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 2019年1月の独想録



1月26日 お知らせ 3月10日(日)にセミナーを行います
 
昨年の「カバラセミナー」に引き続き、51コラボ様主催のセミナー「2020年コペルニクス的大転換未来はこうなる」に出演させていただくことになりましたので、お知らせいたします。
http://s3.aspservice.jp/51collabo/link.php?i=5c497a199f421&m=5b1db6d9cc82a&guid=ON
 このセミナーは5回シリーズで、私の他に「縄文の叡智」、「宇宙プラズマ科学」「フーチ(振り子占い」「魔法陣」その他、各分野の専門家により、2020年はどのような年になるかを予測するセミナーで、私はカバラ数秘術の視点からお話させていただきます。
 数秘術的に解釈しますと、2020年という年は特殊です。というのも、「20」という数が並んでいるからです。このような数の並びはめったにないわけで、前回は1919年となるわけですが、この年は、どんなことが起こったかというと、1月→ドイツのミュンヘンでドイツ労働者党(後の国家社会主義ドイツ労働者党)が結党。第一次世界大戦の終結に関するパリ講和会議開催。2月→リトアニア=白ロシア・ソビエト社会主義共和国(リトベル共和国)成立。3月→朝鮮半島で三・一独立運動。ハンガリーでハンガリー・ソビエト共和国樹立。イタリアでベニート・ムッソリーニが「戦士のファッショ(後のファシスト党)」を結成。4月→インドでマハトマ・ガンディーが第1次サティヤーグラハ(非暴力・不服従)運動を開始。6月→ドイツが連合国とヴェルサイユ条約を締結。8月→アフガニスタンがイギリスから独立。10月→孫文らが中国国民党を創立。
 このように、歴史を塗り替えるような出来事がたくさん起きているのです。
 では、来年2020年はどのような年になるのでしょうか?
 あくまでも数秘術的な解釈ではありますが、セミナーでお話させていただく予定です。


 1月11日 私が特定の信仰を持たない理由
 私はいろいろな宗教をかじってきましたが、特定の宗教は信仰してはいません。釈迦もイエスも尊敬していますが、仏教徒でもクリスチャンでもありません。
 というのも、特定の宗教を信仰してしまうと、たいていの場合、教祖は神格化され、教祖の教えに間違いは絶対なく、その教義に間違いは絶対ないと、極端な考え方に陥ってしまうからです。
 しかし、絶対に間違いのない教祖も、間違いのない宗教も存在しないと私は考えています。
 どの宗教もよいことを説いていますが、どう考えてもおかしいと思うことも説いています。しかし、その宗教の信者になると「それはおかしい」と言えなくなります。そんなことを言ったら、宗教組織から追い出されるか、迫害を受けることになるでしょう。だから、本心ではおかしいと感じていても、「おかしくないのだ」と、無理に思い込んで自分をだますしかありません。あるいは、本気でおかしくないのだと洗脳されるか、いずれかです。

 たとえば、仏典などを読んでも、ときどき「おかしいぞ」と感じるときがあります。つまり、「お釈迦様、それはおかしいのではありませんか?」と言いたくなることもあるのです。しかし、釈迦は神格化されてしまっているので、そんなことは言えません。そんなことを言ったら「おまえは自分を何様だと思っているのだ。釈迦より偉いとでも言うのか?」と言われてしまうでしょう。
 しかし問題は、偉いとか偉くないといったことではなく、自分にウソをついたり洗脳されることが正しいことなのかどうか、ということなのです。
 たとえば、前にも書きましたが、釈迦が食中毒になって死んでしまうとき、弟子のアーナンダに向かって「おまえが私に永遠に生きて欲しいと願わなかったから私は死ぬことになったのだ」といった意味のことを言っているのです。
 私はこれは、釈迦が言ったことではなく、仏典作家の作り話だと思っているのですが、仮にもし本当にそんなことを言ったのだとしたら、「お釈迦様、それはおかしいですよ」と言います。その証拠に、釈迦は後になって、悲しむアーナンダに「泣くな、この世は無常であり、すべてのものはいずれ朽ち果てると教えたではないか」と言っているからです。

 他にもあります。釈迦は、教えを守らない一人の弟子に罰を与えました。弟子たちに、「彼に話しかけられても無視をしろ」と命令したのです。そうしてその弟子は、修行仲間から仲間はずれにされ、今の言葉でいえば「シカト」されて孤立しました。私はこういう罰を与えるのは適切ではないと考えます。
 詳しい事情がわからないのではっきりとは言えませんが、教えを守らないのは何か理由があるからで、まずは彼の話をよく聴いてあげて、適切なアドバイスを与えたり、理路整然と説明してあげた方が効果的ではないかと思うわけです。みんなで無視をするというのは、ある種の「いじめ」に近いものに感じられてしまいます。
 仮に、そういう罰を与えることがゆるされる指導者であるなら、その罰を与えることで立ち直ることが確実にわかっているほどの、すぐれた霊眼がなければダメだと思います。釈迦はそうした霊眼があったのでしょう。そう考えるのであれば、釈迦がそうした罰を与えたのは正しかったと言えるかもしれませんが、すべての弟子にその罰が適するかどうかは別問題です。適しない弟子もいるでしょう。いわば、ケースバイケースということです。
 ところが、経典のそうしたエピソードだけを取り上げて、原始仏教を信奉しているスリランカあたりの修行僧は、教えを守らない僧をみんなで無視する罰を与えているらしいのです。「釈迦がそうしたと経典に書いてあるから、そうやるのが正しいのだ」と、機械的に信じ込んでいるのです。
 なぜ、もっと合理的で効果的なやり方がないのかどうか、検討しないのでしょうか。
 それは、釈迦とその教えに、絶対に間違いはないと信じているからでしょう。「洗脳されている」と言ってもいいかもしれません。

 洗脳というのは、怪しいカルト教団だけが行っているのではなく、大なり小なり、信仰というものは洗脳によって成り立っているのです。
 なぜ人々は、宗教に群がり、洗脳されたがるのでしょうか?
 それは、その方が楽だからです。「教えられた通り信じていれば救われる」と言われた方が、自らの頭で考え、救いの道を捜し求めていくより楽だからです。

 どの宗教も、真理の断片はとらえていると思います。しかし、真理は断片ではありません。真理というものは全体的なものです。断片は真理ではありません。目の不自由な人が象の鼻を触って「象とは長いものである」と語ったという有名な話がありますが、それと同じです。確かに象の断片はとらえていますが、象は長いものではありません。同じように、断片にすぎない宗教を真理と考えることはできないのです。

 ですから、真理をつかみたければ、特定の宗教の信者になってはいけないのです。言い換えれば、いかなる教えも「絶対に間違いのない真理」だと考えてはいけないのです。
 なので、私は仏教も学びますし、キリスト教も、他の宗教も学んで、可能な限り「断片」を集めて全体像、すなわち真理を構築する道を歩んでいるのです。なので、どの宗教も全面的に否定もせず、全面的に肯定(信仰)もしない立場に立っているのです。
 しかし、その道は険しいものです。すべてのことを、自分の責任において行わなければなりません。必死になって自分の頭で考えなければなりません。それが「自由」というものの本質です。人は「自由、自由」と賞賛しますが、自由というのは厳しいものです。ある意味で、自由がなく、言われたことを黙ってやっていればいいだけの奴隷の方が、ずっと楽かもしれません。
 しかし、真理というものは、あらゆることから自由になった人だけが得られるものではないかと、私は思っているのです。

 私が主催するイデア ライフ アカデミーは、そういう自由な道を歩む人に、さまざまな情報を提供することを目的にしています。次回2月2日と3日は、ヨーガの解脱理論について紹介する予定です。そうして「断片」を数多く学ぶことで、「全体」を構築していく作業を、力を合わせて共にやっていきたいと思っているわけです。



 
1月1日 いつ死んでもいいように生きる

 皆様、新年あけましておめでとうございます。
 今年もよろしくお願い致します。
 ところで、前にも述べたことがあるのですが、なぜ新年があけると「おめでとう」と言うのでしょうか?
 普通、「おめでとう」と口にするのは、めったに得られない幸運や成功を手にしたときだけです。しかし新年というのは、時間がたてば必ずやってくるわけですから、特におめでたいというわけではないはずです。
 しかし、それをあえて「おめでとう」と言うのは、新年を無事に迎えることがいかに大変なことか、ということに由来しているのだと思います。むかしは、戦だとか飢饉といった災害に見舞われて、常に命を失う危険にさらされて生きてきたわけです。ですから、無事に年を越せた、つまり生き延びることができた、というのは、大変なことであり、まさに「おめでたい」ことであったわけです。
 現在では、むかしほど命を失うリスクは減りましたので、新しい年が来ても、あまり深く考えず、お決まりの文句のように「おめでとう」と口にしているわけです。
 しかし、死はいつ訪れるか、誰にもわかりません。来年の元旦には、「おめでとう」とは言えないかもしれません。
 せっかく縁起をよくしたいと願っている一年最初の年に、このような不吉なことを言って、その気持ちに水を差してしまうようですが、しかし、人生というのは、常に最悪の場合のことを考えて生きるべきだと思うのです。
 よくスピリチュアルなどでは、「よいことだけを願っていなさい。そうすればそうなります」といったことを言いますが、最近の科学的な研究では、こうした楽観主義的な態度より、むしろ悪いこと、つまりリスクを考えているような、やや悲観主義的な傾向のある人の方が、逆に成功や幸福を手に入れているのだそうです。

 人生における最大のリスクと言えば、死ぬことでしょう。すでに述べたように、人間はいつ死ぬかわかりません。ですから、日頃から、いつ死んでもいいように、悔いのない充実した生き方を心がけるべきではないでしょうか。決して「縁起でもない」といって避けるべきではないのです。むかし、ホスピスのカウンセラーをしていた頃、まだ死ぬような年齢ではないのに、突如として病魔に襲われて余命が短いことを宣告され、そしてその宣告通りに死んでいった、たくさんの患者さんに接してきました。私はそれを見て、本当に人間はいつ死んでしまうか、わからないものだと痛感しました。

 人はいつ死ぬかわからないという自覚が真にあれば、人生を有意義に生きるようになります。たとえば、もしあなたが「あと一ヶ月の寿命です」と言われたらどうでしょうか? 毎日の時間を、無駄なことに使うことはしなくなるでしょう。くだらないテレビ番組を見て時間をつぶすといったことはしなくなるはずです。そして、人生におけるもっとも大切なこと、もっとも優先するべきことを考え、それを実行に移そうとするはずです。実際、ホスピスの患者さんはそのように生きる人が多く、余生が今まで以上に濃密となり、精神的に向上を遂げた人が多くいました。

 死を意識して生きたとき、人は本当に真剣に生きるようになり、人生が充実して豊かになってくるものです。人生で本当に大切なものは何かを探索し、それを最優先にしようとします。
 ただ、実際にそう生きたいと願っても、どうしたらいいのか、わからないといったことも少なくありません。
 私が昨年に始めたイデア ライフ アカデミーは、そのような、人生を本当に意義あるものにしたいと願う人に、良質な情報を提供することを目的にしたものです。単なる趣味だとか、教養のための「スピリチュアル」の場ではなく、やや大袈裟にいえば命がけの探求の場です。なぜなら、人生とは命の長さ、つまり、命が地上に生存する時間のことですから、その時間を無駄なことに費やすことは、命を縮めていることになるからです。

 肉体が生きているだけでは、真に「生きている」とは言えません。精神的な成長を常に遂げながら生きている人こそが、人間として「本当に生きている」と言えるのではないでしょうか。
 その意味で、来年の元旦は、(本当の意味で)生きることができて「おめでとう」と、声を掛け合いたいものです。
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