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 2019年8月の独想録


 8月23日 エゴとの闘い
 エゴとの闘いは、生易しくありません。いつ終わるとも知れない、過酷で辛く、忍耐を要する危険な闘いです。
 それよりも、エゴの奴隷でいた方がいいと思うかもしれません。
 実際、エゴがもたらすさまざまな苦しみを、娯楽や気晴らし、仕事、あるいは宗教などで、うまくごまかすことができるなら、エゴと闘うよりも、エゴの奴隷に甘んじている方が、ずっと楽だと言えるかもしれません。たとえるなら、野生動物よりも、家畜の方が安全で楽なのと同じです。
 エゴの奴隷として、一生を<ニセの我>で生きるか、それとも、<本当の我>に目覚めて自由に生きるか、私たちは、いずれかの道を選ばなければなりません。
 もしも、自由に生きる道を選ぶのであれば、人生に安全や安楽を期待する気持ちはきっぱりと捨てなければなりません。そして、傷つくことを怖れない勇気と覚悟が必要です。そのくらいでないと、エゴとの闘いには勝てないからです。
 とはいっても、一部の人にしか実行できないような、難行苦行というわけではありません。真剣さと意欲、忍耐、そして適切な知識さえあれば、誰でもエゴを弱体化させることは可能です。
 いずれにしろ、人生というものは、エゴの奴隷として生きても苦しみがあるし、エゴの奴隷から解放されて自由に生きようとしても苦しみがあるのです。人間という存在は、苦しみから逃れて生きることはできないのです。問題は、どちらの苦しみを受け入れるか、ただそれだけです。

 エゴの奴隷として生きる苦しみは、強制的に与えられる「受動的な苦しみ」であり、エゴから解放されるための苦しみは、自主的に追い求めていく「能動的な苦しみ」です。
 受動的な苦しみは、ただ苦しみで終わるだけです。たとえば、エゴの反応によって人を妬んだら、妬みに伴う苦しみを味わうだけで、後には何も残りません。
 しかし、エゴから解放されるために、自ら苦しみを引き受けていくという、能動的な苦しみの後には、大きな喜びが待っています。
 たとえるなら、登山のようなものです。登山家は、自ら望んで険しい山を登ります。苦しみや困難が多いほど、頂上に到達したときに大きな喜びが得られます。楽に頂上まで到達できる山に登っても、大きな喜びは得られません。
 このような、能動的な苦しみの後に訪れる大きな喜びは、「歓喜」と表現することができます。ありふれた喜びであれば、苦しまなくても得られるでしょうが、歓喜は得られません。歓喜は、苦しみを能動的に耐え抜いた者だけが手にできるのです。歓喜は、能動的な苦しみを母体にして生まれるのです。
 エゴを脱ぎ捨てる苦しみを引き受けたとき、歓喜が生まれてくるのです。
 エゴの奴隷のままでは、歓喜は得られません。
 もちろん、歓喜など得ようと思わないのであれば、それはそれでいいわけです。あくまでも個人の勝手だからです。人生において、歓喜よりも、安全や安楽を重視したいのであれば、それもまたひとつの生き方なのかもしれません。
 しかし、これだけは言えるでしょう。本当に「生きている」という感覚は、歓喜を味わったときにのみ得られるということです。人を夢から覚ましてくれるのは、歓喜なのです。
 もしもあなたが、歓喜に満ちた一生を送り、死ぬ直前になって「私は本当に生きた」と言える人生を送りたいのであれば、エゴから脱却する道を選ばなければなりません。
 エゴとの闘いという、険しい登山道を歩まなければならないのです。
 私が主催するイデア ライフ アカデミーは、エゴと闘い、エゴから脱却して自由に生きるための情報を提供しています。関心のある方はぜひ授業にご参加なさってください。動画でも学ぶことができます。
 イデア ライフ アカデミー

 8月15日 エゴの典型的な働きのひとつ「妬み」
 ところで、<ニセの我>、すなわち、エゴとは、そもそも、何なのでしょうか?
 ひとことで言うと、エゴとは「衝動の集合体」のことです。
 衝動とは、私たちを特定の感情・思考・行動へと走らせる、通常はコントロールできない「力動的な反応」のことをさします。その衝動が、いくつも集まって複雑に絡み合った構造をしたもの、これがエゴです。
 したがって、エゴというのは、しょせんは単に反応するだけの、いってみれば機械のようなものにすぎないのですが、複雑な構造をしているために、あたかも人格を持っているかのように作動します。そして、エゴは無意識層に寄生しているため、私たちはエゴの存在にほとんど気づくことなく、エゴを自分の人格、すなわち<本当の我>だと錯覚してしまうのです。
 ひとつ例をあげてみましょう。
 いわゆる「妬み」というものは、エゴの典型的な働き(反応)のひとつです。
 妬みとは、自分より何らかの点で恵まれている人に向けられた、ある種の攻撃的な衝動です。そのため、妬みに支配されると、言い換えれば、エゴに支配されると、人の不幸を願うようになり、意地悪をして困らせてやろうと考えたり、実際にそうした行動をとったりしてしまうのです。
 私たちは、そのような願いや考えや行動は、自分自身の意思に基づいていると思っていますが、そうではありません。エゴによって”そうさせられている”のです。言い換えれば、あなたが妬んでいるのではなく、エゴが妬んでいるのです。
 その証拠に、妬みというのは、ある種の反応(衝動)です。「妬むことにしよう」と考えて妬むわけではありません。自分の意思とは無関係に、勝手に心の底から湧いてくるものです。まさにそれは、衝動で構築されたエゴの仕業だからです。
 エゴ(衝動)には、合理的な計画性も、意味のある目的もありません。そのため、人がエゴに支配されると、不合理で無意味な思考や行動に走ってしまうのです。ひらたく言えば、愚かな行為、さらには、妄想や狂気へと駆り立ててしまうのです。
 考えてもみてください。
 自分より恵まれている人を妬み、その人を困らせたからといって、何か得になることがあるでしょうか? 自分が恵まれるようになるでしょうか? 幸せになれるでしょうか?
 何もいいことはないはずです。せいぜい、気持ちがすっきりするだけでしょう。
 しかし、たったそれだけのために、相手を困らせるのに費やす時間や労力、また、そのことで相手から恨まれて余計なトラブルを招く危険性などを考えると、妬みというものは、まったく理に合わない、知性も合理性も欠けた、単なる盲目的な反応にすぎないことがわかるはずです。ただ自分を苦しめる結果を招くだけの、愚かなものだということです。

 そもそも、妬むこと自体が、すでに苦しみであると言えるでしょう。
 妬んでいるときの気持ちというのは、穏やかではありません。非常に不愉快であり、苦痛です。世の中には、自分より恵まれている人など限りなくいるわけですから、そんな人を見るたびに妬んでいたら、いつも苦しんでいなければなりません。それはまさに、地獄にいるようなものです。そのうえ、妬んでいる人を攻撃でもしたら、あらゆる災難を自ら招き寄せることになります。最悪の場合、犯罪に走って罰せられるかもしれません。
 このように、エゴは、あなたを苦しめるような、さまざまな反応をします。妬みの他にも、強欲、支配欲、依存、利己主義、虚栄、怒り、傲慢、卑下、悪意、嫉妬、嘘、打算、ごまかし、怠惰、臆病、気まぐれ、無鉄砲……、数え上げたらきりがありません。
 人生における不幸災難の原因を突き詰めていくならば、ほとんどの場合、そこにあるのはエゴなのです。犯罪もエゴによるものであり、およそ、ありとあらゆる人類の不幸災難の原因も、エゴなのです。そして何よりも、エゴそのものが苦しみなのです。
 私たちは、エゴによって苦しめられ、支配され、自由を奪われているのです。
 エゴの奴隷になっており、エゴに操られているのです。
 エゴに操られているということは、本当に「生きている」とは言えないということです。ただ機械のように反応しているにすぎません。いわば、ロボットのようなものです。ロボットは「生きている」とは言えないでしょう。私たちは、エゴが作り出した幻想や妄想の世界に埋没し、その中で好きなように操られ、ある種の夢を見ている状態で人生を送っているのです。
 これは、決して大げさな表現ではありません。まぎれもない事実なのです。
 奴隷の身から解放され、自由に生きたいと思ったならば、すなわち、本当の意味で「生きる」ことを望んだならば、エゴと闘わなければなりません。
 エゴこそが、人類の本当の敵です。しかも、最強の敵です。他者と争ったり、他国と争ったりするよりも、まずは、自らのエゴと闘わなければならないのです。すべての人がエゴとの闘いに勝利すれば、他者や他国と争うこともなくなるでしょう。世界平和は、人類がエゴとの闘いに勝利したとき訪れるのです。


 8月7日 人は誰も<本当の我>で生きていない
 今までさんざん間違った生き方、悪い生き方をしてきて、そのことに気づき、心の底から反省したとき、その気持ちを、こんな言葉で表現することがあります。
 「我にかえった!」
 我にかえった、ということは、今までは<本当の我>ではなかった、ということになります。いわば、<ニセモノの我>で、生きていたわけです。ニセモノの我が、間違った生き方をし、悪い生き方をしてきたということです。ニセモノの我に支配されていたとも言えるでしょう。
あくまでも自分自身の考え、自分自身の意志によって決断し、自由に行動していると思い込んでいたのが、実は、<ニセモノの我>が決断し、行動していたわけです。「我にかえった」という経験をするまでは、その事実にまったく気づかないのです。
 ところで、あなたは今、<本当の我>で生きていますか?
「自分は何も間違ったこと、悪いことはしていないから、本当の我で生きている」
 このように思われるかもしれません。
しかし、ここで注意しなければならないことがあります。
 それは、正しいとか善いという評価は、あくまでも相対的なものだということです。つまり、絶対的な正しさとか、絶対的な善といったものは存在せず、何かと比較して「正しい」とか、何かと比較して「善い」と言っているにすぎません。ある状態が正しいと思っても、さらに正しい状態が存在し、さらに善い状態が存在するのです。
 ですから、さらに正しく、さらに善い<我>が存在する、ということになります。
 そして、さらに正しく、さらに善い<我>から見たら、今まで正しくて善いと思っていた<我>は、正しくない、善くない<我>に変わってしまうわけです。
 そのとき人は、より本当の<我>に気づいて、「我にかえった!」と言うのです。
 したがって、たとえ今あなたが、<本当の我>で生きていると思っても、それは錯覚にすぎません。さらなる<本当の我>が存在し、その先にもさらなる<本当の我>が存在するからです。この連鎖が、永遠に続いているのです。より本当に近い<我>から見たら、今あなたが<本当の我>と思っているものは、<本当の我>ではないのです。
 要するに、誰もがみんな、大なり小なり<ニセモノの我>で生きているということです。

 ここでは、<ニセモノの我>のことを「エゴ」と呼んでいます。
 人間というものは、エゴを脱ぎ捨てて「我にかえる」という経験を、何回も何回も重ねながら、<本当の我>に向かっていく存在なのです。
 たとえるなら、ヘビが脱皮を繰り返しながら成長していくようなものです。エゴという皮をどんどん脱皮させていくのです。いつまでも古い皮をまとっていたのでは、からだは大きくなれません。成長・進化し続けるために、エゴという皮をどんどん脱ぎ捨て、<本当の我>に近づいていく存在、それが人間であり、この地上に生きている目的です。
 この「我にかえる」という経験が、いわゆる「悟り」とか「覚醒」と呼ばれているものです。すなわち、より本当に近い<我>を、覚醒し続けていくために、私たちは生きているのです。
 悟りや覚醒に「ゴール」は存在しません。<本当の我>というものは、永遠に進化し続ける生命だからです。「永遠に進化し続ける」のですから、悟りも覚醒も永遠に続きます。「これで最後」というゴールはないのです。悟ったと思ったら、さらなる悟りが待っているのです。目覚めたと思ったら、さらなる目覚めが待っているのです。

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