの上に起きあがって水を欲しがっている息子の姿であった。
 一方、弁論家のデール・カーネギーによる『道は開ける』という本を見ると、祈りの大切さが書かれており、実際に祈りによって危機的状況から救われた複数の人の体験談が紹介されている。
 たとえばある男性は、事業に失敗し、担保にしていた家も家財もすべてを失い、おまけに母親が病気で治療代がかさみ、妻が二人目の子供の出産を間近にしていたどん底状態にあった。「私はあらゆる問題を神に訴えて、すべてを神の意志にまかせようと決心した。私は祈った。熱心に祈った。すると不思議なことが起こった。あらゆる問題を私よりも偉大な力にゆだねてしまうとすぐに、ここ数ヶ月は味わってもみなかった心の平和を感じたのだ」
 あくる日、彼は生まれ変わったように新鮮な気持ちとなり、人生をやりなおす決心をしてセールスマンの職についた。それがうまくいって、数年後には裕福な生活を送れるようになったという。他にも同じような実例が掲載されているが、どの人も真剣に祈り、心の平和を得て、その瞬間を境に運命の流れが変わったのであった。

 4.祈りを捧げる上で大切なこと
 ノーベル賞を受賞したアレクシス・カレルは次のようにいっている。「祈りは人間が生み出し得るもっとも強力なエネルギーである。それは地球の引力と同じ現実的な力である。医師としての私は、多数の人々があらゆる他の療法で失敗した後に、祈りという厳粛な努力によって疾病や憂鬱から救われた例を目撃している」
 真剣な祈りは、確かに何らかの不思議な力をもたらすことは、まず疑い得ない事実であるとみていいだろう。たとえ「それは潜在意識の力だ」と解釈したとしても同じ事だ。その偉大な力をもつ「潜在意識」を作り上げ、そこから救いをもたらしているのが「神」なのだと解釈したっていいわけだから。
 ところで、真剣な祈りによって救われた人の祈り方というか、心構えには共通したところがある。
 それはまず、当然だが真剣に祈っているということだ。私たちは、たとえば神社にお賽銭を入れて願い事をすることがあるが、よほどの問題を抱えていなければ、その祈りは軽いものである。一心不乱に一時間以上もひざまづいて祈ることはしない。しかし神の心を動かすためには、本気そのものになって、救いを求める祈りに意識を集中することが必要なのだろう。とはいえ、誤解のないようにいえば、祈りは「念力」のようなものではない。我力で強引に神を動かそうというのではなく、誠意と真剣さと熱意をこめるということだ。
 一方、この熱烈な願いに対して、いささか奇妙にも思えるかもしれないが、祈りが叶えられた人たちに多く共通するのは、「もしこの祈りが叶えられなくても、神の意志にしたがいます」という気持ちがあったということである。

 5.全託と平和な気持ちで祈りは叶えられる
 これは、自らの運命の成り行きを神に任せる全託の気持ちである。このことから、真の祈りは、何が何でも願望を通さなければ気が済まない「我欲の主張」ではないことがわかる。救いを求める反面で現状を受け入れる気持ちをもっている。
 ところが、実はこのことが、祈りが叶えられるポイントなのだ。アメリカ心理学のパイオニアW・ジェイムズはこう表現している。「何かをうまくやるには、逆説的だが、自分がその何かをやっていることを、まったく気にかけないことである」。これは自力ではなく、神の力に自らをゆだねることを意味している。もともと、神の力を貸していただくのが祈りの目的なのであるから、我力的な要素は排さなければならないわけだ。
 最後に共通している点をあげると、祈りを捧げているうちに、平和な心境になったということである。そしてその平和な心境になってから運命が好転しているのだ。これは、運命が好転するような力が作用したから気持ちが平安になったのか、気持ちが平安になったから運命が好転する力が働いたのかはわからない。おそらく、相互的なのだろう。何をするのであれ、人は平安でリラックスした気持ちの時に、もっとも効果的にうまく力を発揮できるのであるから。
 そのため、祈りを捧げる際には、なるべく気持ちを平和にさせることが大切である。神は、この平和な気持ちを通して働かれるのだ。
 祈りの効果は、すぐに叶えられて急速に運命が変わることもあれば、少しずつ変わっていくこともある。あるいは、祈った願いそのものは叶えられなくても、それと同等か、それ以上のものが後に叶うといったこともある。どうであれ、せっかちに成果を求めるのではなく、とにかく祈りは通じているのだという信念をもって待つことが大切である。

 6.人は孤独ではない
 このように、それが神であれ仏であれ、あるいは守護霊や天使であれ、自分は決してひとりで苦しみと戦っているのではないのだ、常にこういう存在によって助けられ、導かれているのだという確信をもてることが、何といっても祈りのもつ大きな癒しの力であろう。私たちは、けっして孤独ではないのだ。それを知ることが何といっても救いであろう。
 したがって、日常生活において、祈る習慣をもつとよい。形はどうでもよい。手を合わせなくても、ひざまづかなくても、そのようなことは問題ではない。ただ、親しい友達に語りかけるように、神に語りかけ、自分の苦悩を打ち明け、どうか力を貸してください、私に智恵と勇気と力を与えてくださいと祈ればいい。そうすれば、それは具体的な運命という形で、あるいは直感という形で、あるいはだれかの言葉やなにげなく開いた本の言葉といった、シンクロニシティのような現象として、応えてくれるものである。これは私自身、よく経験することなので、自信をもって断言することができる。
 あなたは、決して一人ではない。ひとりで困難と闘っているのではない。神の配慮に感謝して、そのことを確信しよう。そして気持ちを平和にして救いの訪れを待とう。

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