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Diary                   斉藤啓一の独想録

 斉藤啓一の独想録とは
 日々の出来事のなかで、自分に問いかけるように、独り想ったことを記録した日記風エッセイです。独り言のように綴った文章ですが、何かの参考やヒントを見つけていただければ嬉しい限りです。


 2022年1月の独想録

 1月18日 本当に頭がいい人とは
 いわゆる「頭のいい人」とは、どういう人のことを言うのでしょうか? いくら勉強ができて、優秀な学校を卒業し、優秀な会社に入社し、あるいは博士となって学者になったとしても、それで頭がいい人とは言えません。
 私の定義によれば、頭のいい人とは、「幸せになる知恵を持った人」です。いくら脳力的に優秀でも、自分や人を不幸にするようでは、その人は頭がいいとは言えません。逆に、たとえ勉強ができず学歴がなくても、自他ともに幸せにする思考と行動ができる人は、頭がいい人なのです。これが私の定義です。

 ここで問題になってくるのは、「幸せとは何か?」ということになるのですが、これは大きな問題であり、とてもここで簡単に論じることはできません。とりあえず「より高い欲求を満たしたときに得られる喜び」としておきます。おいしいものを食べた時、幸せを感じたりするときがありますが、これは低いレベルの欲求です。人間はこれだけでは満足できません。名誉や自己承認は食欲を満たすよりは高次ですが、これだけではまだ完全ではありません。究極的には、やはり釈迦やイエスが説いた宗教的な「救い」ではないかと思うのです。

 さて、では、「幸せになる知恵」とは、具体的にどのような知恵でしょうか?
 私は二つあると考えます。
 ひとつは、「先見の明」であり、もうひとつは「正しい判断力」です。
 先見の明とは、ひらたく言えば、この先どうなるかがわかる、ある種の予知能力です(といっても超能力ではありません。推理力です)。先見の明がある人は、「こうすれば、こうなるだろう」という考え方を常にしています。いわゆる「空気が読めない人」は、この考え方が足りないのです。「こう言ったら、相手はどう思うだろうか?」と考えないのです。あるいは、考えたとしても、相手は別に気分を悪くしないだろうと思ってしまうわけです。つまり、正しい判断力が不足しているということになります。

 たとえば、タバコを吸う人は「このままタバコを吸い続けたらどうなるか?」ということを考えないか、考えても「やめる」という判断をくだすことができないのです。言うまでもなく、タバコは健康を害して寿命を縮めます。一説によると、タバコ一本吸うたびに15分寿命が縮まるといいます。健康を害したら、お金もかかりますし、家族や周囲にも迷惑をかけますし、何よりも自分が辛いめに遭います。タバコを吸う人は「タバコを吸うとリラックスするんだよ。そういう効果もあるんだよ」などと言い訳をしたりしますが、仮にそういうよい効果があるとしても、悪い効果をも含め総合的に判断するならば、タバコを吸った方が幸せになるか、吸わない方が幸せになるかは、言うまでもないことです。

 ですから、いくら先見の明があり、未来を予測できても、それだけでは不足で、「ならばどうしたらいいか」という、的確で正しい判断力も必要になってくるのです。この二つがそろっていれば、「幸せになるための知恵」があると言ってもいいのではないかと思います。
 この先見の明と正しい判断力をもっとも必要とするのが、将棋ではないかと思います。一流の将棋士は、一歩や二歩先の盤を読むどころか、何十歩、あるいは何百歩先の盤を読みながら、「では、今どう駒をさすべきか」と判断します。当然、なるべく先の盤を読める将棋士ほど、優秀であると言えるでしょう。

 人生にも同じことが言えます。一歩や二歩といった眼の先のことではなく、なるべく先を見通して、そこから今やるべきことを判断するのが、真に頭のいい人であり、幸せに至る知恵です。
 そこで、先の見通しという点で、その究極は何になるかというと、それは死後の生ということになるでしょう。そこまで先見の明を持っていたのが、釈迦やイエスといった聖人たちです。彼らは、死後の生までも先の幸せを考えたうえで、「ならば、今、どのように生きるべきか」と考え、教えを説いたのです。それが究極の「幸せに至る知恵」です。

 宣伝になってしまいますが、イデア ライフ アカデミーでは、先人の聖者たちが残したこうした教えを紹介しています。つまり、「究極の幸せに至るには、今どう生きたらいいのか」を紹介しているわけです。なので、ぜひ皆様には参加していただき、こうしたすぐれた教えを学んでいただきたいと思っているのです。


 1月1日 いつ死んでもいいように生きる
 新年あけましておめでとうございます。
 皆様にとってよい一年となりますよう、お祈り申し上げます。
 今年もまた、よろしくお願い申し上げます。

 さて、以前にも書いたことがあるのですが、なぜ新しい年が明けたというだけで「おめでとう」と言うのでしょうか? 何かよいことがあったとき(結婚したとか、賞をもらったときとか)に、「おめでとう」と言うのはわかりますが、年が明けたり、あるいは単に誕生日が来たというだけで「おめでとう」というのは、ちょっと不思議な感じがするのです。

 その理由は、むかしはそれだけ生きることが難しかったからではないでしょうか。自然災害だとか、飢餓、病気、極度の貧困、ときには戦のようなものがあって、現代よりもずっと命が危険にさらされていたのでしょう。そのため平均寿命も、おそらく現在の半分くらいだったのではないかと思います。
 だから、そういうさまざまな危険を回避して年を越すことができた、あるいは誕生日を迎えることができた、というのは、おめでたいことなのだと思ったのでしょう。
 言い換えれば、こうした「おめでとう」という言葉の背後には、「今日はおめでたいが、来年は迎えられるかどうかわからないぞ!」という、ある種の不穏な前提が潜んでいるようにも感じられます。

 実際、昨年、私は一人の親友を病気で失いました。武道をやっていて筋肉質の、いかにも頑強に見えた彼が、癌が判明しておよそ半年くらいで亡くなってしまいました。まさか私は、今日、彼に対して「新年あけましておめでとう」と言えなくなるとは、夢にも思いませんでした。
 不思議な感覚ですが、家族や友人や仲間たちは、いつまでもずっと生き続けるような感覚があるのです。頭で考えればそんなことあるはずなく、いずれひとりふたりと死んでいって、最終的には自分も含めてすべての人が死んでいくことはわかっているのですが、感覚的また心情的には、そのことがリアルな事実として感じられないのです。

 しかし現実は残酷であり、私は一年後には、何人かの親しい人に対して「あけましておめでとう」と言えないかもしれないのです。それどころか、私自身が死んでしまい、皆さんに向けてブログを発信できなくなる可能性だってあるわけです(もし年始にブログが更新されていなかったら、私は死んだと思ってください)。

 新年そうそう縁起でもない話になって、気分を害された方はお許しいただきたいのですが、しかし、これが現実なのだから仕方ありません。何事も、現実をしっかりと認識した上で行うのでなければ、間違った方向に進んでしまう危険があります。
 あの一休さんは、祭りで世間が浮かれ騒いで楽しんでいるとき、棒の先端に頭蓋骨を乗せ、それをもって街中を歩き回ったといいます。人々は「めでたく楽しんでいるときに、そんな不吉なことをするのはやめてください」と言いましたが、一休は聞き入れません。「人はいつ死ぬかわからない。それなのに、こんなに浮かれ騒いでいていいのか」といった意味のことを口にして、歩き続けたのでした。
 人間は、本当にいつ死ぬかわからないのです。いつまで生きられるかわからないのです。今日死んでしまう、明日死んでしまうかもしれないのです。だから、人はいつ死んでも後悔のない生き方を、時間を惜しんで、していかなければならないと思うのです。
 お正月という、世間が浮かれているときこそ、こういう「冷や水を浴びせる」ようなことを考えて、バランスをとるべきではないでしょうか。