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Diary                   斉藤啓一の独想録

 斉藤啓一の独想録とは
 日々の出来事のなかで、自分に問いかけるように、独り想ったことを記録した日記風エッセイです。独り言のように綴った文章ですが、何かの参考やヒントを見つけていただければ嬉しい限りです。


 2022年6月の独想録

 6月22日 イエスと共に死ぬ
 まずはご報告とお知らせから。 
 今月のイデア ライフ アカデミー哲学教室は、「良寛に学ぶ」というテーマで行いました。越後の禅僧だった良寛の、天真爛漫で清らかな生き方、しかし厳しい修行に打ち込んだその姿を紹介しました。霊性を向上させるには、お手本となるような人を見習うのが一番です。その意味でも良寛は、私たち日本人にとってすばらしいお手本になると思います。ぜひダイジェスト版をご覧ください。
動画視聴→
 来月の瞑想教室は「シュタイナーの瞑想法」というテーマで行います。

 では、本題にはいります。
 私はキリスト教徒ではありませんし、いかなる宗教の信者でもありませんが、釈迦やイエスは心から敬愛しており、とりわけイエスに関しては強い思い入れがあります。
 そして、ときどき想像するのですが、もし私がイエスの弟子の一人であったとしたら、果たしてイエスと一緒に十字架を背負って共に死ねたかどうか、そんなことを考えることがあるのです。
 ご存知のように、イエスは自分が十字架にかけられることを弟子たちに予言しました。すると弟子たち、なかでもペテロは「たとえあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは決して申しません」と言いました。しかしイエスは「今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度私を知らないと言うだろう」と言い、実際、その通りになってしまいました。ペテロは深く自分を恥じて悔いました。

 イエスはそうして、弟子からも見捨てられ、人々からは罵詈雑言を浴びせられながら、ひとり十字架を背負ってゴルゴダの丘をのぼっていったのです。
 もちろん、キリスト教神学的に言えば、こうしたことすべては神によって計画されており、すべてはこれでよかったという解釈ができるのですが、その当時の弟子たちにとっては、そこまではわかりません。何とかしてイエスを助けられたのではないか、せめて、自分もイエスと一緒に十字架にかかって死ぬべきではなかったのかという思いに悩んだことでしょう。

 さて、もし私が十二人の弟子のひとりだったら、どうしていただろう?
 十字架にかけられて死ぬのは怖い、いやだ、という思いがあると同時に、イエスという偉大な存在と一緒に死ねたら、それほど光栄なことはない、という思いもあるわけです。誰だって死ぬのは怖いですし、しかも十字架にかけられて死ぬのはそうとう苦しいでしょうから、ペテロが「イエスなんて知らない、自分はイエスの弟子なんかではない」と言ってしまったのも、無理はなかったと思います。
 しかし、そう思う反面で、ひとりくらいはイエスと一緒に死ぬ覚悟をもった弟子がいてもよかったのではないかという、ある種の「はがゆさ」を感じたりもするのです。
 もし私がそのときイエスの弟子だったら、イエスと一緒に死ねる勇気があったと信じたいです。

 ところで、イエスはこう言いました。「私と一緒についてきたいなら、自分を捨て、自分の十字架を背負ってきなさい」と。この「十字架」というのは、自分が引き受けなければならない苦難のことをさしています。つまり、イエスと同じ生き方をするということです。そして、イエスへの愛があれば、このようにイエスをまねることは、苦しみではなく喜びとなる、少なくとも喜ぶようにする、これが、キリスト教徒の生き方です。愛するイエスのためなら、いかなる苦難にも耐えられ、むしろそれを喜びとし、死んでもかまわない、ということです。これがまさに信仰というものでしょう。

 愛する者のためなら、いかなる苦難をも引き受け、死んでもかまわないという、そんな「愛する存在」がいる人は、幸せです。
 この地上世界は、悲惨と苦しみの世界です。そう思わない人は、たまたま運よく恵まれた人生を送ってきた人であって、広く世界を見渡すなら、壮絶な苦難に見舞われている人がたくさんいます。いつ自分がそんな苦難に見舞われるか、わからないのです。個人差はあるでしょうが、この地上に生きている限り、悩み、悲惨、苦難は避けられません。ですから、苦難をいかに耐え忍ぶか、その力と言いますか、耐性をいかに養うか、ということが重要になってくるのです。苦難に対する耐性がないと、自暴自棄になってますます苦難に落ちてしまったり、悪いことをするといったことになりかねません。

 苦難はしばしば嵐のように凶暴であり、それに耐えるには相当な力が求められます。落ちてくる重い壁を必死に支えるような感覚です。しかも苦しいときは、その状態がいつまでも続くように思われ、絶望的になり、その絶望感が、耐える力をそいでしまいます。
 どうしても避けられない苦難の場合、それから逃れようとすればするほど、あり地獄のように、ますます深みにはまってしまいます。ですから、じっと耐え忍ぶのが一番なのです。たいていの苦難は、じっと耐え忍んでいれば、いずれ去っていきます。
 しかし、その「じっと耐え忍ぶ」ことが難しいわけです。それには、苦難に対して肯定的な意味や価値を見出さないと、難しいと思います。つまり、「苦難はよいことだ」と思えるような考え方を身に着けるのです。それにはいろいろあるかと思いますが、「愛」に関係したものがもっとも強力でしょう。なぜなら、愛の力は苦難の力よりも強いからです。
 その意味で、キリスト教徒であろうとなかろうと、イエスへの強い愛を持ち、イエスにならいたいという情熱を持っている人は、幸せです。自分が十字架(苦難)を背負うということは、イエスに従い、イエスについていく、ということになるからです。つまり、苦難に意味が出てくるわけです。そうして、苦難をじっと耐え忍ぶための、大きな力が生まれてくるでしょう。この過酷な人生を生き抜くにあたって、そんな忍耐の力を持つことは、とてつもない貴重な宝を得たのと同じ価値があるのです。