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Diary                   斉藤啓一の独想録

 斉藤啓一の独想録とは
 日々の出来事のなかで、自分に問いかけるように、独り想ったことを記録した日記風エッセイです。独り言のように綴った文章ですが、何かの参考やヒントを見つけていただければ嬉しい限りです。


 2020年8月の独想録

 8月1日 ALSは「業病」か?
 最近、ALS(筋萎縮性側索硬化症)の患者を医師が安楽死させた事件が話題になっています。からだの運動機能がしだいに奪われていき、意識はしっかりしているのに、ついにはからだをまったく動かせなくなるこの病気は、おそらくあらゆる病気のなかでも、もっとも残酷な病気のひとつではないかと思います。今回の事件で医師が行った行為の是非はともかく、自ら命を断ちたくなる気持ちもわかりますし、安楽死という問題も、真剣に議論していくべきではないかと思います。
 ただ、ここで言いたいことは、この事件そのものではなく、この事件に関して、石原慎太郎元都知事がツイッターで語った言葉です。彼はALSのことを「業病(ごうびょう)」と表現していました。
 業病という意味は「前世で悪い行為をした報いとしての病気」です。つまり石原氏は、ALSの方々に対して「過去に悪いことをしたから、このような病気になったのだ」と言っているわけです。

 これは、仏教やスピリチュアルなどで言われるところの、いわゆる「因果応報」、「カルマの法則」です。
 仏教徒やスピリチュアルの信奉者たちは、もしALSの原因は何かと問われたら、いったい何と答えるでしょうか? 彼らは因果応報、カルマの法則を信じているはずですから、石原氏のようにあからさまには言わないかもしれませんが、それでもやはり「それは前世の悪業の結果である」と答えるのではないでしょうか。
 これは、病気に限ったことではありません。生まれつき障害をもって生まれた人も、家が火事で焼けてしまった人も、子供が死んでしまった人も、レイプされた人も、その他、不幸災難に見舞われた人はすべて「前世の悪業の結果である」ということになってしまいます。イエス・キリストが十字架にはりつけにされたのも、前世の悪業の結果ということになってしまいます。
 これほど、人を傷つける主張はあるでしょうか?
 もちろん、たとえいかに人を傷つけようとも、事実として実証されたものであるなら、事実は事実として受け入れなければなりません。
 しかし、カルマの法則などというのは、特定の宗教の教義のひとつであって、科学的に実証されたわけではありません。つまり、それは信仰の問題であって、信じるか信じないか、ただそれだけのことなのです。

 私が「カルマの法則」について、ある程度の距離をおいてそれを扱っている理由がここにあります。もし私がカルマの法則を絶対的に信じていたとしたら、苦しんでいる人に対して、暗黙のうちに「前世の悪しきカルマの報いだ」と決めつけてしまうことになるからです。
 そうしたら、その人はますます苦しみに突き落とされるかもしれません。はたして、これが宗教者のすることでしょうか。いえ、人間のすることでしょうか。ここには、人に対する思いやりのかけらもありません。

ですから、私はカルマの法則に対しては、絶対的な否定も肯定もしない立場でいるのです。そしてまた、特定の宗教を絶対的なものとして信じることもしない立場でいるのです。
 ただ、カルマの法則が存在するという仮定のもとで、いろいろなことを述べることはあります。しかしそれはあくまでも仮定であって、絶対的な真実としてではありません。

 もちろん、カルマの法則を信じることで、よいこともあります。たとえば、悪いことをする人が少なくなるだろう、という点です。悪しき報いを受けるのは誰だって嫌ですから、悪しき行為の抑止力にはなるでしょう。ですから、評価できる点もあります。
 釈迦は、カルマの法則を説きましたが、それは、「今後、悪いことはしないように」という戒めとして説いたのであって、苦しんでいる人に向かって「おまえが苦しんでいるのは、過去に悪いことをした報いだ」といって責めることが目的ではないことは、言うまでもありません。

 不幸災難の原因は、宗教によって異なります。
 ユダヤ教やキリスト教では「神の試練」という考え方が主流のようです。強く立派な人間にするために、苦難を与えて鍛えようとしているのだ、という発想です。この方が、カルマの法則よりも救いがあります。
 では、いったいどちらの教えが真実なのでしょうか?
 それは、誰にもわからないことです。
 ならば、どうせわからないことであるならば、前向きになれる考え方を採用した方がいいのではないかと、私は思うのです。
 こうしたプラグマティズム(功利主義)の考え方は、ご都合主義だと嫌って、とにかくはっきりと白黒つけないと気がすまない人たちがいますが、どんなに追求しても、神だとか宇宙法則といった、形而上学的な事柄は、わからないのです。わからないものを追求し続けるのは時間の無駄です。他にもっとするべきことがあるはずです。形而上学的な探求は、それが具体的な実践レベルにとって有益な土台になるくらいまで追求したら、それ以上の深追いはしない方がよいです。

 いずれにしろ、私は、愛に反するような教えはすべて嫌いです。それは、宗教とは相容れないものです。難病で苦しむ人に対して、いちいちその霊的な原因を追究することに、私はあまり意味を感じられません。とりわけ、その苦しみを増すような教えはなおさらです。
 本人がどうしても原因を知りたいと言ったら、私なら「わかりません。それよりも、これからどうすれば少しでもよくなるかを一緒に考えましょう」と答えるでしょう。あるいは、もし励ましになるかもしれないと判断したら「これは神の試練ですよ」と答えるかもしれません。いずれにしろ、苦しみにある人に対しては、安らぎと希望を抱いてもらえるような対応をすることこそが、真の宗教やスピリチュアルの道ではないかと思うわけです。間違っても「業病」などという、根拠のない愚かな言葉は使うべきではありません。

 余談になりますが、こんな話があります。むかし、ある寒い冬の夜、貧しい家に住む一人の禅僧のもとに旅人がやってきました。しかし、貧しいので暖をとるための薪がありません。旅人は寒くて震えています。するとその禅僧は、大切にしていた仏像を燃やして、旅人を温めてあげたのです。
 これこそ真の宗教者のすることではないでしょうか。そして仏様も「これでよい」と、喜ばれたのではないかと思います。ガチガチの宗教者ではなく、何が一番大切なのかを見究めたうえで柔軟性のある行動がとれる宗教者こそ、真の宗教者だと思うのです。