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 2019年12月の独想録


12月25日 武士道精神
 まずはご報告とお知らせから。
 今月21日と22日、イデア ライフ アカデミー瞑想教室第12回が行われました。テーマは、「直観力を鍛える」。直観力には3種類あると考えられます。ひとつは潜在意識の働きによるもの。ふたつめは超感覚的能力が働いたもの。そして三つ目は、自己の実相(仏性・神性)を自覚したことによるものです。重要なのは三つ目の直観です。そのような直観を得るにはどうしたらいいのでしょうか? ぜひダイジェスト版をご覧ください。
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 来年から、イデア ライフ アカデミーは月に一度、哲学教室と瞑想教室を交互に行っていきます。より充実した授業内容にしていくべく、今後とも全力を尽くしてがんばりますので、よろしくお願いいたします。1月は休講なので、次回は2月15日/16日の哲学教室から始まります。「原始仏教1」というテーマで、釈迦が本当に説いた教えとはどのようなものなのか、おそらく誰も語られていない深い内容にまで踏み込んでいく予定です。
 参加ご希望の方は「イデア ライフ アカデミー」のページをご覧ください。

 さて本題にうつります。
 哲学的な遺産という点で言えば、ギリシアとインド、中国は、突出してすぐれていると思います。ご存じのように、中国では、偉大な哲学者が多数あらわれました。孔子、老子、荘子をはじめ、易という宇宙哲学を発見し、また大乗仏教、とりわけ禅を発展させました。道元も空海も、中国にわたって教えを学びましたし、また鑑真のように、中国の偉人を日本に招いて仏教の戒律を学んだりもしました。哲学のみならず、日本の文化にもっとも大きな影響を与えてくれた、というより、日本文化の礎となったのは、言うまでもなく中国の文化です。私はそうした中国の文化に深い敬意を抱いています。
 しかし、現代の中国(中国人)を見ていると、そのような偉大な哲学思想を生んだ歴史の子孫とは思えません。文化大革命によって一度は封印されたとはいえ、中国人の精神的遺伝子に、偉大な哲学者たちの思想が受け継がれているはずなのですが、現代の中国人は、孔子や老子、禅の思想とはまったくかけはなれた、正反対とも思えるような物質主義に染まっているように感じられます。
 ならば、そうした偉大な中国文化を学んだ私たち日本人はどうでしょうか。やはり、似たようなものではないでしょうか。
 中国文化が日本的精神と融合して生まれたのが、いわゆる「武士道精神」ではないかと思いますが、その「恥を知り潔く生きる」という精神が、現代の私たち日本人にどれだけ息づいているでしょうか?
 いったい、いつから日本はおかしくなってしまったのでしょうか?
 私はバブル経済のときからだと考えています。
 バブル経済が訪れるまでは、武士道精神に通じる心を持っていた人が多かったように思います。精神性を重んじて、あぶく銭などに目を奪われることなく、お金は汗水垂らして稼ぐべきものだ、などと説教し、そうした生き方を誇りにしていたのです。ところが、そんな大人たちが、恥も外聞も捨て、率先してマネーゲームにのめり込んでいきました。今の中国が、当時の日本のバブルに相当するものを経験しているのではないかと思います。
 ところが、間もなくバブルは崩壊。お金を失っただけでなく、誇りまで失い、醜態をさらしました。今さら「カネより精神性だ」などと説教できるはずもなく、沈黙したまま年老いていきました。いわゆる団塊の世代と呼ばれる人たちです。
 お金はもちろん大切ですし、モノが豊かにあって悪いわけではありませんが、そのために精神性を犠牲にしたら、結局は、お金もモノも失い、誇りさえも失って恥ずかしい醜態をさらけ出すことになるのです。彼らはそうして精神性の大切さを説く資格を失ったので、彼らの子供たちは、精神的な価値や生き方を教えられることなく育ちました。ちょうど彼らの子供世代が多い「引きこもり」が社会問題になっているのも、その原因のひとつは、ここにあるのではないかと思います。
 私は武士道精神の信奉者というわけではありませんが、その精神は見習うべきものがあると思っています。「武士は食わねど高楊枝」という言葉があります。一般にはやせ我慢のたとえとして使われているようですが、目先の安易なものに惑わされることなく、筋の通った精神性を貫ける人間こそが、これからの日本社会に必要な人材ではないかと思うのです。さもなければ、日本はこのままどんどん没落していくしかないでしょう。


 12月13日 この世の不条理をどう考えるか
 例によってまずはご報告とお知らせから。
 今月7日と8日、イデア ライフ アカデミー哲学教室第12回は、「交流分析とエゴ」というテーマで授業を行いました。交流分析は、性格および他者との関係性をテーマにした心理学&心理テストで、私たちの心には、規範的な親、養育的な親、大人、自由な子供、順応した子供の5つの人格が存在しているといいます。そして、それらのうち、どの人格が支配的かにより、行動や人間関係のパターンが決定され、広い意味では運命が決められる、という考え方をしています。そして、繰り返し同じ行動(運命)パターンを繰り返してしまう現象を「人生ゲーム」と呼んでいます。これはイデア ライフ アカデミーの表現で言えば、「エゴに操られている」ということになります。エゴに操られている状態から解放されるにはどうすればいいか、交流分析を通して紹介させていただきました。ぜひダイジェスト版をご覧ください。
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 次回(21日/22日)は今年最後の授業となりますが、瞑想教室で「直観力を鍛える」というテーマで行います。世に天才と呼ばれる人、また、いわゆる悟りというものも、結局のところ、「直観力」がすぐれているかどうか、ということになるのです。直観力を鍛えるための瞑想法を紹介する予定です。
 参加ご希望の方は「イデア ライフ アカデミー」のページをご覧ください

 さて本題にうつります。
 先日、アフガニスタンで復興支援を長い間続けてきた医師の中村哲氏が銃撃されて亡くなりました。中村医師については以前よりテレビなどで知っており、その献身的で人道的な活動に大きな敬意を抱いていました。その医師が、こういう亡くなり方をした事に、深い悲しみと憤りを覚えます。このまま活動を続けていったら、まだまだ多くの人を救済してくれたことでしょう。
 歴史を振り返るなら、立派な人が悲劇に見舞われるとか、迫害されて殺されてしまうという事実に数多く遭遇しますし、私個人的にも、ホスピスに勤めていた頃、善い人がまだ若いのに病気で亡くなっていくという場面をいくつも見てきました。
 このような、世のため人のために貢献している人が悲劇に遭うと、「神はなぜ守ってくれないのか?」という思いにかられます。
 これについては、単純に「神はいないのだ」と考える人もいるでしょうし、信仰の篤い人は、「すでに使命を終えたから、天国で幸せに暮らしてもらうために神が呼び寄せたのだ」といったように考えるかもしれません。あるいは「過去生で犯した悪しきカルマの報いである。これで悪業が消えたのだ」と考えるかもしれません。
 しかし、本当のところ、その理由については、誰にもわからないし、証明しようがありません。
 人間は、不条理や理不尽なことを経験すると、それに合理的な説明を求めたくなります。しかし合理的な説明など不可能であり、証明できません。そのために、強引に神の意思だとか、過去生のカルマといったことをもちだして、不条理や理不尽から来る不愉快な思いを解消しようとするのです。かといって「神はいない」と断定するのも、合理的な説明ではありません。神は存在するか存在しないかを証明することは不可能だからです。なぜなら、それを証明するには全宇宙すべての情報を入手しなければならないからです。つまり全知全能にならなければならないわけで、そんなことは不可能だからです。
 では、不条理や理不尽だと感じることに遭遇したとき、私たちはどう考えるべきなのでしょうか?
慈善活動に熱心に取り組んでいた英国のダイアナ妃が不慮の事故で亡くなったとき、親交のあったマザーテレサは「私には神の考えがわからない」と言ったそうです。マザーテレサほど筋金入りのクリスチャンはいないと思いますが、そんな彼女が、この不条理な出来事に接して「神はいったい何を考えているのか?」と、ある種の憤りとも思える言葉を口にしたのです。とても正直で人間的だと思います。
 マザーテレサほどの人でさえ、正直に「わからない」と言って、強引な理由づけをすることなく、その悲しみや憤りをそのまま受け入れたわけです。
 私は、不条理や理不尽な出来事に遭遇したら、マザーテレサのように、ただそれを受け入れるしかないと思っています。
 もちろん、受け入れるといっても、何もしないわけではなく、不条理や理不尽なことが人為的なものであり、改善可能なものであるなら、それを改善すべき行動を起こすことが大切だと思いますが、不条理の理由を、証明不能な領域に求めて不愉快さをごまかすことは、あまり意味がないと思っています。多少、慰めを得ることができるかもしれませんが、根本的な解消には至らないことが多いからです。酒や精神安定剤を服用して苦痛を一時的に麻痺させているようなものです。応急措置的には、そうしたことにまったく意味がないとは言いませんが、自分をいつまでもごまかすことには限界があります。
 悲しみや苦しみは、辛いことですが、必ずしも悪いことではありません。それは「生きている」ということの証でもあるからです。死人は悲しみも苦しみも感じません。不条理も感じません。「生きている」からこそ、不条理や理不尽に反応して、悲しみ苦悩するのです。それは人間的ではないでしょうか。もし不条理や理不尽から来る悲しみや苦しみを感じたくなければ、精神的に死ぬしかありません。不条理や理不尽さに苦悩するということは、生きている、ということなのです。人間は生きなければならないのです。

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